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 旧・唯一会HPに併設されたPEACE NIFON掲示板に投稿された「世界平和の祈り唯一行」に対する反対意見を抜粋・掲載します。
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過去ログ道場トップ 森島恒吉先生☆過去ログ集[総目次] 「世界平和の祈り唯一行」への反対意見
 五井先生の光明思想の具体的な実践法とは「世界平和の祈り」を祈ることであり、「世界平和の祈り」以外に光明思想の行法は不要であり、「世界平和の祈り」が神の子の本体を顕現する最も効果的な方法であるのです。
(森島恒吉先生の法話より)
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世界平和の祈り唯一行への反対意見




昌美先生の下で真理を伝承していただきたい
No.16 I・M    1998/09/01 (火) 20:42 不詳  
I・Mさんという差出人不明の方から、私(森島)宛に、A4用紙2枚にわたるお手紙を頂戴しました。
その方の全文を初めにお載せして、その後に、項を改めて、私の回答を記してゆきたいと思います。

森島恒吉 様

突然のお手紙で、失礼いたします。
私は、唯一会のホームページを拝見して感銘を受けた者の一人です。

しかし、森島氏ほどの方が、実にもったいない。
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」が唯一無二の存在ならば、「我即神也」の宣言や印なども、いずれは消えてゆく姿である、とお思いになりませんか。昌美先生は、そんなことは、とっくにご存知のはずです。それでもなお、あえて「我即神也」などを提唱し、勧めるのは、五井先生ご在世中の時代とは違い、これだけ多種多様化した価値観もった現代の人々に、一人でも多く、一刻でも早く、真理の存在を知らせたいが為である、と思われないでしょうか。

五井先生は、「消えてゆく姿」というすばらしい言葉を、お教え下さいました。
しかし、本来実体のないものならば、「消えてゆく」も何もないはずです。それでもなお、「消えてゆく姿」とおっしゃったのは、「業生の世界において存在するもの」を前提としなければ、人々の心を実相の世界へと導くことができない、人間が光の波動であることを説得しきれない、と判断したからではないでしょうか。

時代は変わりました。相変わらず政教一致を目論む宗教、「吾は仏陀也」と絶叫している宗教も出てきました。○○○の事件もありました。自殺する人、破産して明日の生活にも光を見いだし得ない人が、今の時代何万人もおります。

こんな時代にあっても、たしかに「消えてゆく姿で世界平和の祈り」こそが、いや「世界平和の祈り」のみが、唯一無二の真理である、と私も確信いたします。そして、神の分霊である我々が「我即神也」と宣言することは、そもそも自分の神性を否定しているものである、という理屈も、よくわかります。

ただ、こんな業生の固まりのような時代だからこそ、新しい精神文明の世紀へ向かって、一刻も早く、一人でも多くの人に、人間が神の光の波動そのものである、という真理に気づいてもらわねばならない、「その真理へつなげるための、一つの動作」(「光明をつかむ」p66)として、自分が「神そのもの」であると表現することも、何ら五井先生の教えを後退させるものではない、と思います。

「我即神也」「人類即神也」などという宣言も、「消えてゆく姿」という言葉すらも、今のこの物質文明の時代の終わりとともに、それこそ消え去ってゆくものである、と思います。いや、そういう時代が来なければならない、と思います。

ただ、単純明快な言葉であればあるほど、その提唱者の真意は誤解されて広まってゆきがちです。だからこそ、提唱者の真意を確実に伝えてゆける人が、口先だけで「吾は神である」などと唱える人が出てこないように指導できる人が、今の白光真宏会には必要なのではないでしょうか。

講師になることも、集会責任者になることも拒絶された由。むしろ当然と思われた方が、よろしいかと思います。「白光真宏会」として、宣言や印を核として運営してゆくと「いったん決定されたならば、その決定にしたがうのが素直」(五井先生のテープ)なのではないでしょうか。

万人が、自分が光の波動であることを知ったならば、「消えてゆく姿」すらも消えてゆくのだから、いつまでも宣言や印なるものを背負って(坊主の川渡りの話ではありませんが)おられない方がよろしいかと存じます。

「世界平和の祈り」が永遠のものであると、皆が気づいた暁には、白光真宏会すらも消えてゆく、と昌美先生は思っているのではないでしょうか。いやむしろ、そう願っているのではないでしょうか。私にはそう思えます。

形だけの宣言や印ならば、ない方がよい、しかし、この時代に真理を広めるためには、形から入るのもやむを得ない。昌美先生は、その狭間で苦慮されているのではないでしょうか。仮に、集客による「会」の存続のみを願っていたとしても、そんな想念は、はかない霧。

一刻も早く、昌美先生の下で、一人でも多くの人に、五井先生の真理・真意・真髄を伝承していただきたく、切に望みます。興味や好奇心だけで、言葉や形にこだわる信徒が増えつつある今日、真理(基本)をしっかり学ばれておられる森島氏のようなお心の方こそ、「会」は必要としているのではないでしょうか。少なくとも私個人は、白光真宏会講師としての森島氏の存在を熱望しております。

私の尊敬する五井昌久先生の教えを伝承する会は、一つであって欲しい。一枚岩であって欲しい。

大変失礼なお手紙を書きました。ご無礼の段お許し下さい。   草々

平成10年8月  森島氏のご活躍を願う者  I・M
 

客観的な立場をとるべきではありませんか
No.20 ミホ(匿名)    1998/09/03 (木) 23:30    
初めて、ホームページを拝見させていただきました。
感想を少し言わせていただきます。

私は、白光の信者ですし、五井先生の教えも、昌美先生の教えも同じではないか、と思っております。
世界平和の祈りも、我即神也の印も、人類即神也の印も、今の時代には必要なもの、と信じております。将来的には、みんな消えていくものと思っております。でも、我即神也の印や、人類即神也の印のすごさや、その実際の力も実感しています。
でも、形にとらわれる気もありませんし、そのときに必要なことを、自分なりに判断してやっていけば良い、と思って、のんびりやっております。
森島さんは、私から見れば、「逆にとらわれているのでは?」と感じてしまいますが・・・
別に人を批判するつもりもありませんし、その方が信じていることが、その人にとっての真実と思いますし、でも、色々な方にお話をされる時は、あくまでも客観的な立場をとるべきではないでしょうか?
なんとなく、「あなたの主観的な見方が強いのでは?」と思ってしまいました。

では、森島さんの天命がまっとうされますように!!


教えてください
No.25 A.K    1998/09/09 (水) 00:51    
『青空』のHELP、それに『藤平先生珠玉集』などで森島さんのお名前は拝見しておりましたので、楽しくホームページを見させてもらいました。

私も五井先生と昌美先生の教えは異なっていると思います。
現在は行が複雑化され念力的になっているのではないでしょうか。
そこで森島さんに質問ですが

森島さんは百光真宏会から講師になるよう要請があれば

1、昌美先生の指導する教えと、森島さんが指導する五井先生の教えと、
  二つの教えどちらでも好きな方を会員は学べばいい

2、昌美先生の教えは間違っているので本来の五井先生の教えに改める
  よう会の人に指導する

どちらですか?

五井先生の教えを長く学んだ人が、先生がなくなられると何故、まるで
異なった行法にかわってしまうのでしょうか?
なぜ、いろんな考え方に分裂するのでしようか?

現在の百光会を、救世の大霊団の中におられる五井先生はどう見ておら
れるのでしようか?

地上天国はいつ現われるのですか?
宇宙人・神霊の肉体化は?
宇宙波動生命物理学の発表は?
百光真宏会がこのようになっていて、「世界平和の祈り」はほんとうに
力があるのでしょうか?


ふたたび質問させてください
No.58 A.K    1998/10/12 (月) 02:02    
世界人類が平和でありますように。

質問させてください。

五井先生から直接指導をうけ「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけを長年されてきた昌美先生や講師の方々が、今では五井先生の教えとは違う方向にいってしまっている。昌美先生は悟っていないということであれば、私のような凡夫は永久に悟ることはできないでしょう。
このような現実をみて「世界平和の祈り」はほんとうに力があるのでしょうか。100年、1000年先の結果を信じて祈りつづけなければいけないのでしょうか。
「誰でも無理なく自然に悟れる道」
「世界平和の祈りは最高の行である」
ということを理論ではなく、白光真宏会の今日までの歴史から事実をとうして教えてください。


こんにちは
No.337 まーちん    1999/05/06 (木) 21:54    
世界人類が平和でありますように
ども、ダブって送信してしまいました。
なのるほどのものではないのですが、ここは以前から知ってました。私は白光の会員ではありますが
白光ないには知り合いはほとんどいません。そこでネット上で何かないかと思いヤッフーで探していた所ここに出会いました。
 所が読んでびっくり、昌美先生批判のホームページであることが分かり複雑な思いです。私と白光とのつながりは五井先生・昌美先生の御著書と白光誌のみで他からの情報はほとんどありません。だからよけいにこのホームページの内容には困惑しております。
 私は現在五月の富士の大行事に向けて印を組んでおります。昌美先生の言っていることは、どちらかというと直線的であり、真理をそのまま降ろすというか、ずっばと教えを説くという感じで、五井先生の慈愛に満ち溢れた、肉体人間の立場を熟知した御教えの説き方とは確かにカラーが違うとは思います。
 でも今の私には、昌美先生は決して間違っているようには思えない、世界が本当に調和するためには昌美先生が言っているように、人類一人一人が神の姿に目覚めるしかない、いつまでも罪悪じんちゅうの凡夫ではいられない、そしてその時が現在という時代であると感じております。(これはあくまで個人の主観であり実証できることではありませんが、また私自身相当な未熟者ですが)
 昌美先生の願望成就の方法などは、確かに私自身も首を傾げてしまう部分もありますが、昌美先生が一番力説されている「我即神也」「人類即神也」の真理への目覚めは、今地球にとって一番必要なことではないかと強く感じています。これは昌美先生の御教えを知る前から感じていたことであります。(あくまで個人の主観ですが)
 森嶋さんのおっしゃることにもなるほどとうなずけるところもあるのですが、私は昌美先生を否定する気にはなりません。これからも、自己と人類の覚醒のために、世界平和の祈りを祈り・印を組んでいきます。

世界人類が平和でありますように
森島恒吉さん即神也


印について私の考え
No.341 まーちん    1999/05/07 (金) 20:18    
世界人類が平和でありますように

 森島さん、ご返答ありがとうございます。

 私と森島さんとの昌美先生のみ教えに対するとらえ方の違いは何かというと、昌美先生の御教えはあくまで五井先生の本心と業想念の区別の御教えの延長線上にあると考えている点です。

 この理解がないと、よほどの人でない限り、確かにおっしゃる通り偽善的になる、あるいは自己処罰の地獄に落っこちてしまうことになってしまうでしょう。
 でも私は五井先生のみ教えを知っている。白光の会員さんも知っている。昌美先生も基本的には五井先生の消えて行く姿の御教えにそって「我即神也・人類即神也」を説かれていると思います。

私は、五井先生より、本心と業想念の区別ということを教えていただいています。その上に立って我即神也の宣言と印を組んでいるのです。でないと、森島さんのおっしゃる通り真理と現実のギャップに苦しんで印を組めたものではないでしょう。五井先生の御教えを知っているからこそ、我即神也の宣言をし印を組めるのです。

 五井先生は「世界平和の祈り」は、業性の自分が祈るのではなく、守護の神霊と一体となった本心の自分が祈っていると教えてくださいました。我即神也の宣言と印も同じ原理ではないかと考えています。だから、「我即神也」と宣言し印を組んでいるときの自分は、偽善や自己処罰に陥っている消えて行く姿の業性の自分ではありません。守護の神霊の援助のもとで、本心の自分が肉体に現れるために組んでいるのだと思っています。これは世界平和の祈りの原理と同じことだと思います。

 「人即神也」と宣言し印を組んでいる自分も、相手に対する敵意を隠し表面上善人を装って組むものでもありません。相手に対する憎しみを持ちながらも印を組んでいくことによって、それらの業想念感情が消されていきます。実際これは自分自身が経験したことですが、いやだと思っている人を思い浮かべて人即神也の印を繰り返すうちに、その人に対する憎しみが薄れだんだんと許せるようになってゆきました。 このとき気がついたのですが、「人即神也」と宣言し印を組むことは相手の神性開発のために組むだけでなく、人を許し愛せるようになるため、つまり自己の神性開発の為にあるとわかりました。
 私ごときが、「森島恒吉さん神也」などと書いてお気を悪くされたのならお許しください。書くべきかどうか迷ったのですが、昌美先生を支持するということであえて書かせていただきました。

 昌美先生が、五井先生御帰神後、いろいろな行をおろし、印を伝授されたのはやはり、地球進化の時期が迫り、神々様のお計らいにより行われているものだと感じています。現象面でも80年代後半より、地球規模で政治経済の国際的な急激な変化・地球環境の悪化・天変地変の増加など、誰の目にも明らかなようにあらゆる面において急激な変化が起きています。
 また、人類の意識にも変化かが起こっています。今まで常識だと思っていたことが常識でなくなってきていることがいたるところで見られますね。
 また、「神との対話」のような人間は実は神だったと明かす本が結構広い範囲でよまれ、受け入れられるようになってきているのも、人類の目覚めが見えない部分で進んできている証しではないかとも感じております。地球の波動上昇の時期が近づいている、五井先生がおっしゃった地球一大進化ののるかそるかの時とは今このときではないかと感じるのです。
 21世紀とは、「我即神也」「人類即神也」と無理なく自然に思えるそんな時代になるように、ナにも特別なことではなくそれが常識となる時代ではないかと、夢物語のようですがそう感じているのです。

 最後に、「我即神也」の印を組み始めて私は自分を以前と比べて、ありのままに見つめられるようになってきたように思ってます。私には鬱的傾向があるのですが、印を組み始めてからずいぶんと気が楽になってきたのは事実です。
 
 世界人類が平和でありますように
 我即神也 人即神也 人類即神也


御質問への私的見解
No.344 まーちん    1999/05/08 (土) 11:28    
世界人類が平和でありますように

[質問1]

「我即神也の行」と「世界平和の祈りの行」は同じ原理である、とあなたは思っているわけですが、同じ 原理の行ならば、なぜ二つの行法をやらねばならないのか?、お答え下さい。同じものならば、どちらか 一つだけでも良いのではありませんか?二つの行法をやらねばならないのは、片方だけでは、不完全と思 っているからではありませんか?あるいは、別の原理と考えているからではありませんか?

 まず、印にしろ世界平和の祈りにしろやらなければならない行ではないと思います。あくまで自分の自由意思によっておこなわれるものであると思いますし、昌美先生も印を組むくまないは本人の自由であるとおっしゃっていますね。世界平和の祈りだけをしたいと思われる方は、そうされたらいいのだし、印を組みたい方は組めばよいと単純に考えています。だから、どちらが上だとか下だとか比較する必要などないと思います。自分の信じる道を進めばよいのだし、印の組んでいる組んでいないということで、お互いを別のものと見てしまうようなことがあればいけないと思っています。
 五井先生は世界平和の祈りを「最高の祈り」とおしゃっていますが、その一方で宇宙子科学をはじめられたのはなぜなのでしょうか。五井先生御帰神前から、宇宙子科学のメンバーは世界平和の祈り以外にもいろいろなトレーニングを行っていたようですが、「世界平和の祈り」が唯一最高の行であるならば、そんなことする必要もなっかたのではないのでしょうか。私は五井先生御帰神後、昌美先生がいろいろな行をおろし印を降ろされたのは、すべて宇宙子科学から出ていると考えています。一部のメンバーに対して行われていたものを、地球一大進化のときが迫り、会員までおろしたと考えております。
 まあ、これはあくまで個人的推測であり、御質問の答えにはならないかもしれませんが。


あなたは私を、「森島さんは神である」と思っていますか、それとも「森島さんは神ではない」と思っていますか?

 人間はその本質において神である、と信じています。森島さんも私もその本質において神です。


[質問3]

本心と業想念の区別ができる人は、すでに悟っている、と言っても、過言ではありません。あなたは、ご自身「本心と業想念を区別している」とおっしゃっていますが、すべての人が「本心と業想念を区別できて、人即神也の宣言を実行できる」とは、私には思えません。
たとえば、自分の家族を殺され、悲嘆にくれている人に向かって「殺人者も本心は神であるから、あの人 は神である、と宣言しなさい。そうしているうちに、憎しみが消されてゆき、殺人者を許せるようになり殺人者を愛せるようになります」と、あなたは教えることができますか?

あなたに実行できる教えであっても、すべての人が実行できる教えとは、言えないのではありませんか?

 まず私は悟っているとは言いがたい人間です。日常生活の中で業想念にながされてしまうことはしばしばあり反省することも多々あります。ただ印を組むことを、悟ってなければ組めないなどとは考えてはいません。五井先生は業想念があればあったままで世界平和の祈りを祈りなさい、祈りの光明の中で業が消されていくと教えていますが、人即神也も同じことだと考えています。憎しみがあったままで組んだとしても実際に繰り返し組んでいけば憎しみが消されていくことが実感できると思います。

 自分の家族を殺されて悲嘆にくれている人に対して、殺人者も神なんだから神と宣言しなさい。といきなり説くこと自体が間違っているでしょう。愛のないとき方ほど人を傷つけるものはないと思います。

森島さんは「我即神也の宣言・印」を行っている者を、自己反省のない欺瞞に満ちた思いあがった者と見ているようですが、私は違います。

 我即神也の宣言と印はあくまで自己の神性顕現のために組んでいるのであって、自分をごまかすために組んでいるのではありません。

世界人類が平和でありますように
我即神也
人類即神也


森島さんへの質問
No.348 まーちん    1999/05/08 (土) 23:08    
世界人類が平和でありますように

森島さん、これで私の書きこみは終わりにしますが、もし気が向いたら以下の質問にお答えください

<質問1>
五井先生が宇宙子科学メンバーに世界平和の祈り以外の行をやらせたのはなぜなのでしょうか

<質問2>
森島さんは、今現在の御自分をどう考えておられるのですか。悟ったものと考えているのか、それとも違うのかどうなのでしょうか。

<質問3>
私は今現在の自分の不完全な状態を、真実の自分が現れるプロセスだと思い世界平和の祈りを祈り、我即神也の印を組んでいます。現在の自分を神に至るまでのプロセス・消えて行く姿として祈り印を組んでいます。その点において「世界平和の祈り」「我即神也・人類即神也」は原理として同じだと考えています。あなたの御説明は単に言葉じりを捕らえて、これは違うといっているようにしか思えません。この私の考えをどう思いますか。未熟者の悟っていない者のたわごとなのでしょうか。

<質問4>
 今世界中で、「神との対話」のように人間は実は神なんだよと述べる考えが各所より出てきていますが、このことについてどう思いますか。現象としては人類の状態は混迷を深める一方ですが、深層では人類の意識が目覚めに向けて大きく動き出しているように思いますがどうでしょうか。


ここへの書きこみは、これで終わりにしたいと思います。最初から議論は平行線になるように感じていましたがやはりそうでしたね。

私は私の信じる道を行く、森島さんや唯一会の方も自分の信じる道を進んでください。

それから「我即神也の宣言と印」は神の試練ではなく、神の恩寵です。

世界人類が平和でありますように
森島恒吉さん即神也 唯一会の皆さん即神也
人類即神也


はじめまして
No.560 けん    1999/07/07 (水) 23:23  
はじめて書き込みさせて頂きます。
私は白光会員12年ぐらいです。
おっしゃりたい事は大変よく分かります。
現在の白光のあり方について批判しつつ
節度をわきまえていらっしゃる所はさすが
五井先生の教えを忠実に実行されようと努力
されている方だと思います。
ただ私は現在の白光を肯定しています。
理由としては私は人生において他力という事
は有り得ないと考えるからです。すべて自力だと思います。
(もちろん守護の神霊の存在は信じますがあくまで主役は
自分自身だと思う。)
たとえ五井先生昌美先生が他力だと言っても自分では自力
だと思っています。

世界平和の祈りは人類の夢であり希望であると思う。
早く日本人の一割が真剣に世界平和の祈りを祈り
世界平和への第一歩を踏み出す事ができる日を信じています。


「世界平和の祈り」は包容的・普遍的祈り
No.785 BnQ    1999/08/02 (月) 14:53    
世界人類が平和でありますように

森島さん、御回答ありがとうございます。
「人間とは何か」についてはもう一度「神と人間」を読んでみます。

森島さんは「世界平和の祈りは唯一最高の祈り」であるとお書きになられていますが、その点ついて私の意見を述べさせていただきます。

まず私は「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りではなく、包容的・普遍的祈りだと考えています。

「祈りにより世界平和運動」の精神は、思想・宗教・国境・人種・民族・性別・出身・社会的地位などこの世のすべての相対的な物を越えて誰もが参加できる運動であることは、「世界平和の祈り」を祈っている誰もが知っていることだと思います。

 ところが「世界平和の祈り」を唯一の祈りとしてしまいますと、その段階で他の宗教の方が入れなくなってしまいますね。各宗教にはそれぞれの祈りがあるわけでして、「世界平和の祈り」が唯一最高の祈りなどと言ったとしたら、その方たちには到底受け入れがたいものとなってしまうでしょう。
また人類の歴史を見ても「我が神こそ唯一の神である」の狭信の元に争いを繰り返してきました。

「世界平和の祈り」を唯一の祈りとしますと、それ以外のものを排除してしまうことにはならないでしょうか。

「世界平和の祈り」を最高の祈りとしますと、ほかの祈りは低い祈りだとして相手を見下してしまうことになりませんか。

唯一・最高というものの見方はあくまで相対的な世界に視点を置いた見方であり、そこには常に対立するものが存在してしまうと思います。これではいつまでたっても相対的な世界から抜け出せず、ぐるぐる回りの業生世界にいつづけてしまう事になってしまうのではないですか。

五井先生はいったんは相対的なものの見方を消えてゆく姿として「世界平和の祈り」の中にほうりこみ神の御心の中からすべてをいただきなおすという方法を教えてくださいました。世界平和の祈りとは神のみ心そのものであり、その中には一切の対立するものはありません。すべてが調和し整っているのが神のみ心だと思います。その神のみ心の中に入っていくのが祈りによる世界平和運動の精神だと思うのでが。

つまり世界平和の祈りとは、相対的な世界に身を置いた祈りではなく、神のみ心そのものの、すべてを包み込む包容的な祈りであり、どんな立場も超えて祈れる普遍的な祈りだと思います。

生意気に意見などしてしまいすいません。


多様性を受け容れる
No.802 ブブネコ    1999/08/05 (木) 15:54 Tokyo
世界人類が平和でありますように


>五井先生のお言葉の一部分だけを切り取ったり、ちょっと表現を変えたりしますと、
>それだけで意味が異なって読者に誤解を与える心配がありますから、
>引用部分をあまり短くしたりせずに、前後を含めて正しく書き出して下さいネ。

まったくですねぇ。(=^^=)

み教えの解釈も、人それぞれまったく違うようですし。。。

しかしながら私は、そういった多様性を受け容れるだけの大きさが
五井先生の思想にはあると思っております。

すべてを受け容れ
尖ったものも、欠けたものも包み込んで溶かしてしまう。
何も排除しないし、批判しない、ただ受け容れるだけ。

排除するところには”対立”が生じますが、
”受け容れる”のならば、みな手をつなぐことが出来ます。

だからこそ
あまねく世界に通用する思想なのだともいえるでしょう。

”唯一の真理”なるものは百人いれば百様のものなのでしょう。
解釈はそれぞれですし、行じかたもそれぞれでしょうが、行き先はみな同じなのだと思います。

神の分霊である私達は、それぞれが様々な道具を持ち合せているけれど
道具はあくまでも道具でしかありません。

本来神の分霊である私達は、
”業生ではない”とハッキリ五井先生に教えていただいております。(No.756の教義参照)
それを信じ、”道具にとらわれるのではなく”、道具を活かす術を身につけることこそが、
”天命を信じて人事を尽くす”ということだともいえないでしょうか?
また仮に、いくら道具の使い方がマズくても
我々が”本来神の分霊である”ということを真に信じる、
つまりは天命を真に信じるならば、その行き先はやはり同じなのでしょう。

道具の解釈や、吟味といったものにばかり目を向けていると
肝心なこと(天命を信じること)がおろそかになりがちですが
もう一度原点に戻ってみるのはいかがでしょう?
そうすれば、自然に多様性を受け容れている自分を認識できると思います。

皆様の天命がまっとうされます様に


「唯一」という言葉の長所について
No.806 かめたろう    1999/08/06 (金) 04:25    
世界人類が平和でありますように

”偉い人ほど謙虚ですね”
まったくおっしゃるとおりですね。

また同時に偉い人ほど、自己の行いに自覚的であるものと思われます。
自己の行いに一点の曇りなく、恥じることなければ他にいかに悪し様にされようが容認し、あからさまに拒絶することなどないでしょう。
そのような人物であれば良くも悪くも自他の行いを冷静に受け止めることができるでしょうから、ありのままそのままをあきらかにすることに、なんの躊躇もないものと思われます。

ここは開かれた言論の場であるものと思い、忌憚のない意見を述べさせていただいております。
不愉快に思われる方がいらっしゃいますればどうぞ祈り心で受け止めて下さいますようお願い申し上げます。

ところで、森島先生のコメント
”「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」と宣言してゆきます”のなかからまた質問をさせていただきます。

>「世界平和の祈り」について「最高、唯一」という相対的な言葉よりも、
>「包容的、普遍的」という言葉のほうが良いのではないか、
>とご提言されていましたが、
>「最高、唯一」という言葉にはたしかにご指摘のような欠点はありますが、
>それ以上に長所がありますし、五井先生が教えて下さったことでもありますから、
>「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」という教えは、
>やはり今後も、私は使わせていただくつもりです。

とのことですが
ここでのべていらっしゃる”それ以上の長所”とは具体的にどのようなものでしょう?
また私は五井先生のみ教えにつながって30年を数えますが
森島先生のおっしゃる”五井先生が教えて下さったことでもありますから”とのご説明には理解しがたいものがあります。
過去の森島先生のコメントを読ませていただきましたが、
正直申しまして、どうしてそのようにおっしゃるのかがわかりません。
森島先生にとっては、繰り返し同じことを語ることに過ぎないのかもしれませんが、
是非とも重ねて御教授下さいますようお願い申し上げます。

また出来ますれば
”五井先生がそうおっしゃっている”などという
主観的、抽象的なご説明ではなく、
森島先生ご自身のお言葉で
森島先生ご自身の責任においてお話下されば幸いです。

御無礼の数々どうぞ平に御容赦下さい。

皆様の天命がまっとうされますように。
五井先生ありがとうございます。


「あいまいさ」をなくす意味
No.808 かめたろう    1999/08/06 (金) 06:59    
世界人類が平和でありますように

森島先生 おはようございます。
暁の祈りをさせていただきますと、その日一日がありがたいものに感ぜられますね。

それはさておき、早速のご回答ありがとうございます。

>「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」というのは、
>唯一最高という言葉には、
>欠点としては排他的な意味が含まれているものの、
>長所としては、「あいまいさ」を無くす力があります。

>これらの行の中で、いったいどれが究極の唯一最高の行なのか、
>昌美先生のご説明ではわかりません。
>私はこれらを含めた行の中で
>「世界平和の祈り」が唯一最高の究極の祈りであると明言しているのです。

重ね重ね、質問ばかり差し上げて申し訳ありません。
ただ、森島先生のお考えの礎のようなものがようやく私にも見えてまいったようです。

森島先生は
”「あいまいさ」をなくす”ということ、
”唯一最高の究極のものである”ということに重きをおいていらっしゃるように思われますが、
それは何故なのでありましょうか?

五井先生は
唯一の救世主が世界を救うのではなく私達一人一人が救世主にならなくては
世界は救われない
とおっしゃっておいででした。
そしてそれは実現するのだということも、私はこの耳で、聖ケ丘などで直接お聴きしております。
森島先生におかれましても、それは同じでありましょう。

すべての人々が救世主になるのに
何故”唯一最高の究極のもの”が必要なのでしょう?

失礼ながら私見を申し上げれば
優劣、格差、差別のような相対的な発想、
人と人との間に垣根を生じさせる、差異を認めるようなものからはおよそ離れたところに
むしろそのような小さな視野ではなく、もっと大きな視野に立ったところに
五井先生のみ教えはあるものと思っております。

文学作品や映画などを譬えるまでもなく
人と人との関わりにおける”機微”のようなもの
ひいては”生き方”のようなものは
右だ左だ、上だ下だなどと切り分けられるものではなく
一見曖昧に見える部分にこそ、真実が潜んでいるものなのではないでしょうか?

私の知る限りにおいて
五井先生は”唯一最高で究極である”ことに拘りをお持ちではなかったと存じます。

>「最高、唯一」という言葉にはたしかにご指摘のような欠点はありますが、
>それ以上に長所がありますし、五井先生が教えて下さったことでもありますから

そのような五井先生のみ教えがあったとするなら
具体的にどのようなものか(出典など)お教えください。

長々と書かせていただきました。
誠に失礼とは存じますが
五井先生のみ教えに殉じるものとして
五井先生の名で語られるものには敏感にならざるを得ません。
森島先生のご愛念に免じてどうぞご容赦ください。

皆様の天命がまっとうされますように


訂正及び確認
No.816 かめたろう    1999/08/06 (金) 12:55    
世界人類が平和でありますように

森島先生 早速お返事下さいましてありがとうございました。

一つ訂正をさせて頂きます。

”No.810 かめたろうさんは私に学ぶ必要はありません” よりわたくしの質問として

”五井先生は”唯一最高で究極である”ことに、かかわりをお持ちではなかったと存じます。”

との一文がございますが正しくは

”五井先生は”唯一最高で究極である”ことに拘り(こだわり)をお持ちではなかったと存じます。”

でございます。

また

>「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」ということに重きをおいているのは、
>何度も申しておりますように、「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りであるからです。

というお答えですが、
私がお尋ねしましたのは「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りであるかどうかということではなく、
「世界平和の祈り」に限らず
”唯一最高かどうか”ということに何故拘っていらっしゃるのか?ということでありました。

また出典に関して申し上げますれば
五井先生のご著書やご法話は、手にすることの出来るものは全て
ふれさせていただいておりますけれども
森島先生のおっしゃるような意味で、五井先生がお教え下さっているものは
今まで一度として拝見したことも、伺ったこともございません。
ここで五井先生の名のもとにお話をされる以上、
(森島先生のお考えとしてお話されるのであれば、私がとやかく申し上げることは何もございません。)
出典なりをあきらかにされるのが
我々五井先生に今生でめぐり合わせていただけたもののつとめでありましょう。

今回は残念ながら森島先生の明確なご返答を頂くことが出来ませんでしたが
若い方々、また新しくみ教えにつながった方々が多く集まっておいでのような場です。

事実をあきらかに、ありのまま伝えてこそ
正しき指導者といえるのではないでしょうか?

いろいろ失礼なことばかり述べさせていただき
誠に申し訳ございません。
しかし私は、五井先生につながり、
五井先生のみ教えにふれさせていただいた喜びを未だ否定することは出来ません。
五井先生の名を語るのであれば
ありのままの五井先生を語っていただきたい。

世界人類が平和でありますように
森島恒吉先生の天命がまっとうされまうように
皆様の天命がまっとうされますように


私の言いたいこと
No.826 BnQ    1999/08/06 (金) 17:51    
世界人類が平和でありますように

 森島さん、御回答ありがとうございます。あなた個人の信念として「世界平和の祈り」は唯一・最高の祈りであるということはよくわかりましたし、個人の信念としてそのことは尊重したいと思います。

かめたろうさんと森島さんの議論を読ませていただいて、「唯一・最高」という意味はあなたの昌美先生に対する対抗心から出ていることもよくわかりました。

「世界平和の祈りは唯一・最高」といっているのは、五井先生ではなく森島さんあなた自身である事もよくわかりました。(このホームページを見ている方、ここを間違えないで下さいね)

五井先生が唯一・最高と言う言葉を使っているかどうか定かではありませんが、もしも、もしも使うとしたら、何かに対抗する意味で使うことは決してない。

この世に真に実在するものは、大調和そのものも神のみであり、悪と見え不幸と見えるものは真に実在するものではない。実在するように見えるものは、神のみ心が現われくるための消えてゆく姿である。つまり唯一存在するものは神のみであるということ。その唯一のものが物質界ではいらんな形をとって現れているが元を正せば、唯一の神のみしか存在しない。
 世界平和の祈りも唯一の神の御心から出たのだから、そう言う意味から唯一の祈りといえるでしょうし、また他の祈り・行でも神のみここらから出たものなら、それも唯一の祈り・行といえるでしょう。どちらも元を正せば唯一の神に行きつくのですから。相対的なものの考え方からすると矛盾しているようですが、一即多である神の自由自在性を考えれば納得いくことだと思います。

 五井先生が他と比較した相対的な考え方で、世界平和の祈りは唯一・最高だとおっしゃることはないのではないでしょうか。

「唯一・最高」という言葉は誤解を生みやすく・排他的になってしまう言葉であります。私達が「世界平和の祈り」について人に伝えるときには(会員・非会員にかかわらず)、唯一・最高の祈りというより「包容的・普遍的」祈りであるとした方が誤解も少なく、またあいまいでもなく、より五井先生のみ心に近い物を伝えることができるのではないですか。

昌美先生を批判するが為に「唯一・最高」ということを言われたのなら、それは五井先生のみ心ではないでしょう。森島さんがあなた個人の考えとして昌美先生の批判をすることは別にかまいませんが、あたかもあなたの考えが五井先生のみ心であるかのように見せかけるのはどうかおやめください。五井先生のみ心は、私達の限定された肉体想念では到底推し量ることはできないのですから。

とてもとても失礼なことを書いてしまいすいません。森島さんのHPをみてこれだけはどうしてもいいたっかったものですからつい書いてしまいました。

森島さんのご天命がまっとうされますように


論争のポイント
No.841 高橋荘介    1999/08/07 (土) 09:50 東京府中
世界人類が平和でありますように

森島先生 おはようございます。

さて、ここ数日の一連の論争を 見させて戴いて私なりに思いますには、当HPの冒頭部分にありますところの、森島先生が御自身をして五井先生の御教えを正確に伝達する唯一正当なる継承者、といった主張をされていらっしゃることと、NO,827に私へのコメントとしてお書きになられている ・・・

>しかし、あなたにはできても、凡夫の私には、そうした方法は、とてもできません。

というような表現との矛盾に あるように思えてなりませんです。


また、NO,840にありますところの、

>結局、あの人たちは、私が昌美先生の教えについて批判するのを、今か今かと待ち構えていて、
>私が昌美先生の教えについて批判したら、ここぞとばかり、攻撃してくるんです。
>その人たちにとっては、昌美先生の敵のように見える私は、公認でいじめることのできる
>おいしい敵であるんです。

もし仮に これが真実だとしましても、白光真宏会という宗教団体の中に、現在の教祖に異を唱える別団体を組織し、その ”創立者””主宰者” として活発な活動を続けられるという現在のお立場では、それも仕方のない事だと思うのでありますが いかがなものでありましょうか?

喩え 森島先生の御真意が それとは違うものであったとしましても、また五井先生のお作りになった宗教団体の事でありましても、人間が集団を作っている以上、そこには必ずや組織論というものが存在します。

いかなる理由があるにせよ、同じ組織の中にあって、その組織の代表者に異を唱える集団というものは、異端集団、反乱分子として位置付けられてしまうのは必定なのであります。

今まで森島先生に反論された方々が 決して決してそういうつもりで発言されたのではないということは、初めから明白ではありますが、もしも森島先生が ご自身で集中攻撃を受けているようにお感じになられるとすれば、このようなことも御一考される価値は あるかと思いますです。

大変失礼申し上げました。申し訳在りませんでした。



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2003.6.18
2009.5.13移動&改訂
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