森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


「世界平和の祈り」と念仏
No.2108 森島恒吉    2000/09/11 (月) 02:46 富士宮市
世界人類が平和でありますように

姫華さんのご質問にお答えします。
[ご質問]
「世界平和の祈り」と唱名念仏と同格と考えてよいのでしょうか?

[お答え]
「五井先生、五井先生」と呼んで、神霊の五井先生に統一してゆく称名方法と、「世界平和の祈り」は、
もちろん同格です。「世界人類が平和でありますように」と祈っている時、表面意識として意識はしてい
なくとも、五井先生を呼んでいることになり、五井先生に感謝していることになるのです。また、浄土宗
系のように「南無阿弥陀仏」という念仏も、これは「阿弥陀仏さまに帰一します」という意味なのですが
唱えつづけておりますと、実在する阿弥陀仏の心に通じて、阿弥陀仏と一体化してまいります。

「世界平和の祈り」を中心に神集いした救世の大光明霊団の中には、阿弥陀仏もおわしますから、阿弥陀
仏の心と一体になれば、「世界平和の祈り」と同じ心境になります。また「イエス様、イエス様」とキリ
ストを慕い呼びつづけてゆけば、やはりイエスと一体化できます。ですから個人の祈り方としては、どち
らでも、お好きな方法でおやりになればよいのです。そして、自己が実際に阿弥陀仏と一体になり、イエ
スと一体になりますと、その瞬間に「世界平和の祈り」を広める天命を授かることになっているのです。

五井先生は、「神様、ありがとうございます」という平易な一言の祈り言に想念を統一し、ついに神我一
体化をなし遂げたのでありますが、その境地に到達しますと新たに「世界人類が平和でありますように」
という「世界平和の祈り」を広める天命を、神から授けられたのです。現代においては、真実に神我一体
になりますと、一人の例外もなく「世界平和の祈り」を祈り始めるようになるのです。それは現代におい
ては、「世界平和の祈り」が最もふさわしい祈り言であり、釈尊もイエスも老子もその他の聖者も、神界
の神々は皆「世界平和の祈り」を勧めているからです。

「世界平和の祈り」と念仏とは同じ原理であり、念仏も個人だけの救われに止まらないのですが、なんと
申しましても、「南無阿弥陀仏」という表現がいかにも古く、鎌倉時代にはふさわしかった念仏も、現代
人の意識には、だんだんと合わなくなってきているのです。よほど深い宗教縁がある若者以外には、「南
無阿弥陀仏」を毎日唱えている若者は、少なくなってきているのではないか、と思います。古い伝統があ
り、そのため多くの人々に信頼されてはいるのですが、日常生活の中で「南無阿弥陀仏」を常に唱えてい
る人は、専門の僧侶か、宗教心の深まったご老人くらいなものでしょう。昔は栄えた山村の寺が、しだい
に廃れてゆくのは、祈り言の古い時代表現が原因であるのです。

それに対して、「世界平和の祈り」は子供にでも理解できる現代語で書かれており、個人人類同時成道の
祈り言でありますから、世界と自己とのつながりが密接になり、世界平和を強く願うようになった現代に
ふさわしい祈り言といえます。目的や内容は同じであっても、鎌倉時代の念仏よりも「世界平和の祈り」
のほうが現代人には理解しやすいのです。しかも、「世界平和の祈り」は、その発音に把われずに、世界
中の各国の言語に翻訳できます。外国語の祈り言をそのまま唱えるよりも、自国の言語に翻訳して唱える
ことのできる祈り言のほうが、理解者が多くなり、その祈り言を唱える人が増えるのは当然です。

それでは、「世界平和の祈り」もまた、五百年後には古い表現の祈り言になってしまうのでしょうか。そ
れは、否と言えます。現代の日本語は、明治、大正、昭和、平成と少しずつ変遷しておりますが、昭和の
時代に、漢字とひらがなまじりの現代日本語の表記が確立し、言葉の乱れはあっても、今日まで基本的な
日本語文法はほとんど変化してはおりません。五百年後の日本も、外国語の使用頻度は高くなるでしょう
が、現在の日本語とほぼ同じ日本語を話しているはずですから、「世界人類が平和でありますように」と
いう祈り言は、いささかも時代遅れの表現とはなりません。「世界平和の祈り」は、現代にふさわしい祈
り言であるばかりでなく、遠い未来においても、少しも古びたりせず、その輝きを失わないのです。

「世界平和の祈り」と念仏は、その原理や内容は同格とはいえ、「世界平和の祈り」が鎌倉時代に現れて
も、世界との国交がほとんどなかった時代のことですから、宝の持ち腐れとなって、その価値は発揮でき
なかったでしょうし、科学の発達した現代において、西方極楽浄土に住む阿弥陀仏の存在を説いても、素
直に信じる人は少ないでしょう。現代においては、現代の祈り言、「世界平和の祈り」が最もふさわしい
のです。そうした時代背景を考慮すれば、今は「世界平和の祈り」は念仏とは同格ではなく、念仏以上の
祈り言である、といえます。「世界平和の祈り」は、現代という時代に最も適した祈り言であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


宗教教団を加護する神霊について
No.2111 森島恒吉    2000/09/12 (火) 02:21 富士宮市
世界人類が平和でありますように

姫華さんは、よく勉強なさっていますね。姫華さんのご質問にお答えしましょう。
[ご質問]
過去のログで、「谷口雅春教祖を守っていた神々が、その教えが、谷口教祖自身が使い切れなくなったと
判断された時点で、神霊たちが五井先生に移ってしまった。」とあったと思います。(表現、文脈は少し
違うかも知れませんが)この場合、やはり当初、谷口教祖を守っていた正守護霊をはじめ、神々の「交代
劇」があったことになるのではと思いますが。このことは、現在の白光の会長様である昌美先生の例にも
当てはまると思うのですが。

[お答え]
個人を守る正守護霊は、その被守護体を専属で一生守りつづけてゆく存在ですから、途中で離れることは
ありません。守護の神霊には、個人を守る守護霊のほかに、皇室を守る神霊、会社を守る神霊、国の政治
を守る神霊、経済を守る神霊、健康を守る神霊、芸術を守る神霊、国を警護する神霊、星々の調和を守る
神霊等、各分野で専門集団となって働いている守護の神霊が存在するのです。そして、宗教教団にも、そ
の信仰の対象となるご本尊、宗祖、教祖に縁の深い神霊集団が加護しているのです。この宗教教団を守る
神霊は、個人を守っているのではなく、宗教を広める役目を持った神霊ですから、神々の器となりやすい
人間を見つけると、その人間を加護し、その人間を通して働かれるわけです。

ところが、神霊の加護を受け、教祖の立場に立っても、過去世からの業因縁から完全に解脱しておりませ
んと、様々な試練を受けて、途中で本道から外れて迷ってしまうことがあります。霊媒のように霊界から
の声を敏感に感じる程度の人が教祖になった場合、大悟したわけではないのですから、途中で迷うことも
あるのです。釈尊やイエスのような聖者は、大悟して教祖の立場に立ったのですから、霊媒や霊能力者と
は違い、途中で正しい道から外れる、ということはありません。

宗教教団を守っている神霊は、教祖や代表者に対して、懸命になって正しい道に戻るように働かれるので
すが、いつまでたっても教祖や代表者が反省せずに行為を改めない場合、その教団を守っていた神霊は、
パッとその教祖や代表者から離れて、正しい教えを説く人間を加護することになるのです。そこには肉体
人間のような義理や人情はありません。「この人間は神の教えを説く器としてふさわしくない」と判断す
れば、厳しく突き放してしまうのです。神霊にとっては、真実の教えを説く器こそが必要なのであります
から、真実の教えを説けなくなると見るや、その教祖や代表者からサーッと離れてしまうのです。

ご質問にあったように、宗教教団である「生長の家」を守っていた守護の神霊は、谷口教祖が「人間神の
子完全円満論」だけを説いていた頃は、しっかりと加護していたのですが、欧米の思想書の影響を受けて
「心の法則論」を持ち出し、二元論を説くようになり、宗教の本質を逸脱するようになってからは、実相
論を正しく継承した五井先生に移ってしまったのです。そして、五井先生ご帰神後の現在は、「世界平和
の祈り」を伝えている私に、白光真宏会の教団を守っていた神霊と、救世の大光明霊団の神霊方が、共に
移ってこられて、私と一体になって働かれているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


祈りと念力の違いについて
No.2116 森島恒吉    2000/09/15 (金) 01:59 富士宮市
世界人類が平和でありますように

kazuakiさん、ご質問をありがとうございます。

[kazuakiさんのご質問1]
願望をかなえる為に、それを繰りかえし強く思い描く、あるいは繰り返し願うと、願望がかなう、という
本やテープなどが売られていますが、潜在意識を活用するということですが、こういう方法は、低級な波
長と感応してしまうものでしょうか。潜在意識に願望を植え付ける行為が、低級なものと、必ずしも同じ
ものでしょうか。ただ、その人が抱く願望が、必ずしもその人にとって正しいものか、本人もその時点で
分かってない場合が往々にしてある、と思います。例えば、この人と結婚したいとか、この会社に就職し
たい、と願望があっても、それが実現しないほうが、その人のためということもある、と思うのです。

[お答え1]
宗教者の中には、宗教の祈りと、潜在意識を活用して願望を成就させる念力行為とを、同じレベルにおい
て、いいかえればミックスして説いている宗教者が、かなり多いのです。このような宗教者は、本物の宗
教者ではなく、祈りと念力の区別がついていないのですから、ベストセラーだからといって、その本に書
いてあることを丸ごと鵜呑みにしてはいけないのです。

潜在意識というのは、幽体に記録された想念意識のことであり、念力の教えは、三界の想念波動の渦の中
での幸、不幸や、成功、失敗を問題にしているのですが、真実の宗教とは、その三界の波動圏からもっと
上の層の光明世界に解脱する方法を教えているのです。「私は幸福になった」と言い、「私は成功した」
と言っても、それは低い三界の波動圏の中での一時的な成功でありまして、真実に永遠の安心を得たわけ
ではないのです。「潜在意識を活用して人生に成功する」という教えには、守護霊の話は出てきません。
なぜならば、三界の想念の法則だけを説いているからです。神も仏も書いてありませんから、迷信くさく
なく、知性的な人には、あるいは自分を知性的に見せたい人には、非常に納得できる教えであるのです。

宗教の祈りとは、潜在意識に願望を植えつける行為ではなく、潜在意識にあるすべての自我欲望想念を無
くしてしまう行為なのです。ところが、「何も考えなくては、行動できるはずがないではないか」「何も
思わずに、成功できるわけがない」「何かを念じてこそ、成功できるのだ」という固定観念があるために
宗教でいう「空の世界」に飛びこむことができないのです。ところが真実は、「何も思わずして行動でき
何も思わずして成功する」「為さずして成る」という常識では思いつかない「空の境地」があるのです。
そして、その境地を会得するために、三界と神霊界を自由に行き来できる守護の神霊に祈るのです。

守護の神霊に、自己の天命の完うを祈っていさえすれば、天命を完うするために必要なすべてのものは、
守護の神霊がとっくにご存じであるのですから、一つ一つ願い事を紙に書き出して念じる必要は、まるで
無いのです。そんな念力を使いますと、かえって、それが業想念になりまして、守護の神霊が与えて下さ
ろうとしている天命を邪魔する結果になってしまうのです。といって、現世利益を願わない人はいないで
しょうから、願い事があったら、自己の念力で得ようとしないで、「神様のみ心ならば、これを与えて下
さい。しかし、神様のみ心でないならば、いりません。私の天命が完うされますように」と守護の神霊へ
の祈り心に転換してしまうとよいのです。そのように祈りますと、守護の神霊のみ心の中で自己の願望が
浄められて、天命が完うされるために必要なものが与えられるようになるのです。

具体的にいえば、結婚する場合には、「私は誰々さんと結婚する」と念力的に思わないで、「守護霊様、
み心ならば、誰々さんと結婚できますようにお導き下さい」と守護の神霊の判断に一度委ねてしまうので
す。そして、どういう結果になろうと、それは守護霊様の判断の結果と信じて、感謝するのです。「この
会社に就職したい」と思う場合にも、念力で「私はこの会社に就職するのだ、必ず就職できる、できる、
できる…」と念じることをしないで、「守護霊様、どうかみ心ならば、この会社に就職させて下さい。私
の天命を完うせしめたまえ」と祈り、結果を守護霊様に委ねるのです。このような生き方が、守護の神霊
に素直な生き方というのであり、幸福な人生への近道であるのです。

[kazuakiさんのご質問2]
たま出版から出ているある本を愛読しているのですが(キリスト教が基盤)、この本は他の願望達成本と
違うのは、祈り(願い)は<人はつねに神から与えられた権利により、自分のものとされたもののみ、要
求しなければならない>そして個人的意志により実現化をしいられたものは、<不当に得たものであり永
遠に間違った成功>だと。この本は、言葉や祈りにパワーが有ることを説いて、だからこそ正しくおこな
われない場合の危険性も教えてくれています。個々の祈り(願い)の場合、必ず<神から与えられた権利
により自分のものとされた>の言葉をつけます。戦前からアメリカで読み続けられており、宗教団体では
ありません。この方法について、ご意見をお聴きしたいのです。

[お答え2]
個々の祈りの場合、「神から与えられた権利により、自分のものとされた」の言葉をつけたとしても、自
分勝手に「これは神から与えられた自分の権利だ」と正当化したにすぎず、我欲の念力行為でありまして
真の祈りではありません。「人は常に神から与えられた権利により、自分のものとされたもののみ、要求
しなければならない」とその著者は説いているようですが、「神は自己に必要なものを与えて下さる」と
信じているならば、なぜ、わざわざ要求するのでしょうか。矛盾を感じさせます。

この本もまた、「念じなければ、得られるはずがない」という固定観念に縛られていて、その固定観念か
ら抜け出ていないから、「要求しなければならない」という言葉が出てくるのです。このような著者は、
祈りというものを、肉体頭脳の知識で考えておりまして、神との真実の交流がなく、祈りと念力の区別が
つかないでいるのです。祈りとは、自我欲望を捨て去る道であり、自我欲望を神のみ心の中に入れきった
時、忽然として神の力が現れてくるのです。「神様のみ心のままになさしめたまえ」と神に祈ったら、神
に全託してしまうことが大事であり、よけいな自力の想いを出してはいけないのです。

[kazuakiさんのご質問3]
<世界人類が平和でありますように> の祈りですが、個々の祈り(願い)をしなくても、守護霊様は、
守っている人が、今何を悩んでいるのか、何が不足しているか、ご存知のはずですから、<この人と結婚
したい>とか、<この会社に就職したい>と祈らずとも、<世界人類が平和でありますように>の祈りを
続けていれば、自然と良き方向に導かれるのでは? まぁしかし、人はどうしても、個々の祈りをしたく
なるもので、私もいま解決したいことを祈っていますが。

[お答え3]
ことさらに個人的願望の祈りをしなくとも、「世界人類が平和でありますように」と祈っているだけで、
個人の天命を完うするために必要なものや環境は、神から与えられるのです。これは真理であるのですが
この祈り言の意味が大きすぎて、個人の感情を満足させることができないので、「私達の天命が完うされ
ますように」という祈り言があるのです。

「私達の天命が完うされますように」と祈っていれば、天命を完うするために、結婚することが必要であ
るならば結婚するでしょうし、天命を完うするために、或る会社に入社することが必要ならば、必ず入社
できることでしょう。ですから、この祈り言をしていれば、神のみ心にかなった一番よい生き方ができる
ようになるのです。結婚や就職問題については、このように祈ればよいでしょう。

守護霊様、私の天命が完うされますように、よき配偶者をお授け下さい。
守護霊様、私の天命が完うされますように、よき会社に入社できますように。

このような祈り言をしてゆけば、自己の感情も満足されますし、守護霊も非常に導きやすくなります。
「個々の祈りをしてはいけない」と固いことを言ってはおりません。個人の現世利益を願う想いも、自分
の幸せを願う想いも、念力に向かわずに、正しい祈りへと昇華させてゆくことを学んで下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


縦の光と横の光
No.2117 森島恒吉    2000/09/15 (金) 14:36 富士宮市
世界人類が平和でありますように

姫華さん、ご質問をありがとうございます。ハーミットさん、お答え下さって、ありがとうございます。

[姫華さんのご質問]
宗教問答の中で、
「悟りを開いた人と凡夫の念仏では、おのずとその効力は違いますよね?」という質問に、
五井先生は、「その通り違う」ではなく、
「誰が念仏をしようが効力は同じです。世界平和の祈りも、信仰の浅い深いに関係なく、その祈りの効力
には関係ありません。」と、お答えになられた「くだり」があったと思います。

ですけど、これは観念論のような気がして仕方がないのです。信仰の浅い人の念仏や平和の祈りと、信仰
生活や祈り体験の長い人の祈りとでは、やはりその深さ、効力面では格段の開きがあると思うのですが。
森島先生の「平和の祈り」と、私のような凡夫の祈りに、差がないのはおかしいと思うのですが。
同じだとするところに却って高慢な思いがあるのですが、いかがでしょうか。

[お答え]
ハーミットさんが書いたように、確かに自力否定の他力易行道では、祈りによる成果、効果、利益は、す
べて守護の神霊から与えられるものであり、自力で得るものは一つもありません。「世界平和の祈り」
は、五井先生と神界との約束事で、「世界平和の祈り」を祈る人のところに、救世の大光明が必ず輝くの
です。「法然上人の念仏も弟子の念仏も同じである」というのは、阿弥陀仏の救いの力は、誰にも平等に
働かれるということです。しかし、法然上人の心境と弟子の心境とは、歴然とした差があります。

太陽の光が燦々と輝く美しい青空も、厚い雲に覆われれば、昼間にもかかわらず暗闇となるように、その
人の業想念の有無によって心境に差ができることは、やむをえないことです。法然上人の心境は、弟子よ
りも深いのは当然ですし、「世界平和の祈り」も始めて間もない初心者と、数十年と祈り続けている信仰
者とでは、心境に大きな開きがあるのは当然です。

「世界平和の祈り」を祈りますと、救世の大光明は、誰の上にも平等に輝きます。五井先生が祈っても、
誰が祈っても、まったく平等に光り輝きます。天上から降りそそぐ大光明力を「効力」というならば、信
仰の浅い、深いに関係なく、誰にも等しく祈りの効力はある、といえます。しかし、その大光明を縦に受
けて、横に放射する器を比較しますと、大光明を百パーセント横に放射している人は、まだまだ少ないの
です。それは幽体に業想念がたまっていて、その分だけ天上界からきた光明がさまたげられるからです。
天上界からきた光明を、幽体肉体という器を通して横に放射する光明力を「効力」というならば、人によ
って業想念の厚さが違うのですから、信仰の浅い人と信仰の長い人とでは、格段の差があります。

つまり、天上界(神界)からくる縦の光は、誰にも平等に照らされるのですから、その光を見れば「誰で
も同じ」と言えますが、その光を受けて横(肉体界)に放射される光を見れば、その器の波動によって異
なるのですから、「誰でも同じ」とは言えません。ですから、神の大光明を百パーセントに近いくらい肉
体界に放射できるように、自己の器の波動を高める必要があるのです。といって「自力で波動を高めよ」
と言っているわけではありません。「世界平和の祈りを通して、守護の神霊に、自己の想念をすべて捧げ
尽くせ」と言うのです。自己の欲望も願望も、「神様のみ心のままになさしめたまえ」と守護の神霊にお
渡ししてしまうのです。そして、小我の想いがすべて浄められた時、微妙な波動になった器を通して、救
世の大光明は大きな輝きを放つことになるのです。神のみ心は限りなく奥深く、神の力は限りなく大きな
ものです。神の器となるように、あなたも「世界平和の祈り」を日々祈りつづけて下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


祈っていれば道はおのずと開かれる
No.2125 森島恒吉    2000/09/19 (火) 23:35 富士宮市
世界人類が平和でありますように

姫華さん、ご質問をありがとうございます。

[ご質問1]
現在の白光真宏会の会長さんは、天命を果たしていないのでしょうか?

[お答え1]
昌美先生は、天命を果たされています。五井先生ご帰神後十年間は、昌美先生は五井先生のみ教えを守り
継承なさっていました。「五井先生のみ教えを継承する」という天命は、五井先生のご帰神後十年間は、
立派に果たされていたのです。昌美先生のこの期間の天命は、いわば第一の天命であったのです。

ところが、1990年頃からだったと思いますが、「無限なる愛、無限なる叡知、無限なる歓喜…」等の「光
明思想徹底行」が発表されてから、生長の家の教えに傾倒してゆき、「人間神の子、完全円満、悪も病気
も不幸も無し」という生長の家の教えを「我即神也」という表現に変え、生長の家の教えの「心の法則」
を「想念の法則」と塗り替えて、更に五井先生があれほど邪道と嫌っていた「念力による願望成就」も説
くようになり、「五井先生の昔の教えはもう古い。今は、我即神也、と真理を宣言する時代なのだ」と、
五井先生の教えを遠回しながらも否定するに至りました。

昌美先生を、五井先生の後継者として信じてきた私にとって、この事実をどう解釈してよいのか、しばら
くは何もわからず呆然とするばかりでした。しかし、昌美先生が「光明思想徹底行」を発表された少し後
に、幸いなことに、私自身が、「五井先生の真の光明思想」を理解できるようになったのです。そして、
昌美先生と交代する形で、私が五井先生のみ教えを説く天命を継承したのです。

それでは、昌美先生の現在の天命とはなんでしょうか。それは昌美先生ご自身は、気がついてはいないの
ですが、「試みのお役目」であり、これを昌美先生の第二の天命、と私は考えております。「試みのお役
目」とは、皆さんが五井先生のみ教えを、どの程度理解しえたかを試みるお役目という意味です。悟りの
前には、釈尊もイエスも、守護神から様々な試みを受けています。五井先生も、そうでした。人間が悟り
に至る直前には、守護神はテストをするのです。そのテストに合格して、人間は真の悟りを得るのです。

では、どのように守護神はテストするのでしょうか。これは五井先生のご著書「天と地をつなぐ者」にあ
りますように、守護神は、「あなたは世界一の大菩薩だ」とその人の心境をおだてたかと思うと、「おま
えは使い物にならないから、昇天させる」と脅したりと、心を激しく揺さぶってくるのです。その時、守
護神の言葉についうっかりのってしまうと、失格してしまうのです。私達は、神のみ心のままに動くよう
に努力しているわけですが、霊視する神仏の姿が、必ずしも真実の神仏とは限りません。「これは神の声
だ」「私は宇宙神だ」「これは五井先生からのメッセージだ」と霊的に聴こえてきても、その声が必ずし
も真実の神仏の声とは限らないのです。

本心と業想念の区別がつかず、真実の神仏と幽界の生物の区別がつかない人、霊的に見えるもの、霊的に
聴こえてくるものは、なんでも神仏の姿や声と思いこんでしまう人は、尊厳性を持つ神の子とは言えませ
ん。神仏に素直に生きるということと、業想念に妥協することとは違います。「教祖の言うことだから」
と言って、どんな変な行為を命じられても従うとか、「宇宙神からの命令だから」と言って、善悪の判断
もせずに行動に移すということでは、自由に生きる権能を持つ神の子とは言えません。

誰かに命令されて動くようでは、神の子とは言えません。教祖の言葉に、いちいち左右されているようで
は、神の子とは言えません。それが神仏の声であろうと、自分が納得しないのに、動かされるままに動い
ているようでは、神の子とは言えません。誰からの束縛もなく、自分が自由に動きながら、それでいて自
然と神のみ心にもかなっている、というのが、神の子の生き方であるのです。そうした自由自在な神の子
になるために、守護神はテストをするのです。そのテストに合格する一番良い方法が、「消えてゆく姿で
世界平和の祈り」なのであります。実際には、守護神のテストには、このように答えるのです。

守護神「光明の言葉を思念することが光明思想の行であるのだ」
正答「はい、消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」

守護神「世界平和の祈りよりも、人類即神也の宣言行のほうが良い方法であるぞ」
正答「はい、消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」

守護神「如来印だけではだめだ。たくさんの印を教えてやろう」
正答「はい、消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」

守護神「汝を神人にしてやろう」
正答「はい、消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」

守護神「宇宙神が汝にごほうびを与える」
正答「はい、消えてゆく姿。世界人類が平和でありますように」

昌美先生から何を言われても、このように全否定して、「世界平和の祈り」を祈ればよいのです。真実で
ないものは、「消えてゆく姿」と否定して「世界平和の祈り」を祈れば、自然に消えてしまい、行動に現
れてくることはありません。ところが、白光真宏会会員の多くは、昌美先生の言葉を否定せず、善悪正誤
の判断ができず、すべて肯定してしまっているがために、いつまでも試みが続いているのです。神の声で
あろうと、宇宙神からのメッセージであろうと、五井先生のご神示であろうと、一度はすべて「消えてゆ
く姿」として否定してしまわなくてはなりません。

もし、真実の神の声であり、五井先生の神示であれば、どんなに否定しても、それは行為となって現れて
きますから、「神のみ心を無視してしまうのではないか」と恐れることはありません。幽界の生物が、霊
的な光明を見せたり、宇宙神の名を騙ったり、五井先生の姿をして現れることがあるのですから、どんな
神示も「消えてゆく姿」として全否定してしまうことが必要なのです。そうした意味において、昌美先生
は、「試みのお役目」として、皆さんを試みる天命を果たしているのですし、昌美先生の試みの言葉に把
われずに、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を実行することが、私達の天命であるのです。

[ご質問2]
本人が結果的に果たせないような天命を、神が授けることもあるのでしょうか?

[お答え2]
本人が果たせないような天命を、神が授けることはありません。業想念によって、天命成就が遅れること
はありますが、何生かけてでも、いつかは天命を完うさせて下さいます。「私達に授けられた天命は必ず
完うされるのだ」と信じて、何事にも真剣に取組み、努力してゆくことが大事です。

[ご質問3]
今生での歩みがふしだら(努力不足等,,,)なら、その天命(当初の生まれながらの天命)を取り去って
しまわれるのでしょうか。反対に努力如何によって、(当初の)天命でないものまで、任されることがあ
るのでしょうか。

[お答え3]
その人が怠惰だからといって、神がその人の生まれながらの天命を取り去ることはありません。また、努
力することによって天命が現れてくるのですが、どんなに努力しても、天命以外の仕事をすることはでき
ません。生長の家の教団を守る神霊が、五井先生に移ったことを、前にお話しましたが、それも神のご計
画の一つであったのです。

[ご質問4]
仕事、趣味でも、それが自分の天命であることを知るには、それをしていて平安と喜びがあることが天命
かな、と思いますが。していて却って苦痛に感じることは、天命ではないと思ったりしますが。共通して
ある天命は「世界平和の祈り」を祈ることになると思いますが。自分の天命を、より深く分かるにはどの
ようにすればよいのでしょうか。

[お答え4]
天命といいましても、初めから「これが私の天命だ」とわかることは少なく、日常生活で努力しているう
ちに自然と現れてくるものです。天職というのは、天から授けられた職業で、自己の能力に合った職業で
すから、「仕事をしていて楽しい」と感じるものです。

「守護霊様、私の天職をお授け下さい」
と祈っていれば、守護霊が天職につけるように導いて下さいます。

「守護霊様、私の天命を教えて下さい」
と祈っていれば、守護霊が天命を自覚できるように導いて下さいます。

私が五井先生に初めてお会いした時、「私の天職はなんでしょうか?」とお尋ねしましたら、「教職がい
いね」と五井先生は教えて下さいました。「教職といいますと、中学校か高校の教師になったらよい、と
いうことでしょうか?」と私が更にお尋ねしますと、「いや、なんでもいいんだよ。…教える仕事が向い
ているんです」とお答え下さいました。五井先生は、それ以上は具体的に何もおっしゃいませんでした。

五井先生から自分の天職を教えていただいた私は、当初、「中学校の数学の教師になろう」と大学の理学
部数学科で勉強していたのですが、なぜか途中で頭がボーッとして思考力がなくなり、数学の勉強ができ
なくなりました。数学の試験問題では、数字で答えねばなりません。「これではとても数学の教師にはな
れない」とフランス語の勉強に転向して、大学で一番の成績を得たのですが、それも途中であきてしまい
「中学校か高校で教師になる」という目標は、もろくも崩れさってしまいました。

その後は、熱中して稽古していた合氣道が役に立って、「合氣道を教える」という職につき、「これこそ
私の天職だ」と思っていたのですが、その合氣道も物足りなくなり、30歳代で終わってしまいました。
40歳になったものの、生きる充実感を失い、もう何もやる気がなくなった、ある日の事、五井先生のご
本を読んでいると、突然、五井先生のみ教えがはっきりと判ってきたのです。20年間以上、漠然として
いたみ教えが、私の頭の中できちんと整理され、「何もかもわかった」という気持ちになったのです。

それから、私は五井先生のみ教えを伝える覚悟を決めたのでしたが、五井先生から教えていただいた私の
天職である教職とは、「五井先生のみ教えを伝える」という教職だったのです。18歳の時に教えていた
だいた天職のお答えが、40歳の時にようやく具現化したわけです。ここまで来るまでは、なんと長い道
のりだったことでしょう。私のように、天職がわかるまでには、何年もかかる場合があるのです。

天命とは、天職と重なる部分もありますが、もっと幅の広いものです。天命というと、生涯に一つしかな
いように思われるかもしれませんが、日々、私達は守護霊から天命が与えられており、日々、私達は天命
を完うするように導かれているのです。私達に共通した最大の天命は、「世界平和の祈り」を祈ることで
す。日々、「世界平和の祈り」を祈っている人は、平凡な生活のように見えましょうとも、日々、神から
授けられた天命を果たしている人と言えます。自分の天職も天命もわからない人は、「世界平和の祈り」
に専念することです。「世界平和の祈り」に専念していれば、道はおのずと開けてまいります。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「世界平和の祈り」に欠陥は無い
No.2136 森島恒吉    2000/09/25 (月) 13:13 富士宮市
世界人類が平和でありますように

折原さん、斉藤さん、ありがとうございます。宗教の教義についてのお話ばかりでなく、家族の愛情を描
いた、このような文章も必要でありまして、多くの人の共感を得るものです。子育てにしても、夫婦関係
においても、「世界平和の祈り」を無理に押しつける必要はありません。自分が静かに心の中で祈りつづ
けていればよいのです。黙っていても、心にひびく愛の祈りは周囲を照らしてゆくのです。

「世界平和の祈り」を祈ったからといって、すべての人がすぐにパッと幸福な生活になるわけではありま
せんし、すぐに神人になれるわけでもありません。過去世からの業因縁が現れては消えてゆき、また現れ
ては消えてゆく日常生活が現実の姿でしょう。楽しい時も哀しい時も苦しい時も、神への信仰を失わず、
「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆくことが大事であるのです。

五井先生の教えの長所は、「私は神の子である」と自分を偉く見せようと無理に背伸びする必要がなく、
「私は罪の子である」といたずらに卑下する必要もなく、現実の自分の姿を正直にありのままにさらけ出
しながらも、不完全な行為はすべて消えてゆく姿と反省し、「神様がきっとよくして下さる」と神の愛を
信じて、理想に向かって歩んでゆけるところにあります。

「私は神の子である」と宣言してしまったら、「困った」と五井先生に助けを呼ぶことはできませんし、
「つらい」と弱音を吐くこともできません。風邪をひいても、「私は風邪をひいた」と人に向かって正直
に告白することもできません。「私は神の子である」という宣言は、「私は完全である」という宣言にほ
かならないからです。完全な神の子が、困るはずがありませんし、完全な神の子がつらい気持ちになるは
ずもありません。完全な神の子が風邪をひくはずがありません。不完全な神の子など存在しないのです。

ですから、「私は神の子である」という真理の言葉は、そう易々と言える言葉ではないのです。それを、
真実に神の子である自分を自覚してもいないのに、「私は神の子である」と安易に宣言しておりますと、
偽善者となりまして、他人から見ますと、正直でない、信用できない、偽善的な臭い雰囲気がただよって
見えるのです。また、偽善を嫌う正直な人は、「私は神の子である」と口では真理の言葉を宣言しながら
も、実際行為として神の子のようには、人を愛せない自分、人を赦せない自分、人を憎んでしまう自分を
知るにつれて、大きなギャップを感じ出し、まして講師のような立場の人は、他人にも正直に告白できず
「自分はなんと駄目な人間だろう」と自分を責めさいなむようになってゆくのです。

真理の言葉が、このように人を苦しめることがあるもので、真理の言葉を知ったばかりの時は、ショック
的に自分が偉くなったような気がするのですが、しだいに年月がたってゆくにつれて、真理の面を見続け
てゆくことができなくなり、現実の業生の自分の姿を見せつけられて、人間神の子の信念が薄れてゆき、
「あなたが不幸なのは、あなたが過去に悪想念を思ったからだ。あなたが悪いのだ」と想念の法則を持ち
出し、自他を責め裁くようになり、ある時は神の子になったかと思うと、次の瞬間には罪の子に変身する
というように、支離滅裂した矛盾だらけの二元論生活に陥ってゆくのです。

老子の教えのように、カカトを常に上げていたら長い時間立っていることはできませんし、大きな歩幅で
は長い距離を歩くことはできません。「早く神の子になろう」と焦っても、そう簡単に神の子にはなれま
せん。業想念消滅には時間がかかりますし、神性を顕現するにも時間がかかります。焦れば焦るほど、歩
いている足はもつれ、疲れてしまいます。「世界平和の祈り」を祈っていれば、必ず守護の神霊の加護に
よって、誰しも神人になれる日が来るのですから、焦らずに、守護の神霊の愛を信じて、現実を正直に生
きてゆくことこそが大事であるのです。

人に、そして自分に、嘘をつく生き方ほど、苦しい生き方はありません。正直に生きる生き方ほど、楽な
生き方はありません。完全になるまでは、人間は不完全であるのです。現実の人間は、みな不完全な人間
であり、完全な人間など一人もおりません。現実の人間は、神の子人間には成りきってはいないのです。
そこで、その不完全な行為を「消えてゆく姿」として、お互いに赦し合う必要があるのです。

自分を完全な神の子として見ようとしましても、他人を完全な神の子として見ようとしましても、現実の
悪の姿が必ず目についてまいります。しかし、完全な神の子には悪は無いのですから、「私は完全な神の
子である」「あの人は完全な神の子である」と宣言した自分や他人が、悪行為をするはずがありません。
ところが、悪行為をするはずがない自分や他人が、焦ったり、不安になったり、怒ったり、妬んだりと不
完全な悪行為をしてしまいます。

すると、口先で真理の言葉を唱える「神の子人間」が自分なのか、実際に悪行為をしてしまう人間が自分
なのか、わけがわからなくなります。そして、たいていの人は、この区別さえもつかず、自己の魂のあり
かを知らず、「私は神の子である」と偽善の皮を厚くしてゆき、神性顕現からは、かえって遠のいてしま
うのです。これが理想に片寄った神の子実相論の欠陥といえましょう。

無理に「私は神の子である」と宣言する必要はないのです。また、「想念の法則」を持ち出して、自分や
他人を責める必要もないのです。無理に「私は神の子である」と宣言しなければ、偽善者になることはあ
りません。「想念の法則」を用いなければ、自分や他人を責める必要もなくなります。自力で神性を顕現
するのではなく、守護の神霊のご加護によって、神性を顕現していただくのです。守護の神霊にお委せす
るだけでよいのですから、力むことも、責めることも不要であるのです。

「世界平和の祈り」の道は、自分にも人にも正直に生きることができて、過去の宗教にありがちだった責
め地獄からも解放し、明るくのびのびと自由に生きられる大道であるのです。「世界平和の祈り」は完全
な道であり、「世界平和の祈り」以外の道には、なんらかの短所か欠陥が潜んでいることを知らねばなり
ません。真の救われの道は、「世界平和の祈り」だけであり、「世界平和の祈り」以外に個人人類同時成
道の道は無いのです。真理に把われず、業想念にも把われず、「世界平和の祈り」に邁進してまいりまし
ょう。五井先生も救世の大光明を成している神々も、「世界平和の祈りが最善の方法である。世界平和の
祈り以外に、救われの道は無いのだ」と断言して下さっているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


神様、平和科学を授けたまえ。
No.2150 森島 恒吉    2000/09/29 (金) 14:53 富士宮  
世界人類が平和でありますように

五井先生は、「祈りによる平和運動」を中心になさっていましたが、「平和科学」の必要性をも説かれて
いました。科学に関心のある方は、「世界を破壊する科学」ではなく、「世界を平和にする科学」をぜひ
研究していただきたい、と願っております。

前にも書きましたが、携帯電話の電波を遮断する機器が日本人によって発明され、携帯電話が鳴っては迷
惑するコンサート会場に、実際に使用されています。この電波遮断機器を応用すれば、他国の軍事兵器の
コンピュータを作動させている電波を、衛星から遮断電波を送って、遮断することも不可能ではありませ
ん。そうなりますと、コンピュータを用いているすべての兵器は、使い物にならなくなってしまいます。
これは防衛する機器ですが、他国の軍事力を停止させて、自国の軍事力だけを操作できることになります
と、圧倒的な軍事力を得ることができます。もし、狂った指導者がこの科学機器を先に手に入れたら、大
変な事態になりますが、真実に平和を祈る指導者に、この知恵は与えられるのです。

もう一つは、医学面です。病気の苦しみを根本からなくす医学が望まれます。多くの病気がありますが、
ベッドの上に寝ていると、頭の上からつま先までスキャンして病気の部分を探し出し、その病気を癒す治
療波動が自動的に病気の部分に照射され、10分ほどで完全健康体になってベッドからおりる、というよ
うな治療機器を作っていただきたいものです。光線を利用したレーザー治療はすでにありますが、人体に
或る波長の光を当てて、ガンをとらえることもできるようになったそうですから、それぞれの治療に適し
た治療波動を発見するのも、そう遠くはないでしょう。

「世界平和の祈り」を祈っていれば、天命のある人には、平和科学の知恵を授けて下さるはずです。私の
天命は、五井先生の教えをやさしくお伝えすることだけで、平和科学を発明する役目はない、と思ってお
ります。ですから「未来の平和科学の数式を教えてください」といわれても、教えることができません。

科学の道を進む人は、「神様、平和科学を授けたまえ」と祈りつつ、研究を進めてゆくならば、平和科学
の知恵を授けられます。「世界平和の祈り」によって、平和科学が授けられるのでありまして、その他の
方法では、平和科学は授かりません。「世界平和の祈りの他に、何か、もっと優れた祈り方や良い方法が
あるのではないか?」と迷ってはなりません。

「宇宙子科学をやりたい人は、世界平和の祈りだけでは駄目だ。別の行法をやらなくてはいけない」と言
われても、「ああ、これも消えてゆく姿」と否定しなければなりません。「世界平和の祈り」以外の奇異
な方法を勧めるのは、すべて神の試みであるのです。その試みに、うっかり引っかかってはいけません。
「世界平和の祈り」の中に、「自分を偉く見せたい」という虚栄心を捨て、自我欲望を捨てることこそ、
私たちの天命であるのです。甘い誘いにのって、大事な「世界平和の祈り」を捨ててはなりません。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「おろす」ではなく「授かる」を用いましょう
No.2155 森島 恒吉    2000/10/01 (日) 01:21 富士宮  
世界人類が平和でありますように

皆さん、コメントをありがとうございます。2000年祭にご参加下さった皆さん、ありがとうございます。
青空さん、早速2000年祭について、ご感想をお寄せいただき、ありがとうございます。青空さんのご感想
に、私も同感です。

世界各国の平和の祈りは、約12カ国ずつをまとめて、"May Peace Be in Your Countries"と司会者が祈
り、"May Peace Prevail on Earth"と会場の参加者全員が祈る形式でした。

ブルーブラックさん、ありがとうございます。
「宇宙子科学を、最初に地球上に、おろした・・・」と書かれていますが、唯一会では「おろす」という
表現は用いません。「授かる」「賜る」「頂く」「拝受する」という表現を用います。

May Peace Be In The World.


真の感謝行は神への全託行から始まる
No.2164 森島 恒吉    2000/10/04 (水) 13:49 富士宮  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ご質問をありがとうございます。青空さん、ありがとうございます。パソコンの都合でロ
ーマ字入力している上に、せっかく書いた文章が消えたりしたため、ご返事が遅くなりました。

[質問1]
感謝行の事なのですが、これを続けていく事は、世界平和のお祈りをしているのと同じ効果があるのでし
ょうか。常に常に、「神様ありがとうございます」と思い続けようと思いますが、簡単そうに見えて、難
しいなと思っています。

[お答え1]
「世界平和の祈り」を基本にしていれば、ご自分の好きなようにお祈りしてもかまいません。五井先生は
「神さま、ありがとうございます。だけでもいいんですよ」と度々おっしゃっていました。ご承知のよう
に、五井先生は「神さま、ありがとうございます。だけで私は悟った」ともおっしゃっていました。
「神さま、ありがとうございます」という祈り言は、短く唱えやすく、単純でありながら奥が深く、明る
いひびきのする実に良い祈り言です。私もこの祈り言が大好きでよく唱えますが、最初から唱えることが
できたわけではなく、或る一つの段階を経て、唱えることができるようになったのです。

「世界平和の祈り」をつづけておりますと、いつしか「真の感謝」の心境に至るのです。「世界平和の祈
り」よりも、「真の感謝行」をつづけてゆくことは、はるかに難しいことなのです。それは全感謝は、全
託行の究極の姿であり、行為であるからです。「世界平和の祈り」は、前半の「全託行」と後半の「感謝
行」の二つの行に分けられるのですが、私は前半の「全託行」を中心に教えております。なぜならば、
「全託行」をしていれば、自然と「感謝行」も深まってゆくことを、私は自身で体験したからです。何事
にも順序があるように、悟りにも順序というものがあるのです。

私の体験を申しますと、五井先生の真似をして、「神さま、ありがとうございます」という祈り言を形式
的にくりかえし唱えていたのですが、いつまでたっても、五井先生のように神我一体になれず、感謝の心
境も深まった気持ちがしませんでした。そのうち、だんだんと疲れてまいりまして、途中でやめてしまい
ました。それからしばらくして、白光真宏会に入会してから20年後のことですが、ふと思いついて、私は
「神さま、お願いします」という全託行を始めたのです。すると不思議なことに、それまで言えなかった
「神さま、ありがとうございます」の祈り言が、心の底からフツフツと湧いてくるようになったのです。

そこで、五井先生の法話(特に講話)を読み返してみますと、五井先生も「神さま、お願いします」と頻
繁におっしゃっているではありませんか。私はその事実を発見して驚くとともに、「なんだ、そうだった
のか」と自分の心境の変化の理由がわかったのです。「神さま、ありがとうございます」の前に、「神さ
ま、お願いします」という全託が必要であったのです。五井先生も、「神さま、ありがとうございます」
の前には、「神さま、お願いします」と唱えていたのでした。そして、しだいに心境が高まってゆき、つ
いに「神さま、ありがとうございます」だけの意識になってしまったのです。

そこで私は、皆さんには「神さま、お願いします。世界人類が平和でありますように」という全託行に重
点を置いて祈る方法を、お勧めしているのです。大自然への感謝も、「世界平和の祈り」に含まれていま
すから、唯一会では、「世界平和の祈り」以外に、特別な感謝行は行ないません。

尚、昌美先生の「地球世界感謝行」は、感謝の光明一色ではなく、謝罪や懺悔の言葉が混ざっているため
に暗い感じがしますから、くりかえし読むには適さない、と私は思います。

[質問2]
空々しい感謝行と、真の感謝行についても、教えていただけないでしょうか。

[お答え2]
「白光への道」の中に(眞の感謝行について)という法話があります。そこに「そらぞらしい感謝の言葉
はやめよう」と書かれておりますから、参照なさって下さい。

1.偽善的感謝行/不平不満を抱きながら、「ありがとうございます」と嘘をつく行為。
2.虚栄的感謝行/「私は無限なる感謝の心境にいる」と自分を偉く見せかけようとする行為。
3.形式的感謝行/心の伴わない合掌や商売の感謝の言葉のような形式だけの行為。
4.不完全感謝行/「私は大自然すべてに感謝する」と説きながら、「敵をやっつけよう」と怒る行為。
5.強要的感謝行/「7万回感謝しなければいけない」と強要する行為。
6.功利的感謝行/現世利益があれば感謝するが、何も利益がないと不平をこぼす行為。

以上が五井先生の説く「そらぞらしい感謝行」であり、真の感謝とは、心から湧いてくるもので、現世利
益が何もなくとも、自分に都合が悪くとも、自然に「ありがとうございます」と言える行為です。真の感
謝とは、たとえ、自分が痛い時でも、人から悪口を言われても、不幸な状況にあっても、いかなる状況に
あっても感謝できなくてはならないのですから、大変むずかしいのです。「私はすべてに感謝している」
と言いながら、感謝していない人を見つけると、その人を侮ったりさげすむ人がいますが、それでは、す
べてに感謝しているとは言えません。感謝しない相手に対しても、敵のような相手に対しても、「ありが
とうございます」と心から言うのが、真の感謝行であるのです。ですから、真の感謝行とは実にむずかし
い行為で、どうしても偽善的形式的になりがちなのです。そこで私は「世界平和の祈り」への全託行一つ
にしぼって説いているのです。

[質問3]
私には単純な事しかわからないので、教義と「世界平和の祈り」以上の難しい事は分からないのですが、
それでもいいのでしょうか。神様への感謝、それだけでいいような気がするのですが。

[お答え3]
おっしゃる通りです。守護の神霊への感謝を含む「世界平和の祈り」だけ行じていさえすれば、それでい
いのです。理論としては、最低限、「真理の宣言行」の欠陥と、「想念の法則」の欠陥を知っておいて下
さい。せっかく、欠陥の無い完全な行である中庸の「世界平和の祈り」を知りながら、天に片寄った真理
の言葉に把われたり、地に片寄った業想念の法則に把われてはなりません。天と地をつなぎ、天の理想を
地の現実に現すには、中庸に位する「世界平和の祈り」しかないこと、これだけは覚えていて下さい。

May Peace be in the World.


「世界平和の祈り」は他力行です
No.2184 森島 恒吉    2000/10/09 (月) 22:46 富士宮
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、ありがとうございます。北海道の雪虫については、初めて知りました。初雪の降る前に、
雪虫が飛ぶ、というのは不思議ですね。これからも北海道の様子をお聞かせ下さい。楽しみにしておりま
す。富士宮は、秋の風景になり、夜も寒くなってきました。先日、妻が来年の春のために三本の白樺の木
の周囲にチューリップとクロッカスの球根を植えました。今は彼女の植えたオレンジ色と紫色のビオラ、
パンジー、赤いシクラメンなどの花が庭に咲いております。

blue-blackさん、ご質問をありがとうございます。北海道に行ったら、お会いしましょう。
[ご質問]
質問があります。「世界人類が平和でありますように」のこの言葉そのものは、五井平和財団が発足した
時点で、宗教用語ではなくなっているので、「唯一の行です」とおっしゃられても、私には、ぴんときま
せん。私の友達も「いい言葉ね」と言って、時々唱えてくれてるみたいです。すでに宗教をこえて、世界
に発信されているので、それを「行」と言えるのでしょうか?

[お答え]
「世界人類が平和でありますように」と祈る行為は、易しい行為ですから、「行」に見えないかもしれま
せんが、たしかに「宗教の行」であるのです。行には、自力行と他力行とがありまして、「世界平和の祈
り」は他力易行の道であるのです。それは五井先生がはっきりと説かれています。

それに対して、現在、昌美先生が教えていることは、「地球世界感謝行」を除いて、他は自力行であるの
です。「想念の法則」を利用した運命改善法、イメージ法、願望成就法など(昌美先生は果因説という)
は念力的自力行ですし、「我即神也」「人類即神也」も、昌美先生によれば、守護の神霊に頼むのではな
く、自分の内部神性の力を真理の言葉によって発揮する、という形の真理宣言的自力行であるのです。

しかし、信徒さんによっては、自力行と他力行の区別がつけられず、「我即神也」の行を守護の神霊に向
かって「どうぞ私が神になれますように」と頼むように唱えている人がいます。また「我即神也」とは、
「現在の私は神である」という意味であり、自力行でも他力行でもなく、すべての行を終えて悟った人の
絶対力の境地から発する言葉であるのですが、「これを唱えていれば、未来に私は神になれるだろう」と
いう気持ちで唱えている人もいるようです。

「我即神也」と真理を唱える段階ではないのに、形式的に真理の言葉を唱えようとするから、そこに無理
が生じて、絶対力が発揮されず、自力行か他力行かわからない中途半端な自力行になってしまうのです。
また、「現在、私は神である」と口で言っていることと、「いつか私は神になるだろう」と心で思ってい
ることが矛盾してしまい、偽善者となり、かえって神性顕現を遅らせることになってしまうのです。

blue-redさんもblue-blackさんも親しい関係で、お二人とも「神人」の認定証をお持ちかもしれません
が、正直にご自分の心を見つめて、本当に「今の私は神人である」と言えますか? 「言える」というな
らば、もう私は何も話すことはありませんが、正直にご自分を見つめて「言えない」と思うならば、その
真理の宣言法には、無理があるからなのです。神性を開発するには、正直に生きなければなりません。嘘
をついていて、神性を開発できるはずがありません。正直に生きることが大事なのです。

正直に生きることができて、しかも誰でも自然に無理なく神性を開発できる方法が、守護の神霊に全託す
る他力行の「世界平和の祈り」であるのです。自力行も結構ですが、機根が上根(じょうこん)の人を除
いては、非常に難しい難行道であり、途中で落伍してしまう人がほとんどなのです。難行道をやりたい人
は、ご自由になさったらよいと思いますが、何も難しい行をやらなくても、他力易行道で誰でも神人にな
れるのですから、私は他力易行道を勧めているのです。

と申しましても、他力易行道でありましても、そんなに簡単に神人になれるわけでもありませんし、すぐ
に悟ることもできません。他力易行道と言っても、守護の神霊に全託するように祈る努力は必要ですし、
神性が開発されるまでには、各人によって異なりますが、やはり時間がかかります。朝起きてから夜寝る
まで、いつでもどこでも「世界人類が平和でありますように」と祈るためには努力が必要です。私たちは
日常座臥いつでも「世界人類が平和でありますように」と唱える行をしているのです。時には、声が枯れ
はて、血へどが出るほど唱える時もあります。これが「行」でなくて、なんでありましょう。私たちは、
「世界平和の祈り」の行に全力を打ち込んでいるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」は排他的祈り言にはならない
No.2188 森島 恒吉    2000/10/10 (火) 00:27 富士宮  
世界人類が平和でありますように

Tさん、寺尾さん、ご意見ご感想をありがとうございます。この掲示板に書き込む時には、ご面倒ですが
必ず「世界人類が平和でありますように」の合言葉を一言書き添えて下さるようにお願い致します。この
合言葉運動は、五井先生の教えでもあります。

Tさんから見ますと、まるで私が白光真宏会の和を乱している人のように見えるかもしれませんが、私は
白光真宏会の和を乱しているとは、思っておりません。それどころか、白光真宏会の大調和のために働い
ているのです。私は白光真宏会の会員でもありますが、唯一会は白光真宏会内部の支部や集会ではなく、
独立した外部のグループですから、たとえ独自の活動をしたとしても、白光真宏会の和を乱す心配はなく
白光真宏会に迷惑がかかることはありません。実際には、ニューヨークを本部にするワールドピースプヤ
ーソサエティWPPSからは感謝のお手紙をいただいておりますし、五井平和財団の理事からも感謝のメ
ールを頂戴しております。

あなたも、五井平和財団主催の「世界各国の平和の祈り」の行事に、世界各国の大使や他の宗教者の皆様
と共に参加なさって、「世界平和の祈り」をご一緒に祈ってみて下さい。そして、「世界平和の祈り」が
排他的な宗教にならないことを体験して下さい。「世界平和の祈り」は世界人類の平和を祈る祈り言であ
り、世界の宗教者の平和を祈る祈り言であるのですから、世界の宗教者の合言葉にはなっても、排他的に
なりようはずがないのです。五井先生の教えを尊敬されているということですから、私たちは同志です。
今後も、ご一緒に「世界平和の祈り」をお祈りしてまいりましょう。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


みんなが幸せでありますように
No.2190 森島 恒吉    2000/10/10 (火) 02:39 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ねこじろうさん、ありがとうございます。

[ねこじろうさんのご意見]
私は「世界平和の祈り」とともに、続けている祈りがあります。それは
  「みんなが幸せでありますように、神様ありがとうございます。」
という祈りです。どちらを祈るかは、そのときの気分ですが、祈りの後のスッキリとする感じは、どちら
も同じなので、私としては、この祈りは間違ってはいないだろうと思っております。
この祈りは、「世界平和の祈り」を続ける中で自然と心の中に浮かんできた言葉です。
利他愛にもとずいた祈りであれば、表現は多少ずれてもいいのかなーなんて思っています。

[お答え]
「みんなが幸せでありますように。神様ありがとうございます」という祈り方は、五井先生が法話で頻繁
に説いていた祈り言です。その祈り方で間違ってはおりません。

皆さんが幸せでありますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD