森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


他の宗教書を読む際に気をつけること
No.2203 森島 恒吉    2000/10/12 (木) 17:02 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ねこじろうさん、ご質問をありがとうございます。すぎぴいさんも、ご感想を頂戴し、ありがとうござい
ます。唯一会の仲間が増えてくるにつれて、ご質問に対して、私以外の方にもコメントしていただけるよ
うになり、うれしく、また頼もしく思います。

[ご質問]
実は、私は、「世界平和の祈り」を続けているうちに、他の宗教にも関心が出てきております。今、読みた
いと思っているのは、生長の家と出口王仁三郎さんの本です。最初はその読みたい気持ちは「消えていく
姿」だと一生懸命否定していましたが、どうしても読みたいのです。そこで、私達が他の宗教の本を読む
際に気を付けなければならない事、注意点を教えていただきたいのです。

[お答え]
他の幾つかの宗教を数十年と遍歴してきて、ようやく五井先生のみ教えにたどり着いた人は、他の宗教を
すでに知っているのですから、今さら他の宗教に関心を持つことは少ないと思います。それに対して、初
めての宗教信仰が五井先生のみ教えであった場合、「五井先生のみ教えが自分に一番適している」と直観
的に思いつつも、宗教を深く理解できるようになるにつれて、他の宗教にも関心を持つようになるのは、
誰にもあることで、「より確固とした信仰を得たい」と思うからで、後ろめたく思う必要はありません。

私も五井先生のご本をすべて読み終えた後、生長の家と大本教の本も、ほとんど読みました。五井先生の
教えは、大本教、生長の家の流れをくむ総合宗教であり、どのように変化してきたのかを知っておくこと
は、五井先生のみ教えを深く理解するのに役立つものです。特に生長の家の旧光明思想と五井先生の新光
明思想を比較することは、ぜひともなさねばならない必要なことであると思います。その上で、もう一度
五井先生のご本を読みますと、五井先生のみ教えがよくわかってくるはずです。

他の宗教の本を読む際に気をつけなければならない注意点は、(1)真理の言葉に把われないこと、
(2)因果法則に把われないこと、(3)現世利益に把われないこと、この三つです。五井先生のみ教え
は、理想に片寄らず、現実にも片寄らない、中庸の教えであるのですが、この中庸の教えが見方によって
は、中途半端な低い教えに見えてくる場合があるのです。また、「世界平和の祈り」は最大の現世利益を
授かる最善の方法であるのですが、五井先生は低俗な雰囲気の宗教になることを嫌って、真実の生き方で
ある愛、感謝、真(まこと)の行為を淡々とお説きになり、「これをやったらもうかるぞ」「今すぐに奇
蹟が現れる」「あなたも今すぐに神人の資格をとれる」「一カ月の研修で霊能者の資格を得られる」とい
うような現世利益的なお話、奇蹟的なお話、士(さむらい)商法的なお話は、ほとんどお説きになりませ
ん。それだけに、現世利益や奇蹟を宣伝したり、国家試験ではないのですが、特別な資格を伝授する、と
いう宗教が非常に魅力的に見えてくるのです。この点を気をつけなくてはなりません。

「人間は本来、神の分霊であるが、現在の人間は神の分霊そのものではなく、本心と業因縁の混合した不
完全な存在である。しかし、現在の業因縁は実在ではなく、あくまでも一時的な存在であり、未来には無
いものなのである。現在は有るが、未来には無い、その現象を一言でいえば、消えてゆく姿という言葉で
表現できる。現在から未来への時間の流れの中で、不完全な業因縁はすべて消えてゆき、それと入れ代わ
って完全な神の分霊の本心が現れてくるのである」と五井先生は説かれているのです。

ところが、「今、我は神の子であり、神そのものでもある。今、悪は無い。肉体も無い。病気も無い。不
幸も失敗も苦しみも無い。憎しみも怒りも無く、嫉妬も不満も無い。我に不可能という言葉は無い。我は
何事もなしうる完全な能力を持つ神の子なり。我が住む世界は完全調和した平和世界であり、争いも不調
和も無い。人類は皆、神の子である。今の完全円満の世界に悪人は一人もいない」という真理の言葉を唱
える宗教に初めて触れますと、非常に新鮮に感じて「これは素晴らしい!五井先生の教えよりも高い教え
だ」と思い込み、五井先生の「現在、業は存在しているが、未来へゆくにつれて消えてゆく」「未来に人
間は神の子になる」という教えが、まるで弱々しい中途半端な教えに思え、時代遅れの色あせた教えであ
る、と誤解してしまう人がいるのです。

そして、「五井先生の消えてゆく姿の教えは、昔の心境の低かった時代の人々を救うために方便的に説か
れたのである。五井先生は、早く究極の真理を説きたかったのだが、我々の心境が真理を理解できる段階
には達していなかったので、世界平和の祈りで消えてゆく姿の教えしか、説けなかったのだ。だがしかし
今は我々の心境が高まり次元が上昇したので、五井先生は、ついに究極の真理である、我は神なり、人類
は神なり、と真理を宣言する教えを我々に教え示して下さったのだ」と自分勝手に五井先生の教えをねじ
曲げて解釈する宗教者も出てきたのです。

「現在は、悪は存在するし、病気や不幸も存在している。民族紛争も戦争も存在している。現在の人間は
善人もいるが、悪人もいるし凡夫もいる。しかし、現在の悪は時間の経過につれて消えてゆくのであり、
人間は未来において神の子になるのである」という五井先生の教えと、「現在、悪は無い。病気も不幸も
無い。戦争も不調和も無い。現在、人間は完全円満な神の子である。私もあなたも人類も、現在すでに、
完全円満な神の子である。我は神なり。人類は神なり」と真理を宣言する教えを比較した場合、五井先生
の教えのほうが低くて、真理を宣言する教えのほうが高い教えである、と思ってしまう人がいるのです。

あなたは、この二つの教えのうち、どちらが高い教えであると思いますか?

真理を宣言する教えは、非常に立派で、より高い教えであるように見えますが、真実は、五井先生の教え
のほうが、より進んだ高い教えであるのです。これが五井先生の教えを理解する上において、最も重要な
鍵となるのです。それでは、なぜ五井先生の教えのほうが、真理の言葉を宣言する教えよりも、より進ん
だ高い教えであるのかを、やさしく解説しましょう。

「我は神なり。人類は神なり」という真理宣言行は、理想を早く実現させようと焦るあまり、未来の理想
を無理に現実に持ってきてしまった点に誤りがあるのです。真理をずばりと説いた点は評価できるのです
が、それが行き過ぎてしまったのです。真理の言葉を宣言した初めの頃は、真理の言葉に感激してショッ
ク的に業想念を抑え、病気が治ったり、人格が高まったり、運命がよくなったりするのですが、一時的な
効果にすぎず、真理の言葉になれてくるにしたがい、抑えていた業想念が再び噴き出してまいりまして、
効果がなくなってくるのです。所詮、嘘の宣言であるのですから、時間がたちますと嘘の化けの皮がはが
れてくるからです。

正直な人は、「我は神なり」と口先で言いながら、実際行動は、神の子のように愛の行為、感謝の行為、
真(まこと)の行為ができない自分を見るにつけ、非常に心苦しくなってまいります。自分に欠点があっ
ても、「我は神なり」と宣言してしまった以上、人に自分の欠点を正直に話すことができません。完全な
神に、欠点は無いからです。風邪をひいても、「我は神なり」と宣言してしまったのですから、「私は風
邪をひきました」とは人に言えません。完全な神が、不完全な風邪をひくわけがないからです。仕事に疲
れても、「私は疲れました」とは言えません。無限の能力を持つ神が、疲れるはずがないからです。

すると、風邪をひいても、風邪をひいたことを同じ信徒には黙っていて、こっそりと病院へ行ったりする
ようになるのです。要するに、自分のありのままを正直にさらけ出すことができなくなり、表面を取り繕
うことになるのです。同じく、真実はすべてに感謝できる心境にはなっていないのに、「私は無限の感謝
に満ちている」と嘘を言って、いかにも感謝できる人間であるかのように見せかけるのです。このように
現実には不可能なのに、真理の言葉を宣言したために、正直な気持ちを親しい友人にも言えなくなり、
「自分はなんて嘘つきなんだろう」と自分を責めさいなむようになるのです。

他方、正直でない人は、自分の魂のありかも知らずに、「我は神なり」と唱えているうちに、虚栄心が満
たされ、なんとなくその気になってゆき、さも神になったかのように、ふるまうのです。これは偽善とい
い、偽善者が神性を開発できるわけがありませんし、神になれるはずもありません。他人に対しても、真
実に相手を神の子と拝めるわけでもないのに、「あなたは神なり」と言ったり、「○○さんは神なり」と
いかにも立派そうに口に出したりするのです。相手を批判する想いを持ちながら、表面上は「○○さんは
神なり」と形式的に言ったり書いたりするのです。

また、真理の言葉を使っているうちに、だんだんと高慢になったり、相手への思いやりが欠けてくるので
す。たとえば、「お母さん、私は今、体が痛くて寝込んでいるんです」と嫁が言っても、その嫁に対して
「神の子の人間に、病気は無いのだ。無限なる能力を持つ人間に、疲れることなど無いのだ。起きること
ができる、と思えば、起きることができるのだ。今すぐ、立て!」と嫁の苦しみに少しも同情せずに、嫁
を責める姑が現れたりするのです。理想に片寄った真理の言葉は、真理を顕現させるどころか、このよう
に偽善者や冷酷な人間を生みだしてしまう危険があるのです。これが真理宣言行の非常な欠陥なのです。

「あなたの人生は、あなたの思った通りになる」「成功できると思えば、成功できるのだ」という想念の
法則(因果の法則)を利用した人生成功法は、善因善果の面だけを見ればよいのですが、どうしても悪因
悪果の面を見てしまいがちなのです。その理由は、現実は悪いことのほうが多いからです。すると「今の
自分の運命が悪いということは、私は過去世でよっぽど悪いことをしたに違いない」と自分を責めたり、
人を見ても、「ああ、あの人が、あんなみすぼらしい姿で生活しているのは、過去世で悪いことをしたか
らに違いない」と蔑んだ目で見るようになり、自他一体を観じる愛の行為から外れてしまうのです。

真理の言葉も、想念の法則論も、このように使い方によっては、恐ろしい責め道具になってしまい、地獄
のような苦しみを、自分や他人に味わわせる結果となりかねないのです。「自分も友人も、真理の言葉を
宣言したり、想念の法則論を使っていますが、自分はそんなふうに苦しんだことはないし、自分の友人た
ちも、そのように苦しんだ、という話を聞いたことがありません」と言う人がいるかもしれません。しか
し、それは真剣に、その行法をやっていないから、わからないのです。いい加減にやらずに、真剣にやれ
ばやるほど、その行法の欠陥がはっきりとわかってくるはずです。

五井先生は、真理の宣言行も、想念の法則論も、過去にさんざんやったのです。さんざんやった上で、こ
れらの行法の欠陥を悟り、この二つの行法をきっぱりと捨て、悟りへの新たな道を探究したのです。そし
て、ついに守護の神霊への全託という祈りの道を発見したのです。

「神さま、ありがとうございます」という神への全託の祈りには、理論も理屈もありません。赤ん坊が母
親に体を委ねるように、神の大愛と絶対力を信じて、神のみ心におまかせするだけです。この他力行がや
さしいようで難しいのは、目に見えず、耳にも聞こえない神秘の存在である神を信じることが、案外難し
いからです。他力行は神を信じれば救われるのですから、素直に神を信じられる直観的な人は幸いです。

しかし、何事も理屈で納得しないと実行できない知性的な人は、神への全託の祈りという行法よりも、
「他に頼らずに自己の内なる神性を生かせ」という自力論や想念の法則論のほうが惹かれやすいのです。
こうした知性派の人は、頭でいくら考えていても神の実体はつかめないのですから、神への全託行である
祈りの行に一度全身全霊で打ち込んでみて、体験的に理解するようにしたらよいのです。

神への全託の祈りとして、五井先生は私たちに「世界平和の祈り」を教えて下さっていますが、この祈り
の行は、真理の宣言行のような欠陥もなく、想念の法則論のような欠陥もありません。他力の祈りの行は
正直に生きられるので偽善者になる心配はなく、無理がないので自分を責めたり人を責めたりする欠陥も
なく、因果の法則に束縛されて、恐怖に怯えることも無いのです。

つまり、「世界平和の祈り」こそ、天の理想と地の現実を結ぶ中庸の道であり、神性を顕現する最善最良
の道であり、何も加える必要のない完全な道であるのですから、不完全な欠陥のある「真理の宣言行」や
「想念の法則による運命改善行」などを加えてはいけないのです。欠陥のある余計な行を加えてしまうの
は、それも経験となるでしょうが、「世界平和の祈り」の完全性を知らないからで、その分だけ、かえっ
て神性開発が遅れてしまうのです。

五井先生の以上の基本的な教えを、しっかりと理解しておけば、他の宗教の本をどんなに読んでも、低い
宗教団体に転落してゆくことはないでしょう。それから、これは五井先生に学んだことですが、書店で本
のタイトルだけを見ただけで嫌悪感を感じる宗教書があった場合、自分の直観にしたがい、その宗教書を
読むのはやめることです。「読んでみたい」と心から好感を感じる本を選んで読むようにすることです。
これは著者の写真の人相から、だいたい見当がつくはずです。

五井先生に、ある講師が「こんな宗教書があるんですけれど、いかがですか?」と本を見せますと、五井
先生はその本を手にした瞬間、ポーンと遠くへ放り投げてしまいました。そして、目の前の講師に、こう
お話しになったのです。

「こんな本に把われてはいけないよ。この宗教家は本物ではないし、書いてあることも、真実ではない。
せっかく君が持ってきてくれた本を、君の前で、放り投げてすまなかったが、神さまがお嫌いになって、
放り投げたんだよ」と。

宗教は、神を信じる道でありますが、何も疑いの無い、無批判の人間を作ることではありません。神への
信仰が深まれば深まるほど、真偽の区別がついてきて、批判力がついてくるものです。批判力がつきなが
ら、同時に調和力もついてきますから、攻撃的にならず、穏やかでいられるのです。「疑うな。ただ信じ
るだけでよいのだ」と批判力を失わしめる教えは、真の宗教ではありません。真の宗教であるならば、疑
っても疑っても信仰が崩れることはありません。疑われて崩れる宗教は、早く崩れたほうがよいのです。

私は、他の宗教書を読めば読むほど、いつも五井先生のみ教えの素晴らしさを改めて感じさせられます。
五井先生の「世界平和の祈り」以上の宗教の行はありません。もし、「世界平和の祈り」以上のすぐれた
祈り言や行法があったら、私に教えてもらいたいものです。「世界平和の祈り」以上に、私の魂を魅了す
る祈り言はありません。永遠の祈り言である「世界平和の祈り」に全託できる私たちは、なんという幸せ
でしょうか。他の宗教書をたまに読むたびに、私は「世界平和の祈り」につながったことに幸せを感じ、
私を導いて下さった守護霊様と五井先生に心から感謝を捧げるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


最強の人、それは「世界平和の祈り」を祈る人
No.2209 森島 恒吉    2000/10/15 (日) 09:49 富士宮
世界人類が平和でありますように

折原さん、私の講義の紹介とご感想をいただき、ありがとうございます。また、青空さんには、五井先生
のご本の中で、私がどの部分について解説したかを詳しく書き出して下さって、ありがとうございます。
青空さんのホームページをぜひ皆さんにもご覧いただきたいと思います。

私の宗教観は、白光真宏会の会員の皆さんからは特別な主張と見られるかもしれませんが、私は五井先生
のみ教えを忠実に実行しているだけでありまして、五井先生が教えて下さっていることを、素直に実行し
ているにすぎません。私の説いている教えは、五井先生のご本にすべて書いてあることなのです。したが
って、五井先生のご本をよく読んでいただければ、私の説いていることも理解できるはずなのですから、
白光真宏会の皆さんには、五井先生のご本をもっとよく読んでいただきたい、と切望するしだいです。

「世界平和の祈り」は、決して過去の遺物ではありません。五井先生の時代だけではなく、今もそして未
来も、大光明は輝いているのです。「世界平和の祈り」は、完全な行法です。なんの欠陥もありません。
「世界平和の祈り」だけをやっていさえすれば、個人は救われ、世界も救われるのです。言葉にはそれぞ
れ力があります。祈り言は、その言葉の持つ神秘的な力を最高に引き出すのです。音を組み合わせること
によって、感動するほど美しい音楽が生まれるように、言葉をうまく組み合わせることによって、人間の
霊性を共鳴させる力が生まれるのです。

「ペンは剣よりも強し」とジャーナリストが言う通り、厳しい軍事力でマスコミを統制しようとしても、
民衆の声を、軍事力でいつまでも抑えることはできません。いかなる強力な軍事政権も、いつかは民衆の
声の力によって崩れさってゆくものです。それを恐怖して軍事政権は、民衆の自由な発言を封じ込めよう
とするのです。多くの民衆の声というものは、政府や政治家にとって無視できない力であるのです。まし
て、祈り言の力は、国を動かし、世界を変えるほどの大きな力を持っているのです。

守護の神霊との通信にも、やはり言葉が必要です。「守護霊様、ありがとうございます」と守護霊に呼び
かけることによって、守護霊との通信ができるのであり、守護霊に感謝することによって、守護霊の加護
のパワーもまた強まるのです。私たちの運命をよくするには、なんといっても守護霊に導いてもらわなく
てはなりません。守護霊にしても、肉体人間を守るには大変なエネルギーが必要なのです。守護霊は、疲
れないかというと、そうではなくて、やはり守護霊も疲れるということがあって、統一して休息したり、
守護神にエネルギーを補充してもらったりしているのです。

守護霊にとって、一番疲れるのは、肉体人間が守護霊のほうに振り向いてくれない人間であり、守りたい
と思っていても、守りにくくてしかたがないのです。守護霊にとって、一番楽なのは、肉体人間が守護霊
のほうに常に向いていて、感謝していてくれる人間なのです。肉体人間に感謝されますと、不思議なこと
に守護霊は霊力が強まりまして、肉体人間を加護するパワーも増すのです。すると、その肉体人間の運命
が急速によくなってゆくのです。肉体人間が霊界にいる守護霊に感謝をしますと、その感謝の言葉が霊界
にひびいてゆきまして、守護霊はエネルギーを得て、霊界から肉体人間を助けることができるのです。

この人生で幸福になりたかったら、守護霊に感謝することが一番です。宗教とは、人間の生きるべき正し
い道を指し示してくれる場であり、正しい道を行くことによって、守護霊が加護して下さるのですが、私
たちの運命を直接よくして下さるのは、宗教教団ではなく、守護霊であるのです。その守護霊と通信する
には言葉が必要であり、祈り言によって、守護霊の加護力を最大に発揮させることができるのです。また
祈り言は、いかなる兵器をも消滅させる強い力を持っているのです。憎しみも怒りも悲しみも、祈り言の
力によって消え去るのです。「世界平和の祈り」という愛の祈り言のパワーに勝るものはないのです。

世界人類が平和でありますように
あなたが幸せでありますように

この愛の祈り言のパワーに勝てる人など、一人もいません。絶対的勝利者とは、絶対的愛の持ち主です。
なぜならば、愛に敵はないからです。この世で最強の人とは「世界平和の祈り」を祈る人であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


エミリーさんへのお答え
No.2216 森島 恒吉    2000/10/16 (月) 02:05 富士宮  
世界人類が平和でありますように

エミリーさん、私のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。また上品で穏やかな口調でご
意見を書いていただき、お礼申し上げます。ケントさん、青空さん、すぎぴいさんの助言の中には、私が
言いたいことを代わりに言って下さった部分があります。併せてお読み下されば幸いです。それでは遅筆
で遅くなりましたが、エミリーさんのご意見に、お答えさせていただきます。

[エミリーさんのご意見1]
確かに森島さんのご意見、とてもよく理解できます。でも、○○先生のみ教えに対する公然としたご批判
は、調和を旨とする五井先生のみ教えと御心にそぐわない気が致します。

[私のお答え1]
「森島さんのご意見、とてもよく理解できます」と書かれていますが、私の教えを本当に理解していただ
いたのでしょうか。私の教えを本当に理解されたのであれば、そのようなご感想はありえないのですが。

五井先生の説く真実の調和の行為とは、どんな誤った行為を見ても、逆らわずに、ただ黙って批判をしな
い、無批判の人間になること、ではありません。業想念に妥協しても、真実の調和は生まれません。誤り
を見ても、それを善である、と思おうとすることは、業想念への妥協であり、偽善であり、人類の進化を
遅らせる行為となるのです。業想念への妥協は、神のみ心に反する行為であり、五井先生のみ教えに反す
る行為でもあるのです。

そして、よくよく知っていただきたいのは、昌美先生の誤った教えを批判しているのは、五井先生であり
五井先生のみ教えである、という事実です。それは五井先生のご本を読めば、誰にもわかる明々白々の事
実なのです。五井先生のご本には、昌美先生の説いている、誤った教えに対する、烈しい批判の文章が、
所々に書いてあるからです。批判と悪口は違います。本心の愛の心で相手の業想念を浄める行為を批判と
いい、自己の業想念で相手を責める行為を悪口というのです。

あなたには、「批判してはいけない」と言いながら、私を批判している矛盾に気づいてほしい、と思いま
す。「批判しないこと」をご自身の信念とするならば、私に対しても、批判しないことです。

[エミリーさんのご意見2]
五井先生のみ教えを信奉する者であるならば、五井先生がお選びになった指導者の答案の答えは、神々さ
まのご採点に、おまかせしたほうがいいのではないか、と考えるのです。森島さんの五井先生を敬愛なさ
る真剣なお気持ちには敬意を覚えます。でも五井先生は拍手してくださるでしょうか?

[私のお答え2]
神々さまのご採点に、あなたも、おまかせして下さい。五井先生から「あなたの自由に生きなさい。自由
に生きるんだよ。なんでも自由にやっていいよ」と私は直接に承諾を得ているのです。私は、五井先生に
私の生命を全託し、五井先生は「あなたの生命は、たしかに私が貰いました」とご返事を頂戴しているの
です。私の生命は、五井先生の生命であるのです。私は五井先生に導かれるままに行動しているのです。
あなたは、今、五井先生に対して批判なさっているのです。

[エミリーさんのご意見3]
五井先生のご計画は遠大で、私達肉体人間の思考など及ぶべきもありません。ですから、○○先生のご指
導を批判なさる事は、五井先生を否定なさることになる、と思うのです。

[私のお答え3]
一口に私が「昌美先生のご指導を批判している」とお書きになっていますが、私は「世界平和の祈り」の
祈っている昌美先生を批判しているわけではありません。五井先生のみ教えに反する「想念の法則による
願望成就行」「我即神也、人類即神也の真理宣言行」を説いている昌美先生を批判しているのです。

私は、五井先生を否定してはおりません。五井先生の教えを否定しているのは、昌美先生のほうであるの
です。そこで五井先生は、昌美先生を助けようと、昌美先生の誤った教えを軌道修正するために、私を通
して、昌美先生の誤った教えを指摘し、真実のみ教えを改めて説いて下さっているのです。

[エミリーさんのご意見4]
この世の中の意識の変革の難しさと、人類の業想念の深さを想うとき、指導者である昌美先生のご使命の
大きさとご苦労が偲ばれます。いかなる理由があっても、私達の心の中に、2元対立的批判否定の想いを
住まわせる事は、五井先生が指し示して下さった絶対的光明思想に反しますし、何よりも自分の大切な本
心が輝き出ることを妨げてしまいます。

[私のお答え4]
五井先生の光明思想については、私もたびたび解説しておりますが、二元論とは「善と悪がある」という
意味ではありません。また、悪の存在を認めまいとして、悪行為を善行為と見たり、悪人を善人と見たり
嫌いな人を「好きな人」と言ったり、聖者と悪人を同一視することが、一元論ではありません。

一つの原理で説明する説を一元論といい、相異なる二つの観点から説明する説を二元論というのです。

たとえば「人間は完全円満な神の子である。悪も病気も不幸も無い」という一つの観点と、「善因善果、
悪因悪果という因縁因果の法則の中で、人間は生きているのだ。善いことを考えれば、善い人生になるが
悪いことを考えれば、悪い人生になる。あなたの人生は、あなたの思った通りになるのだ。もし、あなた
が病気や不幸で苦しんでいるならば、それはあなたの過去に犯した想念行為の結果なのだ。誰の責任でも
ない、あなたが悪いのだ。幸福な人間もいれば、不幸な人間もいる。人間は不完全な善悪混淆の存在であ
る。悪も病気も不幸も存在しているのだ」という一つの観点は、相異なる二つの観点であるのですが、こ
の二つの矛盾した観点を同時に持つ説を二元論といい、持つ人を二元論者というのです。

五井先生の教えは、「人間は本来、神の子である。業想念は今は存在するが消えてゆく姿であり、未来に
は業想念は完全に消滅し、人間は完全な神の子になる」という中庸実相一元論であるのですが、昌美先生
の教えは、五井先生のその教えに加えて、生長の家と同じく、「人間は神の子ではなく不完全な存在であ
る」という思想が根底にある現象論(想念の法則論・心の法則論)を説き、さらに加えて、「人間は神の
子、完全円満。悪も病気も不幸も無し。我は神なり、人類は神なり」という理想実現を焦るあまり、理想
に片寄り、現実を無視してしまった理想偏重実相論をも説いているのです。

つまり、昌美先生の教えは、三元論となってしまっているのです。昌美先生は、ある時は「我は神なり」
と真理の言葉を宣言するように説いたかと思うと、次の瞬間には「業想念は消えてゆく姿」と五井先生の
教えを説いたり、「あなたの運命は、あなたが作るのですよ」と業因縁の話を説いたりしているのです。
三元論なのですから、当然、矛盾したお話であるのですが、それが巧みに混ぜて使われていて、聴衆の信
徒さんたちには、薄々と矛盾しているようには感じるけれども、五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の
祈り」の教えも忘れずに説いているために、さも正しい教えであるように納得してしまうのです。

昌美先生は、五井先生の光明思想の真の意味を、残念ながら、まだ理解してはおりません。五井先生の光
明思想に反しているのは、昌美先生であり、皆さんの本心が輝き出ることを妨げているのは、昌美先生の
誤った教えであるのです。

[エミリーさんのご意見5]
2000年も残り少なくなり、五井先生率いる、救世の大光明霊団の大調和顕現のお働きも、より地上近
くあらわれ、活発化する事が期待される時となりました。ですから今こそ、森島さんのその荷を五井先生
にお預けくださいと、お願いしたいのです。

[私のお答え5]
「昌美先生への批判をやめて下さい」と私にお願いしているのでしょうが、昌美先生を批判することが、
私の目的ではありません。はっきり申し上げて、私は、昌美先生を問題視しておりませんし、相手にもし
ていないのです。私の真の目的は、五井先生の「世界平和の祈り」を人々に教えることであり、正しい宗
教と過てる宗教の違いを教えることです。私は五井先生と一体となって、今後も「世界平和の祈り」を教
えてまいります。いかなる反対念波を受けようと、私はこの信念を貫き通します。

[エミリーさんのご意見6]
救世の大光明霊団のお働きを、地上に受ける器として、この器を無私にし、使っていただく、それが本当
の五井先生へのご恩返しであり、み教えの道ではないでしょうか。

[私のお答え6]
救世の大光明霊団のお働きを、地上に受ける器として使っていただくには、「世界平和の祈り」を祈るこ
とです。想念の法則を用いて自己の欲する願望に執着したり、「我は神なり」と真理の言葉を無理に宣言
して偽善者になることではありません。「世界平和の祈り」を祈ることが、本当の五井先生へのご恩返し
であり、み教えの道であるのです。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」は神のひびき
No.2220 森島 恒吉    2000/10/16 (月) 16:34 富士宮  
世界人類が平和でありますように

折原さん、ねこじろうさん、ケントさん、温かい助言をありがとうございます。
エミリーさんからは、私宛にメールで直接ご返事をいただきました。メールの内容は公表できませんが、
皆さんの助言をお読み下さったようです。

エミリーさんは、昌美先生を愛し尊敬する熱心な信者さんで、昌美先生の講話をよく聞いている方だと思
います。五井先生のご本も読んでいるのでしょうが、昌美先生の教えを全く信じ込んでいて、昌美先生流
の解釈をしているために、五井先生の真の教えが、まだ理解できないでいるのです。

唯一会ホームページの教義や、過去ログに書いた私の法話をほとんど読まずに、昌美先生への批判箇所だ
けが目について、私を批判されたようです。私は五井先生と昌美先生の教えを比較する時、生長の家には
個人的な怨みはないし、生長の家の信者さんには申し訳ないのですが、昌美先生のお名前を出す代わりに
生長の家と比較して解説することがあります。

それはなぜかと言いますと、昌美先生の現在の教えは、生長の家(日本教文社)の書物に影響を受けてい
て、生長の家の教えと、そっくり同じであるからです。生長の家の教えにある行事を、タイトルや言い方
を変えて、「この神示は神から下ろされたものです」と発表している、と私は推測しているのです。この
事実は、生長の家の書物を読んで比較して見れば、一目瞭然なのです。

五井先生のご本を読む場合には、生長の家の教えとの違いを比較しながら勉強しますと、五井先生の教え
がよくわかってくるはずです。それでも一人で研究していては、なかなか理解できませんから、唯一会の
集会に来られて、私の解説を聴くことをお勧めします。宗教の道では、師や先達の法話を聴くということ
が一つの修行であるのです。法話を一度聴いただけでは、理解できません。理解できても、行動で実践す
ることは難しいものです。何度も聴いているうちに、だんだんとわかってまいります。

五井先生の教えを正しく解説できる講師は、現在の白光真宏会には一人もおりません。五井先生の教えを
正しく解説しているのは、私一人なのですから、私を批判する前に、私から学べるものを学んで、その上
で、昌美先生が正しいのか、私が正しいのかを、もう一度考えても、遅くはありません。私が、この世に
生きているのですから、過去世からの善因で与えられた今のチャンスを逃してはいけないのです。

唯一会のホームページを開設した頃には、私は孤立無援で、白光真宏会の会員の中で、私を批判する人が
たくさんいました。毎日、次々と入れ代わり立ち代わり、メールや掲示板で、私を批判してきたもので、
その批判に答えることは大変な労力でした。しかし、今では私の考えに賛同して下さる方が増えてきて、
グループの力を発揮できるようになり、私は非常に楽になりました。ケントさん、青空さん、折原さん、
その他の同志のメンバーに、私は大いに助けていただいております。

     世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈る楽しさ

「世界平和の祈り」を祈る時、私たちは神のみ心のひびきの中にいるのです。神のみ心と一体化した楽し
さは、なんとも言えません。「世界平和の祈り」を祈る楽しさを、あなたも会得して下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


生長の家の神示にすでにあった「世界平和の祈り」!
No.2242 森島 恒吉    2000/10/18 (水) 12:30 富士宮  
世界人類が平和でありますように

矢野靖子さん、ご質問をありがとうございます。
[ご質問]
生長の家でも「世界平和の祈り」がありますが、生長の家の「世界平和の祈り」は次元が低いのでしょう
か。同じ「世界平和の祈り」でしたら、白光真宏会や唯一会の人にも賛同できると思うのですが?
もし、違うといわれるなら、どうして優劣をつけるのでしょか。

[お答え]
生長の家には二つの祈りの行法があります。一つは真理宣言形の祈り方で、もう一つは神への対話形の祈
り方です。生長の家で用いる「世界平和の祈り」(真理宣言形)とは、以下のような言葉です。

「われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。それゆえに全人類は神に於いて完全
に平和であり、争いの心はないのである。神は全人類の父でありたまい、すべての民族を平和に護りたま
うのである。或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、その民族が幸福になれないなどということはな
いのである。この真理をさとるとき、世界に平和は来るのである。われは全人類にこの真理を放送するの
である。全人類はこの真理の念送を今受信しつつあるのである。神の愛がすべての人類に降りそそがれ、
神の平和が地上にあまねく臨む。すでにみこころは天になるが如く地にも実現したのである。今より後、
人類に戦いがあることなく、悲しみあることなく、地の万民は天の父を仰ぎみて讃歎するのである。」

この祈り方を、生長の家では「神想観」といいます。
それと共に、守護の神霊への対話形の祈り方として、「世界人類が平和でありますように」とか「世界人
類が幸福でありますように」という五井先生の説く「世界平和の祈り」と全く同じ表現の祈り言も、生長
の家(谷口雅春教祖)の本にはあるのです。これは「消えてゆく姿」という言葉と共に、神示として書か
れたのです。つまり「消えてゆく姿」という言葉も「世界人類が平和でありますように」という言葉も、
五井先生が初めて使ったのではなく、谷口雅春教祖が初めて書いた言葉であるのです。

「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という教えは、谷口教祖を通して、神霊が神示として書かせた文章で
あったのですが、残念なことに、せっかく神示として書かれながらも、その神示は厖大な宗教知識の中に
埋もれてしまい、忘れ去られてしまったのです。そして、生長の家では、神への対話形の祈り方よりも、
真理宣言形の「神想観」のほうに重点を置いて指導するようになったのです。

生長の家には、ご存じのように、たくさんの書物があります。教えを広めるためには、書物が多ければ多
いほど良いのは確かですが、生長の家の教えは、実相論、現象論、欧米から輸入されたクリスチャンサイ
エンス論などを説いているうちに、宗教のデパートと言われるように、ごちゃ混ぜになってしまい、一つ
の原理(一元論)に統一されなくなってしまったのです。そして、「人間神の子、完全円満」という実相
論と「心の法則」という現象論の二元論が残り、実相を観じる「神想観」という行法が残ったのです。

五井先生は、生長の家の講師として、生長の家の講師たちや信者さんたちの実際行動を見ているうちに、
生長の家の教えの欠陥に気がついたのです。そして、生長の家の教えにすでにあった「消えてゆく姿で世
界平和の祈り」という神示の重要性を発見し、この一つの行法だけを教えることにしたのです。このこと
により、谷口教祖に神示を授けた神霊は、五井先生へと移られたのです。

したがいまして、谷口教祖が書かれた「世界人類が平和でありますように」と、五井先生の提唱されてい
る「世界人類が平和でありますように」とは全く同じ祈り言であるのです。しかし、生長の家では、「世
界人類が平和でありますように」の祈り言は、谷口教祖のご本の片隅に記録として残っただけで、生長の
家の教団の行事として採用されることはなかったのです。これは実相論という真理を強調するあまり、真
理に把われて、守護の神霊への祈り言を軽視してしまったことによるのです。その後、生長の家の教えの
中で忘れられ埋もれてしまった「世界人類が平和でありますように」という祈り言を、五井先生は発掘さ
れ、教えの中心の祈り言として定めたのであります。

五井先生の教えと生長の家の教えの違いは、五井先生が守護の神霊への祈りである「世界平和の祈り」を
唯一の行として定めたのに対して、生長の家では、「守護の神霊への祈り言」の他に、「実相を観じる神
想観」、「心の法則論」など、余計な行法を付け加えてしまった点にあるのです。「神想観」すなわち
「真理宣言行」には、正直に生きられなくなる、偽善者になる、という非常なる欠陥があり、「心の法則
論」には、自分を責め、人を責める、という思わぬ欠陥が潜んでいるのです。そうした欠陥を、五井先生
と私は指摘して、皆さんに注意を促し、危険を警告しているのであり、「世界平和の祈りは欠陥のない完
全な祈りであるから、世界平和の祈り一本で生きたほうがいいよ」と五井先生も私も、口をそろえて説い
ているのです。「世界平和の祈り」の完全性に一日も早く気づいて下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


自然法爾(じねんほうに)
No.2245 森島 恒吉    2000/10/18 (水) 23:36 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、ありがとうございます。今日、札幌に雪が降った風景を、テレビのニュースで見ました。
これから寒くなりますね。富士宮の私の自宅も、夜は暖房をつけるようになりました。

「彼らの天命が完うされますように」と祈れるようになったことは、素晴らしいことです。この世の中に
は、好きな人もいれば、嫌いな人もいます。嫌いな人を好きになることは、そんなに簡単にできることで
はありません。心の中では嫌いなのに、顔では嫌いでないふりをして、口先で「あの人は神の子である」
と言っている宗教者がいるものですが、これを偽善行為というのです。

現在は、不完全な世界であるのですから、すべての人を無理に神の子と思おうとする必要はありません。
不完全な人間を、神の子と思えるわけがありません。好きな人は好きな人、嫌いな人は嫌いな人、と正直
に自分の想いを直視して、不完全な姿は消えてゆく姿と見て、「あの人の天命が完うされますように」と
守護の神霊に祈ってあげれば、それでよいのです。そうしておりますと、自然に自分の心に自他一体観の
愛の心が湧いてくるようになり、相手の本心も顕現されてくるのです。

現実を無視して、無理に真理(理想)を宣言する必要もなければ、想念の法則で自他を責め裁く必要もあ
りません。不完全な姿はすべて、消えてゆくのですから、自分も人も責める必要はないのです。そして、
業が消えた後には輝かしい真理が現れてくるのですから、焦って真理実現を宣言する必要もないのです。
ただただ、守護の神霊に向かって「世界平和の祈り」を祈り、すべての想いを「世界平和の祈り」の中に
投げ入れていればよいのです。後は、何もしようと思わなくても、自然法爾に真理は現れてくるのです。
真理は無為にして成されるのです。

ドクトルさん、よいお話をありがとうございました。
MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」によって世界は平和になります
No.2254 森島 恒吉    2000/10/22 (日) 00:00 富士宮  
世界人類が平和でありますように

真さん、真摯なご質問をありがとうございます。
[ご質問1]
祈りが個人の救済になることはあっても、世界人類の救済になり得るのでしょうか?
祈りで世界人類は平和になるでしょうか?

[お答え1]
「世界平和の祈りは、個人の救済と同時に世界人類の救済になり得る」
「世界平和の祈りで、世界人類は平和になる」
と私は確言します。

個人で祈るのは基本ですが、「世界平和の祈り」は集団で祈る場合にも、ふさわしい祈り言です。現在、
「世界平和の祈り」が、いかに世界に広がっているか、を知るには、五井平和財団発行の機関誌「平和の
創造」をご覧になれば、よくおわかりいただけると思います。

もっと知りたければ、五井平和財団主催の1万人の平和集会に参加するとか、アメリカのアメニアで開催
される1万人以上の大規模な平和集会に参加して、「世界平和の祈り」を一緒に祈ってみることです。
「世界平和の祈りによって、世界は平和になる」という実感をつかめるはずです。若いのですから、机の
上で空想していないで、自分の足で歩き自分の目で「祈りによる世界平和運動」の活動を見ることです。

[ご質問2]
世界に平和が訪れるとして、どういったプロセスを経て達成されるでしょうか?

[お答え2]
次のようなプロセスで、世界は平和になります。

(1)「祈りによる世界平和運動」の書物が世界各国の言語に翻訳されて出版される。
(2)世界各地の市民の間で「祈りによる世界平和運動」が実行される。
(3)国連および世界の国の公の機関が、「祈りによる世界平和運動」を実行する。
(4)「世界平和の祈り」が世界のテレビ・ラジオで常に放送されるようになる。
(5)世界の宗教者が「世界平和の祈り」を合言葉に定めるようになる。
(6)怒りや争いの想いが消え去り、世界の人々の心が平和になる。
(7)医学が発達し、すべての病気を治癒したり、予防することができるようになる。
(8)世界各国から、核兵器をはじめとする軍事兵器が廃棄される。
(9)世界人類が神性を顕現し、神の子の姿を現わす。
(10)日本が平和になり、世界が平和になる。

[ご質問3]
いつまでに、世界は平和になりますか?

[お答え3]
はっきりと答えることはできませんが、私は西暦3000年を世界平和実現の期日として努力しております。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


私が白光真宏会から出て行かない訳
No.2276 森島 恒吉    2000/10/25 (水) 22:42 富士宮  
世界人類が平和でありますように

匿名さん、ご質問をありがとうございます。私の代わりに唯一会会員の方が答えて下さいましたが、その
素晴らしいお答えに感動しておりました。答えているご本人は知らないでしょうが、守護の神霊からひび
いてくる声を受け取って書いているのです。何も付け加えることはないのですが、私の答えを求めている
方もいるようなので、私なりにお答えしておきましょう。

[匿名Aさんのご質問]
森島さんは白光真宏会の昌美さんのことを批判し、ご自分こそが「五井先生の後継者である」と公言して
憚らないにもかかわらず、どうして白光真宏会を出ていかれないのですか? 企業でも一社員がその経営
者の指針についていけないと、その企業を去り独立して、自分が一番よいと思う、独自の道を歩むと思う
のですが? それができないで経営者を批判することは、その企業にとっては不純分子であるのと同様、
白光宏会の会員でありながら、その会を批判することは、白光真宏会及び会長さんにとっては迷惑三昧で
あるのですが。。。。白光真宏会の会員でありながら、そのようなことをするのは、五井先生の後継者と
しての自覚と確信が足りない不甲斐ない態度としか思えないのです? その矛盾に気が付かないのです
か? 五井先生自身がかつては、谷口先生の教えを請いながら、その中で谷口雅春先生に疑問を持たれた
とき、生長の家の講師や会員でとどまりながらも、谷口先生や生長の家を批判されたでしょうか?

[匿名Aさんへのお答え]
同じようなご質問が、過去にも何度かありまして、一言で簡単に答えられない問題のために、幾つかに分
けて、過去ログに事情を書いた記憶があります。過去ログを最初から丹念に読まれているならば、そのよ
うなご質問は出てこないと思いますが、また改めてお答えします。

結論から申しましょう。「白光真宏会の会員でもないのに白光真宏会のことを批判する資格は無い」と白
光真宏会の冨田理事の発言がありました。白光真宏会を批判するには、白光真宏会の会員であることが、
白光真宏会側が定めた条件なのです。白光真宏会の会員でもない人間が、何を進言しても、白光真宏会は
聴く耳は持っておりません。白光真宏会の会員であってこそ、白光真宏会を批判する資格があるのです。

私たちは、五井先生のご本をテキストに勉強しており、五井先生のみ教えを行じているのですから、私た
ちは、もっとも白光真宏会の会員らしい会員であるのです。五井先生の教えに反する教えを説いているの
は、昌美先生のほうであり、五井先生の教えに矛盾する教えを説きたいならば、昌美先生が白光真宏会を
出て、新たに昌美先生教団をお作りになったらよいのです。

また、私は白光真宏会の講師ではありません。白光真宏会の支部集会の責任者でもありません。もし、私
が白光真宏会の職員か講師であったら、自己の地位を守るために、誤りを知っていても、知らぬふりをし
て、白光真宏会を批判しないかもしれません。しかし幸いなことに、私は職員でもなく、講師でもなく、
支部集会の責任者でもありません。私は白光真宏会の方針に束縛されない、自由な立場にいるのです。
そして尚、白光真宏会にご迷惑をかけまいと、白光真宏会とは別の独立したグループである唯一会を作り
自由に発言しているのです。

以上で、お答えは終わりですが、もっと詳しく知りたい方のために、私の事情を書いておくことにいたし
ます。私は、白光真宏会を愛しており、昌美先生を愛しているのです。幼い心境の人のように憎くて批判
しているのではありません。「白光真宏会をよくしたい」と思って、白光真宏会に対して愛の心から進言
しているのです。不平不満から会社の悪口を言っている人間と同一視されることは、心外です。

自民党の議員が、自民党執行部を批判するのは、自由であり、健全なあり方です。自民党を批判したから
といって、自民党議員を自民党から次々と追い出していったら、それは自由民主主義とはいえません。批
判を許さない体制こそ、横暴なファシズムであり、不健全な姿です。会社でも社外のマスコミから批判を
甘んじて受け、株主からの批判をじっくりと聞き、社内の社員からの批判を受け入れて、改善しようと努
めることで健全な経営ができるのであり、昔の封建社会か独裁主義のように、批判を抑えることをしてい
たら、会社は発展せずに潰れてしまいます。

白光真宏会の機関誌には、白光真宏会への批判文は一切削除されて、載せません。それに対して、唯一会
は、みずからの掲示板に唯一会への批判文を堂々と載せています。いったい、どちらが排他的で、どちら
が寛容でしょうか。唯一会に対して「批判をやめろ」と言う前に、白光真宏会に対して「批判を聞き入れ
るべきだ」と提言するべきなのです。唯一会は、五井先生のみ教えを正しく行じており、「世界平和の祈
り」は間違っておりません。どんなに批判されても、永遠の真理である「世界平和の祈り」は崩れること
はないのですから、私たちは「批判をするな」と相手の自由な発言を抑えることはしません。

私から批判をされたら、「これこれ、こういう理由で、我即神也の真理宣言行は、世界平和の祈りよりも
優れているのだ」と納得のいくように説いてくれたらよいではありませんか。それをただ、「批判をする
な」と、相手の口をふさぐような行為をするのは、自分勝手な暴力でしかありません。私が批判している
点は、五井先生の教えと昌美先生の教えの相違点であって、昌美先生の悪口をいたずらに言っているわけ
ではないのです。「我即神也」が「世界平和の祈り」よりもいかに優れているかを、私の納得のいくよう
に解説することが、昌美先生を信じる人のやるべき仕事でしょう。

「世界平和の祈り」一念の生き方を教えることが、私の主な目的であり、そのために正しい宗教と過てる
宗教を比較しているにすぎないのです。つまり、昌美先生の教えの誤りを批判することが、主な目的では
なく、「世界平和の祈り」一念の生き方が正しいのである、と主張しているのです。そして、二度と誤っ
てはいけないと、過てる信仰についての例を書き記しているのです。

批判と悪口は違うのであり、会社の不平不満や悪口をかげで言ってばかりいて、会社を改善し向上させる
気持ちが少しもない人間が、会社にとって迷惑なのは当然なことです。会社の不平不満ばかり言っている
人間と、会社の誤りや欠陥を指摘して、愛の心から改善しようとまじめに努力している人間を、一緒にす
ることは、おかしなことなのです。味噌もくそも一緒にするように、批判と悪口を同じものと思ってはい
けません。批判と悪口の区別をつけなくてはなりません。正しき批判は、業を浄める働きをするのであ
り、悪口は業から出た行為です。宗教とは人々の批判力を失わしめて、無批判の人間を作るものではあり
ません。また、真の宗教指導者ならば、自らへの批判に答えるべきであり、無視したり、逃げるべきでは
ありません。

これまで私がどのように行動してきたかを、時系列にして記してみましょう。
当初(1990年頃)は、昌美先生に対して、「光明思想徹底行」の教えの誤りをひそかに進言して、軌道修
正を願ったのです。すると、「世界平和の祈りだけを実行する生き方でもよい」というお答えが、当時の
白光誌の法話に載りまして、それまでの「世界平和の祈り」を否定せんばかりの文章が、当時の行法に加
えて「世界平和の祈り」が併用される形式となったのです。

それからしばらく様子を見ていたのですが、私の指摘は理解されないままに、「真理宣言行」、「想念の
法則を用いた願望成就行」が説かれるようになりました。それでも、「世界平和の祈り」だけを祈る「統
一会」の行事は、聖ヶ丘道場において、行われていたのです。そこで私は、黙って見守っていたのです。

ところが、それから数年たち、聖ヶ丘道場における行事から「世界平和の祈り」だけを祈る行事である
「統一会」が消えた時、私は白光真宏会の瀬木理事長(当時)へ「世界平和の祈りの本部である聖ヶ丘道
場で、五井先生のみ教えの伝統である『世界平和の祈り』の行事がなくなっては困ります。ぜひとも、
『世界平和の祈り』だけの統一会の行事を本部でつづけて下さい」と懇願したのです。この内容を認めた
お手紙を島田重光長老に託して、島田長老から瀬木理事長私へ渡してもらうことになっていたのですが、
瀬木理事長はご病気のため聖ヶ丘道場に来られなくなり、瀬木理事長のご自宅へ、直接お手紙を送ったの
です。しかし、結果的に私の進言は理解されませんでした。

さあ、こうなったら、しかたがありません。できれば昌美先生に「世界平和の祈り」の中心者として立っ
ていただき、私は静かに引っ込むつもりでしたが、昌美先生もやらない。白光真宏会本部もやらない。誰
もやらないのであれば、私が五井先生のみ教えを守り、「世界平和の祈り」一念の生き方を教えるほか、
ありません。誰もやらないのでしかたなく、私が「世界平和の祈り」の中心者としてやってゆくことを神
様から引き受けたのです。私以外の適当な人が現れれば、私は、いつでもその人にお渡しします。しかし
昌美先生も、白光真宏会も、「世界平和の祈り」をやる気がないのですから、今日まで私が「世界平和の
祈り」の中心者として、ずっと続けてやっているのです。

昌美先生は、「我即神也」の提唱者であり、「世界平和の祈り」の後継者ではありません。五井平和財団
には「世界平和の祈り」はありますが、「守護の神霊への感謝の行」は省略されています。現在の白光真
宏会においては、「世界平和の祈り」の単独行事はありません。五井先生のみ教えである「世界平和の祈
り」だけの統一会は、昌美先生の代になって、白光真宏会の行事から消滅したのです。「五井先生のみ教
えの後継者である」とおっしゃるならば、五井先生のみ教えである唯一の行「世界平和の祈り」をやるべ
きではありませんか。「世界平和の祈り」の完全性を信じないで、何かの行法を付け加えなくては不安で
ある、というのでは、教団組織を継承しても、五井先生のみ教えを継承したことにはなりません。

五井先生のオーソドックスな「世界平和の祈り」を今も守り続けている私は、自分で言うのはおこがまし
いかもしれませんが、文句を言われるどころか、「五井先生のみ教えをよくぞ守って下さいました」と皆
さんから感謝されるべき立場であると思うのです。「世界平和の祈り」を提唱している私に文句があるな
らば、白光真宏会でも「世界平和の祈り」を単独の行事としてやったらいかがでしょうか。現在、「世界
平和の祈り」を単独の行事として行っているのは、唯一会だけなのです。

私の批判を、「白光真宏会や昌美先生にとって迷惑だ」と思うのは、思慮が足りないからで、迷惑にはな
りません。それどころか、いずれは白光真宏会や昌美先生から「ご批判いただき、ありがとうございまし
た」と感謝されることになるでしょう。いつか私の主張が正しかったことが、証明される時代が必ずやっ
てきます。皆さんが「世界平和の祈り」を正しく理解できるようになる日まで、「世界平和の祈り」を広
める先駆けとして、私たちは祈り続けているのです。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」は「真理宣言行」よりも優れた行である!
No.2277 森島 恒吉    2000/10/25 (水) 22:55 富士宮  
世界人類が平和でありますように

[匿名Bさんのご質問1]
森島先生に、これはやめたほうがいいのではないか、ということを単刀直入に言わせていただきます。…
(以下、省略)
[お答え1]
ご指摘の三点は、確かに伺いました。私の話に納得できない人は、無理に納得する必要はありません。私
の話を信じたくない人は、信じなければ、それでよろしいのです。唯一会の掲示板は、白光真宏会の掲示
板ではありません。昌美先生を信仰し尊敬している信者さんは、昌美先生を信仰し尊敬しているホームペ
ージをご覧になり、ご自由に発言なさっていればよいので、唯一会の掲示板を読む必要がありません。私
は、他の掲示板に出かけていって、「そんな発言は、おやめになったほうがいいのではありませんか」と
いう余計なお節介は申しません。別の掲示板で、私に対する批判を書きたければ、ご遠慮なくご自由に書
いて下さい。では、三点について、ご回答しておきましょう。

「大光明霊団が私に移った」というのは、「世界平和の祈り」を祈るところに救世の大光明霊団が働き、
大光明を輝かすのですから、「世界平和の祈り」の完全性を信じないで、雑行をしている人から、大光明
霊団が離れ、「世界平和の祈り」を唯一の行としている私に、大光明霊団が移るのは<自然なことです。
しかし、これは前にも書きましたように、信じたくない人は、信じる必要はありません。

「自分が五井先生の後継者である」との発言については、誤解されては困りますから、改めて書いておき
ます。白光真宏会の二代目後継者は、昌美先生です。それは五井先生が生前から定めていたものです。私
は、白光真宏会という組織としての後継者ではありません。私は、五井先生のみ教えを守り、「世界平和
の祈り」を守っていると言っているのです。その意味で、私は五井先生のみ教えを継承し、「世界平和の
祈り」を継承していると申し上げているのです。

五井先生のみ教えの後継者でありたければ、「我即神也」とか「願望成就行」など、五井先生のみ教えに
反した教えを説くべきではありません。現在の昌美先生の教えは、昌美先生独自の昌美先生教であって、
五井先生教ではありません。五井先生のみ教えである「世界平和の祈り」一念の生き方を継承しているの
は、私たちであるのです。「私は五井先生の後継者である」と主張するならば、「世界平和の祈り」以外
の行法を捨て、「世界平和の祈り」に全託することです。

「昌美先生の指導方針である『真理宣言行』よりも、『世界平和の祈り』のほうが優れた行である」との
発言については、撤回するつもりはございません。「世界平和の祈り」は「真理宣言行」よりも優れた行
法です。しかし、信仰はご自由ですから、「真理宣言行」が「世界平和の祈り」よりも優れていると信じ
ている人は、そのままその信仰をお続けになったらよろしいでしょう。いつかは、ご自分の誤りに気づく
ときがくるでしょう。

[ご質問2]
いくら批判されたところで、昌美先生がその指導方針を変えることがあるでしょうか?

[お答え2]
昌美先生は、いずれご自分の教えの誤りに気づく時がくるでしょう。そして、深い後悔の中で五井先生に
対して懺悔の涙を流されることになるでしょう。しかし、今すぐではありません。今生では、気づかない
かもしれません。霊界に行って、五井先生から真実を教えられることになると思います。しかし、私とし
ては、今生のうちに、なんとか真理に目覚めていただきたい、と努力しております。

[ご質問3]
昌美先生を本当の五井先生の後継者だと信じてついていっている信者さんの気持ちは?

[お答え3]
昌美先生を信じている人は、唯一会の掲示板には来ないと思いますが、昌美先生を「本当の後継者だ」と
信じてついていって下さい。私は、何よりも「信仰の自由」を尊重いたします。

[ご質問4]
唯一会の掲示板で、森島先生を非難されていたら、唯一会の会員の皆さん、会員ではなくとも、森島先生
を尊敬している皆さんはどう思われますでしょうか? 少なくとも、いい気分はしないと思います。

[お答え4]
私を非難したい人は、ご遠慮なく非難して下さい。私に非があれば、その誤りを改めます。私の主張のど
こが間違っているのでしょうか。私に誤りがあれば、どんどん指摘して下さい。私は、喜んで自分の誤り
を直します。非難されることを怖がっていて、「世界平和の祈り」を広めることなどできません。

「世界平和の祈り」は正しいのですし、私の主張も間違ってはいません。私は神のみ心のままに行動して
いるのです。「世界平和の祈り」は絶対に正しく、絶対に強いのです。「世界人類が平和でありますよう
に」の祈り言を非難する人は、よほど頭が狂っている人であって常識的な人で非難する人はおりません。
したがって、私に敵はありません。今こそ、「世界平和の祈り」を広める勇気を出す時なのです。

[ご質問5]
森島先生の過去ログなどを見ると、昌美先生を慕う方々の感情を害する発言があるのではないか、と思わ
ざるを得ません。

[お答え5]
誰よりも私は、昌美先生を慕っています。それは過去ログを読めば、わかるはずです。昌美先生を慕って
いるならば、昌美先生の教えの誤りを勇気をもって進言することこそ、真の愛ではありませんか。昌美先
生の教えの誤りに気づくことなく、五井先生のご本もろくに読まないで、自分の感情を害された、といっ
て怒るような、そんなちっぽけな人間は、相手にする気にもなりません。

[ご質問6]
どうか、森島先生、唯一会の皆さん、昌美先生を五井先生と同じ位に尊敬されている人達もいらっしゃる
のだという事を、忘れずにいただきたいのです。

[お答え6]
昌美先生を私も尊敬しているから、私は「昌美さん」と言わずに「昌美先生」とお呼びしているのです。
私は昌美先生の人格をけなしているわけではありません。昌美先生の提唱されている「光明思想徹底行」
「我即神也・人類即神也の真理宣言行」「想念法則による願望成就行」などは、五井先生のみ教えに全く
反した邪教であり誤りである、と私は指摘しているのです。「世界平和の祈り」は、昌美先生の提唱され
ている、どの行法よりも、比べものにならないくらい、はるかにはるかに優れた行法であるのです。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD