森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


天命を信じて、人事を尽くして下さい
No.2011 森島恒吉    2000/08/02 (水) 02:56 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさんは、少しも生意気ではないよ〜。ぼくなんて、21歳頃に白光誌に「消えてゆく姿について」
という教えを二カ月にわたって説いているんです。読者が「この方はお年寄りだろう」と思っていたら、
その頃白光誌の編集長だった高橋英雄さんが私の写真を撮って下さり、次号に私の写真が掲載され、読者
の皆さんは、執筆者の私が若いのに驚いていました。

ひめゆりさんのおっしゃることは、もっともだけれど、コスモスさんは過去世からの持って生まれた徳が
あるんですから、アルバイトしながら受験生活をする必要がないのです。昌美先生だって、20代後半から
30代にかけて、五井先生に数年間もアメリカ留学に行かせてもらっているんです。その留学費用は、昌美
先生がアルバイトでためたお金ではありません。全部、五井先生からもらったお金です。だから、アルバ
イト生活で自分の生活費用を稼ぎながら受験をしなければ、絶対にいけない、ということはないんです。
「親にお金をもらわずに大学へ行け」ということになったら、今の学生はほとんどいなくなるでしょう。

親に甘えることができる時には甘えさせてもらって、大学を卒業し、会社員か公務員になって、給料をも
らうようになってから、少しでも親にご恩返しをしたら、それで充分です。現在の大学受験は、高いレベ
ルの大学ならば、一日数時間もアルバイトをしながら、その合間に勉強して合格できるほど、そんなに甘
くはありません。ごくまれに、そういう人もいますが、そういう人は天才的な人でしょう。アルバイトを
するならば、大学に入ってからすればよいので、「アルバイトをしながら受験をしなさい」と言うのは、
大変酷な気がします。勉強も仕事もしないで、ただブラブラと過ごしていて、目標を見失ったノイローゼ
の青年と、目標をしっかりと持って勉強している受験生とは、立場が違いますから、同じようにアドバイ
スしては、かえって受験生を迷わすことになります。

コスモスさんは、もともと霊的なところがあり、受験中の今も、私のような指導者が必要であるのです。
受験勉強の合間を利用して、この掲示板に書いて下さっているのに、それを見ず知らずの人が、いきなり
出てきて、「経済的に自立すれば、いくら浪人してもかまわない」と、まるで自分の子に言い聞かすよう
に無理難題を言って、「きっと、あなたのお父様は、過去世であなたに借りがおありなんでしょうね」
と、これまた五井先生の「因果の教え」を、ここで持ち出すのは、五井先生の言う「余計なお世話」なの
です。そういう言葉は、たとえ知識として知っていても、コスモスさんのような相手に向かって直接言う
べきことではないのです。コスモスさんのお父さんを、侮辱しているように聞こえてしまうからです。

さて、コスモスさんから「鬱の状態の時、どうしたらいいでしょうか?」というご質問をもらっています
ので、それにお答えしましょう。

誰しも、人生には波があります。調子の良い時もあれば、逆境の時もあります。何をやっても、うまくい
かない。体の調子も悪い。生きているのが嫌になってしまう。そんな時は、五井先生のご本を読んだり、
明るい人と会っておしゃべりしたり、外へ出て青空を眺めたり、スポーツをして体を動かしたりすると良
いと思います。もちろん、根本はお祈りをして、鬱状態から脱することですね。

いつも申しておりますように、私の場合は、神様に全託してしまうんです。
「神様のみ心のままになさしめたまえ」
と神様に、自分の生命、自分の運命を、すべて預けてしまうんです。すると、自分というものがいなくな
ってしまいます。自分というものが、存在しなくなるわけですから、自分にまつわる鬱想念も、神様のみ
心の中に吸い込まれてしまって、消えてしまうのです。

「神様、私の天命を完うせしめたまえ」
と祈ってもいいんですよ。こうやって祈っていれば、神様が、自分の天命を完うするのに必要な物、必要
な環境、必要な人など、自分の天命を完うするために必要な、すべてを授けて下さるのです。天命を完う
するために、或る大学に行くことが必要ならば、神様は必ず、その大学に行かせて下さるんです。でも、
天命とは何かが、ふつうはわかりませんね。そこで、「天命を信じて、人事を尽くせ」という五井先生の
教えがあるんです。つまり、自分が行きたい大学があったら、「私は、この大学に入学することが天命な
んだ」と信じるのです。そう信じると、勇気がモリモリと湧いてきます。「人事を尽くして、天命を待と
う」というのも結構ですが、それでは天命がどっちなのか判りませんから、力が湧いてこないのです。

コスモスさんが、今、「入学したい」と、強く希望している大学を受験し、その大学に入学することが、
「私の天命である」と信じるのです。天命であるのですから、あとは勉強しさえすれば、合格できるよう
に天から運命を定められているわけです。「この大学へ入学することは、私の天命なんだ。だから、私は
必ず、この大学に入学できるんだ」と信じるのです。その天命を信じれば、同じように勉強をしていても
少しも苦にはなりませんね。元気が湧いてきて、楽しく勉強できるではありませんか。

世の中には、60歳になって、大学受験をして合格し、大学に通っている人もいます。いくら浪人したって
恥ずかしいことはありません。大学へ行きたかったら、合格するまで、40年間浪人生活をしてもいいじゃ
ないの。先は長いんだから。今生で死ぬまで大学に合格できなかったら、来世でまた受験勉強して来世で
大学に入学してもいい。来世でも死ぬまでできなかったら、また来来世で大学受験にチャレンジすればい
い。そのくらい、のんきに生きるんですよ。人生は、この世だけでなく、永遠にあるんだからね。

コスモスさんは、唯一会の会員なんですから、唯一会のこの掲示板で、自由になんでも、ご意見を書いて
もいいんですよ。気分転換で書いても、よろしいのです。唯一会の会員であるコスモスさんが、唯一会の
会員でもない人に、唯一会の掲示板で、とやかくうるさく言われる筋合いはありません。ひめゆりさんが
そんなに厳しいことを人に言うならば、その前に、ご自分が唯一会の会員資格を得るべきでしょう。この
掲示板は、唯一会の会員の皆さんのためにあるのですから。

せっかく、忙しい時間をさいて、コスモスさんが書き込みをして下さったのに、コスモスさんが書かなく
なったら、私もさびしくなります。もし、コスモスさんが書けなくなったら、ひめゆりさんが、唯一会の
会員となって、ドシドシとご自分に関することやご自分のご意見を書いて下さいね。

コスモスさんの天命が完うされますように
ひめゆりさんの天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD.


真の祈りに、イメージは不要です。
No.2028 森島恒吉    2000/08/04 (金) 17:21 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、皆さんから温かい励ましのコメントとお祈りをいただき、良かったですね。多くの皆さん
から、こんなに励ましてもらったら、自殺なんかできないでしょ。生きなくちゃ、ね。(^_^)皆さんから
ソレイユさんへの励ましのお祈りを読んで、私もとてもうれしく思いました。これからも悩んでいる人が
いたら、一言でも一行でもいいから、その人のために温かい声をかけてあげて、励ましのお祈りをしてあ
げて下さい。そうやって、お互いに祈りあってゆきましょう。

ケントさんが大事な点を指摘されていましたが、「平和をイメージして祈る」というやり方は、昌美先生
の教え方で、五井先生の教え方ではありません。五井先生は、「イメージする」という自力念力的なやり
方は否定されていました。五井先生から「さあ、これから世界平和をお祈りしますから、皆さん、心の中
で世界平和をイメージして下さい」と教えられたことは、私は一度もありません。

そのイメージ法は、昌美先生が説かれていることです。「我は完全な神である。私は無限なる愛であり、
無限なる健康であり、無限なる調和である。神の力、我に流れ入りたもう。…世界は平和である。…」と
いうイメージ法は、生長の家の説く神想観と同じなのです。五井先生の教えには、そうした神想観の教え
は不要なのです。生長の家には、そうした神想観という行法があるのですが、五井先生は、その神想観の
行法を不要な行法として捨て去って、絶対他力行の「世界平和の祈り」に一本化なさったのです。

祈りといいますのは、自分の欲望や願望をイメージして、念力でかなえることではないのです。自己のイ
メージ力で自分の願望をかなえる、というやり方は念力でありまして、真の祈りではありません。真の祈
りとは、自己のすべてのイメージを神のみ心の中に捨て去ってしまい、神様に新しい生命を頂きなおすこ
とです。小我の想念を無力なものとして、神のみ心の中ですべて消滅し去って、空の境地になることなの
です。そこで余計な小我のイメージがありますと、それが善なるイメージと思っても、神の光をさまたげ
ますから、かえって邪魔なのです。肉体我の無力さを知って、自己のイメージ力の無力さを知って、素直
に神への全託をするべきなのです。祈りと念力を同時にやってしまっては、せっかくの祈りが真価を発揮
できません。どうして、全智全能の神の力を信じることができないのでしょうか。自己の念力を使ってイ
メージするということは、神の全智全能力に対して、まだ不信の念を持っているからです。

「世界平和の祈り」を祈る時には、ことさら善とか平和のイメージを念じる必要はありません。自力や念
力で世界を平和にするのではありません。神様に世界を平和にしていただくのです。「私が世界を平和に
するのだ。世界は平和である、世界は調和している。…」と念じるのではなく、守護の神霊に向かって
「私達には何事もなしえませんから、どうか世界を平和にして下さい」という気持ちで祈るのです。そう
した神への全託によって、その人の想念は空の境地になり、そこに神の光が充分に入り、空即是色の境地
となって、その人は神人の能力を発揮できるようになるのです。

そうなりますと、ことさら念じなくとも「ああ、私は神様の光に包まれているんだなあ。ああ、私は完全
な神の子なんだなあ」と自然に無理なく力まずに思えるようになるのです。それは空即是色の境地から現
れた実相の宣言であり、イメージというよりも実観なのですから、嘘でも想像でもなく本ものであるので
す。「世界平和の祈り」を祈る時には、「世界人類が平和でありますように」と祈るだけでよいのです。
その他の「念力によるイメージ行法」を付け足しますと、かえって神の光をさまたげることになります。
念力を捨てて、全智全能であり大愛である神に全託して下さい。五井先生の教えは絶対他力行なのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


教訓として学びましょう
No.2045 森島恒吉    2000/08/10 (木) 12:20 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

禄堂さんの読み方が間違っているわけではありません。昌美先生の予言が外れたのです。このような一件
からも、昌美先生には予知能力という霊能力がないことが、わかります。こればかりではなく、過去の白
光誌を綿密に調べますと、昌美先生の予言が、実にいい加減で、でたらめであることがわかります。昌美
先生を信じている人であればあるほど、がっかりしてしまうのです。そして昌美先生に「あの時の予言は
外れたけれど、どうしてですか?」と質問状を送っても、なしのつぶてです。政治家ならば、世論の厳し
い批判にさらされて辞任させられるところですが、信徒は自分の教祖をひいきして見ますから、教祖は自
己に責任がないかのような顔をして平然としています。だから、同じ誤りがくりかえされるのです。

自然現象と祈りについては、五井先生も「今度の台風が関東地方をよけていったのは、お祈りのおかげで
す」と説かれていましたが、「もし、関東地方に台風がきたら、どう言い訳をするのだろう?」と私は心
の中で心配しておりました。五井先生は慎重な方で、ご著書では「今度の台風が関東地方をよけていった
のは、お祈りのおかげです」とはあまり書かれなかったと思いますが、演壇では、そうしたお話は結構さ
れていました。こうしたお話は、誰しも目に見える現象ですから、お祈りの力というものを理解させるに
は非常にわかりやすいものです。しかしその反面、予言が外れると、信用を失墜させる危険があります。

禄堂さんのご指摘のように、昌美先生が白光誌で「三宅島噴火を未然に防ぎました。ついには、三宅島は
爆発するだけのエネルギーが無くなり、すべてが調和しつつ、終わったのです」と書かれたのに、今日、
再び、三宅島の噴煙が3000メートル以上の高さに達し、これまでで最大規模の噴火が発生し、500人近く
の住民が避難している、というニュースを見聞きしますと、明らかに昌美先生の予言が間違っていたこと
になります。「昌美先生は、自己に都合の良いように、社会現象や自然現象を信仰心に結びつけて利用し
ていた」と信徒さんから言われても、返す言葉がないでしょう。

「東西ドイツの壁がなくなったのは、私達のお浄めのおかげ」「南北朝鮮の首脳が会談できるようになっ
たのは、私達のお浄めのおかげ」「NATOの空爆停止も、私達のお浄めのおかげ」と、国際政治のニュ
ースを読んで、そのたびにそのニュースを自分の都合の良いように利用することは、すでに過去の事実と
なったことなので、くつがえることがなく、信徒の信仰心を鼓舞するお話となります。しかし、国際政治
の良いニュースだけをピックアップして、「このような良いニュースは、私達のお祈りの成果である」と
宣伝するのは、あまりにも我田引水で、自分に都合の良いように解釈した自慢話に聞こえてならないので
す。事実は、自分達のお祈りの成果であっても、黙っているほうが良いのではないか、と思うのです。

先日も、東京の麹町で、暴力団が拳銃発砲事件を起こし、死傷者が数人出ましたが、五井平和財団の身近
な所で、こうした凶悪犯罪が起きるのですから、日本は真の平和を得たわけではなく、「日本はすでに平
和になった」と言って、自分一人、真理の世界に閉じこもり、現実逃避をして、喜んではいられないので
す。お祈りの成果は、表面にはまだまだ現れてはいないように思われるのです。自己を実力以上に偉大に
見せかけようとして、大きなことばかり言っておりますと、老子の「多言なれば、しばしば窮す」のよう
に、かえって信頼を失い、返答に窮してしまうものです。

昌美先生の誤りを、私達は「誤った例」の教訓として学びましょう。私達が、昌美先生と同じ過ちをしな
いようにすることが大事なのです。私達が学んだ教訓は、次の通りです。

・国際政治の良いニュースを、「自分達の祈りの成果である」と軽々しく自慢しないこと。
・地震や噴火活動などの自然現象について、「もう、起こらない」と軽はずみに予言しないこと。
・恐るべきは、自己の虚栄心である。自己を実力以上に偉そうにみせないこと。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「世界平和の祈り」に全託した人は真実に幸せである
No.2047 森島恒吉    2000/08/11 (金) 01:09 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

禄堂さんから言われて思い出しましたが、最近の白光誌8月号でしたか、昌美先生は「我即神也の宣言は
自分自身に向かってするもので、他人に向かってすることではない」という意味のことを書いています。
我即神也にしても、人即神也にしても、理想がすでに実現されているかのような書き方をしておりますか
ら、宗教を知らないふつうの人に向かって、「我は神なり」といきなり言ったら、「あいつ、この暑さで
頭がおかしくなったんじゃないか」と疑われてしまいます。理想と現実は実際は離れているのに、あたか
も理想と現実がすでに一体化しているかのように宣言することは、どうしても無理があるのです。

理想が実現していないのに、理想が実現したように宣言することには無理があるという事実が、昌美先生
にも、ようやく少しわかってきたようです。その証拠が、「我即神也の宣言は、人に向かってするもので
はなく、自分に向かってするものである」と変化したことでわかります。「○○さん即神也という宣言を
富士聖地の挨拶の言葉にしよう」という提言もありましたが、この「○○さん即神也」という宣言も、実
際には社会生活の中で使いにくいことがわかってきたらしく、一頃のようにあまり強く勧めなくなってき
ました。これは当然なことでありまして、どちらも理想に片寄った無理な宣言であるからです。現実離れ
した理想に片寄った真理の宣言というものは、現実の役に立たず、現実に生かすことができないのです。

ですから、昌美先生の提唱の「我即神也・人即神也・人類即神也の宣言行」は、真理に把われ、理想に片
寄った、現実に役立たない教えであり、いずれは消えてゆく運命にある、と私は説いているのです。私達
は、その真実を初めから知っておりますから、無駄な行法に時間を費やさなくてすみますが、五井先生の
教えを理解していない人々は、なにがなんだか判らぬままに、昌美先生を信じて、無駄な行法に時間を費
やしてしまっているのです。それも消えてゆく姿であるのです。

「世界平和の祈り」は、自分に向かって宣言するだけでなく、他人に対しても恥ずかしくなく宣言できる
言葉です。他人に向かって宣言してはいけない「我即神也の宣言」と、他人の誰に向かって言っても恥ず
かしくない「世界平和の祈り」と、いったいどちらが世界に広く普及するでしょうか。その差は、歴然と
しているではありませんか。「世界平和の祈り」のほうが、広く普及するのは当然です。祈り言というの
は、常に祈る、ということが効果を発揮するのでありまして、常に祈ることのできない宣言の言葉では、
効果が現れてはこないのです。そうした観点からも、相手に向かって声に出して堂々と祈ることのできる
「世界平和の祈り」のほうが、はるかに祈りやすく、祈りの効果が発揮される、と思います。

「世界平和の祈り」は神から授かった永遠の祈り言であり、世界に普及してゆきます。それに対して、肉
体人間の浅知恵で考え出した「我即神也の宣言」の行法は、現実に役立たないので、いずれは消えてゆく
ことになるのです。それが、私にはよくわかるのです。「世界平和の祈り」一本槍の生き方が、今後ます
ます見直されることになるでしょう。「世界平和の祈り」に全託している人は、真実に幸せなのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


五井先生のみ教えを悟った者の天命
No.2048 森島恒吉    2000/08/11 (金) 01:32 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ルビーさん、コメントをありがとうございます。おっしゃるように、ふつうの人たちは、昌美先生に関係
なく「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、それで充分であるのです。ただ、私には昌美先生の誤り
を修正する特別な天命があるのです。この行為は、神の大きな慈愛であるのです。崖から落ちようとして
いる人を、知っていながら黙って見ていることは、愛のある人にはできません。崖からその人が落ちない
ように、必死に説得をつづけることが、愛の行為であると思うのです。これは五井先生のみ教えを悟った
者のなさねばならぬ天命なのであり、ルビーさんは、ルビーさんの生き方でよろしいのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


昌美先生を批判しているだけでは駄目
No.2070 森島恒吉    2000/08/25 (金) 06:58 富士宮市
世界人類が平和でありますように

白光真宏会の会員の中で、唯一会の存在が徐々に知られるようになり、パソコンをお持ちでない方のお問
合せの数が増えてきております。9月の東京集会には、新たに白光真宏会会員で15年以上の信仰経歴を持
つ70歳前後の女性が、ご友人と参加されることになっています。年齢はわかりませんが、やはりパソコン
を持たない白光真宏会会員(男性)も、新たに9月の東京集会に参加される予定です。これまではインタ
ーネットだけで皆さんに通知してきましたが、パソコンを所有していない方のために、パンフレットのよ
うな印刷物の必要性も感じるようになりました。

ところで、白光真宏会をやめた人の中には、昌美先生に対して批判ばかりしている人がいます。昨夜も、
白光真宏会をやめた人とお電話でお話していたのですが、その方は昌美先生の教え方に対して批判ばかり
しているのです。「昌美先生の教えと五井先生の教えは違う」と批判するのは結構なのですが、それだけ
で終わっているのです。私が「それほど五井先生の教えを信じているのならば、世界平和の祈りを一緒に
祈りましょう」と私が言うと、「私は今は世界平和の祈りを祈っておりません。別の宗教団体に顔を出し
ています」という答えが返ってきました。

五井先生を尊敬し、五井先生のみ教えを信じているならば、白光真宏会をやめても「世界平和の祈り」を
祈りつづければよいのに、なぜか「世界平和の祈り」まで、やめてしまっているのです。それでは、真実
に五井先生のみ教えを知ったことにはなりません。「昌美先生の教えは間違い」と知っているならば、自
らが、五井先生のみ教えを人々に広めたらよいではありませんか。昌美先生が、「世界平和の祈り」を古
い方法として葬り去るならば、自らが「世界平和の祈り」を人々に広めたらよいではありませんか。

昌美先生を批判ばかりしていて、自らは何も積極的な行動をしないのでは、それでは口先だけの評論家と
同じであって、宗教者とは言えません。自分自身の欲求が満たされない不満を、昌美先生への批判に代え
ているだけでは、それは批判ではなく、悪口となります。正しい批判は建設的ですが、不満から出た悪口
は建設的ではありません。批判と悪口は、まったく異なるのです。

誤解されてはいけないので、改めて申し上げますが、唯一会は「世界平和の祈り」一行法を行じる会であ
りまして、昌美先生への悪口をお互いに言い合って、自分の憂さ晴らしをするような、そんなつまらない
会ではありません。昌美先生が「世界平和の祈り」を祈らないのであれば、私達が「世界平和の祈り」を
祈りましょう。昌美先生が「世界平和の祈り」を教えないのであれば、私達が「世界平和の祈り」を人々
に教えてゆきましょう。昌美先生を批判ばかりしていて、自分は「世界平和の祈り」を祈らず、人々に
「世界平和の祈り」を知らせることもない、というのでは、自分の欲求不満を、昌美先生にぶつけている
だけになります。それでは、なんのための批判か、わからなくなります。

宗教とは、「なんでもかんでも善である」「味噌もクソも同じである」というように、批判力を失わしめ
るものではありません。宗教心が深く開発されればされるほど、善悪の判断や、美醜の判断がつくように
なり、物事への批判力が増してくるものです。宗教をやればやるほど、批判力を無くし、馬鹿みたいにな
るのは、それは真実の宗教ではありません。鋭敏な批判力を持ちながらも、その誤りに把われずに、誤り
は消えてゆく姿として祈りに転換してゆき、自らの心の内には不平不満も無く、相手に対する憤りも無い
というふうにならねばなりません。

批判するのは結構なのですが、批判した後には、必ず祈りを付け加えなくてはなりません。祈りのない批
判は、悪口と同じです。愛の祈りのある批判こそ、人を生かすことになります。私達は人を批判ばかりし
ていて、祈りを忘れてはなりません。誰かの悪口を言ってしまったら、その後に「あの人の天命が完うさ
れますように」と祈る習慣をつけましょう。嫌いな人の天命の完うを祈る気がしない場合は、世界人類の
平和を祈りましょう。人の批判ばかりしていないで、人の幸せを祈りましょう。

「世界平和の祈り」は、愛の祈りであるのです。その「世界平和の祈り」を祈っている私達は、愛の祈り
の集団であるのです。私達は、世界人類を愛しているのです。私達は、すべての人の幸せを祈っているの
です。私達の心にあるのは、世界人類への愛だけなのです。私達は、ひたすら愛し続けているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


常に「ありがたい」と想える人に
No.2071 森島恒吉    2000/08/27 (日) 02:55 富士宮市
世界人類が平和でありますように

唯一会の集会では、五井先生のご本をテキストに使わせていただいておりますが、時間の都合で「随筆」
については解説しません。そこで、この掲示板で、五井先生の随筆「神への郷愁」から、大事な点をピッ
クアップしたいと思います。

五井昌久著「神への郷愁」(白光真宏会出版局)より抜粋 P334

…私は元来、不平不満の少ない性で、いつも心の底から「ありがたい」という想いが湧き出てくるのであ
る。これはわざと想おうとしているのでもなんでもなく、自然(じねん)と湧きあがってくる想いなので
ある。…

[解説] 
五井先生のような聖者は、このように常に「ありがたい」という感謝の想いが湧きあがっているのです。
いつ会っても、いつ話しても「ありがたい」と話す人は、少ないというよりも、ほとんどいないのが現実
です。口を開けば、不平不満ばかり、人の悪口ばかり、人をけなす言葉しか出てこない、のでは、その人
自身が地獄に住んでいるようなものです。人の悪口ばかり言っている人を観察していると、その悪口を言
っている人自身に不平不満があって、その不平不満の想いが、他人への悪口となっている例が少なくあり
ません。もし、異常なほど、他人の悪口を言っている人は、自分の内面を反省する必要があるのです。

五井先生は、常に感謝することの大事さを説かれていました。「神さま、ありがとうございます」と常に
唱えていました。五井先生の心には、不平不満の想いが少しもなかったのです。私も、五井先生に救われ
てからは、常に「神さま、ありがとうございます」と思えるようになりました。私は、朝から夜まで寝て
いても、「神さま、ありがとうございます」と思えます。私の心の中には、不平不満がありません。

どうせ生きて暮らすならば、毎日感謝に満たされて生きたほうが幸せなのに、どうも多くの人は、不平不
満の種を探しては、自分がいかに不幸で、みじめで、悲しい人生を送っているかを、人に見せたいようで
す。戦争中に比べたら、好きな食べ物を食べられるだけで、服が着られるだけで、住まいがあるだけで、
どんなにありがたいことでしょう。どうして、食事に感謝できないのでしょう。どうして、住んでいる家
に感謝できないのでしょう。どうして、今着ている服に感謝できないのでしょう。

常に物事にケチをつける癖を持った人は、不幸な人だと思います。どんなにおいしい食べ物を目の前にし
ても、必ず一言ケチをつけないと、食べられない人がいます。たとえば、お寿司を見ても、「このネタは
アブラがのっていない」とか「今日のシャリは少し固い」とか、一言ケチをつけてから、食べるのです。
この世の中に完全な食べ物など無いのですから、ケチをつけたらキリがありません。人間だって、完全な
人はおりません。人のあら探しをしようと思えば、これもキリがありません。どうして、「ありがたい」
と思って、お寿司を食べることができないのでしょう。どうして、「この人と会えて、ありがたい」と思
えないのでしょう。どうして、五井先生のみ教えに出会えて、「ありがたい」と思えないのでしょう。私
には、不平不満を言ってばかりいる人が、不思議に見えてならないのです。

現在の世の中は、完全ではありません。不完全な世界です。したがって不平不満を数えあげれば、キリが
ありません。ところが、このような不完全の世界に肉体は住みながら、心は完全な世界に住んでいる人が
いるのです。完全な世界に住んでいる人とは、すべてに感謝できる人です。形式的に感謝するのではなく
心の奥底から感謝の想いが湧いてくる人は、肉体は地上に住みながら、心は天国に住んでいるのです。

テレビに出演していた女性の一人が、「今の家にはお風呂がないので、お風呂のついた家に住みたい。そ
れ以上のぜいたくは言いません」と切実に話していましたが、お風呂のある家に住んでいる人は、それだ
けでも感謝しなくてはなりません。視力のない人が、「目が見えるようになりたい」と願っていますが、
視力のある人は、それだけでも感謝しなくてはなりません。歩けない人が、「歩けるようになりたい」と
願っていますが、あなたが自由に歩けるとしたら、それだけでも感謝しなくてはなりません。あなたが、
あたりまえに思っていることが、他人から見たら必ずしも、あたりまえ、ではないのです。

不平不満の想いは、自分の心を暗くし、自分を不幸のどん底へと突き落とします。感謝の想いは、自分の
心を明るくし、周囲の人の心をも明るくし、自分を幸福な生活へと導いてくれます。感謝できるようにな
るためには、感謝すべきことを一つ一つ探す、という方法もありますが、守護の神霊に、自分の生命も運
命も欲望もすべてお返ししてしまって、守護の神霊から改めて生命を頂き直すとよいのです。

「神さまのみ心のままになさしめたまえ、世界人類が平和でありますように」

と自分の生命も運命も欲望も、神さまのみ心の中に、すべてを投げ入れてしまうのです。そうしますと、
すべてが神さまから与えられたものとなり、どんなに小さなことも「ありがたい」と思えるようになるの
です。飽食の時に、梅干しを食べても感謝できないかもしれませんが、断食をした後に、一つの梅干しに
も深く感謝できるのは、欲望を断ち切った後であるからです。「これが欲しい、あれが欲しい」という欲
望を、このような祈りに転換するのです。

「神さまのみ心ならば、これをお授け下さい。しかし、神さまの目からご覧になって、私に必要ない、と
思われれば、これをお授けにならなくてもかまいません。神さまのみ心のままになさって下さい」

このように神さまに欲望をすべてお返しして、自己を無にして、常に神さまから頂き直す生き方をしてい
れば、常に感謝して生きることができます。自己の不平不満の業想念に克つことこそ、宗教の目的であり
常に感謝できる人間になることこそ、私達の人生の目標であるのです。

「神さま、ありがとうございます」

と神さまに常に感謝して、日々を暮らせる人は、それだけで実に幸せな人であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


神の教えは「世界平和の祈り」に単純化された
No.2072 森島恒吉    2000/08/28 (月) 16:27 富士宮市
界人類が平和でありますように

五井昌久著「神への郷愁」(白光真宏会出版局)より抜粋 P27

…神のみ心は最高、最深のところに置いたままで、たやすくその神のみ心にとどき得るような教えの単純
化こそ、人間の理想なのである。それを成し遂げたのが、日本の法然、親鸞の念仏信仰であり、真実のキ
リスト教の「イエスの御名によって神に接し得る」という教えである。
「南無阿弥陀仏」の六字の称名により、あるいは「イエスの御名」という容易な行為によって、救われに
入れるという信仰は、実に複雑なる真善美を単純化せる信仰方法である。そして、そうした信仰行為が、
日本神道でいう神代時代の再現になってゆくのである。…

[解説]
宗教者が真理をしっかりと自己のものにしていないと、その内容が統一されず、バラバラに表現されるた
め、その教えはやたらに複雑になってしまいます。これは「統一されていない複雑さ」であり、一方単純
化しても、重要な急所がはずれた「的外れの単純化」では、これも意味のないものとなってしまいます。

神のみ心を、わざと複雑化、儀式化、戒律化して、神と人間とを、かえって引き離してしまっている教え
もあれば、単純化を低俗化と間違えて、念力による願望成就法を説いて、神のみ心を、物質利益という低
い階層に引き下ろしてしまっている教えもあります。

五井先生のみ教えの特長は、深遠な宗教の内容を「世界平和の祈り」という一つの行法に単純化したとこ
ろにあります。宗教の行法の単純化は、もちろん五井先生が初めてではなく、「南無阿弥陀仏」を民衆に
教えた法然、親鸞のほかにも、神道の「(神さま)祓いたまえ、清めたまえ」という祝詞など、古くから
発案され行なわれてきています。

昔は、今のように紙が豊富にあるわけではなく、本がたくさん印刷されているわけでもありません。文字
を知っている人も、ごく一部の人だけだったでしょう。ほとんどの人々は、難しい文字を知らず、文字を
読めない無学の人だったのです。そうした時代にあって、民衆を救うためには、難しい経典では役に立ち
ません。そこで昔の宗教者は、民衆をいかに救うかを考え、「南無阿弥陀仏」のような短い祈り言を発案
し、民衆に唱えさせようとしたのです。そして、称名念仏に触れた多くの人々が救われたのでした。

現代は、ほとんどの人が文字を知っておりますから、経典の翻訳を読むことができます。しかし、現代は
昔のようなのんびりとした時代と違い、仕事や家事や育児に一日の大半を費やさねばなりません。仏教の
経典は厖大な量があり、そのすべてを読んで理解するということは、宗教を専門とする学者だけがなしう
ることでありまして、忙しい現代人には、とても無理なことです。現代人は、別の意味で、長い経典を読
むことはできないわけです。般若心経のような短いお経でさえも、日々続けている人は、そう多くはない
と思います。現代では、短時間で実行できる、短い祈り言が必要であるわけです。

たくさんの祈りの行法がありますと、車にひかれそうになった時とか、災難にあいそうになった時など、
とっさの時に、何を祈ったらよいのか、迷うのではないか、と思います。迷っている隙間に、業想念がド
ッと入りこんでくるのですから、少しの間でも迷っていてはいけないのです。複雑な行法では、とっさの
時に迷ってしまい、祈りの効果が現れません。それに対して、日頃から一つの祈りの行法に徹しておりま
すと、とっさの瞬間にも祈り言を思い出すことができ、神のみ心に即座に統一することができるのです。

「世界平和の祈り」は、神のみ心の深奥にまで到達することのできる、宗教上における最高の方法である
のです。「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、個人の霊性開発はもとより、人類の平和は実現され
るのです。潜在意識層に厚く重なっている業想念の種類によっては、消えてゆくのに数年から数百年と長
い時間がかかるために、「世界平和の祈り」を熱心に祈っても、業想念が消えてゆく実感がないかもしれ
ませんが、業想念が消えているのは事実なのです。「世界平和の祈り」の効果を疑わず、祈りつづけてま
いりましょう。神の教えは、「世界平和の祈り」という一つの行法に単純化されたのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


本心と欲望
No.2074 森島恒吉    2000/08/29 (火) 01:36 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

禄堂さん、ご質問をありがとうございます。

私も、以前は禄堂さんと同じ感想を持っていたのです。不平不満や欲求を成功へのエネルギーとする、と
いう考えも良いのではないか、不平不満があるからこそ発明を生み出すことができるのではないか、と私
も思っておりました。私は若い頃、発明学会に出入りしていたこともあり、不平不満や欲求があるからこ
そ発明できるのだ、すべてに満足してしまっては発明ができなくなる、と思っておりました。

ところが、五井先生のお話によりますと、不平不満や自分勝手な欲求は、プラス面よりもマイナス面のほ
うが多い、というのです。そして「不平不満を微塵も持ってはいけない」とおっしゃるのです。五井先生
のこのみ教えを理解するには、私もずいぶん時間がかかりましたが、つまり五井先生は、目に見える成功
という形而下的なものではなく、あくまでも形而上の心の状態を、最優先にし問題にしているのでした。

たとえば、地球人よりもはるかに進化した宇宙人は、不平不満から発明をしたり努力をしたりしているの
ではないのです。不平不満の想いが全く無いのに、次々と発明したり、喜んで努力しているのです。不平
不満から行動しているのではなく、感謝の心で生き生きと活動しているのです。そうした境地というもの
は、自分がその境地にならないと、なかなかわからないものですが、不平不満がなくとも、じっとしてい
られなくて、おのずと努力したくなる境地があるのです。不平不満に、やる気をおこす、というプラス面
があるとしても、心を暗くする、人と争いを生じる、というマイナス面のほうが強いので、不平不満の想
いは、きっぱりと捨て去る必要があるのです。そして、感謝の想いからすべての行為をなす、という光明
の生き方に転換してゆかねばなりません。

欲求については、「○○したい」という想いが、すべて自我欲望とは限りません。「本心を開発したい」
「家族を幸せにしたい」「人々のために尽くしたい」「日本のために働きたい」「世界を平和にしたい」
という想いは、本心でありまして、これは欲望とは言いません。本心なのですから、もちろん悪いわけが
ありません。「世界を平和にしたい」とどんなに思っても、それは欲望ではなく本心であるのですから、
そう思って努力することは、人間として正しい生き方であるのです。本心と欲望想念の区別がつかない人
は、自己のすべての欲望を一度「世界平和の祈り」の中に投げ入れて、神のみ心の中で浄めていただき、
あらためて天命として頂き直すとよいのです。具体的にいえば、「神様のみ心のままになさしめたまえ、
世界人類が平和でありますように」と祈りつつ行動していれば、本心の行為ができるようになります。

白光誌の法話や内容に関する疑問や批判は、この掲示板に自由に書いてかまいません。白光真宏会を批判
しますと、それに対して昌美先生派が、激しく反論してくることがありますが、旧ソ連の時代のように、
「反体制派の発言は恐怖と暴力で封じ込める」というやり方は、人類の進歩を阻害するものです。お互い
に自由に発言させて、お互いの考えを理解することが、調和への第一歩です。妥協は、真の調和を作るこ
とにはなりません。個人への悪口ではなく、教義に関する事なのですから、批判をしてもネチケットに反
することはありません。「昌美先生を批判することはネチケットに反する」と何度も私に抗議してきた人
がいましたが、個人の昌美先生の生活態度やプライバシーではなく、白光真宏会会長である昌美先生の教
義に関して批判しているならば、それはネチケットに反することではありません。宗教指導者の立場に立
てば、政治家のように、人々からの批判を甘んじて受けるべきであり、批判に耐えることができず、誰か
らも批判されたくなかったら、宗教指導者としての資格がない人といえます。尚、批判する場合には、感
情的にならずに、冷静になって、できるだけ上品な言葉で書くようにして下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


本心と欲/平和の科学について
No.2077 森島恒吉    2000/08/30 (水) 00:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

禄堂さんのお考えでよろしいのですが、五井先生は言葉の使い方について非常に気を使っていて、くりか
えしますが、本心の働きを、欲望とか欲求とは言わないのです。「欲」という言葉を使わないのです。
「神様を求めたい」「真理を探求したい」「世界を平和にしたい」という想いは、欲求とか欲望とは言わ
ないで、本心から湧きあがってくる願いですから、本願(本望)、大願(大望)、真願(真望)と言って
もよいと思いますが、しかし、本願といいますと阿弥陀仏の本願の救いを意味しますし、本望、大望も、
別のニュアンスがあり、本心の希求する想いを表現する適当な言葉は、現在の辞書には見当たりません。
いずれにせよ、五井先生は、「本心」を「欲」と言うことはなく、「本心」と「欲」を明確に区別されて
いることを覚えておいて下さい。

宗教上の霊性開発法は、「世界平和の祈り」に勝るものはありません。しかし、「世界平和の祈り」だけ
で良い、と五井先生は考えているわけではないのです。「世界平和の祈り」を祈らない人々をも救うため
には、「世界平和の祈り」から生まれる普遍的な科学力が絶対に必要であり、その科学力が世界人類を根
底から救うことになるのです。その科学力とは、個人的には「霊性開発(波動調整)マシン」であり、
「世界平和の祈り」と共に使うことによって、急速にすべての病気が治り、潜在意識にたまっていた業想
念が見る見るうちに浄められることになるでしょう。人類的には、核兵器を含むすべての兵器を無力化す
る「調和(ハーモニー)波動マシン」が発明され、人類はすべての兵器を廃棄することになります。宗教
的な「世界平和の祈り」と、このような「平和科学力」によって、地球は平和になってゆくのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


どうぞ、私の名を呼んで下さい。
No.2090 森島恒吉    2000/09/07 (木) 10:06 富士宮市
世界人類が平和でありますように
姫華さん、はじめまして。この掲示板をご覧下さって、ありがとうございます。

[ご質問]
森島先生は五井先生の後継者だそうですが、かつての斎藤先生や、昔の信徒さんがしていたように、困っ
たときや何かあったときに、称名念仏として「森島先生、森島先生」と呼んでもよいでしょうか?

[お答え]
斉藤先生や信者さん方が、「五井先生、五井先生」と念仏のように称名していた、というのは本当です。
私達が、「五井先生」と呼びますと、五井先生と波長が合って、神霊の五井先生の光明が自己に伝わって
きて救われるわけです。同じく「守護霊様」と呼べば、守護霊様にその声が聞こえて、守護霊が救いの光
明を私達に与えて下さるのです。ところが、守護霊様は実在してはいるのですが、肉眼には見えませんし
肉耳にも聴こえません。それに対して、五井先生は肉体をお持ちだったので、姿形があり、心に思い浮か
べやすいために、信仰の対象としやすかったのです。そこで信者さん達は、五井先生のお姿の中に、自己
の守護霊様、守護神様を重ね合わせて、すべてを総称して、「五井先生」と呼ぶことにしたのでした。

五井先生は、常に「世界平和の祈り」をお祈りなさっているのですから、「五井先生」とお呼びすれば、
自己も「世界平和の祈り」を祈っていることになります。一番短い祈り言として、多くの信者さん達が
「五井先生」と称名したのは、当然なことでした。「お釈迦様」と呼んだり、「イエス様」と呼んでも、
やはり、真剣に呼びさえすれば、真実にその神霊に伝わるのですが、現在は肉体を持っていないので、非
常に遠くにいる感覚がするのです。肉体を持っている覚者は、ふつうの人よりは微妙な波動であるのです
が、肉体波動を持っているので、ぐんと身近に感じるわけです。

そこで現在は、肉体を持って、五井先生のように「世界平和の祈り」を指導している私の名を呼んで統一
するのが、最も簡単でやさしい統一方法といえます。私は、白光真宏会の会長後継者ではありませんが、
五井先生の真実の教えを伝えている後継者でありますから、私の名を呼ぶことは、五井先生の名を呼ぶこ
とと同じで、私の名を呼べば、その人は必ず救われることになります。

姫華さんが、称名念仏のように「森島先生、森島先生」と心で呼べば、必ず神霊の私が、あなたを助けに
まいります。困った時には、ご遠慮なく呼んで下さい。
姫華さんの天命が完うされますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


実行してわかること
No.2091 森島恒吉    2000/09/07 (木) 10:38 富士宮市
世界人類が平和でありますように

kazuakiさん、はじめまして。この掲示板をご覧いただいて、ありがとうございます。

最初のご質問の大調和科学については、五井先生のご本「聖なる世界へ」P84に詳しく書いてあります。
SF映画のようなお話ですが、五井先生は霊的に未来の世界を見通すことができる霊眼を持っていて、地
球人類の未来を、そのように予言されたのです。五井先生のこの予言は、私達にとりましては、強い希望
と勇気がふつふつと湧いてくるようなお話として聴こえるのですが、信じられない人にとっては、漫画の
ようでついてゆけない気がするかもしれません。それも無理もないと思います。信じられない部分は自分
で省いて、自分の納得いく教義の部分だけを信じてゆくのも、一つの信仰のあり方です。

二つ目のご質問については、おっしゃるように、「世界人類が平和でありますように…」という祈り言を
声に出したり、心の中で唱えたりして、幾度も繰り返し唱えるということです。そうしておりますと、祈
り言の持つ大光明波動と自己の想念波動がしだいに合致してきて、神秘的な霊力が現れてきたり、守護の
神霊により良い方向へと導かれるようになり、運命が好転してゆくのです。これは素直に信じて実行し、
自分の心身で確かめるほかありません。頭でいくら考えてもわかりません。冷暖自知であるのです。
kazuakiさんの天命が完うされますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


祈り方について
No.2092 森島恒吉    2000/09/07 (木) 22:19 富士宮市
世界人類が平和でありますように

まきさん、ご質問をありがとうございます。

「世界平和の祈り」とは、次の五行の祈り言です。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様 ありがとうございます
守護神様 ありがとうございます

世界人類の平和の中に、自国の平和も家族の幸福も含まれているのですから、理屈の上では「世界人類が
平和でありますように」という一つの祈り言で充分といえますが、肉体を持った人間は、長い間蓄積した
自己保存の本能から、どうしても、肉体の自己を中心として守ろう、と思ってしまいます。自分の幸福や
家族の幸福を願わない人はおりません。また、愛国心を持たない人間もおりません。よほどひねくれた人
は別にして、他国よりも自国を愛しております。そうした感情を持っているために、「世界人類が平和で
ありますように」の一言だけでは満足できないものがあるのです。そうした理由から、世界人類の平和を
祈ると共に、自国の平和と自分達の天命の完うを祈る祈り言が加わっているのです。

五井先生のご指導の下で集団で祈った時には、守護の神霊に感謝する部分の祈り言が少し変化して、「〜
守護霊様、守護神様、五井先生、ありがとうございます」と信者さん達は祈りました。唯一会では現在、
五井先生のお書きになった通りの表現で祈るようにしております。また、他の宗教団体の人と一緒に祈れ
るように、個人名の入った「五井先生、ありがとうございます」という祈り言は省いており、それは各人
の心の中で唱えていただくようにしております。

五井平和財団の場合には、宗教宗派を超えて活動する目的から、世界人類の平和と各国の平和を祈ること
に限定しました。「世界平和の祈り」を世界の合言葉にするためには、そうした方法も必要であると思い
ます。他方、唯一会は、「世界平和の祈り」を世界に広めるというよりも、五井先生の教義を忠実に継承
するという目的に重点を置いており、「世界平和の祈り」の内容を一つも削除しておりません。また、現
在の白光真宏会のように、新たに祈り言や行法を付け加えてもおりません。五井先生の祈り言に何かを足
したり、五井先生の祈り言から何かを削ったりしてはいないのです。五井先生が教えて下さった通りのオ
ーソドックスの「世界平和の祈り」を、私達は守り続けているのです。

個人で祈る場合には、どのように祈ってもかまいません。順序が逆になっても、どこから唱えても、一つ
だけを唱えても、くりかえし唱えても、それは各人のご自由です。たとえば、「世界人類が平和でありま
すように」の一言だけを繰り返し唱えてもかまいませんし、守護霊、守護神の存在が理解できたら、神様
という一言にまとめてしまって、「神様、ありがとうございます」とだけ感謝してもかまいません。

また、正しい祈り言であるならば、たとえば「世界平和の祈り」に、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華
経」を加えてもかまいませんし、キリスト教の「主の祈り」を加えてもかまいません。但し、集団で祈る
場合には、個人の好きな祈り方をすべてやっていたら日が暮れてしまいますから、「世界平和の祈り」に
統一しております。尚、守護神はふつう「しゅごしん」と読むことが多いのですが、五井先生の場合、
「しゅごじん」と読んでおりますので、私達もそれにならっております。これは仏教的な読み方です。

まきさんの天命が完うされますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


まさしく祈りの成果が現れたのです!
No.2098 森島恒吉    2000/09/08 (金) 19:47 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、ご質問をありがとうございます。
今回のドクトルさんの運気好転は、ドクトルさんの推測のように、「世界平和の祈り」を再び真剣に祈り
始めたからなのです。守護の神霊は誰をも守っているのですが、肉体人間側が守護の神霊に向かって真剣
に呼びませんと、守護の神霊の波長と合わないために、守護の神霊の加護の力が肉体人間側になかなか届
かないのです。不幸災難にあう人たちは、守護の神霊の守りの力が弱まってしまっているからなのです。

ドクトルさんの場合、真剣に「世界平和の祈り」を祈り始めたために、ご先祖の悟った神霊だけでなく、
救世の大光明霊団の数えきれないほどの多くの神霊と波長がピタリと合い、その神霊の光明がドクトルさ
んに流れてきて、ドクトルさんを強く加護するようになり、そのためにドクトルさんの悩んでいる問題に
光明がさし、運命が急速に開けてきたのです。いいかえれば、幸運という光明波動と合致したのです。

人間の運命というのは、肉体人間の力だけで動かしているように見えますが、実は目に見えない背後の神
霊の援助があってこそ、平凡な暮らしをつづけてゆけるものなのです。その背後の神霊の存在を無視して
自力だけで「幸福になろう」「運命を開こう」と努力しても、計画した通りに物事は進まないものです。
守護の神霊の存在を信じ、守護の神霊に加護を祈りながら、毎日の計画を立て目標に向かって進んでゆき
ますと、守護の神霊が応援して下さって、自分の思っていた以上の素晴らしい成果が現れてくるのです。

ドクトルさんのように、すぐに祈りの効果が現れてきた人は、祈りの力を早く信じることができますが、
すぐに効果が現れてこない人も、がっかりしていないで、他の人の体験談を読んだりして、信仰心を鼓舞
してゆくとよいのです。悩み事を守護の神霊に聞いていただくように、日々祈っておりますと、守護の神
霊は、その悩みを解決する手段を、必ず教えて下さるものなのです。その解決の答えは、耳に聴こえてく
るように、自分の心に直接ひびいてくることもありますし、他の人の助言を通して与えられることもあり
ます。守護の神霊は、その人に必要な智慧を、必要な時に常に与えているものでありまして、祈っており
ますと、守護の神霊の心と合致して、インスピレーションが肉体に伝わってくるようになるのです。

ドクトルさん、問題解決の糸口が見えてきて、ほんとうに良かったですね。おめでとうございます。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.