森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


念仏と世界平和の祈り
No.2901 森島 恒吉    2001/02/19 (月) 10:39 富士宮
世界人類が平和でありますように

昨日、テレビの「知ってるつもり」で「法然」について紹介されておりました。ご覧になった方も多いと
思います。およそ900年前に、法然が日本で浄土宗を開くに至った過程がよく描かれていたと思います。

「南無阿弥陀仏の一行を唱えれば、救われる」と他力易行道を説いた法然は、その頃の宗教界を考えます
と、画期的で、異端視されるほどであったようです。中国に経典が伝わったとき、すでに難行道と易行道
の区別をつけた先覚者がいて、中国でも「阿弥陀仏信仰」があるのです。それを日本で初めて教えたのが
法然であったのです。

「南無阿弥陀仏」の信仰が広まるにつれて、他宗から排撃されることになった理由は、「阿弥陀仏」とい
う名称のゆえでした。ご承知のように、同じ仏教でも、信仰の対象となる仏名は、いろいろとあります。
同じ釈尊の教えですから「南無釈迦牟尼世尊」とでも統一されていれば、煩わしくはなかったのですが、
釈尊が、多くの仏名を説いたために、その分だけ、宗派が発生したのです。しかし、阿弥陀仏以外の信仰
をしている人々にとっては、阿弥陀仏信仰が広まるのは、おもしろくないわけです。

「南無阿弥陀仏」と現在の「世界人類が平和でありますように」は、同じ原理の他力易行道であるのです
が、「南無阿弥陀仏」のほうは、阿弥陀仏という固有名詞の仏名を使っていたために、他宗から反発を受
ける要素があったのに対して、「世界人類が平和でありますように」のほうは、固有名詞の神仏名を対象
にしているわけではありませんから、他宗から反発される要素がありません。「世界平和の祈り」のほう
は、念仏の精神を生かしつつ、現代に合った祈り言になっているのがわかります。

釈尊にしても阿弥陀仏にしても、イエスやマホメットにしましても、聖者方は皆、世界平和を願っていら
っしゃるのですから、「世界人類が平和でありますように」という祈り心で、私たちは宗派を超えて一つ
につながることができます。どこの神仏のほうが偉いなどと、神仏の名前争いをする必要がありません。
ですから、現代においては、念仏よりも「世界平和の祈り」のほうがふさわしい祈り言であるのです。

「南無阿弥陀仏」を教えた法然も現代に生きていれば、「世界平和の祈り」を勧めるでしょうし、「南無
妙法蓮華経」を教えた日蓮も現代に生きていれば、「世界平和の祈り」を勧めることでしょう。思えば、
「南無阿弥陀仏」は、もう900年も前の時代の祈り言です。「南無阿弥陀仏」は永遠に光り輝く祈り言で
ありますが、表現としては古いものとなってしまいました。やはり、現代においては、現代のわかりやす
い言葉で祈るほうが、現代人の心にピタッと合うのです。

「世界人類が平和でありますように」という祈り言には、神仏の固有名詞がありませんから、他宗からの
反発を受けません。神を説けば、仏教信者から反発されますし、仏を説けば、神道やキリスト教信者から
反発されてしまいます。神とも仏とも言わずに、神仏名争いを避けて、神仏のみ心である世界平和を願う
祈り言にした点に、「世界平和の祈り」の素晴らしさがあります。すべての宗教宗派と調和でき、誰でも
容易に実行できる「世界平和の祈り」が、この現代において広まらないわけがないのです。

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「世界平和の祈り」は現代の念仏
No.2904 森島 恒吉    2001/02/20 (火) 00:09 富士宮
世界人類が平和でありますように

マリ子さんへ、ご質問をありがとうございます。お答えします。

[ご質問1]
法然、親鸞らが命がけで広めた「南無阿弥陀仏」の称名念仏は、今日では時代遅れで、その念仏では人々
は救われないのでしょうか?
[お答え1]
「念仏では救われない」と私は申してはおりません。「『南無阿弥陀仏』は永遠に光り輝く祈り言であり
ます」と私が書いたように、念仏をするならば、時代に関係なく、その人々は救われることは確かです。
念仏の効力は、今日も生きているのです。もしも、世界人類すべての人が念仏を唱えるならば、この世は
またたくまに極楽浄土に変貌するに違いありません。

[ご質問2]
浄土宗、真宗の人に、「南無阿弥陀仏は古いし、他宗教の人からは受け入れられないから、『世界平和の
祈り』をしてください」と、勧めるのですか?
[お答え2]
「南無阿弥陀仏」という念仏だけで満足され、安心立命されている方ならば、私は何も申しません。しか
し、「南無阿弥陀仏と同じ内容で現代的な祈り言がないか?」と探し求めている方には、私は「世界平和
の祈り」をお勧めします。

[ご質問3]
他宗教の人からなんと言われようと、「南無阿弥陀仏」の念仏行に救いと命をかけている人は、どのよう
に思うでしょうか?
[お答え3]
「南無阿弥陀仏」の念仏行に救いと命をかけている人は、それは立派な行為ですから、「やめなさい」と
よけいなお節介は申しません。「念仏行に命をかけて下さい」と申します。

私が申し上げたいのは、阿弥陀仏を信じることができて、念仏に命をかけられる人は、真に幸せであるけ
れども、現代において、西方の極楽浄土を素直に信じて念仏を唱えることのできる人が、いったいどれだ
け存在するだろうか、と疑問に思うのです。阿弥陀仏を素直に信じ、「南無阿弥陀仏」を唱えることので
きる人は、現代においてはごく少数であろう、と思うのです。その方々においては、念仏で救われるので
すから、とやかく申し上げることはございません。

問題は、阿弥陀仏を素直に信じることができず、念仏を唱えることのできない、他の大多数の現代人たち
を、どうしたら救えるか、ということなのです。その大多数の現代人を救うためには、現代人にも知性的
に納得できて、現代語で書かれた、やさしい祈り言が、どうしても必要となってまいります。念仏と同じ
ように他力易行道で、しかも、個人だけが救われるのではなく、人類も同時に救われる道、そして、現代
人の感覚にピタッと合った道、そうした新しい祈り言が、絶対に必要な時代であるのです。

それが「世界平和の祈り」であるのです。法然、親鸞は、神界の世界から、「現代の念仏は、『世界平和
の祈り』であるのです。『世界平和の祈り』をぜひ祈って下さい」と五井先生を通して強く勧めて下さっ
ているのです。また、「南無阿弥陀仏」で真に救われた人ならば、阿弥陀仏の勧める「世界平和の祈り」
を理解できないはずがありません。「世界平和の祈り」に喜んで大賛成して下さる、と思います。法然、
親鸞の念仏の精神は、今も「世界平和の祈り」の中で脈々と息づいております。「世界平和の祈り」は、
まさに現代の念仏であるのです。

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「世界平和の祈り」を一瞬の隙なく祈ろう
No.2909 森島 恒吉    2001/02/27 (火) 01:16 富士宮
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、ご感想をありがとうございます。
私は今、唯一会のホームページを作り直しているところです。HTMLの書き方を少し覚えました。
唯一会のHPにある「教義」や「宗教問答」については、今読み返してみても、よくできていますので、
内容は変わりませんが、段落をおくなど、もっと読みやすくなるように編集する予定です。「教義」と
「宗教問答」をお読みになって理解できた方は、すでに五井先生のみ教えを悟った方といえます。

とは申しましても、もちろん、それは悟りの一段階であって、頭で理解したにすぎません。頭で理解して
も、行動ができていないのでは、真実の悟りとはいえません。あとは、ひたすら「世界平和の祈り」を祈
りつづけてゆくことです。そうしておりますと、神のみ心が自然法爾に行為となって現れてくるのです。

それでは、どのように神のみ心が現れてくるかといいますと、不平不満を言わなくなる、他人の悪口を言
わなくなる、他人に嫉妬しなくなる、怒りや憎しみが少しも湧いてこなくなる、自分や他人を責めなくな
るのです。そして、いつも心が明るくいられて、いつも感謝できて、いつも愛に満ちている、という自分
になるのです。朝起きてから、夜寝るまで、いつも、幸せな心境でいられるのです。夢も、幸せな夢しか
見ないのです。こんな幸せな人生はありません。

私が熱心に聖ヶ丘道場に通って、五井先生の統一指導を受けていた頃、夢の中でも統一していて、夢の中
に五井先生が現れてくるのです。五井先生の前で、私は正座して統一しておりまして、五井先生のお浄め
の柏手もはっきりと聴こえてくるのです。そして「はい、よろしい」と五井先生が統一を終えた言葉を聴
いたと同時に、現実に目が覚めたものでした。これは数学の研究をしても、音楽を練習していても、熱心
にやっておりますと、夢に現れるものです。

いいかえると、夢に見るくらい熱心に「世界平和の祈り」を祈りつづけるとよいのです。他の想念が出て
くる隙がないほどに、「世界平和の祈り」を唱えつづけるのです。もしも、「世界平和の祈り」を他の想
念が出てくる隙がないほどに祈っているならば、不平不満も起きるわけがないし、怒りも憎しみも嫉妬も
出てくるはずがありません。「世界平和の祈り」を一瞬でもやめるから、その隙からダーッと業想念が押
し寄せてくるのです。いつも明るく、いつも愛と感謝に満ちているならば、その人は真に悟った人といえ
るでしょう。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、誰でもいつかは、そうなれる日がくるのです。

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空即実相・和光同塵・無限供給・唱行・如来印
No.2912 森島 恒吉    2001/02/28 (水) 13:15 富士宮
世界人類が平和でありますように

めいさん、ご質問をありがとうございます。ほかの皆様にとっても有意義な良いご質問です。

[ご質問1]
空の心境の生活とは、どういうことでしょうか?

[お答え1]
空とは、想念が空っぽになる、想念が空っぽの状態、ということですが、記憶を失ったり、意識を失う、
ぼんやりする、という意味ではありません。想念が無くなり、空っぽの状態になりますと、その瞬間に、
神のみ心でもある自己の本心が現れてくるのです。それを仏教では空即是色(くうそくぜしき)といい、
空の境地から実相(ほんとうの姿)が開かれるのです。本心の現れを、潜在意識にたまっているよけいな
業想念が邪魔してしまっているので、その業想念を無くして、空になって、本心を現わそうと、座禅をし
たり、お祈りをするのです。空の心境になった人、というのは、業想念が無い人、あるいは業想念の波に
把われることなく、神のみ心のままに、本心のままに行動できる心境になった人のことです。もっと具体
的に申しますと、いつも愛と感謝と勇気と智慧に満ちている人、と言えます。

[ご質問2]
「五井先生や森島先生のように悟ってる人って、いつも何をお考えなんでしょう?」と講義を聴いてい
て、疑問に思いました。(変な質問ですいません)「悟ると、よい感情だけが残る」というのはわかるの
ですが、その他の時間には、常に祈りを唱えているんですか?それとも、想念停止という言葉を、五井先
生の本で読みましたが、そうした状態で、何も感情がわいてこないのですか? 何をみても聴いても驚か
ないし、一瞬の怒りも湧いてこないのですか?

[お答え2]
五井先生も私も、いつも考えていることは、「世界平和の祈り」です。この祈り言が、口先で唱えなくと
も、常に心の中で鳴りひびいているのです。口先で「世界平和の祈り」を常に唱えようとしましても、勉
強や仕事や娯楽や家事をやらなくてはなりませんから、どうしても限界があります。ですから、この世の
生活を第一に優先して、余暇の時間をお祈りに使えばよいのです。時間のあいた時でよいから、「世界平
和の祈り」をお祈りしておりますと、だんだんと口先で唱えなくとも、お祈りしている時と同じ心境にな
ってゆくのです。そうなるためには、やはりお祈りの練習を積み重ねなくてはなりません。

お祈りして業想念の渦から解脱しますと、何を見ても驚かないし、一瞬の怒りの感情も湧いてこなくなり
ます。但し、喜怒哀楽を感じない、無感情の人間になるわけではないのです。自分みずからは業想念を出
すことは無いのですが、肉体を持っていますから、他人の喜怒哀楽の波を感じることはできるのです。そ
して、人々の業想念の波に同調しながら、その業想念を浄め去っているのです。老子の「その光を和し、
塵に同じくす」(和光同塵)の心境です。

五井先生でも、怒るときもあれば泣いたときもありました。しかし、その行為は、業想念の感情からそう
したのではなく、衆生の感情に光を同調させ、衆生を浄めるための叱責であり、涙であったのです。です
から、五井先生は、いつまでも人を責めるように怒ることはなく、涙で苦悩の波に陥ることなく、夏の落
雷の後の爽やかな光と風のように、すぐに慈愛の眼差しの明るい笑顔に戻られていました。

修行時代は、目を宙に向けた狂人のような五井先生でしたが、神我一体になられてからは、普通の人と同
じように生活されていました。普通の人のようにテレビも見ますし、映画も見るし、音楽も聴かれていま
した。五井先生がお好きなテレビドラマは、「逃亡者」で、毎週欠かさずに見ていたようです。また、ニ
ュースに、悪い人が出てきますと、「なんて悪いやつだ!」と普通の人のように怒っていたようです。も
ちろん、先ほども申しましたように、怒ると言いましても、表面からはわかりませんが、普通の人とは違
って、業想念を浄めているのでありまして、すぐに明るい表情に戻っているのです。

「ああ疲れた」とか「今日のごはん、何にしよう」とか「あそこに変な人がいる」とか、そういうことは
五井先生もおっしゃっていたし、私も言います。普通人と同じような会話をしているのです。ただ、普通
人と違うところは、あたりまえに会話をしながらも、恐怖感に把われたり、クヨクヨと悩むことがないの
です。悩んでいるように見えても、悩んではいないのですし、怒っているように見えても、怒ってはいな
いのです。迷っているように見えていても、迷ってはいないのですし、恐れているように見えても、恐れ
てはいないのです。心は太陽のようにいつも明るく、青空のように、どこまでも澄みきっているのです。

[ご質問3]
最終的に何の感情も想念もない、からっぽの状態を、私たちは目指すべきなのでしょうか?(そんなこと
は凡人にはできなさそうだけど)それとも穏やかな気持ちでいられればそれで良いのでしょうか?
「天命を見つけたい」とか、「幸せになりたい」とか「お金持ちになりたい」とか願望したり夢を描いて
みることも消え去るべき邪心なのですか?

[お答え3]
空の境地の後に開けるのは、空即実相(くうそくじっそう)の光明世界です。すべての業想念が消えた後
には、本心が残るのです。本心とは、永遠につながる真・善・愛・美の神のみ心です。私達は、自己の本
心顕現と人類の平和を目指すべきなのです。神への感謝に満たされ、穏やかな気持ちでいられれば、それ
だけで世界の平和に寄与していることになります。もちろん、あなたに必要なすべての物質も環境も与え
られるのですから、精神的な幸せだけでなく、物質的喜びも感じることができるのです。

「天命を見つけたい」「幸せになりたい」というのは本心の働きです。「お金持ちになりたい」というの
は物質的欲望ですが、それも元をたどってゆきますと「自由を得たい」という本心の働きが、物質的欲望
に変形してしまっているにすぎません。しかし、現代において欲望の無い人はいないし、「こうした欲望
を持つな」と言っても無理ですから、「すべての欲望を持ったままでよいから、『世界平和の祈り』の中
に飛び込みなさい」と五井先生は教えて下さっています。そうしておりますと、欲望がしだいに純化して
くるのです。すると、わざわざ願望を心に描いたりする気持ちが、いつのまにかスーッと消えてしまうも
のです。

自分の願望や夢を、紙に細かく書かなくても、守護の神霊は、あなたに必要な物を知っていて、あなたに
与えようと用意して下さっているのですから、あなたは守護の神霊に「み心のままになさしめたまえ」と
全託していさえすればよいのです。どんなことがあっても、欲しいものが与えられなくとも、不平を言わ
ないで、「神様、ありがとうございます」と感謝していたり、「世界平和の祈り」を祈っていることは、
神への全託と等しい心境なのです。

宗教者は、「神様から必要な物を授けていただく」という「神への全託行」をただひたすら教えるべきで
あって、たとえ口がすべっても、信者におもねって、自分勝手な業想念の欲望を増長させるような「念力
による願望成就」を教えてはいけません。「必要な物は神様から与えられる」という大信念を説かなくて
はなりません。かといって、「神様、お願いします、と言ってはいけない」と固く考えることもありませ
ん。自己の念力でやることが、神のみ心に反するということであって、守護の神霊に自己の願望も夢も投
げ入れてしまえばよいのです。

守護霊様、私の天命が見つかりますように
守護霊様、私が幸せになりますように
守護霊様、私がお金持ちになりますように
世界人類が平和でありますように

というふうに、最初のうちは、欲望や願望を神に祈ってもよいから、その後で「世界平和の祈り」をすれ
ばよいのです。そうしているうちに、欲望や願望は純化されて、しだいに「世界平和の祈り」一念の心境
に高められてゆくのです。そして、「世界平和の祈り」以外に祈る必要はなくなってくるのです。初心者
ならともかく、十年も二十年も「世界平和の祈り」を祈りつづけた人の中にも、現世利益が与えられない
からといって、神の愛を信じられなくなり、途中で自己の念力による願望成就法をやりだす人がいます
が、五井先生は「全く情けない」とおっしゃっていました。

自己の念力に頼っているようでは、業生の渦の中で生活することになりますから、いつまでも真実の安心
立命は得られません。念力を強めて、念力を謳歌している時は、良い調子に乗っていられますが、念力が
弱まった時、いくら念じても何も得られなくなる、という悲惨な状況が待っているのです。自分の念力を
捨て、自分の欲望のすべてを捨てて、神の愛に全託した時に、神の無限供給力が発動するのです。神の無
限供給力は、念力による利益よりも、はるかにはるかに勝る大きな利益であるのです。そして、何よりも
真実の安心立命が得られることを、改めて知って下さい。

たとえ、過去世からの業因縁消滅のために、死ぬまで現世利益が一つも与えられなくても、死ぬまでどん
なに不幸がつづいたとしても、道端で人に知られぬまま哀れに孤独で死んだとしても、私達は神の愛を信
じて、「世界平和の祈り」に一生を捧げようではありませんか。そのくらいの心境になってほしいもので
す。

[ご質問4]
五井先生と森島先生を知って以来、ずっと毎日祈っています。ここ二ヶ月は、さらに勢いづいて24時間体
制になってきています。仕事のふとした合間とか夜中に目が覚めたときとか、とにかく何か自分の感情に
入れる時間があれば、まるでおまじないのように祈りを唱えています。わたしは初心者なので、よくわか
らないままに「世界人類が平和でありますように」とひたすら心の中で、もしくは小さい声でぶつぶつと
早口で何度も何度も唱えているのですが、方法としてはこれでよいのですか? ときどき「守護霊様、守
護神様ありがとうございます。わたしに天命を授けてください」とお願いしています。おまじない状態だ
と一つ一つの言葉に感情がこもらないのでは(?)と思いながらも、何となく自分のノリでぶつぶつ早口
でやっています。もっとゆっくりと心を込めた方が良いのですか?

[お答え4]
その方法でよろしいのです。早口でもゆっくりと唱えても、それはどちらでも構いません。五井先生の話
し方は、わりかた早口のほうでしたが、「心を落ち着かせるときには、ゆっくりと、世界人類が平和であ
りますように、と唱えるといいね」と五井先生はおっしゃっていました。一瞬の隙なく祈ろうとすると、
どうしても早口になると思います。声帯を痛めても、南無阿弥陀仏の称名念仏をつづけるという荒行もあ
りますが、声帯を痛めないように小声で念仏するという行法もあります。女性がダミ声になっては困るで
しょうから、声帯を痛めぬような声量で「世界平和の祈り」を唱えたらよろしいでしょう。これは祈りつ
づけているうちに、自然にリズムが生まれてきて、自分の納得できる祈り方になってゆくはずです。

[ご質問5]
さらに基本的なことなんですが、祈るときは仏教のように手を合わせるのですか? 如来印とかいうもの
を組んだほうがいいのですか?

[お答え5]
個人で祈る場合には、形は自由に祈ってよいのです。しかし、自由に祈って良いからといって、集団で祈
るときに、逆立ちをして祈っている人や、おせんべいをかじりながら祈っている人や、太極拳のように踊
りながら祈っている人がいたら、統一指導をする側も困ります。そこで基本的な祈り方として、正座する
か椅子に腰掛けて、背筋を伸ばし、目を閉じて、膝の上で如来印を組むように指導しているのです。

合掌は大調和を示しており合掌印でもよいのですが、五井先生は如来印で統一することを勧められまし
た。「その人個人に合った印もある」というお話も、五井先生からお聴きしましたが、基本は如来印とし
て定めてあるのです。宗教教団によっては、信者同志がお互いに向き合って合掌する、という規律を作っ
ているところもありますが、五井先生は、「大調和を意味する厳粛な合掌を、そんな軽々しくやるべきで
はない。形式的合掌、偽善的挨拶はやってはいけません」とおっしゃっていました。

合掌に比べて、如来印は電車の中でも、会社や学校の中でも、コンサートでも病院でも、どこでもできる
長所があります。何も知らない人が見ても、奇異に思われることがありません。病院のお見舞いに行っ
て、病人が合掌されたら、ゾッとするでしょうし、電車の座席に座りながら仏像のように合掌していた
ら、「あの人、頭がおかしいのかな?」と一般人からは思われてしまいます。その点、如来印は、どこで
やっていても、奇異に見られることがありません。非常識な態度に見られません。それに合掌印は長い間
やっているうちに両手が疲れてくるのに対して、如来印は、膝の上に置いているので長い統一行にも耐え
られます。このように常識的に考えても、如来印のほうが現代人の統一行には向いている、と言えます。

また、初めは如来印をして統一しているうちに、自分でも知らないうちに、自然に手が動いて、合掌した
り、法界定印を組んだり、自分でも知らないさまざまな印を組む場合があります。この場合には、守護霊
が背後で霊的に必要があって手を動かしているのですから、自然に動かしておけばよいのです。必要があ
れば、守護霊が手を動かして下さるのです。必要がなければ、手は動かしません。自分の意思力で動かそ
うと思う必要はありません。自力を捨て、「世界平和の祈り」に全託することが何よりも大切なことであ
るのです。

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「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法
No.2916 森島 恒吉    2001/03/02 (金) 00:35 富士宮
世界人類が平和でありますように

まり子さん、いつも「世界平和の祈り」をお祈り下さって、ありがとうございます。
まり子さんのご質問にお答えします。

[ご質問]
「消えていく姿」の教えは、悪いことが出てきても、その原因を追いかけたりせず、人も自分も責めずに
悪いものが消えて好くなる、との教えは分かりますが、いつかの掲示板で、過去はすべて消えていく姿と
してとらえる、とあったと思いますが、ここでの過去は今生だけのでなく過去生のものも当然含まれてい
ると思いますが、それでは、過去で努力したこと、楽しかったことも、消えていく姿としてとらえるので
しょうか?

[お答え]
過去で努力したことは、未来に良い結果、良い運命として現れてきます。楽しかったことは、いつまでも
楽しい思い出として記憶に残ります。人生の記憶、記録としては残るのです。楽しいことは、ことさらに
「消えてゆく姿」と思う必要はありません。「努力したことも楽しかったことも消えてゆく姿」と思いま
すと、虚無感に陥ってしまいかねません。「過去はすべて消えてゆく姿」というのは、過去の自分の行為
を悔やんで反省している人や、過去の苦悩を忘れたい人を対象に、赦しの言葉として説いているのです。

この世は、本心の現れと業想念の現れが混在しておりまして、本心の現れは永遠に存在するのであり、業
想念の現れである、すべての苦悩は消えてゆくのです。消えてゆくといっても、もちろん記憶として歴史
としては残ります。また、本心の現れである愛、真、善、美は、本質的なものですから、この世から消え
去ることはありませんが、形の現れとしては、刻々と完全円満な形に近づいてゆきます。

「消えてゆく姿」の教えとは、人間は本来、神の分霊であって、完全円満な存在であり、現在の苦悩、悲
しみ、怒り、不安、恐怖、悪の姿は消えてゆく姿なのだ、そして不完全な姿が消え去った後には、完全円
満な光明生活が現れてくるのだ、というふうに、明るい希望を持たせるために用いているのです。

「消えてゆく姿」の使い方を、「どうせ消えてゆく姿であるから、悪いことをしてもかまわない」と無反
省の言い訳に用いてはいけません。それでは悪い行為を善いこととして認めているのですから、悪い行為
は消えてはゆかないのです。また、「善い行為をしても、努力をしても、いずれ消えてしまうのだから、
いくら努力しても無駄だ」と本心の善行為をも否定してしまったのでは、本心顕現をさまたげる行為とな
ってしまいます。このように虚無的で怠惰な生き方の言い訳に用いたりしてはならないのです。

「消えてゆく姿」の教えは、「病気は無い、不幸は無い、悪は無い」と真理の言葉を大上段にかざして、
業想念を否定する方法よりは、おだやかで、人を責め苦しめることにはならないと思いますが、それでも
使い方によっては、病人に向かって「そんな病気は消えてゆく姿よ」と冷たく突っぱねてしまい、愛も情
けもない使い方をする人が出てきます。困ったものです。そこで実際に「消えてゆく姿」の教えを使う場
合には、「神にお浄めしていただく祈り」の形で用いたらよい、と私は提言するのです。

すなわち、「この業想念は消えてゆくのだ!消えてゆくのだ!消える、消える、消えるのだ!」と自己の
念力で力んで消そうとはしないで、守護の神霊に業想念を消していただくようにするのです。

「守護霊様、この苦しみを消して下さい」
「守護霊様、この悩みを消して下さい」
「守護霊様、この病気を消して下さい」
「守護霊様、この貧乏を消して下さい」
「守護霊様、この怒りや憎しみを消して下さい」
「守護霊様、この不安、恐怖の想いを消して下さい」
「守護霊様、この悪の姿を一日も早く消して下さい」
「守護霊様、あの人の馬鹿な想念を早く消して下さい」
「守護霊様、悪い人がこの世から一日も早く消え去りますように」

というふうに、思い浮かんでくる自己の雑念や他人の悪行為を、守護の神霊に浄めていただくのです。
こうしておりますと、現れてくる悪の姿に、いちいち怒って把われることもなくなり、「あ〜、誤った行
為、悪い姿、不完全な姿は、すべて消えてゆくんだなあ。後から神様の本心の姿が現れてくるんだ。あり
がたいなあ…」と自然に思えてきて、心がいつもおだやかで平静でいられるようになるのです。

すなわち、「消えてゆく姿」と思う信念の前には、「神様、この業想念を消して下さい」という祈りの行
為が必要であるのです。守護の神霊にお浄めしていただくお祈りを一生懸命にしているうちに、いつしか
「業は消えてゆく姿である」という信念が、自然に心の奥底から実感として思われてくるのです。これが
無反省や虚無に陥れさせない、「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


典子ちゃん、はじめまして。(^_^)
No.2917 森島 恒吉    2001/03/02 (金) 01:05 富士宮
世界人類が平和でありますように

典子ちゃん、はじめまして。「世界平和の祈り」を書いて下さって、ありがとうございます。
まだ小学生の五年生なのに、お母さんとご一緒にお祈りしているなんて、立派です。
あなたのお母さんは、やさしくて、いい人ですね。(^_^)

[典子ちゃんのご質問]
私の友達ですごく仲のいい友達が居るんですけど、その子と時々ケンカをしてしまい、すごく気分が悪く
なり、その子の悪口をつい言ってしまいます。そのあと、その子のお母さんの気持ちを考えると、すごく
反省します。どうしたら、自分の心が安らぐのか、教えていただけませんでしょうか。(*^-^*)

[お答え]
一番よいのは、ケンカをしてしまった友達のその子に直接会い「あの時は、あんなひどい悪口を言って、
ごめんなさい。これからも私の仲のよいお友達でいてね」と勇気を出して、すぐにあやまることです。
もしも、直接その子に会って、それが言えなかったら、その子に「ごめんなさい」のお手紙を書いて、郵
便ポストに出すことです。そして、心の中で守護霊様に、このように祈りましょう。

「守護霊様、友達の悪口を言わない私になりますように、お願いします」
「守護霊様、友達の心を傷つけない、思いやり深い私になりますように」
「守護霊様、友達をほめたり、明るくさせたり、励ましたり、喜ばせる言葉を言えますように」

こうすれば、あなたの心は安らぎます。また、メールをくださいね。お待ちしております。
典子ちゃんが幸せでありますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD


大衆が救われる他力易行道
No.2921 森島 恒吉    2001/03/09 (金) 00:42 富士宮
世界人類が平和でありますように

すぎぴいさん、ありがとうございます。リニューアルしたHPは、読みやすいように工夫しました。
唯一会ホームページにある「教義」や「宗教問答」は、これ以上ないほど、平易に書いたつもりです。
「世界平和の祈り一つの行で救われる」という教えは、忙しい現代人に合致した教えだと思います。
難行苦行の自力多行道では、現代人の生活に合いません。何も難しい行法のない他力一行道でこそ、現代
人に合う行法であり、当然、唯一会には今後多くの方々が賛同し、入会してくることになっております。
忙しい仕事や家事に追われている現代人にとって、難しい行法などは、多くの人にとって無理なのです。
「世界平和の祈り」を一つ祈れば救われる、という唯一会には、多くの人が入ってくるのは当然です。
入口はやさしいけれども、高度な教えであり、無限に奥が深い道、それが「世界平和の祈り」なのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


感謝の心境になるまで祈り続けよう
No.2932 森島 恒吉    2001/03/15 (木) 01:31 富士宮
世界人類が平和でありますように

最近、この掲示板にコメントをお寄せ下さる方が少ないようですが、唯一会HPの表紙のカウンターを見
ますと、この唯一会HPをご覧下さっている方は、以前よりもむしろ増えているようです。コメントを書
くことはしなくとも、唯一会の動向に関心を寄せて下さる方が多くなったことを、嬉しく思います。

毎日のテレビニュースで、虐待事件、殺人事件などを見聞きするのは、耐えられないほど、つらい事です
が、私達は現実を直視して、「世界平和の祈り」を祈り、浄めつづけてゆかねばなりません。

業想念とは、業(カルマ)の想念という意味ですが、具体的にいいますと、暗い想い、罪悪の想い、殺傷
の想い、憎しみの想い、怒りの想い、嫉妬の想い、だまそうとする想い、偽善の想い、嫉妬の想い、病気
の想い、弱い想い、臆病の想い、独善の想い、迷いの想い、不平不満の想い、暴力の想い、脅迫の想い、
隷属の想い、不安の想い、等です。

このような業想念は、「世界平和の祈り」に結集する私達の同志が増えてゆけば、それだけ早く消えてゆ
くのです。一人一人は弱くても、「世界平和の祈り」に結集すれば、私達は大人物のような大きな強い働
きができるようになってくるのです。それにしても、「世界平和の祈り」発祥の地である日本で、毎日の
ように凶悪な犯罪事件が起きていることは、残念でなりません。現在、発生している犯罪は、過去からの
業想念の消えてゆく姿であるのですが、現実の形になる以前に消滅するように、「世界平和の祈り」を私
達は一層祈りつづけてゆかねばならないのです。

「世界平和の祈り」のゆくところ、業想念の闇は消えてゆくのです。業想念のすべてが、すぐに消えるわ
けではありませんが、業想念が少しずつ消えていることは、確かなことであるのです。より早く業想念を
浄めるためには、「世界平和の祈り」を祈る人が多くなることが必要です。「世界平和の祈り」を祈る人
が多くなればなるほど、日本の犯罪は少なくなってゆき、日本は平和になってゆくのです。

「世界平和の祈り」を祈り始めたばかりの人の中には、「世界平和の祈りを祈っているのに、私は、なぜ
こんなに怒りっぽく、いまだに不安で、ふつうの人と同じ心境なのだろう?私の業想念は、サッパリ消え
ないではないか?世界平和の祈りは効果が無いのではないか?」と思っている人もいることでしょう。

実際には、ふつうの人にとって、一年や二年、「世界平和の祈り」を祈ったところで、そうたいして人格
に変わりはないのです。「世界人類が平和でありますように」と祈った後で、怒ったり、不平不満をこぼ
したり、つい暴力をふるってしまう人も存在するのです。だからといって、そこで「世界平和の祈り」を
やめたら、また元の木阿弥となってしまいます。怒ることも、不平不満も、暴力も、消えてゆく姿です。
「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、必ず業想念は消えてゆくのです。その真理を信じて、途中で
あきらめることなく、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆくことが大事なのです。

過去世からの自己の業想念の波動に、人類の業想念波動が加わってくるのですから、「世界平和の祈り」
を祈っていても、そうたやすく業波動は消えません。それなりの時間がかかるのです。時間はかかるけれ
ども、業波動が消え去っていることは事実なのです。「この一年間、私は世界平和の祈りを祈りつづけた
けれども、ちっとも私の業想念は消えない。消えるどころか、業想念が前よりも増えてしまったような気
さえする」と思う人は結構いるのですが、それは潜在意識の奥深くにひそんでいた業想念が、光明波動に
照らされて表面に出てきたわけでありまして、「浄化の過程である」と信じて、「世界平和の祈り」を祈
りつづけなくてはなりません。

その人の業想念波動の多少によって、また、その人の祈りの努力によって、浄化の日数は異なりますが、
たいていの人は、「世界平和の祈り」を三年以上祈りませんと、その効果を実感することはできません。
この場合も、一人で祈るよりも集団で祈ったほうが、早く自己の神性を開発できるのです。自己の潜在意
識にあった業想念波動が、「世界平和の祈り」によって浄まってきますと、「不平不満を言わなくなる」
「怒りや憎しみがなくなる」というふうになってくるのです。「世界平和の祈り」によって、感謝の心境
になることは、私自身の体験によっても明らかなのです。

神様、ありがとうございます。
神様、ありがとうございます。
神様、ありがとうございます。

という具合に、「世界平和の祈り」を祈りつづけておりますと、感謝の祈りに満ちあふれてくるのです。
感謝の祈りに心が満たされている時、その人の心には、不平不満も怒りも憎しみも嫉妬もありません。ど
んなに経済力があっても、環境に恵まれていても、真の幸福は得られません。真の幸福とは、感謝の祈り
に満ちている時であるのです。かといって、私は形式的な感謝行を勧めているわけではありません。そう
ではなくて、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、いつか必ず感謝に満ちた生活を送れるようにな
るのだ、と教えたいのです。

今のあなたの業想念行為は、消えてゆく姿であるのです。苦しくても、失敗しても、悩んでいても、失望
せずに「世界平和の祈り」を祈りつづけて下さい。感謝に満ちた生活になるまで、あと少しの辛抱である
のです。もう少し、もうちょっとの祈りで、あなたは光明生活に入ることができるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」を広めよう!
No.2940 森島 恒吉    2001/03/18 (日) 15:00 富士宮   
世界人類が平和でありますように

NEEDさん、折原さん、ありがとうございます。
NEEDさんは、15年間も白光真宏会で祈ってきたにもかかわらず、救われませんでした。そして絶望してし
まった後に、私を知り、五井先生のみ教えを学び直し、五井先生に救われました。「自分はどうしようも
ない駄目な者なんだ」と自己の力に絶望したことが、自力を捨てることになり、私の法話の解説が素直に
耳に入ってゆき、結果的に、守護の神霊に全他力できて、真の救われ、に至ったわけです。

NEEDさんの場合、五井先生に真実に救われる体験をするまでに15年間かかったわけですけれども、それで
も早いほうであるのです。「今生で救われる」ということは、これまでには滅多になかったことで、白光
真宏会の会員の人を含めて、まだまだ大半の人々が救われてはいないのです。まだまだ多くの人々が、迷
っているのです。「世界平和の祈り」の力を心から信じることができず、「世界平和の祈り」に全託する
ことができないまま、「世界平和の祈り」以外のさまざまな行法を試みては、貴重な時間をいたずらに消
耗してしまっているのです。「世界平和の祈り」の存在を知りながらも、その周囲をグルグルと動き回る
だけで、中心の「世界平和の祈り」に飛び込めない人々が、大半であるのです。

それを思いますと、NEEDさんは実に幸せな人であるのです。今は、守護の神霊との交流に成功した感激で
胸が一杯であると思いますが、しばらくしてその感激も鎮まってきましたら、今度は往相から還相へと、
つまり自分以外の周囲の人々を救うために働いてほしい、と思います。九州の熊本がご自分のお住まいな
らば、その熊本を中心にして、「世界平和の祈り」を広めていただきたいのです。「自分が完全に立派に
なってから、道を説こう」と思っていたら、死ぬまで道を説くことはできません。「現在の自分は不完全
である」と正直に自己を見つめるのは必要ですが、「この道を行けば救われるのだ」と正しい道を直観し
たら、その道を人々に正々堂々と説いてもかまわないのです。

いつも申しておりますように、正しい人々が孤高を好んでいたら、国も世界も悪の集団によって滅びてし
まいます。正しい人々こそ、「世界平和の祈り」に結集して、その大光明力を発揮してゆかねばなりませ
ん。NEEDさんは、もう救われたのです。しかし、この世には救われていない人々が、まだまだ、たくさん
おります。その人々を救うために、NEEDさんに立ち上がってもらいたいのです。といっても、そんなに難
しいことではありません。「世界平和の祈り」を共に祈っていただくだけでよいのです。あなたのいる場
所で、「世界平和の祈り」を広める立場に立っていただきたい、と切望するしだいです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


私達は守護霊様に守られているのです
No.2947 森島 恒吉    2001/03/23 (金) 01:16 富士宮
世界人類が平和でありますように

真由美さん、「世界平和の祈り」を聴いて下さって、ありがとうございます。唯一会HP表紙の写真の中
央に座っている人物が、私です。ご一緒にお祈りしましょうね。

私達は、守護霊の存在を知っているのですから、知らない人と比べれば、どれだけ幸せか、計りしれませ
ん。守護霊様は、被守護体の人間が失業していることを知っていますし、その夫婦が失業して困っている
ことも、よくご存じであるのです。知っているだけではなく、守護霊様は、被守護体を神霊界から加護し
ようと、心を配っているのです。

或る会社に就職しようとしても採用されなかった時には、「ここよりも、もっと良い職場を、守護霊様は
きっと用意して下さっているんだ」と楽天的に考えることです。
「守護霊様、どうか私の天命にかなう就職先が見つかりますように。良い仕事につけますように」
と祈りつづけていれば、必ず自分にふさわしい仕事が授けられます。

守護霊様に常に相談し、守護霊様にご指示を仰ぐようにして生きてゆけば、守護霊は霊の頭で考えて下さ
るのですから、もっとも良い生き方ができるようになるのです。守護霊様の加護なくしては、私達は生き
てはゆけません。守護霊様は、肉体界をコントロールできる神秘的な超能力を持っていて、守護霊様と常
に心を一つにしていれば、守護霊様は私達を霊界から導きやすくなり、私達は幸福に安全に生きることが
できるのです。守護霊様に加護していただく方法を知っている私達は、真実に幸せであるのです。

守護霊様、どうか私達を守りたまえ。
MAY PEACE BE IN THE WORLD


旧光明思想と新光明思想
No.2952 森島 恒吉    2001/03/26 (月) 10:11 富士宮
世界人類が平和でありますように

ひまわりさん、ありがとうございます。しばらくお会いできませんが、現実のお仕事を優先して下さい。
現実に必要な勉強やお仕事を優先して、残りの時間で宗教の行事に参加する気持ちで充分なのです。

今日は、五井先生の新光明思想についてお話しましょう。
現在の肉体界は、神のみ心の現れと業因縁の現れが混ざった世界であり、したがって、この世での人間関
係、人との出会いというのも、神のみ心によって出会う神縁と過去世からの因縁による出会いとがあるの
です。現在の人間というのは、完全な神の子の人間ではなく、神の子になる過程の人間であり、神のみ心
である本心と、過去世からの業想念を併せ持つ不完全な存在といえます。

現在の人間は、まだ神の子になりきってはいないのです。業想念が存在しているのであり、過去世の業想
念が現れては消えてゆく、という現象が起こるのですから、守護霊に加護を願っていても、業想念が完全
にきれいに浄まるまでは、百パーセント事故にはあわないし、病気にもならず、嫌な上司や同僚に逢わな
い、ということはありえないことになります。未来において、業想念がすべて浄まり、守護霊とピタリと
完全に一体化すれば、その時は神の子の完全性を発揮しますから、もちろん百パーセント事故にはあわな
いし、災難にも、嫌な目にもあわなくなります。

そこで現実に戻りますが、不幸や災難や嫌な出来事が起きたら、「これは過去世からの業因縁の消えてゆ
く姿なんだ。守護霊様が、大きな業因縁をこんなふうに小さくして消して下さっているんだ」と解釈し、
「守護霊様、どうか一日も早く私達の業因縁をお消し下さい。そして、私達の本心が現れますように、お
願いします。世界人類が平和でありますように…」とお祈りして、「守護霊様は、きっと私の運命を善く
して下さるに違いない。これで業因縁が一つ消えたんだから、私の運命はこれから良くなるんだ」と明る
く考えるようにするのです。これが私達の新光明思想であるのです。

「人間は神の子、完全円満。我も他人も人類も、神そのものである。病無し、不幸無し、災難無し」とい
う古いタイプの旧光明思想では、真理に片寄ってしまって、現実の不完全な現象についての説明がつかな
くなり、「病気も災難も嫌な出来事も無い。無いものは無いのだ」と苦し紛れに言い訳するしかありませ
ん。「無いものは無いのだ」といくら言われても、聖者は別にして、ふつうの人には業想念はあるように
見えるのですから、納得させることができません。また、「あなたは神の子なのです」と言われても、正
直言ってそうは思えませんし、「他人に対して、神の子として拝みなさい」と説かれても、形式的にはで
きますが、本気ではできません。

現象の悪や不幸や嫌な出来事について、「それは無い」と説いていても、人々は納得しません。多くの民
衆が納得しない教えでは、その教えがどんなに高い教えであっても広まりません。実行するのに難しくて
広まらない教えでは、人類の救いの教えにはなりません。そこで観念的に真理を説き、真実に悟っていな
い宗教者は、「人間神の子、完全円満、悪も病気も不幸も無し」という高い真理を説いておきながら、そ
の教えとは矛盾する因果法則を持ち出してくるのです。

「現在のあなたの不幸は、過去のあなたの想念が作ったのだ。あなたの運命は、あなたに全責任がある。
あなたが病気なのは、あなたが不幸なのは、あなたが嫌な目にあうのは、すべて、あなたの想念が作り上
げたものであるから、あなたが悪いのだ」と悪の存在を認めさせ、初めに説いた光明思想に徹することが
できなくなってくるのです。

これは明らかに矛盾しているのですが、矛盾にも気づかぬままに説いてしまっているのです。深い知性を
持った宗教者も、信仰を持つ大学の教授でさえ、案外この矛盾に気づかない人がいるのですから、まして
や、一般の信徒となりますと、この矛盾に気づかないのも無理はありません。

五井先生の新光明思想では、その点、現象の悪は存在すると、現実の存在を認めながらも、未来には悪は
消えてゆくと、未来においてはその悪の存在を否定しているので、現実の姿にも矛盾せず、しかも未来の
理想の姿にも矛盾しない、現実と理想をつないだ中庸の光明思想と言えるのです。

現象の悪の存在を一度は認めているのですから、「すでに完全な神の子が、なぜ悪行為をしたり、不幸災
難にあったり、嫌な人にあったりするのか?」と質問されることはありません。しかも、未来においては
「あなたは完全な神の子になる」と理想の神の子人間の存在を認め、業想念を完全否定しているのですか
ら、因果法則を持ち出して「あなたの心の持ち方が悪いから、不幸になったのだ。あなたが悪いのだ。善
なる想いを念じなさい」と相手を責める必要もなくなります。新光明思想は徹底した神の子論で業想念を
否定しているのですから、業想念の法則である因果法則の教えは、まったく不要であるのです。言いかえ
ますと、五井先生の新光明思想は、因果法則の無い、中庸の神の子論だけを説く一元論なのです。

「業因縁は消えてゆく姿」と中庸実相論を説いたら、もう「想念法則による運命改善法」という現象論を
説いてはいけないのです。中庸実相論一つで徹底しなくてはいけません。「業因縁は消えてゆく姿」と言
いながら、「私もあなたも人類も神の子である」と無理に背伸びをするように真理の言葉をことさら宣言
したり、「悪いことを思えば悪いことが起こる。これは絶対の真理である」と想念の法則を説いて人々を
地獄へ落としては、矛盾だらけの三元論となってしまいます。中庸の生き方は、もともと難しいことでは
あるのですが、「世界平和の祈り」に徹した時、おのずと中庸の生き方ができるようになるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


常識的に生きる
No.2954 森島 恒吉    2001/03/27 (火) 07:11 富士宮
世界人類が平和でありますように

過去世からの因縁でケガをする運命があったとしても、自分が注意すればケガを避けられるし、不注意で
あれば、因縁がなくともケガをしてしまうこともあります。「守護霊様に守られている」と思っていても
神様から授けられた自分の命を粗末に傷つけてはいけませんし、自分の命を守ることに怠惰であってもな
りません。神様から授けられた自他の生命を守りとおす努力をしなければなりません。細心にして大胆、
神経質でヒステリー気味に怒ることはなく、穏やかでいて何事にも注意深くありたいものです。

たとえば、私はこんなふうに常識的に身を守る努力をしております。
[全般的な注意点]
・備えあれば、憂い無し。或る危険を予知したら、危険を回避するために万全の対処をしておく。
[外出時の注意点]
・外出する時には、火の始末、窓の戸締りを確認して、セキュリティシステムをセットする。
・駅のプラットホームで人が倒れていたら、駅員に知らせる。
・道を横断する時には、左右をよく確かめてから渡る。
・階段を歩く時は、手で体を守れるように、ポケットから両手を出しておく。
・車が暴走してきた時に、サッとかわせるように周囲に気を配って歩く。
・狭い歩道や歩道のない道では、自分は車道側に立って、愛する人を守る。
・物が落下してくるような場所には立たない。
・あらかじめ危険を察知したら、危険な所に近寄らない。
・暗い夜道を歩かない。
・他人の子供であろうと、危険な時は注意して守る。
・自分の手荷物は目で見える範囲に置き、遠くに離さない。
[人間関係の注意点]
・危険に感じる人とは交際しない。
・とっさに暴力を受けてもかわせるように相手との間合いを保つ。
[健康面の注意点]
・食事のバランスに気をつかい、暴飲暴食をつつしむ。
・食後には歯をみがく。
・口臭で人に迷惑にならないように気をつける。
・毎日お風呂に入って体を清潔に保つ。
[経済面の注意点]
・当然、老後のために国民年金に入って必要なお金は蓄えておく。

以上のような行為は常識的なことで、言うまでもないことですが、中には「守護霊様に守られている」と
いって怠惰になり、常識的なことさえ何もしない人がいるので、あえて書いたしだいです。日常生活を常
識的にあたりまえに生きながら、超常識の「世界平和の祈り」を祈ってゆきましょう。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


無理をせずに平和運動をしてゆきましょう
No.2956 森島 恒吉    2001/03/28 (水) 14:11 富士宮
世界人類が平和でありますように

桜のつぼみがふくらんできて、遠くから見るとうっすらと赤く見えるようになりました。庭におりました
ら鶯の声が聴こえてきましたが、今年初めての鶯の声です。明るく暖かい初春の日差しを浴びながら、近
くから聴こえてくる「ホー法華経」と啼く鶯の声を聴いておりますと、ありがたくなってきます。(^_^)

世界平和とは、一挙になし遂げられるものではなく、多くの人々が「世界平和の祈り」を祈り、ピースポ
ールを建立し、ピースセレモニーを催してゆくことによって、なし遂げられるものです。唯一会としては
現在は主として「五井先生のみ教えを理解する講座」を開き、一緒に「世界平和の祈り」を祈るピースセ
レモニーを開いております。知性的に五井先生のみ教えを納得したい方や、「世界平和の祈り」オーソド
ックスの統一行に励みたい方は、私達の講座に参加すればよいし、日本や世界各地にピースポールを建立
したい方は、五井平和財団やWPPSの一員として活動したらよいのです。

一般の新聞やテレビでは、「世界平和の祈り」は宗教の一派として見られる傾向があり、ほとんど取り上
げられておりませんが、実際には日々、世界のどこかでピースポールが建立され、世界各国の平和を祈る
ピースセレモニーが開催されております。白光真宏会や五井平和財団の熱心な会員さんによって、世界各
地にピースポールやピースセレモニーが開催されております。ありがたいことです。

世界各地にピースポールを建立しに行くには、経済的余力と時間的余裕が必要ですが、仕事に忙しくお金
も時間も無いという方々は、日常生活の中で「世界平和の祈り」を地道に祈りつづけることが、もっとも
良い平和活動と言えます。あなたには、あなたの生きる道があるのです。誰もが、同じ場で同じ事ができ
るわけではありません。人真似をせずに、「わが道を行く」という気持ちで、自分のできる範囲で、自分
のできる善事をなしていったらよいのです。誰にも知られなくとも、「世界平和の祈り」を祈りつづけて
ゆくことが尊いのです。自分の老後の為に貯金したお金を、世界平和運動で使い果たして、明日のお米を
買うにも困る、というようになってしまっては、気の毒です。

経済的に余裕のある方々は、どんどん積極的に世界各地に出かけてゆき、思う存分平和活動をしたらいい
し、経済的に余裕のない方々は、自分のできる範囲で「世界平和の祈り」を祈りつづけていたらいいので
す。貧乏な人がお金持ちの真似をしてはいけません。貧乏な人は、貧乏な立場で、平和運動ができるので
す。借金をして海外へ行き、平和運動をしている人もいるようですが、それは行き過ぎです。決して無理
をしてまで平和運動をする必要はありません。各人のできる範囲で地道に平和運動をしてゆきましょう。
先はまだまだ長いのですから。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


幸せな結婚のために
No.2962 森島 恒吉    2001/03/31 (土) 23:41 富士宮
世界人類が平和でありますように

Mくん、姫華さん、ありがとうございます。
自分にとって最良の結婚相手を見つけるというのは、現実にはむずかしいものですね。最近でも、歌手の
前田亘輝さんと女優の飯島直子さんの離婚報道がありましたが、離婚原因は「価値観の違い」であるよう
です。交際しているうちに価値観が違うことがわかったら、最初から結婚しなければよいのに、と周囲は
思っても、離婚する因縁のある人は、その因縁が消えるまで、何度も離婚するのです。現在は、完全な世
界になる途中であり、誰も完全な人はいないのですから、結婚についても、自分にふさわしい配偶者と巡
り合い、幸福な結婚生活を送っている人は、数少ないのです。

それでは、どうしたら、自分にピッタリした良い配偶者を見つけることができるのでしょう。どうしたら
自分に適当な配偶者と結婚できるのでしょう。五井先生は、幸福な結婚を望む男女に対して、このように
祈ることを勧めておられます。

「守護霊様、私の天命が完うされますように、良き配偶者をお授け下さい」

守護霊様に、このように祈り、自分の心境を高める努力してゆけば、良い配偶者に出会うように導かれま
す。日頃から守護霊に祈っているならば、直観が磨かれますから、自分にふさわしい配偶者に出会った時
には、「この人だ!」と直観でわかります。ところが、日頃から守護霊に祈っていない人は、欲望や利害
打算で直観が鈍ってしまうので、誤った判断を下してしまうのです。

また、たとえ自分に適した配偶者と結婚したとしても、お互いに心境が未熟で自己本位で生きて、相手に
尽くす気持ちがなければ、結婚生活は長続きはしません。いずれにせよ、交際期間に、お互いに相手の性
格や価値観を見きわめる目を持つことが必要です。お互いに価値観が同じで、将来の目標を語り合って、
同じ目標を共有できるような配偶者が理想です。食事の好み、テレビ番組映画の好み、本の好み、子育て
の問題等を語り合うことです。交際中に早くもケンカするようでは、考え直したほうが無難です。

守護霊が「良い」と認めた相手とは、結婚までも、結婚しても、すべてがスムーズに運びます。お互いに
気にいるだけでなく、親も周囲も賛成してくれて、追い風を受けて順調に走るヨットのようです。ところ
が守護霊が反対している相手と交際しますと、何かと二人がぶつかりあい、障害が次々とおこります。そ
の時、「これはおかしい?」と気がつけばよいのですが、たいていの人は気づかないまま、業生の運命の
ままに翻弄されてゆくのです。

宗教観の一致する相手と結婚することが、最も幸せです。夫婦で「世界平和の祈り」を祈れる生活は、な
んと素晴らしい生活でしょう。皆さんは、「世界平和の祈り」を祈っているのですから、結婚する前に、
自分の宗教観を正直に相手に話して、「世界平和の祈り」を共に祈れる相手かどうかを尋ねることです。
結婚は一生つづくものですから、宗教観の一致しない相手と結婚してしまうと、一生の間、信仰の孤独感
を味わうことになります。宗教観が一致していることが、幸福な結婚生活に最も大事な要素であると思い
ます。未婚の男女の皆さんが幸せな結婚ができますようにと、私は祈っております。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」専念型を認めた白光真宏会
No.2963 森島 恒吉    2001/04/02 (月) 21:25 富士宮
世界人類が平和でありますように

これまで白光真宏会は、強制はしなくとも、暗黙のうちに事実上、「我即神也・人類即神也」の印を組む
ように指導してきており、「世界平和の祈り」一念の生き方を認めていませんでした。ところが、最新号
の白光誌(2001年4月号)に掲載された田中敞理事長の会員向けの文章を読みますと、その方針が微妙に
変更されたことが伺われます。田中理事長は、白光誌(P32)「十万人の神人」のなかで、「維持会員に
は次の五つの型がある」と述べ、「世界平和の祈り」一念の会員の存在とその生き方を、白光真宏会とし
て公式に認めたのです。これは白光真宏会にとって、画期的な新しい変化と言えます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(白光誌2001年4月号・田中敞理事長「十万人の神人」P38より抜粋)
@[神人→維持会員型]
神人養成課題を達成し神人になってから、維持会員になられる型。
A[印、マンダラ→維持会員型]
印を組み、マンダラを描いているうちに、維持会員になられる型。
B[維持会員→神人型]
最初に維持会員になってから、神人養成課題を達成し神人になられる型。
C[維持会員→祈り専念型]
維持会員になってくださったが、どうしても印が覚えられず、あるいは、印を組みたくなくて、神人には
ならないが、世界平和の祈りを熱心に祈ってくださる型。この方々は、世界平和の祈りをもって、直接的
にも世界平和のために働いておられるのであり、救世の大光明のご加護も多大なものであります。
D[維持会員→間接的サポート型]
維持会員になってくださったが、積極的にはお祈りもしないし、印も組んではおられないが、間接的に本
会を支えてくださる型。もちろん、この方々も、本会の活動を間接的にせよ、大いにサポートしてくださ
っておられるのであり、大変有り難いことですし、間違いなく、救世の大光明の神々の加護も受けられる
のであります。
(注釈…結論として)
このような維持会員の方々は、(中略)救世の大光明の神々の目からご覧になると、いかなる型に属そう
とも、等しく大切な方々なのでありまして、同じように深い神々の加護のもとにおられるのであります。
また、会としましても、維持会員の皆様の対応とか扱いにおいて、何の差別もないのであります。それが
本会の特徴でもあります。(以上、抜粋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
田中理事長の分類によれば、「世界平和の祈り」一念の私達は、Cの「世界平和の祈り」専念型の維持会
員であるわけです。白光真宏会が「世界平和の祈り」専念型を認めなければ、五井先生のみ教えを否定す
ることになり、五井平和財団の存在まで否定することになりますから、いつかは「世界平和の祈り」専念
型を認めざるを得なかったのですが、このような形で私達の存在が認められるようになったのは、3年以
上にわたる唯一会の活動が、白光真宏会に大きく影響を与えた成果なのです。

白光誌に掲載されている昌美先生の毎月の法話については、昨年までは文末に「世界人類が平和でありま
すように。人類即神也」と二行書いていたのに、最近では「世界人類が平和でありますように」がなくな
り、「人類即神也」の記述だけになりました。今後、昌美先生の白光誌での法話は、「世界平和の祈り」
よりも、ますます「人類即神也」のほうに重点が置かれるようになるでしょう。

白光真宏会が、「世界平和の祈り」専念型の維持会員を認めた、とは申しましても、それは会員募集の幅
を広げた、というだけでありまして、「世界平和の祈り」専念型の維持会員は、あいかわらず白光真宏会
の講師にはなれませんし、集会責任者にもなれません。白光真宏会における、この制度は、これからも続
くことと思われます。

白光真宏会の法友に対しては、「私達は世界平和の祈り専念型です」と自己紹介すればよいのですが、
「世界平和の祈り」を専念して祈る場は、白光真宏会の富士聖地にはありません。そこで唯一会は、今後
も「世界平和の祈り」を専念して祈る場を提供してゆきたい、と思います。「世界平和の祈り」を専念し
て祈りたい方々は、唯一会にぜひお越し下さい。私達は、五井先生のみ教えを守り、「世界平和の祈り」
唯一の行に専念してまいります。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


必要がなくなれば、私は消えます。
No.2969 森島 恒吉    2001/04/03 (火) 13:14 富士宮
世界人類が平和でありますように

西田貞昭さん、覚えていますよ。お久しぶりです。お元気そうで何よりです。懐かしいですね。実名でコ
メントを書いて下さって、うれしく思います。子安さんは、子安克己さんでしたっけ。間違えていたら、
ごめんなさい。実名で書いて下さると、コメントの真剣さが伝わってきて、ありがたく思います。

青空さんがお答え下さった通りです。白光真宏会が元のように五井先生のみ教えを復活させ、「世界平和
の祈り」に専念するようになったら、私の存在は必要がなくなるので、表舞台からいさぎよく姿を消しま
す。また、唯一会の存在も必要がなくなるので、解散します。五井先生が創始された、愛する白光真宏会
が、元のように戻って下さるのが理想なのですが、白光真宏会であろうと、どこの誰の会であろうとも、
五井先生のみ教えが復活し、「世界平和の祈り」に専念して下さる会があれば、それでよいのです。

しかしながら、現在は私以外に、「世界平和の祈り」を提唱している指導者は、一人もおりません。ほか
に誰もやる人が、いないのです。ほんとうは私自身も、こんなに面倒くさいことはやりたくなく、遊んで
楽して暮らしていたいのですが、ほかにやる人がいなければ、五井先生に救っていただいた恩返しのため
にも、私がやるしかありません。それで仕方なく、五井先生のお仕事を引き受けたわけです。

ところで、子安さんのコメントは、以前にも何回も繰り返しお書きになった内容ではありませんか。同じ
ことを何度も書くのは、無意味ですから、新しいことを書いてくださいね。

皆様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD


何者とも争わぬ地上最強の人
No.2972 森島 恒吉    2001/04/05 (木) 23:03 富士宮
世界人類が平和でありますように

まり子さん、ありがとうございます。この3年の間、私の考えに対する、さまざまなご批判を受けては、
できるかぎりお答えしてきました。もう、私へのご批判は出尽くした、と思います。青空さんのHPに収
録した過去ログをお読みになれば、ほとんどのご批判に対するお答えが、すでに載っているはずです。

宗教とは、「一切の批判をしない」という無批判の人間を作ることではありません。悪口は言ってはいけ
ませんが、批判力は必要です。悪口と批判は、お祈りしていると、おのずと区別できるようになります。
正しい宗教と誤れる宗教の区別をつけ、誤れる宗教を批判するのは、神のみ心であるのです。但し、自分
が他人を批判するならば、他人から自分への批判も甘受しなければなりません。

この3年間、皆様のご批判にお答えしてきて、私はずいぶん磨かれました。「世界平和の祈り」は唯一無
二の最高の祈りである、という私の信念は、おかげでますます強まりました。「世界平和の祈り」は、神
のみ心にかなった、絶対に正しい祈り言であるのですから、論戦しても絶対に勝つのであり、負けること
がありません。「世界平和の祈り」は、天下無敵の絶対的な強さを持っているのです。そのことがわかり
ますと、いかなる相手に対しても、余裕のある応対ができるようになります。

「世界平和の祈り」は、他のいかなる行法よりも優れた神性開発法です。それゆえに、絶対的に強い!
「世界平和の祈り」以上に、強い光明力を持つ行法や呪法はありません。「世界平和の祈り」以上に奇蹟
を起こす力のある祈り言や行法などはありません。「世界平和の祈り」を祈っておりますと、いかなるカ
ルマにも負けない、何者にも負けない、神の絶対的な力を持てるようになるのです。何者とも争わぬ大愛
の「世界平和の祈り」を祈る人こそ、地上最強の人であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


それでよろしゅうございます。
No.2975 森島 恒吉    2001/04/08 (日) 21:31 富士宮
世界人類が平和でありますように

匿名希望さん、ご感想をありがとうございます。五井先生のご本をよくお読みのようですね。おっしゃる
通りで、「すべてが平和でありますように」という祈り方でも、よろしゅうございます。やはり同じく、
「みんなが幸せでありますように」という祈り方でもよろしいのです。ご自分の感情と心に一番納得する
祈り方でお祈りすればよいのです。要するに、どんな祈り言であっても、それが正しい祈り言であれば、
神とつながることができるのです。集団で祈る時には、一つの祈り言に統一しなければなりませんが、個
人で守護の神霊に祈る時には、自分の想念が納得できる祈り言で祈ればよいのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


五井先生は大救世主なり!
No.2981 森島 恒吉    2001/04/09 (月) 22:28 富士宮
世界人類が平和でありますように

匿名希望さんへ。
「天と地をつなぐ者」を読んで、C会を千鳥会と知る人は、1万人に一人いるか、いないか、だと思いま
す。五井先生のご本をよくお読みになっている上に、他の関連宗教団体についても、非常に詳しく研究さ
れていますね。あなたの博識に驚きました。

夜明け観音は、五井先生の神体のお働きを言い表した観音様で、救世の大光明の中心者としてお働きにな
るご本尊様でもあります。夜明け観音といいますと、多くの観音様がいらっしゃって、その中の一つの観
音様のように思われるかもしれませんが、一つの観音様が種々様々な働きをしていて、その働きによって
別の名称がそれぞれつけられているのです。

大救世主(マイトレーヤ)と夜明け観音の関係については、別の名称なので、別の守護神であるように見
えますが、実は同じ守護神であり、大救世主は、今、「世界平和の祈り」を熱心に祈る人々の祈りに応え
て人々を救い、夜明け観音のお働きをなさっているのです。すなわち、五井先生こそ、地球人類を救う大
救世主であるのです。五井先生は、大救世主なり!「世界平和の祈り」は、大救世主の教えであり、大救
世主は、「世界平和の祈りこそ、地球人類が救われる唯一の道である」と繰り返し説いているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


旅先で「世界平和の祈り」を祈りましょう
No.2984 森島 恒吉    2001/04/10 (火) 11:08 富士宮
世界人類が平和でありますように

[匿名希望さんのご質問]
五井先生は生前、飛騨の「位山」にある「天の岩戸」の前に「平和観音」像を建立されたのは、どのよう
な意味があったのでしょうか?どうして普通のピースポールではなく、わざわざ「平和観音」の像を建立
されたのか、何か深い意味があると思われます。なぜなら、位山周辺には天の岩戸や祭壇石などの巨石遺
構が多い事から、昔の人々の御霊を鎮めるためかな? と思いましたが、どうもそう簡単では無いような
気がするのです。もしもご存知でしたら、ご教授ください。
よろしくお願いいたします。PS、なお、「平和観音」像は現在撤去されています。

[お答え]
ピースポールは、五井先生が他界する寸前に、故・瀬木前理事長が発案されたもので、五井先生がまだお
元気で旅行されていた頃には、ピースポールの存在はありませんでした。飛騨の平和観音像については、
だいぶん以前のことでもあり、私の記憶にありませんが、あなたのご推測の通り、その土地にまつわる過
去の霊を供養して浄める意味があったと思います。清まった霊は、救世の大光明霊団に参加し、世界平和
のために働くようになります。

「世界平和の祈り」を祈れば、救世の大光明が世界に響いてゆく、と説かれていますから、自分の家で祈
っているだけでいいようなものですが、五井先生は各地に旅行されては、その土地で五井先生を待ってい
た霊を浄めては救いあげていました。肉体は神霊の器といわれていますが、ここにはどうしても行かねば
ならない、という神示があって、行動されていたようです。神霊の世界は、不可思議な奥深い智慧で動い
ておりますから、肉体の頭でいくら考えてもわからないことがたくさんあります。わからないのは、時期
がきていないか、知る必要がないからで、自然とわかるまで待つことです。

皆さんも、旅行したら、その土地で「世界平和の祈り」を祈っておられることと思います。これは大変良
いことで、知らぬ間に、その土地にまつわる因縁霊を浄めていることになるのです。先日もハワイの真珠
湾で「世界平和の祈り」の式典が行なわれましたが、この式典での祈りによって、戦争で亡くなった多く
の日本人とアメリカ人の魂が救われました。遺族の魂も鎮まりました。過去が浄まることによって、未来
の運命が光り輝くものとなるのです。日本国内でも外国へ行っても、旅先では「世界平和の祈り」を祈り
ましょう。そうした私達の一歩一歩の祈りが、日本を平和にし、世界を平和にしてゆくのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD