森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


「世界平和の祈り」を祈る人こそ、神の子である!
No.1904 森島恒吉    2000/06/08 (木) 12:25 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ありがとうございます。昌美先生は、行がお好きなんです。何か行法をやらずにはいられ
ないものを持っているんですね。我即神也とは「私は神である」という真理であるのですが、真理である
がゆえに、行法とする言葉ではないのです。「7万回書かなくてはならない」と思っているのですから、
昌美先生は、まだ神にはなっていないのです。神人には「しなければならない」も「してはいけない」も
無いはずだからです。

別の言葉で、たとえてみましょう。「世界は平和である」というのも真理の言葉です。しかし、現実の世
界は平和にはなっておりません。現実には平和になっていないのに、「世界は平和である、この世界は完
全円満で調和している」と宣言しても、現実から遊離した観念論にすぎません。「世界は平和である」と
いう真理を、何回唱えても、世界は平和になりません。それは真理と現実が、あまりにもかけ離れている
からです。多くの人々の納得も得られません。真理と現実が結びつかないからです。現実に結びつかない
観念的理想論にすぎないのです。「こんな自力的な方法では駄目なんだ」と気づかなくてはなりません。
守護の神霊にすがるしかないのです。守護の神霊に、なぜ祈らないのか、と私は言いたいのです。

「我即神也を7万回書く暇があったら、世界人類が平和でありますように、を7万回書け」と私は言うん
です。そうでしょう。厳しい言い方をしますと、「世界平和の祈り」を祈らないことは、地球滅亡に加担
しているのと同じなんです。「なぜ、そんな暇があったら、世界平和の祈りを7万回書かないのか?」と
私は言いたい。人間が本来、神の分霊であることは、五井先生がすでに教義に書かれていることで、そん
なことは、みんな知識としては、もう知っているんです。生長の家でも「人間は神の子」と宣言していま
す。五井先生も「人間は、本来、神の分霊である」と説いています。そんなことは、知っているんだ。

問題は、いったいどうしたら神の分霊である本体を顕現できるのか、ということなんです。そのためには
「我即神也」と何度書いても唱えても駄目なんです。「人間は、本来、神の分霊である」と唱えているだ
けでは駄目なんです。神というものが、わからない。つかめない。観念的になって、実観として神を把握
できないからです。そこで、「世界人類よ、平和であれ」という神の大愛のみ心と、人類の世界平和を希
求する願いを一つにした「世界人類が平和でありますように」という祈りが必要となったのです。

私達が「世界人類が平和でありますように」と祈る時、大神さまの「世界人類よ、平和であれ」というみ
心と波長が合致して、たくまずして、力まずして、自然に、神我一体になってゆくのです。これが神我一
体になる一番の早道であるのです。「我即神也」なんて、どんなにやったって、神我一体にはなれない。
それは所詮、肉体知で考え出した浅知恵であるからです。自力的な方法では、神人になれないのです。

「いつか神になりますように」という気持ちで、昌美先生は「我即神也」を唱えているんです。だから、
「7万回唱えなくてはならない」という「ねばならない」という教えが出てくるんです。それに対して、
「世界人類が平和でありますように」と祈っている私達は、「いつか」ではなく、今、神のみ心を行じて
いるんです。今、この瞬間に、神のみ心と一体になって、祈っているのです。「世界平和の祈り」を祈っ
ている私達は、すでに神我一体になっているのであり、私達はすでに神の子であるのです。神の子は今、
「世界人類が平和でありますように」と日夜を分かたず、祈りつづけているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD. 


中庸の真理の宣言は正しい
No.1907 森島恒吉    2000/06/09 (金) 11:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

誤解のないように説明しておきますが、「人間は、本来、神の分霊である」という教義は正しいのですか
ら、何万回唱えてもよいのです。「人間は、今、神の分霊である」と「人間は、本来、神の分霊である」
とは違う意味である、と私は区別させているんです。「人間は、今、神の分霊である」というのは真理を
現実に持ってきて、迫力はあるのですが、現実には人間は神性を顕現していないのですから、これは嘘に
なるというのです。理想が今すぐに現実化してほしいのですけれど、現実には、まだそうなってはいない
のですから、嘘になり、偽善になり、現実には合わない真理の言葉である、といえるのです。

「我即神也」という言葉は、「即」という文字がありますから、「私は今、神である」という意味であり
まして、「私は本来、神である」という意味ではないのです。昌美先生も、「私は、今、神である」とい
う意味で説いているのです。「本来、我即神也」ならば正しいのですが、「我即神也」だけだったら、そ
れは「ただちに今」という意味ですから、現実には合わない真理の宣言となる、とこういうわけです。

「人間は、本来、神の分霊である」という教義は、どんなに宣言してもよいし、唱えれば唱えるほど、神
性が自然に開発されてきます。ですから、これを唱えるのが好きな人は、唱えたらいいのです。しかし、
これだけでは、神の本質を理解できない人は依然として多いし、この言葉では人類の合言葉には成りえま
せん。そこで、「世界人類が平和でありますように」という祈り言が必然的に生まれたのです。

真理の宣言としては、「人間は、本来、神の分霊である」の他に、「人間は、未来、神の分霊である」と
いうような表現で宣言しても正しいのです。「人間は、未来、神の分霊である」という言葉は、「人間は
未来に神の分霊になる」と言いかえることができます。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、人間
は誰しも神の分霊の本体を現すことができるようになるのです。未来において、人間は誰しも神人となる
のです。それを広くして人類規模でいえば、「未来において世界は平和に成る」といえるのです。

五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の前段は、業想念を否定する表現となっておりますが、私
は本心を肯定する表現として「世界は平和になるという信念で世界平和の祈り」と説いています。この二
つは表現は異なっても同じ意味です。催眠術のように暗示的に言うのではなく、真理と信じて、「あなた
は幸福になる」「世界は平和になる」と宣言するのです。「将来、私は幸福になれる」と信じるから、強
い力が湧いてくるのです。「今は戦争があるけれど、未来はきっと世界は平和になる」と信じるから、
「世界を平和にしよう。世界平和の祈りを広めよう」という勇気が湧いてくるのです。「私は幸福になれ
ないかもしれない」「人類は滅亡するかもしれない」と未来の理想を疑ってしまったら気力を失います。

「真理の宣言は誤り」と言っているわけではなく、「理想に片寄った、現実無視の真理の宣言は誤り」と
私は説いているのです。「理想と現実をつないだ中庸の真理の宣言は正しい」のです。「我即神也」は理
想に片寄った、現実無視の言葉で、理想と現実がつながりません。ですから、これは誤りであるというの
です。「世界は現在、平和である」という言葉もそうです。理想ではありますけれど、現実にはそうなっ
ていないのですから、理想と現実がつながりません。だから、無理な真理の宣言となるのです。しかし、
時間の経過を加えて、「世界は未来に平和になる」といえば、今度は、現実にも矛盾しないし、理想にも
矛盾しない真理の宣言となります。現実に無理がありません。これを中庸光明思想と言うのです。

「業想念は無い」と言い切ってしまうと、真理を宣言する爽快感は一瞬感じられますが、現実には業想念
は存在するのですから、否定しても否定しても、業想念を目の前に突きつけられて、業想念の圧倒的な力
に負けて、「業想念は無い」と押し通すことができなくなってくるのです。そこで苦しまぎれに、想念の
法則(カルマの法則)を持ち出してきて、「業想念は無いのだけれど、あなた自身が、業想念は在る、と
認めているから業想念は存在するのだ。無いと思えば、無いのだ。あなたが思ったから、現象としてこの
不幸は現れたのだ。悪い想念を出した、あなたが悪いのだ」と人を責め裁くようになってゆくのです。

ところが、真理を一段下げて、「業想念は現在は存在しているが、時間がたてば消えてゆく」と業想念を
漸次否定する表現をしますと、迫力は少し劣りますが、現実の業想念の存在という事実には矛盾しません
から、「業想念は無い、と先生はおっしゃるのに、なぜ、現実には業想念(不幸や病気や災難)は在るの
ですか?」と質問されることがなくなります。それは「業想念は現実には在る」と現実の業想念の存在を
正直に認めているからです。それでいて「今の業想念は、時間がたてば消えてゆく」と漸次否定している
のですから、「未来において、業想念は無い」という理想にも矛盾していないわけです。

未来には業想念は無いのですから、自分や人を責め裁く必要もありません。悪が存在している、と思うか
ら、自分や人をいつまでも責め裁くわけです。悪は無くなってしまうのですから、赦すも赦さないもあり
ません。想念の法則を用いて、「善いことだけを考えよう。悪いことを考えまい」とビクビクと臆病に暮
らす必要はないのです。「未来に、悪は無い」のですから、想念の法則を用いて自分や他人の想念を分析
したりしないでもよいのです。想念の法則など、必要ないのです。これこそ光明思想であるのです。

そこで「業想念は消えてゆく姿」という理想と現実の中庸に位する言葉が、最善の教えである、というの
です。五井先生の「消えてゆく姿」という教えは、頭の悪い、霊性の低い信徒達を導くための方便的な言
葉ではありません。「消えてゆく姿、という教えは、中途半端な教えであり、昔の古いやり方であり、悪
は無い、という教えこそが、現代の新しい教えである」と説いている宗教者がいますが、そんなことを説
いている宗教者は、五井先生のみ心を知らぬ大馬鹿者であるのです。「消えてゆく姿」という言葉に大き
な意味があり、過去の古い宗教のように自他を責め裁く必要がなくなり、人類は赦されたのです。神の慈
愛の教えであり、大きな赦しの言葉である「消えてゆく姿」という教えを、低く見てはいけません。

悪も病気も不幸も災難も、不完全なものはすべて消えてゆきます。そして、世界は平和になるのです。今
どんなに苦しくつらいことがあっても、それは一時的なもので、いつかは必ず消えてゆきます。自分にど
んな欠点や欠陥があっても、すべてそれらは消えてゆき、いずれ完全な神性を現すことができるのです。
他人の悪も、時間と共に消えてゆき、すべての人が完全円満性を現すようになります。人と人との不和も
国と国との戦争も、必ず消えてゆきます。そして、私達の地球は平和な理想世界となるのです。

不完全な姿が一日も早く消え去るように、私達は守護の神霊に祈り、宇宙天使の方々に応援を願っている
のです。「世界人類が平和でありますように」と祈ることが、守護の神霊の力を発揮させることになり、
地球の業想念を消滅するのに最も効果的であるのです。「業想念は必ず消えてゆき、世界は平和になる」
と信じて、「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。世界は必ず平和になります!

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


過去にも未来にも把われないで生きる
No.1911 森島恒吉    2000/06/13 (火) 09:31 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

毎月、唯一会の集会で五井先生のテキストを解説しておりますが、ご本の半分ほど解説したところで、時
間がなくなることが、しばしばあります。「空即是色」のご本もそうでした。今日は、「空即是色」の中
から、後半の部分を解説することにしましょう。

(「空即是色」五井昌久講話集/白光真宏会出版局P116より)
…物事を始めてしまってから、結果がいいか悪いか、と言うのはおかしい。一番嫌なのは、結婚してしま
ってから、「この結婚よかったでしょうか、悪かったでしょうか?」と尋ねられること。いいも悪いも、
ありゃしない。もう踏み出してしまったんだから、もう前に進むより仕方がないではないですか。
 赤ちゃんを産む時は、産むより絶対しかたがない。ひっこみはつかない。赤ちゃんは産まなければなら
ないんだ。嫌だから、辛いからといって、後戻りはできない。…絶対に前進よりない。ただ一筋しかない
わけです。人生万般、みんなそうです。前へ進むより仕方がない。人間は退くことができないのですよ。
ところが、逃げれば逃げられると思う。ところが運命でもなんでも、逃げられないのです。覚悟しなけれ
ばならないのですよ、みんな。(笑)…

[解説]
人間というのは、悩み方もそれぞれ異なっているのですが、過去をクヨクヨと後悔している人がいるかと
思うと、将来を心配してばかりしている人もいます。過去にしてしまったことは、今さら後戻りすること
はできません。これはもうどうしようもないのですから、反省して、改めるべきところは改めて、今の立
場から前に進むより仕方がありません。過去の自分を責めても仕方ありませんし、過去の他人を責めても
仕方がありません。過去を責めても仕方がないのに、過去に把われる想念の癖を持っている人は、いつま
でも過去を思い出しては、自分や人を責めてしまいます。反省することは必要な行為であるのですが、し
かし、後悔ばかりしていては、生命が生きません。このように過去に把われる人は、どうしたらよいかと
申しますと、守護の神霊に過去の行為を赦していただくお祈りをするとよいのです。

「守護霊さま、どうか私の過去の過ちをお赦し下さい」
「守護霊さま、どうかあの人の過去の過ちをお赦し下さい」

というように守護の神霊に赦しをこうのです。後悔する人は、後悔するたびに、何度でもいいですから、
この「赦しの祈り」の祈るのです。そして、「世界平和の祈り」の中に入ってゆくのです。そうしており
ますと、過去に把われる想いが消えてゆきます。

また、将来を不安に感じている人もいます。「地震で死にはしないか」「病気で死にはしないか」「大学
に入れないのではないか」「就職できないのではないか」「結婚できないのではないか」「貧乏になりは
しないか」「あの人にフラレやしないか」「会社をやめさせられやしないか」「日本は戦争をしないだろ
うか」「地球は滅亡しないだろうか」などと、将来の不安を思ったらキリがありません。将来の人生設計
を考えるのは常識ですが、将来に不安ばかりをいだくようになったら、これもまた行き過ぎです。この場
合も、守護の神霊に未来の不安を消していただくお祈りをするとよいのです。

「守護霊さま、どうか私のこの不安をお消し下さい」
「守護霊さま、どうか私の未来が善くなりますように」
「守護霊さま、どうか神さまのみ心のままに、私をお導き下さい」
「守護霊さま、どうか私達をお守り下さい」
「守護霊さま、どうか私達の未来の天命を完うせしめたまえ」

というように未来に不安を感じるたびに、守護の神霊のみ心の中に不安な気持ちを投げ入れて、「世界平
和の祈り」を祈り、すべての想念を浄めていただくのです。そうしておりますと、「自分の未来の運命は
必ずよくなる」という信念が湧いてくるようになります。過去に対するよけいな想念も、未来に対するよ
けいな想念も、すべて神さまのみ心の中に入れて無くしてしまうと、空(くう)になります。すると、神
さまの光明が入ってきて、自分の心がパーッと明るくなってきます。守護の神霊のみ心の中に、どんな想
念も入れてしまうのです。初めのうちは、この転換がパッとできませんが、練習しているうちに、どんな
想念が出てきても、スーッとお祈りの中へ入れてしまうことができるようになります。自然にそうなるま
で、お祈りの習慣をつけることが必要です。業想念が自己の潜在意識から出てきたり、人から業想念の言
葉をぶつけられた時、とっさにお祈りに転換できるようになれば、もうしめたものです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「世界平和の祈り」以外の行はいらない
No.1912 森島恒吉    2000/06/14 (水) 09:53 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

(「空即是色」五井昌久著白光真宏会出版局P127より)
…「世界平和の祈り」一念でいいんです。あとはなんにもいらない。ふつうの当たり前のことをやってい
ればいい。…一つの固まった行をしなきゃ淋しいような、行をしていなきゃ自分が頼りないような、それ
じゃあ解脱していませんね。…役(えん)の行者は、自分でもってこの体をスッと消せられた。統一した
ままで姿が消えちゃったんだから、凄い意志力というか、念力ですね。そういう念力の持ち主でありなが
ら、消えてしまってから何をやったかというと、「自分は駄目だ」と思ったんだね。「自分の力では限度
があって、いくらやってもやっても駄目なんだ。だから全部大神さまの中に入れなきゃいけない」という
んで、全託するというところへ入って行ったわけです。それで救世の大光明の中心者になったんですよ。
…生命をかけ肉体をすべて捨てて、修行に修行を重ねた役の行者のような人の言うことが何かというと、
「全託あるのみ。宇宙神のみ心の中に全部投げ出す以外に悟る方法はないぞ」ということ。だから、今は
全託行だけでいい。…ですから今さら、滝にあたったり、水をかぶったり、呼吸法をやったり、そんな小
さな修行なんかする必要はないんですよ。今は、神さまのみ心に「世界人類が平和でありますように」と
すべてを投げ出してしまう。…変に修行したい人があるんですよ。しかし、したきゃ、したってかまわな
い。ただ、そんなものは、なんにもならない、ということなんです。…「世界平和の祈り」に決定(けつ
じょう)したら、想いは乱れません。そういうことを悟りというんです。だから、一番やさしい悟りの方
法、解脱の方法が、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だというんです。…

[解説]
五井先生のみ教えが理解できますと、「世界平和の祈り」一念となりまして、他の行法は何もいらなくな
ります。「世界平和の祈り」を祈れば、人類の業想念は消えてゆき、人類の本体である神性は現れてくる
のですから、「世界平和の祈り」以外につけたす行法は何もいらないのです。「世界平和の祈り」こそ、
究極の行法であるのです。五井先生の時代には通用してはいたが、現在は古くなった、ということは決し
てありません。「世界平和の祈りに付け足すものは何も無い」と五井先生は何度も説いているのです。

私が、こう書くと「私は五井先生のご本をすべて読んだが、五井先生はそんなことを書いてはいないし、
説いてはいない。それは森島さんの勝手な解釈だ」と、私に文句を言ってくる人が時々います。私は、そ
のたびに「五井先生のご本をもう一度よく読みなさい。なんども読み直しなさい。必ず書いてあるから」
と答えます。すると「それはどこに書いてあるのか?」と訊かれるので、「あなた自身でそれは探しなさ
い」と私は答えることにしています。実際に探せば、私の言う通り、五井先生のその言葉はあるのですか
ら、二度と私に文句を言ってくることはありません。五井先生のご本を一度さっと読んだくらいで、もう
わかったつもりになって、私に食ってかかってくる若者がいて、あきれてしまうのですが、そうした若者
にも、やさしく愛情をもって忍耐強く教えなくてはなりません。

「世界平和の祈り」を祈ることは、あまりにもやさしいので行法と思っていない人がいますが、「世界平
和の祈り」を祈ることは一つの行法であるのです。五井先生は、「世界平和の祈り」以外に行法は不要で
ある、と説いているのです。「世界平和の祈り」だけでは悟れないのではないか、もっとすぐれた行法が
あるのではないか、という想いが、そもそも業想念であるのです。「世界平和の祈り」だけで、悟ること
はできます。「世界平和の祈り」に一心不乱となることです。すると想いが乱れなくなり、心が平静にな
り、永遠の生命を得ることができるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「私の霊界通信」のおすすめ
No.1914 森島恒吉    2000/06/15 (木) 23:59 富士宮市
世界人類が平和でありますように

村田正雄氏の「私の霊界通信」(白光真宏会出版局)は、霊界の存在と「世界平和の祈り」の霊力を知る
のに適当な本であると思います。村田氏はすでに他界されていて、新しい方々は村田氏の存在を知らない
人も多いと思いますが、村田氏は肉体界と霊界を自由に行き来できた稀な霊能力の持ち主で、霊界のよう
すを私達に伝えてくれました。「私の霊界通信」に登場する中心人物は、「世界平和の祈り」を現世で祈
っていた人々で、霊界でのようすを村田氏を通して伝えてきているのですが、「世界平和の祈り」が霊界
において、いかに効力のあるものかを、くりかえし伝えています。すでに悟った人の霊界でのようすを伝
えているのではなく、まだ悟っていないで、たまに「世界平和の祈り」を祈っていた、ふつうの人が、ふ
つうの人の立場で、五井先生や天使に導かれて、しだいに心境を高めてゆくところに、読者は非常な親近
感を感じて、勇気を与えられることでしょう。五井先生の法話はやさしい、とは申しましても、ふつうの
人にとっては、五井先生の心境は高過ぎて、五井先生の心境へ到達するまでには遠い気がするようです。
その点、「私の霊界通信」に登場してくる人々は、私達と同じように五井先生の弟子であるので、非常な
親しみを感じるのでしょう。霊界に登場する人々も、「世界平和の祈り」を唯一最高の祈りとして、行じ
ています。霊人たちが、「世界平和の祈り」一つに徹している点も、私のお勧めする理由でもあります。
「私の霊界通信」は物語としても興味深く、心を清められます。ぜひ、お勧めいたします。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


五井先生に会いに来て下さい!
No.1916 森島恒吉    2000/06/18 (日) 01:24 富士宮市
世界人類が平和でありますように

禄堂さん、はじめまして。
「五井先生の他界後、会を引き継いだ昌美先生の著述物は、部分的に『正しい』という気がするのです
が、何か違う気がします」というあなたのご感想は、私も同感です。

正直にご自分のご感想やご意見を述べることは、なんら問題ありません。現代の日本は、昔の封建主義や
独裁政治の時代とは違い、自由主義の世の中で、悪口、誹謗、中傷は、もちろんいけませんが、自分の感
想の是々非々を述べることは自由です。総理大臣に対して、「あの人は総理の資格なんて無い」と公の席
で発言しても、「天皇陛下なんて、必要がない」とテレビで発言しても、警察に逮捕されて牢獄に閉じ込
められることはありません。それはその人の意見であり、政府も政治家も、その人の思想の自由を束縛す
ることはできません。もし、思想の自由を束縛する宗教指導者がいたら、その宗教指導者は、真実の宗教
者ではなく、独りよがりの独裁主義者と呼ぶべきでしょう。

悪口は、対象とする人を陥れようとする悪意を持った発言であり、批判とは、対象とする人を愛し生かそ
うとする、本心からあふれてくる発言であるのです。あなたの正直なご感想は、悪口ではありません。あ
なたのご感想からは、悪意が少しも感じられません。純粋に、何が正しいのか、何が真実なのか、真実を
追究したい、という真心が感じられます。ご遠慮なく、正直に、ご感想を述べて結構です。

人間は本来は神の分霊であり、神の子でありまして、亀の子は亀であるように、神の子もやはり神である
と言えないこともないのですが、現実の肉体人間は、まだまだ不完全な点が多く欠陥だらけで、完全円満
な神の子とは、とても言えるものではありません。それは、現在の人間は、本来の神性を顕現する途中の
段階におりまして、充分に神性を発揮しえてはいないからなのです。現在の人間は、本来の神の分霊の能
力をも発現しえていないのですから、まして、宇宙を創造した宇宙神と同等の神、と見ることは、どうし
ても無理があります。昌美先生の説かれる「我即神也」の教えは、「私は神である」という意味ですか
ら、それは理想ではあるのですが、現実の人間は、まだ神性を発揮していないし、不完全な人間でありま
すし、神の子を現してはいないのですから、虚言となってしまうのです。

五井先生は、理想と現実を結ぶように、「悪や病気や不幸などの不完全な姿は消えてゆく姿」と中庸の教
えを説いたのですが、昌美先生は、五井先生の中庸の教えを理解することができず、「悪や病気や不幸は
無い。問題は無い。人間は神である。人間は完全円満であり、できないことは無い」と理想に片寄った教
えを説いてしまったのです。そして、昌美先生ご自身は、「自分の教えは、五井先生の教えよりも、ずっ
と進んだ高い教えである」とひそかに自慢しているのです。ですから、五井先生の「世界平和の祈り」を
やらせず、といっても、やらせない訳にもいきませんから、表面上は「世界平和の祈り」を伝えながら
も、「我即神也の宣言と印こそ、究極の真理であり、究極の行である」と、それとなく、ご自分の発案し
た「我即神也」のほうが、「世界平和の祈り」よりも一段高い行法であるかのように説き、信徒の皆さん
には、ご自分の発案した「我即神也」の行法に重点を置かせるように指導しているのです。

昌美先生が、生長の家のように、理想(真理)に片寄った教えを説くのも、それなりの存在意義があり、
意味のないことではないのですが、いつまでもそのままでは困るので、私が五井先生の真実の教えを解説
するようになったのです。昌美先生は、ついに五井先生の教えを理解できませんでした。そのために、白
光真宏会が変化してしまったのです。宗教団体は、指導者によって、善くも悪くもなりますし、信徒の心
境は、指導者しだいで高くも低くもなります。指導者が正覚を得ていれば、その信徒達は安心立命します
し、指導者が迷っていれば、その信徒達もまた迷います。あなたのご感想の通り、五井先生の教えと昌美
先生の教えは、まるで異なりますし、正反対ともいえるのです。あなたのご感想は、正しいのです。それ
を「五井先生の教えと昌美先生の教えは、全く同一である」と繰り返し主張し宣伝している講師や理事が
おりますが、信徒達をどんなに言いくるめようとしても、それは誤りなのですから、いずれその誤りが表
面に現れてくることは確かです。五井先生の教えと、昌美先生の教えは、同一ではありません。

まず、唯一会のホームページに書いてある私の文章と、この掲示板の過去ログにある私の文章をお読み下
さい。白光真宏会と唯一会の違いが、よくおわかりいただけると思います。唯一会は、五井先生のみ教え
を忠実に継承した会であり、現在の白光真宏会は、昌美先生の教えを中心にした団体であることがおわか
りいただけることでしょう。現在の白光真宏会の教えが正しいと思えば、その人は白光真宏会で学べばよ
いし、唯一会が五井先生の教えを正しく継承していると思ったら、唯一会の会員人数がたとえ少なくと
も、唯一会に入って学べばよろしいでしょう。行法を比較して、どちらが易しいか、といえば、それは唯
一会に決まっています。唯一会では、五井先生の教えだけを行ないます。すなわち、「世界平和の祈り」
しか、やりません。「世界平和の祈り」以外の行法は、一切ありません。実に容易で簡単です。ですか
ら、唯一会の存在が知られるにつれて、白光真宏会の会員よりも、唯一会の会員のほうが急速に増えてゆ
くのは当然のことです。

そうしたことがわかったら、昌美先生の誤りに、いつまでも把われていないで、自分みずからが、五井先
生の教えを率先して実行してゆかねばなりません。あなたも、唯一会に入会されて、五井先生の教えを学
び直されるとよいでしょう。五井先生の教えが理解できれば、「世界平和の祈り」一念の迷わぬ人となり
ます。五井先生のご本を丹念に読んで、あなたも中庸光明思想の持ち主になって下さい。

唯一会の集会にくれば、五井先生の真実の教えと出会うことができます。五井先生の教えを学び、忠実に
「世界平和の祈り」だけを実行している唯一会の集会に、神体の五井先生が現れないわけがありません。
唯一会の集会には、毎回、神体の五井先生が出現されているのです。もしも、五井先生にお会いしたかっ
たら、あなたも唯一会の集会においで下さい。五井先生は、あなたの来られるのをお待ちしております。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


若者達への希望
No.1918 森島恒吉    2000/06/18 (日) 22:17 富士宮市
世界人類が平和でありますように

禄堂さん、ありがとうございます。
唯一会は、私の主宰している会でありますが、現在は宗教法人ではなく、大学の同好会クラブのような集
合体です。集会では、会議室を借りるために参加費はかかりますが、唯一会会員となっても、無料です。
私は五井先生のみ教えを講義し、「世界平和の祈り」をインターネットで広めておりますが、このような
唯一会の活動から、私は収入を得てはおりません。但し、将来、唯一会の会員が増え、唯一会の活動に専
念しなければならなくなったら、無料奉仕のボランティア活動には限界がありますから、唯一会を法人化
することも検討しなければならなくなるでしょう。

現在、このインターネットでのみ、唯一会の会員を募集しておりますが、Peace Prayer Familyと会員の
二種類のメンバー登録があります。どちらも唯一会の考えに賛同し協力していただく意思を持つ方です。
Peace Prayer Familyとは、匿名(ニックネーム)とメールアドレスだけを唯一会に登録するメンバーで
あり、会員とは、氏名、住所、電話番号、生年月日などを唯一会に登録していただくメンバーです。当然
個人のデータを登録していただく会員の皆さまには、優先的に唯一会の情報をメールでお送りします。

唯一会の会員となるのに、年齢制限、なすべき課題などの条件はありません。どなたでも入会できます。
「世界平和の祈り」にご賛同いただき、ご一緒にお祈りしていただくことは、申すまでもありません。
入会された後も、「世界平和の祈り」以外に、特別な行法をやらせることはございません。唯一会の集会
において、私の講義中、喫煙や飲酒を禁じますが、これは常識の範囲だと思います。

唯一会の集会では、五井先生のご本をテキストにして、毎月一回私が直伝で講義しておりますが、現在の
私は50歳でありまして、皆さんに五井先生の教えを直伝できるのは、あと10年間であると思います。
この10年間のうちに、五井先生の教えをしっかりと理解した人々を育成することが、私の天命です。
ですから、若い方々には、できるかぎり唯一会の集会にご参加いただき、私の他界した後も、五井先生の
教えを正しく後世に伝えていただきたい、と希望しております。私は、「世界平和の祈り」の普及に一生
一代の生命を懸けております。「世界平和の祈り」に生命を懸けてくれる若者の出現を望むしだいです。

禄堂さんのように常識的な感覚を持ち、誰をも傷つけないように配慮する思いやりを持ち、礼儀正しく、
五井先生の教えを直観的に理解できる方に、ぜひ、唯一会の会員になっていただきたいと思います。この
唯一会のホームページにある教義の解説と、この掲示板の過去ログをお読みになれば、私の考え方や人物
像が、だいたいおわかりいただけると思います。じっくりとお読みになり、よくお考えになって、心から
ご納得した上で、ご入会をご決断下さい。私個人としましては、禄堂さんのような方には、ぜひ唯一会の
会員となっていただきたい、と希望しております。ありがとうございました。

あなたの天命が完うされますように


百知は一真実行に及ばず
No.1921 森島恒吉    2000/06/19 (月) 13:06 富士宮市
世界人類が平和でありますように

五井先生の真実のみ教えを学び、「世界平和の祈り」を祈ることは、皆さんご自身の神性を開発し、現世
の運命を改善してゆく効果があるわけですが、唯一会の会員が増えてゆきますと、「世界平和の祈りだけ
を祈りたい人たちが、これだけ多く存在するんだ」という事実が、多くの人々に認識され、「世界平和の
祈り」の持つ光明力が、見直されてまいります。つまり、唯一会の会員となることによって、集団の中の
自分となり、知らない間に、「世界平和の祈り」を広める大きな働きをしていることになるのです。

「森島さんのような方が、なぜ、白光真宏会の外で、世界平和の祈りを教えるのですか? 白光真宏会の
中でご指導されたら、よろしいではないですか?」と私にお手紙を下さった人がいますが、私も、そのよ
うにしたかったのです。当初、私は白光真宏会の内部で、白光真宏会会員を対象に、「世界平和の祈りを
祈る集会を開きたい」と考えておりました。しかし、それを白光真宏会にお願いしたところ、断られてし
まったのです。「昌美先生の現在の新しい教えは、五井先生のご神示です。光明思想徹底行、我即神也、
人即神也、地球世界感謝行などをやらないで、世界平和の祈りだけしかやらない活動は認められません」
と言われ、それで仕方なく、白光真宏会の外で活動を始めたわけです。白光真宏会の支部、白光真宏会の
集会場としても、昌美先生のご指示の通りに動かねばなりません。そこで、白光真宏会の指導に束縛され
ない組織を作ることにしたのです。私としては昌美先生の下で活動したかったのですが、独立して「世界
平和の祈り」を広めることが、私の天命であったのです。これも神様のご計画であったのでしょう。

現在、白光真宏会の維持会員として長年活動してきた人たちの中で、五井先生の教えと現在の昌美先生の
教えを比較して、違和感を感じている人が、かなり多く存在しています。しかし、そうした違和感を感じ
ていても、周囲に本音を打ち明けることができず、「世界平和の祈り」一本槍で祈るだけの自信も持てな
いでいるのです。そんな時、唯一会の存在をインターネットで知り、「自分と同じ疑問を持つ人が、これ
だけ多くいたのか!自分一人だけではなかったのだ。五井先生の教えを継承し、世界平和の祈り一本槍で
祈っている人たちが存在していたのか!」と大変感激して下さる方が増えてきております。

一人の人間の力だけでは、大きな仕事はできません。「世界平和の祈りだけを祈ってゆこう」と思ってい
る人が、全国にたくさん存在していても、それぞれ一人一人がバラバラで、横のつながりがなければ、ど
んなに正しい生き方も、世間に訴える力は弱いのです。「世界平和の祈り」を祈る人たちが、一つの有機
体のように集団化することによって、個人の力ではなしえない、大きな社会的影響力を持つようになるの
です。二つの磁石を一つにすれば、磁力は前よりも大きくなります。三つの磁石を合わせれば、さらに大
きな磁力が発生し、磁場が変化します。それと同じように、人間も一人よりも二人、二人よりも三人と、
集団で「世界平和の祈り」を祈りますと、「世界平和の祈り」の霊力が強力に発揮されるようになり、強
力な霊的磁場の発生によって、個人の魂の浄まりも急速に促進されることになるのです。

「世界平和の祈り」一本槍で生きる私達の生き方に賛同して下さる方が、日ごとに増えてきております。
私達の生き方を見下し、無視している人も、数年の後には、私達がいつの間にか巨大集団に生長している
事実を目の当たりにするようになり、びっくり仰天するはずです。寝ても覚めても、「世界平和の祈り」
一念で生きている私達の生き方は、五井先生のみ心にも、守護の神霊のみ心にも適った生き方であり、永
遠の宇宙法則に正しく乗った生き方でもあります。

「世界平和の祈り」だけを祈っている日本全国の皆さん、一人で祈っていないで、私達とご一緒に心を合
わせて祈りましょう。私達の愛の祈りの力を結集しましょう。私達が集まれば、日本の世論に影響を与え
世界を平和な方向へと動かす力が生まれるのです。他人の批判ばかりしていても、始まりません。私達が
正しい生き方を示すのです。私達が、「世界平和の祈り」のパワーを発揮するのです。私達が、「世界平
和の祈り」によって、まず安心立命するのです。「百知は一真実行に及ばず」…どんな知恵も知識も思想
も行法も、「世界平和の祈り」という一つの真実の行には遠く及ばないのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


守護の神霊に祈れば、おのずと答えは示されます。
No.1922 森島恒吉    2000/06/19 (月) 13:32 富士宮市
世界人類が平和でありますように

やあ、コスモスさん、こんにちは。お元気でした?

[質問]
ところで、森島先生に一つお聞きしたいことがあるので、聞いてください。
「あの大学に行きたい」と思うのは、業なのでしょうか?虚栄心などの現れなのでしょうか?
私は名誉のためなどではなく、ただ純粋にそこに行って、ある研究をしたいだけなのですが。
確かに、私も現役時代は、名声を追っていた、はずかしい限りの過去がありますが、世界平和の祈りの中
で、それのおろかさに気づき、今は、本心から名誉欲なしで大学を目指しております。
このことで、かなり悩んでおります。どうか、お答えください。m(_ _)m

[お答え]
ふつうは、過去世からの因縁、潜在意識から流れてくる欲望想念、この世の常識観念、周囲のアドバイス
などによって、自分の進路を判断し、決断を下してゆくわけです。時には業で判断してしまうこともあり
ますし、時には守護霊の強い指導で、本心のままに正しく判断する場合もあります。

「あの大学に行きたい」と思うのも、業で思っている場合と、本心で思っている場合、の二つがあるので
す。そこで正しい判断をするには、自分の欲望想念も正しいと思われる想念も、一度「世界平和の祈り」
の中に入れてしまい、守護の神霊のみ心の中で浄めていただき、自然に現れてきた決断で、行動してゆく
とよいのです。具体的には、このように祈ればよいのです。

「守護霊様、私は○○大学へ行きたいのですが、守護霊様のみ心に適うならば、私を入学させて下さい。
 でも、もしも、守護霊様のみ心でないならば、別の進路を私に教えて下さい」

と守護霊様に祈り、「世界平和の祈り」を祈るのです。そして、そのように何度祈っても、自分の決意が
変わらぬようでしたら、「これは守護霊様のみ心に違いない」と信じて、自分の希望する○○大学へ入学
できるように懸命の努力をするのです。

コスモスさんの場合、ご希望の○○大学へ行くことは、守護の神霊のみ心に適うことです。そのために、
いくら否定しても「あの○○大学へ行きたい」という気持ちがふつふつと湧いてくるのです。その希望が
あるうちは、懸命に努力することができるはずです。どうか、そのおつもりで、ご勉学をお続け下さい。
そして、たまには気分転換に、この掲示板に書き込みをしてくださいね。(^_^)

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


自力を教える宗教者と他力を教える宗教者。
No.1929 森島恒吉    2000/06/22 (木) 03:08 富士宮市
世界人類が平和でありますように

禄堂さん、五井先生の教えを学んで下さって、ありがとうございます。
子供の頃、氣の研究会で合氣道をなさっていたそうで、親近感をおぼえます。

クリシュナムルティは、真理の言葉を説いているのですが、その真理を行為に現す方法として、自力によ
る方法をとっているのに対して、五井先生は他力による方法をとっているのです。そこが異なっている点
です。真理の言葉は、どの宗教者も説いているし、悟っていない人でも、誰でも、真理の言葉は簡単に言
えるのです。真理の言葉を説いているからといって、その宗教指導者が必ずしも実行できているとは限り
ません。いかにも誰にでも容易に真理を実行できるように説いてもいますが、「こうしなさい」と言われ
ても、「こうしてはいけない」と言われても、そうやすやすと真理は実行できるものではありません。

「真理を実行しよう」「真理を実行しなければならない」「真理を実行できる」と思っていても、唱えて
も、そう簡単に真理を実行できるほど、生易しいものではありません。宗教指導者から「何かになろう、
と思うな」と教えられて、「はい、そうします」と答えることはできても、はたして、その通りに実行で
きるでしょうか? それが最初からできる人なら、教えられなくても、すでにできている人でしょう。
皆、言われた通りに真理を実行できないから、悩んでいるのです。

「人を殺すな」と教えられているにもかかわらず、殺人をおかしてしまう。「対立するな」と教えられて
いても、対立してしまう。「過去の記憶に把われるな」と教えられても、過去の記憶に把われてしまう。
「心でも姦淫するなかれ」と教えられても、心で姦淫してしまう。「自分を愛するごとく人を愛せよ」と
教えられても、自分や自分の家族だけを守ろうとして、「他人のことなど、どうなってもいい」と思って
しまう。友人から「お金を貸してくれ」と頼まれても、自分の家族に与えるように、友人にお金を差し出
すことはできない。見知らぬ人に、「一晩、家に泊めさせて下さい」と言われても、その人に親切な行為
ができない。キリスト教の教会ですら、夜半の突然の訪問者には門を閉じるのですから、ふつうの人に、
真実の愛の行為という真理を実行できるはずがありません。それが現実の人間ではないでしょうか?

現在の地球人間は、「このように真理を実行しなさい」と教えられても、その通りに真理を実行できない
凡夫であるのです。真理の言葉を説くことは、誰にでもできます。問題は、どうしたら真理を実行できる
ようになれるのか、ということなのです。多くの宗教者は、真理の言葉を説いてはいるのですが、どうし
たら、その真理を実行できるようになるのか、その方法を教えてはいないのです。真理の言葉を本に書い
たり、演説したりすることは、誰にでもできることです。真理の言葉を実行する事がむずかしいのです。
真理を実行することが、いかにむずかしいことか、知らぬままに安易に説いている宗教者が多いのです。
高い真理を説いて、「ここまで上がって来い」と言わんばかりに、自分一人高見に立っている宗教者が、
あまりにも多いのです。現実の凡夫の立場に立っていないから、その教えでは衆生は救われないのです。

そこで五井先生は、「自力で真理を実行しようとしても、それは無理だから、守護の神霊にすべておまか
せして、守護の神霊のお力によって、真理を実行できるように導いてもらおう」と他力行を教えているの
です。五井先生の教えには、「世界平和の祈り」に全託する全託行一つだけがあって、自力で「こうしな
ければならない」とか「ああしてはいけない」という戒律や行はありません。真理を実行できないのは、
業想念の消えてゆく姿であり、「世界平和の祈り」を祈っているうちに、業想念が守護の神霊に浄められ
同時に本心が現れてきて、自然に真理を実行できるようになる、なぜならば、人間は本来、完全円満な神
の分霊であるからだ、という光明思想が、五井先生の教えであるのです。

7月8日(土)唯一会の東京集会には、禄堂さんも、ぜひお越し下さい。統一の仕方がわからなくても、
テキストの本を持っていなくても、参加は可能です。唯一会は五井先生直伝の「他力易行道」ですから、
私の講義や指導中に、居眠りをしていてもかまいません。居眠りをしていても、集会に参加することによ
って、知らないうちに霊性が開発され、世界平和のために霊的活動をしているのです。五井先生は、そう
いう人を、「居眠り菩薩さま」とお呼びになり、少しも嫌な顔をされませんでした。気持ちを楽にして、
お気軽に東京集会にお越し下さい。私どもは、禄堂さんを心よりお待ちしております。

集会に参加される方は、私(森島)宛にメールを下さい。折り返し、集会の会場の詳しい場所をメールで
お知らせ致します。集会に、ぜひ禄堂さんもおいでください。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


唯一会の宗祖は、五井先生です。
No.1931 森島恒吉    2000/06/22 (木) 23:15 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[質問]
 今まで五井先生を信じてきましたが、唯一会に入ると、森島先生を信じることになり、信仰の対象を、
五井先生から森島先生へ変えることになりませんか?私も「世界平和の祈り」一念で暮らしたく、唯一会
に入会したいのですが、五井先生への信仰をやめなければなりませんか?唯一会に入会しても、五井先生
への信仰をつづけてよろしいのですか?

[お答え]
私の教えや唯一会の内容をまだ詳しくお読みになっていないので、そのようなご質問が出るのでしょう。
唯一会は、五井先生の教えを忠実に継承する目的で創られた会であり、私は五井先生の教えをやさしく解
説し、伝道しているにすぎません。唯一会という組織を創ったのは私ですが、その教義は五井先生の教義
そのままであるのです。五井先生ご在世中の白光真宏会を、唯一会という名称でよみがえらせ、復活させ
たのです。したがって、唯一会の宗祖(しゅうそ)は五井先生です。信仰の対象は、守護霊様、守護神様
であり、五井先生です。唯一会に入会したからといって、五井先生への信仰をやめる必要はありません。
唯一会を神霊的に指導し、加護して下さっているのは、五井先生であるのです。今まで通り、五井先生を
信仰なさって下さい。唯一会に入会するよう皆さんに勧めて下さっているのは、五井先生であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「世界平和の祈り」こそ、光明思想の行である。
No.1938 森島恒吉    2000/06/27 (火) 18:34 富士宮市
世界人類が平和でありますように

本田さん、青空さん、ありがとうございます。
青空さんがまとめて下さったように、光明思想と積極思想は異なります。積極思想を光明思想と勘違いし
ている人が多いのです。積極思想と光明思想の意味の違いを、しっかりと理解しなければなりません。
そして、以前の旧光明思想と、五井先生の新光明思想の違いをも、理解してほしいものです。

「あなたは神の子である」と説いている宗教者が、「自分を自信のない弱き者、不完全なる者、不調和な
者と見れば、その通りの自分が顕現されてくるのである」と想念法則を用いて、業想念の存在を認める発
言をすることは非常なる矛盾でありまして、「あなたは神の子である」という光明思想の言葉が曇ってし
まうのです。想念法則を持ち出しますと、光明思想に徹することができなくなってくるのです。

想念の法則は、業(ごう)の法則ともいい、善因は善果を作り、悪因は悪果を作る、という三界の法則で
あるのですが、この想念の法則を持ち出しますと、せっかく前に述べた「あなたは神の子である」という
光明思想が消されてしまうのです。想念の法則は、善業の存在を認めますが、悪業の存在をも認めること
になるからです。そして、次のように相手を恐怖させたり、責め裁く教えに変容してくるのです。

「あなたが常に不平不満で、幸せに感じていない原因は、あなたが不平不満を作っているからだ」
「アレルギーも肝臓が弱いのも胃が悪いのも、あなたの想念に原因があるからだ」
「自分は駄目な人間だと思い悩む原因は、あなたが自分を駄目な人間だと思っているからだ」
「病気になるのは、あなたが消極的否定的観念の持ち主であるからだ」
「いかなる病気も不幸も災難も、すべてはあなたの不調和から起こっているものである」
「恐れているあなたは、あなたの恐れた結果に至る」
「あなたの人生が暗いのは、あなたが思い煩っているからだ」
「あなたの不安な想いが、あなたに悪い結果と現れる」
「あなたを苦しめ不幸にしているのは、あなたの心なのである」

このように想念法則を説き、「積極的(ポジティブ)な言葉を使い、積極的に思いなさい」と教えるわけ
ですが、そう言われて、「はい、そうします」と積極的想念に転換できるほど、人間の業想念の力は甘く
はありません。それが簡単にできるのであれば、今のように地球が滅亡寸前まで追い込まれるはずがあり
ません。積極的想念に変えられないからこそ、みんな悩んでいるのです。悩んでいる人に、「それはあな
たが悪いのだ」と説いてしまっては、地獄からはい上がって来ようとする人に、再び地獄へ突き落とすよ
うな行為です。そんな教え方をしても、相手は救われません。自分や人を責め裁く行為からは、けっして
救いは生まれないのです。責め裁くことを、やめなくてはなりません。そのためには、想念法則を用いて
相手の想念を自力で変えさせようとする方法は、やめなくてはならないのです。

五井先生の光明思想には、想念の法則(因果法則)の教えはありません。現在の悪業想念(病気、不幸、
災難、不調和、怠惰など、不完全な想念)は、すべて消えてゆく姿であって、時間がたつにつれて消えて
ゆくのだ。そして、未来には、すべて消え去って、完全円満な神の子の姿が現れてくるのだ。だから、消
えてゆこうとする悪業想念をつかまえて、自力で消そうとして、自分を責めたり、人を責めたりする必要
は無いのだ。消えてゆこうとしている業想念をいつまでも把えていたら、かえって消えてはゆかない。業
想念を一時期把えても、消えてゆく姿として、神のみ心の中へと手放さなくてはいけない。その為には想
念の法則、精神分析、「あなたが悪いのだ」という責め裁きの教えを、すべて捨てなくてはなりません。

不完全な悪業想念は、今は存在していますが、地球界が完成してゆくにしたがって、必ず消えてゆくもの
です。守護の神霊の加護力で、おのずから消えてゆくのですから、何も力んで自力で消そうとする必要は
ないのです。悪業想念が消えてゆくことを信じられないから、想念法則を持ち出すのです。守護の神霊に
よって悪業想念が浄められることを知らないから、自力で消そうとして、自他を責め裁くのです。守護の
神霊以外に、業想念を浄める力のある存在はありません。守護の神霊に、業想念を浄めていただくように
お祈りしていさえすればよいのです。業想念が消えてゆくにしたがって、完全円満な神の子の姿が現れて
くるのですから、悪癖をつかえまて、自他を責め裁く必要は無いのです。「世界平和の祈り」一念の行為
のどこから、自他を責め裁く行為が生まれてくるでしょうか。「世界平和の祈り」の中には、自他を責め
裁く行為が一つも無いのです。「世界平和の祈り」は、自分を赦し、すべての人を赦して下さるのです。

人間は本来、神の分霊であって、業生ではないのです。いかなる業の苦悩といえど、必ず消え去るもので
あるのです。そして、業の苦悩が消え去った後は、神の分霊の本体が現れてくるのです。業は消え去るの
ですから、「あなたの想念を変えなさい」と説いたり、「あなたが悪いのだ」と人を責め裁く必要は無い
のです。守護の神霊に、ひたすら業想念を浄めていただくように、お祈りしていればよいのです。これこ
そが五井先生の新光明思想であるのです。新光明思想の徹底行とは、「世界平和の祈り」一念の行である
のです。「世界平和の祈り」以外の光明思想の行法はないのです。この真実を、一日も早く、多くの人に
気づいていただきたいものです。

想念の法則を説いて、「責め地獄」という暗黒の世界へ、迷える人々を導く者よ。
想念の法則を応用した教えには、非常な欠陥がある事実を知らなくてはならない。
想念の法則では、人類は救われない。
想念の法則を超える「世界平和の祈り」の力によってのみ、人類は救われるのだ。
「世界平和の祈り」以外に、光明思想徹底行は無い。
「世界平和の祈り」こそ、人類を暗黒の世界から光明世界に救い上げる、
唯一無二の光明思想徹底行なのである。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


白光真宏会と唯一会
No.1939 森島恒吉    2000/06/27 (火) 22:47 富士宮市
唯一会様

私たちは、唯一会に興味を持っているものです。白光真宏会のことを調べているうちに、「唯一会」のホ
ームページに行きつきまして、メールを送らせて頂いた次第です。先日、白光真宏会の特命導師の方にお
会いして、お話を伺う機会がありました。とても、興味深いものでした。その後、唯一会の存在を知るこ
とになったのです。つきましては、いくつか質問があるのですが、都合がよろしければ、ぜひお答えいた
だきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。

質問1) 白光真宏会との関係は、どのようなものなのでしょうか?
   ・ 唯一会の構成メンバーは、白光真宏会にも所属しているのでしょうか?
   ・ 教義の明確な違いはありますか?

質問2) 唯一会を設立するに至った、そもそもの経緯とはどんなものだったのでしょうか?(というの
も、白光真宏会と違う組織を、新たに立ち上げるには何か理由があってのことなのかと考えたからです)

以上のいくつかの点について、ぜひご返答くださいますよう、よろしくお願い致します。
………………………………………………………………………
[お答え(1−1)]

唯一会の主宰である私(森島)をはじめ、幾人かは、白光真宏会の維持会員です。また、白光真宏会の会
員ではなく、唯一会の会員だけになっている方々もいます。また、五井平和財団との関係については、私
は五井平和財団のメンバーでもあり、唯一会として寄付をさせていただいたり、イベントに協力し参加さ
せていただいております。五井平和財団では、一つの宗教宗派色を出さないように、五井先生の教えであ
る「守護の神霊への感謝の祈り」の行を省いているのに対して、唯一会では、五井先生の教えをそのまま
継承するために、「守護の神霊への感謝の祈り」を含めた全文の「世界平和の祈り」を祈っております。

[お答え(1−2)]

唯一会の教義は、五井先生の教義「人間と真実の生き方」ですから、白光真宏会と全く同じといえます。
しかし、現在の白光真宏会は、五井先生の教義に加え、昌美先生の行法が加えられており、昌美先生の行
法と比較しますと、明確な違いがあります。現在の白光真宏会では、次のような行法が指導されます。

@消えてゆく姿で世界平和の祈り
A光明思想徹底行
B地球世界感謝行
C我即神也、人即神也、人類即神也の宣言と印の行
D宇宙神マンダラ、光明思想マンダラ、地球世界感謝マンダラの行

このうち@だけが、五井先生の行法でありまして、その他のA〜Dは、昌美先生の発案による行法です。
唯一会は、@の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけしか行じませんから、明確に違う、と言えます。

[お答え2]

私が五井先生の教えを悟ると同時に、現在の白光真宏会の指導法の誤りを知り、昌美先生に私の進言を申
し上げたのでしたが、残念ながら聞き入れられることなく、無視されてしまいました。そこで、やむなく
五井先生の教えを、後世に正しく伝えるために、新たに唯一会という組織を創ったのです。白光真宏会の
方々は、「五井先生の教えと昌美先生の教えは、全く同一であり、矛盾してはいない」と主張されていま
すが、どう考えても、何度考えても、私たちには、五井先生と昌美先生の教えが同一の教えである、とは
思えません。私たちには、五井先生の教えと昌美先生の教えが、明らかに矛盾しているように思えてなら
ないのです。矛盾しているどころか、昌美先生の教えは、五井先生の教えに全く反しており、誤った行法
と見えるのです。昌美先生を尊敬し愛する気持ちは、誰よりも強いものがありますが、だからといって、
五井先生の教えにまるで反した教えに、五井先生の弟子の一人として従ってゆくわけにはまいりません。
人から言われるままに、何を言われようと、いつでも「はい、はい、あなたのお考えは正しいです」と答
え、相手の言うままに行動していることは、真の素直とはいえませんし、真の愛の行為とも思えません。
昌美先生を愛するがゆえに、昌美先生の教えに誤りがあったら、自己保身のような小さな考えは捨てて、
昌美先生に率直に進言するべきだ、と思うのです。それが真の愛の行為であり、真の勇気である、と思う
のです。そうすることが、五井先生へのご恩返しであり、五井先生の試練に対する答えでもあるのです。
以上の理由で、五井先生の教えを忠実に守り継承した唯一会を創立した次第です。

ご質問をいただき、ありがとうございました。
あなたの天命が完うされますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


中庸とは「世界平和の祈り」
No.1943 森島恒吉    2000/06/30 (金) 01:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。現在、東京集会では、五井先生のご本をテキストにして、私が解説し
ておりますが、CDを聴きますと、集会に参加したように、五井先生の教えの根本が理解できるようにな
っています。集会に参加したくとも、遠くて参加できない人は、CDを聴くとよいでしょう。

五井先生の教えの根本は、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の行であり、その他の行法は一つもありま
せん。「五井先生の教えには、七つの行法があり、そのどれをやってもかまいません。どの道を行っても
神我一体になれるのです。どの方法をやるかは、あなたの自由です」と教えている人がいますが、その人
の考えは誤りですから、鵜呑みに信じてはいけません。五井先生の教えには、七つの行法などはありませ
ん。五井先生の教える行法は、「世界平和の祈り」ただ一つです。「世界平和の祈り」以外に、五井先生
の勧める行法などはありません。「世界平和の祈り」以上に、やさしく悟れる方法などありません。

「世界平和の祈り」以外の行法は、むずかしかったり、個人人類同時成道でなかったり、理想に片寄って
現実を無視したり、三界の業因縁に執着させたり、偽善者を作ってしまう欠陥があるのです。「世界平和
の祈り」以上に、高い祈りなどはありません。「世界平和の祈り」は天と地をつなぐ中庸の祈りであるの
です。「世界平和の祈り」を祈りつつ、中庸という言葉の深い意味を、じっくりと味わって下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


神の示す道はただ一つ
No.1945 森島恒吉    2000/07/04 (火) 00:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「神になる方法として、七つの方法があり、各人の好きな道を行けばよいのだ」と説いている宗教者がい
ますが、その考えは一見まともなようでいて、誤っていると言わざるをえません。なぜ、誤っているので
しょうか、わかりやすく説くことにいたしましょう。学校、職業、住居、料理、服などを選択するのは、
今さら言うまでもありませんが、各人の自由です。神道、仏教、キリスト教、その他の宗教、どの宗教を
選択するかも、各人の自由です。しかし、一つの宗教の中で、「七つの方法があって、どの道を行っても
神になることができるから、お好きな方法を選んでやりなさい」と説くのは、つじつまの合わない矛盾し
た論理であると言わざるをえません。

七つの方法を、すべて、まんべんなくやることによって悟れるというのであれば、その中の一つの方法だ
けでは不完全な方法である、ということになります。もし、その中に「世界平和の祈り」が含まれている
のであれば、「世界平和の祈りは不完全な方法である」とその人は婉曲ながら主張していることになるの
です。これは五井先生の「世界平和の祈りは完全な方法である」という教えに反することになります。
「世界平和の祈り」は、五井先生を通して神から授けられた祈りであるのですから、「世界平和の祈り」
の完全性を疑い、完全性を否定することは、神の完全性を否定することで、天に唾する行為なのです。

また、七つの方法のうち、どの方法を選んでも神になれるのであれば、七つの方法をすべてやる必要はな
いことになります。富士山に登る道が七つあったとしても、最も易しい道は一つであるはずです。実際に
七つの登山道を登った体験を持つならば、先達としては、その最も易しい道を人々に教えるべきではない
でしょうか。登山の素人の人々に、危険な登山ルートを行くように勧めるべきではありません。易しいル
ートを教えず、危険なルートも一緒くたに説くことは、愛のない教え方と言えます。

実際に自分が七つのルートを登山した上で、「どの道も同じである」と言うならば、まだしも、頂上を一
度も見極めていない人が、推測で七つのルートを後輩に教えたら、危険きわまりないことになります。そ
れと同様に、実際に七つの方法で神性を開発した体験がないのに、「この七つの方法をやれば、神性を開
発できる」と推測であるにもかかわらず、自信たっぷりに神性顕現法を教えている宗教者がいます。その
宗教者自身が神我一体を体験したわけではないのですから、当然、その宗教者の教えを信じて従う信徒た
ちも、道に迷うことになります。

宗教指導者の発言は、自分一人だけでなく、多くの人々の運命をも左右するのですから、憶測で道を説い
たら、とんでもないことになります。指導者は、責任をもって、発言するようにしなければなりません。
また、信徒の側も、指導者の言葉を、何もかも鵜呑みに信じないで、一度常識的な目で見直すようにする
とよいのです。「私は神である」と宣言していた宗教者が、兵器で武装して、調査にきた警官たちと烈し
い銃撃戦をした後、集団自殺をした例も、外国にはあるのですから、真理の言葉を宣言をしているからと
いって、うっかりその指導者を信用してはならないのです。

南無阿弥陀仏も「世界平和の祈り」も、原理は同じであるのですから、南無阿弥陀仏を行じて救われるこ
とはできます。しかし、現代人の多くの人々にとって、どちらが易しいかと言えば、「世界平和の祈りで
ある」と教えることは、自然な愛の心の発露でありまして、南無阿弥陀仏の行を軽んじることにはなりま
せん。数百年前の漢語表現の祈り言よりも、現代の日常語の表現の祈り言のほうが、現代人にはぴったり
合うのは当然ではありませんか。現代には、現代の祈り言があるのです。では、「世界平和の祈り」も百
年後には、役立たなくなるかといえば、そうではありません。「世界平和の祈り」は人類史上において最
初で最後、神から授けられた完成した祈り言でありまして、この祈り言は永遠に続くのです。

現在のように毎日の生活が多忙な私たちにとって、七つの行をやらなくとも、一つの行だけで救われるな
らば、それにこしたことはありません。複雑多行よりも、単純一行のほうが、簡単容易であるのは決まっ
ています。それなのに、なぜ幾つもの行法をやろうとするのでしょうか。それは、その行法をやる人が迷
っているからなのです。どれが良いのか、迷っているのです。どの道が良いのか、どの行法が良いのか、
迷っているから、心が不安でしょうがないから、あれもこれも試したくなってくるのです。学生は一日の
大半を勉強しなければなりません。サラリーマンは朝から晩まで仕事をしなければなりません。家庭の主
婦も、炊事、洗濯、家事、育児に忙しい毎日です。宗教の行法だけに一日中費やしている時間はありませ
ん。現代人に必要なのは、短い時間でできる、易しく簡単に救われる道であるのです。

宗教の行法においても、単純化する必要があるのです。その答えは、すでに出ているのです。「世界平和
の祈り」の一行で、私たちは救われます。人類も救われるのです。その信念で一心決定(けつじょう)し
なければなりません。「世界平和の祈り」にせっかくつながりながら、今さら「ほかにもっと良い方法は
あるのではないか?」と迷っていてはなりません。「世界平和の祈り」以上に良い方法は、永遠に見つか
りません。「世界平和の祈り」をしていれば、神性は開顕され、人類は平和になるのです。世界が平和に
なること以上に大きな目標は、いったいあるのでしょうか。人類にとって、世界平和ほど大きな目標はな
いではありませんか。その最大の目標を祈り言にしているのですから、「世界平和の祈り」以上の祈り言
はありえないのです。

神は「人類を苦しめよう」とは思っておりません。神は「人類に難行苦行をさせよう」と思ってはおりま
せん。神は「七つの行法をしなければ救われぬぞ」とはおっしゃってはいません。神は「世界平和の祈り
さえしていれば、人類は救われるのだ」とおっしゃっているのです。「世界平和の祈り」以外の役に立た
ない、つまらぬ行法に、貴重な時間を費やしていてはいけません。肉体知で考え出した、浅知恵に翻弄さ
れている時ではありません。今こそ、人類は「世界平和の祈り」に全精神、全気力を尽くすべき時なので
す。「世界平和の祈り」に心を統一した時、私たちは、本心の偉大なる力を発揮させることができます。
「世界平和の祈り」に人類の心が統一された時、世界平和実現という史上最大の超奇蹟が起きるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


魂が肉体にやどる時
No.1955 森島恒吉    2000/07/06 (木) 23:18 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

セーラさん、はじめまして。ご質問をいただき、ありがとうございます。
人間の肉体は霊魂が働く器でありまして、着物のようなものです。肉体が人間ではなく、霊魂が人間の本
体であるわけです。そこで、「私たちの魂は、いつ肉体人間の中に入るのでしょうか?」というご質問に
お答えしますと、女性が妊娠する前に、守護神がすでにその夫婦の心境にふさわしい魂を選んで下さって
いて、その母親となる女性が妊娠をした時に、魂が入るのです。赤ちゃんとして産声をあげた時に、人間
の魂が入るのではありません。ですから、妊娠をしてから堕胎をすることは、母体を傷つけるだけでなく
生まれくる人間の魂の肉体生命をも断ち切るのですから、よほどやむをえない事情がないかぎり、堕胎を
してはいけません。妊娠をして困るようならば、初めから妊娠をしないように、配慮しなければなりませ
ん。避妊を悪と見る宗教もありますが、後で中絶をするくらいならば、初めから避妊をしたほうがよいと
思います。こう申しましても、実際には強い恋愛感情に、理性が負けてしまうことがあるかと思います。

そこで日頃から、守護霊さんにご加護を祈り、清らかな恋愛ができるように祈っておくとよいのです。結
婚をするまで、男性が童貞を守り、女性が処女を守ることは、決して古い考えではありません。近頃は、
二十歳をすぎても処女でいることは恥ずかしいことだ、と思っている女性がいますが、それは卑しく身勝
手な男性が、自分の都合の良いように作り上げた論理でありまして、そんな馬鹿な考えに同調してはいけ
ません。自分の生命を尊び、生まれてくる生命を尊ぶようになれば、おのずと正しい行為とは何か、がわ
かってくるものです。肉体人間というものは、守護霊さんのみ心のままに動かずに、とかく業因縁の波の
ままに動かされてしまいがちです。だからこそ、守護霊さんをいつもお呼びして、守護霊さんにご加護を
頼んでおく必要があるのです。守護霊さんほど、頼りになる存在はないのです。常に守護霊さんにご加護
とご指導を祈りつつ生活してゆきましょう。最愛の人とめぐり合う機会を作って下さるのも、守護霊さん
であり、子を授けて下さるのも、守護の神霊のお力によるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


五井先生の提唱された行法は「世界平和の祈り」のみです
No.1957 森島恒吉    2000/07/07 (金) 00:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

TAKEXさん、初めまして。五井先生の「老子講義」をお読み下さって、ありがとうございます。
TAKEXさんは、現在の白光真宏会と唯一会の行法の違いについて、まだ詳しくご存じでないと思いますが
唯一会では、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」一つを行じておりまして、昌美先生の提唱されて
いる「我即神也」の行法は行なっておりません。

五井先生の教義に「人間は、本来、神の分霊であって、業生ではない」とあります。確かに、人間は本来
は神の分霊であるのです。しかし、人間の本来の神性を顕現するには、「私は神である」「私は神の子で
ある」「私は神の分霊である」と宣言したり唱えていても、それだけでは神性はそう容易には顕現されて
こないのです。人間が神性を顕現するためには、肉体人間だけの意思力や念力だけでは、どうにもなりま
せん。なぜならば、業生の強い波動によって、神性顕現を阻まれてしまうからです。それほど業生の力と
いうものは強いものなのです。その業生の力を軽視して、守護の神霊に頼ることをしませんと、いつまで
たっても、どんな自力行法をやろうと、人間本来の神性を顕現することはできません。

そこで神性を顕現する最もよい方法は、守護の神霊にご加護をお頼みして、自分の神性顕現をも含めた世
界平和実現を祈ることである、というのです。「私は神の分霊である」というのは本来であり、理想でも
あります。ただ理想の言葉を唱えているだけでは、理想は実現できません。その理想を、どうしたら現実
化できるか、を考えねばなりません。五井先生は「人間は本来、神の分霊である」と人間本来論を説いた
のであり、その理想を現実にする方法としては、「私は神である、と唱えなさい」とは教えてはいないの
です。真理の言葉を宣言する方法は、現実問題として無理であり、非常な欠陥があると知ったからです。
そこで五井先生は、真理は真理として、理想は理想として、現実に誰にでもやさしく実行できる道として
「世界平和の祈り」一元の教えを説かれたのです。是非この点について、ご理解いただきたいものです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


現実から理想へとつながっている道
No.1963 森島恒吉    2000/07/08 (土) 22:42 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

禄堂さん、東京集会にご参加いただき、ありがとうございました。また、ジュリアンさんには、神戸から
ご参加いただき、ありがとうございました。毎回少しずつではありますが、集会への参加人数が確実に増
えてきたことを、大変うれしく思っております。

私と同様に30年間、五井先生のみ教えを学んできたジュリアンさんが、「森島先生の解説を聴くように
なって、今まで30年間見えなかった五井先生の真実の教えが、はっきりと見えてきました!」という意
味のご感想を述懐されておられました。ジュリアンさんのように、若い頃から熱心に五井先生のみ教えを
学んだ方のお話ですから、実感がこもっています。

五井先生は、理想に片寄らず、現実にも片寄らない、理想と現実をつなぐ中庸の光明思想を説かれたので
あり、その具体的な実現方法として「世界平和の祈り」を説かれたのでありました。真理を説けば、真理
に把われ、業因縁を説けば、業因縁に把われるのが、肉体人間です。そこで自力の限界を悟り、自力を放
棄して、守護の神霊に「世界平和の祈り」を祈り、全託しますと、真理に把われず、業因縁にも把われず
して、いつしか自己の業因縁が消え去り、不思議にも真理の行為が自己の行為として現れてくるのです。

「世界平和の祈り」を祈っていれば、無理なく自然に、最短距離で、神我一体の境地に至るのですから、
「世界平和の祈り」以外のよけいな行法をする必要は少しもないのです。真理に把われた行法や、業因縁
に把われた行法をやっていては、真実の救われは体得できません。真理に把われず、業因縁に把われず、
理想にも現実にも把われない、個人人類同時成道の行法は、「世界平和の祈り」であるのです。

「世界平和の祈り」ほど、明るい叡知と勇気に満ちた素晴らしい祈りはありません。自分自身の霊性開発
と幸せのために、そして世界人類の平和実現のために、「世界平和の祈り」を心を合わせて声を合わせて
祈りましょう。私たちの愛の祈りは、いつしか必ず日本政府の耳に届き、世界の人々の耳に届くのです。
地球を平和にする仕事ができるなんて、私たちは幸せではありませんか。迷いなく、「世界平和の祈り」
を祈ることのできる私たちは、なんという幸せ者でしょう。地球界の平和実現には、まだまだ時間がかか
ります。まだまだ年数がかかります。しかし、私たちの心には、今、平和の炎が燃え盛っているのです。
「世界平和の祈り」を祈る私たちの心は、すでに永遠の平和世界の中に入りこんでしまっているのです。
「世界平和の祈り」の道は、現実から理想へとつながっている広く平らな道なのであります。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


8月は運気の上昇する時期
No.1965 森島恒吉    2000/07/09 (日) 09:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

次回の東京集会は、8月は夏休みとさせていただき、9月9日(土)、テキストは「聖なる世界」です。
7〜8月頃は、私にとっては運気の大変化する時期で、1996年8月1日は唯一会を結成した日、8月15日
は終戦記念日、8月17日は五井先生の命日、8月28日は"PEACE NIFON"開設日となっています。私が、現
在の自宅の土地を買ったのが、十年前の8月1日、私が、東京から富士宮へ引っ越しをしたのも、8月だ
ったと思います。富士山の頂上から朝日がのぼる時期は8月20日頃ですが、田貫湖から眺められ、特別に
美しい「ダイヤモンド富士」といわれています。そういえば、泉と初めて出会ったのも7月でした。

8月にはお盆もあり、皆さんもご先祖さまのお墓参りにお出かけになったり、長期の夏休みで旅行へ行っ
たりすることと思いますが、この時期にはご先祖さまへの感謝のお祈りを特にするとよいでしょう。お盆
の時期は、霊界のご先祖さまが、肉体界の子孫の家に帰ってきて、仏壇のお菓子やお茶をいただいていた
りします。迷っていなければお墓にはいないのですが、ほかの家族がお墓参りに訪れているのに、自分の
お墓には誰もお参りにきてくれないと、霊はさびしがります。どんなに忙しくとも、太陽の光が新鮮な午
前中に、できるかぎりお墓参りに行ってあげましょう。海や山へレジャーに出かける前に、ご先祖さまに
感謝するようにして下さい。

「忙しい」といっても、ご先祖さまのおかげで、私たちは生きていられるのです。ご先祖さまがいなけれ
ば、私たちは生きてはいないし、「忙しい」とも言ってはいられないのですから、どんなに忙しくとも、
一年に一回はご先祖さまへのお墓参りを欠かしてはなりません。私たちの運命を左右しているのは、ご先
祖さまの霊であり、守護霊に感謝することによって、私たちの運命はよくなってゆくのです。私たちの運
命を見守って下さるのは、ご先祖さまであり、守護霊なのです。自分の運命をよくしたかったら、第一に
ご先祖さまに感謝しなければなりません。ご先祖さまと自分の運命とは、密接な関係があるからです。

ご先祖さまに感謝し、守護霊さまに感謝し、「世界平和の祈り」を祈っておりますと、8月には、皆さん
の運気も急上昇して、きっと良いことが起こります。楽しみにしていて下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


求道する老婦人からのおたより
No.1970 森島恒吉    2000/07/13 (木) 17:01 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

71歳になるご婦人から私宛に、このような丁重なお葉書をいただきましたので、ご紹介しましょう。

「前略 御免下さい。突然お便りいたしましてすみません。先日ある友人からの話で、唯一会のある場所
を教えられました。私は白光の会員になって十三年と少し、色々と悩みながら、一応決められた事柄を消
化して来ましたが、近頃少々、矛盾を感じ出し、色々な先輩諸氏にお尋ねしてみました。しかし、これと
いって確かな手ごたえも得られぬままに、今日まで過ごして参りました。

五井先生の存在、み教えを、素直に自分の人生と併合して生きてゆきたいのですが、目下、これだ!!と
いう方法が判りません。申し訳ないのですが、都内か近郊で、森島様のお話を伺えるチャンスがあれば、
お教え頂きたいのです。Eメールはできませんので、FAXでも葉書でも結構ですが、ご連絡頂ければ幸
いです。不躾なお願いで申し訳ありません。よろしくお願いいたします」

一つの宗教を十年以上信仰しても、今もなお確信が得られない。安心立命への希望が湧いてこない。これ
は信仰する人の上根下根というより、その宗教が正しい教えではないか、あるいは正しい行じ方をしてい
ないか、のどちらかであるのです。現在の白光真宏会は、初代の五井先生の教えと、二代目の昌美先生の
教えが背反するものであるのですから、矛盾を感じるのも無理はありません。矛盾と感じない人は、思考
力が弱い人か、昌美先生をひたすら信じようとして、二つの教えの矛盾を無視しよう、としている人なの
です。それにしても、白光真宏会の会員としてまじめに十年以上信仰しながら、しかも老齢の身になって
真実の道を発見できぬ苦しさは、いかばかりか、とお察しいたします。安心立命という大悟はできなくと
も、「この道は正しいのだ。この道を行けばいいんだ」と不動の確信を持てさえすれば、それで充分なの
ですが、その真実の道がつかめずに苦しんでいるのです。

「世界平和の祈り」という安心立命への大道が、すぐそばにあるのに、多くの人は気がつかないのです。
それは白光真宏会の現在の指導者である昌美先生が、よけいな教えをおしゃべりし過ぎたことに原因があ
るのです。五井先生と異なった教えを説きたいならば、「世界平和の祈りよりも、人類即神也の印の教え
のほうがすぐれている」と思うならば、白光真宏会の会長という地位をいさぎよく捨てて、新しく「人類
即神也」の教えを中心とする、昌美教団をお作りになったらいいのです。そして、昌美先生を信奉する人
は、昌美先生にしたがって行ったらよろしいのです。それなのに、五井先生の教えの上に、ご自分の教え
を加えるから、正しい教えと誤った教えが、ごちゃごちゃに混じってしまい、矛盾だらけになってしまっ
て、信徒の立場から見ると、わけがわからなくなってしまい、迷ってしまうのです。

「世界平和の祈り」は完全な祈りであり、完全な方法であるのです。完全な祈りであるがゆえに、付け足
す行法は何も無いのです。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆきさえすれば、個人も人類も真の救いを
体得できるのです。私たちは神様から授けられた「世界平和の祈り」の光明力を疑うことなく、信じつづ
けてゆかねばなりません。「世界平和の祈り」に全託した時、私たちは深い深い安心感を授けられます。
それはちょうど、スイカを食べればスイカの味がわかり、リンゴを食べればリンゴの味がわかるように、
霊感のない人でも「世界平和の祈り」を祈れば、大光明をなんとなく感じることができるはずなのです。
肉体の頭で考えても考えても、わからなくなったら、肉体の頭で考えるのを一度やめてしまい、自分の直
観で判断したらよいのです。「世界平和の祈りよりも、すぐれた方法があるだろうか?」という問題を、
頭の理屈で考えるのではなく、直観的に答えを出してみるのです。

想いを鎮めて、理屈を捨てて、素直な直観力で判断すれば、「世界平和の祈りが一番すぐれている」とい
う答えがおのずと出てくるはずです。その答えは、本心からの声であり、守護の神霊からの答えであるの
です。「世界人類が平和でありますように」と私たちが祈りますと、救世の大光明の中へとすべての想い
がスーッと吸い込まれてゆきます。「世界人類よ、平和であれ」と願う大神様のみ心の波動と、私たちの
心がピッタリと一つになってゆくのがわかります。神我一体になろうと思わずして、知らぬ間に神我一体
化してゆくのです。そうしておりますと、不安や悲しみや悩みが、いつしか消え去ってゆくと同時に、私
たちの神性が輝いてきて、愛と感謝に満ちた明るい人間になっている自分を、発見するのです。そして、
「世界平和の祈り」によって救われた人々は、往相から還相の心境になり、「世界の人々を救おう」と立
ち上がり、世界各地へと「世界平和の祈り」を普及する旅に出かけるようになるのです。すでに五井先生
のみ教えをしっかりと理解し、日々「世界平和の祈り」に全託している皆さんは、「世界平和の祈り」の
先達であり、世界を平和にする天使であるのです。お便りを下さった老婦人も、唯一会に入り、五井先生
のみ教えを学び直し、「世界平和の祈り」によって救われることでしょう。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


運命を開く鍵
No.1971 森島恒吉    2000/07/16 (日) 03:21 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

今日、外へ出かけると、道端のねむの木が、赤い花を咲かせていました。昨年も、この"PEACE NIFON"に
ねむの木のことを書いたと思いますが、あれからもう一年経ったんですね。

昨年の今頃は、同じ富士宮でも、建築してから30年以上も経過した、小さなオンボロアパートに住んで
いました。前にも書きましたけれど、富士宮で一番安いアパートを選んで住んだのですから、トイレは水
洗ではなく、くみ取り式で、夏はハエが大発生して、ハエが発生しないように、臭気を分解する微生物の
粉をまいたりして、苦労していました。また、町内会の会合に参加したり、年に二回、同じ町内の人と一
緒に、長靴をはき、スコップを持って、近くの小川のドブ掃除をしたものです。

もっと以前の話をしますと、東京の自宅は日暮里にあるのですが、道路沿いにあり、夜中もトラックが轟
音を立てて行き交うために、熟睡できない環境でした。自宅の隣に深夜営業のファミリーレストランがで
きた時は、深夜そのお客が自宅の前に違法駐車して、ドアをバタンと閉める音がくりかえされ、そのたび
に目を覚ましたものです。自動車の排気ガスだけでなく、近くのパン屋さんの煙突の煙、ファミリーレス
トランの排気口からの煙にも悩まされました。私が、タバコが大嫌いなのは、東京の空気がこんなに汚い
のに、その上にタバコの煙で肺を汚されてはかなわないからです。

そして、ようやく今は、理想的な環境に住めるようになりました。東京の経験から、家を建てる時には、
周囲に煙を吐き出す施設がなく、できるかぎり幹線道路から離れた場所がよい、と決めていました。計算
した通り、現在の自宅には深夜のトラックの音が聞こえてきませんし、排気ガスも流れてはきません。夜
は静かで、ぐっすりと眠ることができます。森の中で下水道はないのですが、最新の浄化槽のおかげで、
トイレはお尻を洗える洋式水洗です。24時間いつでもお湯が出てきますから、いつでもシャワーを浴び
ることもできるし、スイッチ一つで、お風呂には適度のお湯が自動的に満たされます。衛星放送でアメリ
カのCNNやイギリスのBBCをキャッチして、世界各地のニュースを見ることができますから、森の中
に住んでいても、社会との疎外感はありません。

私は、守護の神霊によるご加護を常々説いておりますが、セコムのセキュリティも利用しております。昼
間、家に居るときは、セキュリティをはずしているのですが、深夜や留守の時には、セキュリティモード
にします。もし、留守中に窓やドアが開いたり、室内で人物が動く気配がありますと、警報装置が働き、
ガードマンが来てくれます。街の中では周囲の目があり、お隣のおじさんが防犯に気を配ってくれること
もありますが、周囲に誰もいない別荘地では、警備会社のセキュリティに頼るのがよいと思ったのです。
もう一つの理由は、私の両親の住む東京の家が、近所の家々と同様、ドロボウに三度も入られたからでも
ありました。このセキュリティのおかげで、留守の間も、非常に安心していられます。

セミリタイヤした大橋巨泉さんは、夏は涼しいカナダに滞在し、冬は暖かい南太平洋に移住する、という
自由な生活を満喫していますが、私は当分ここから離れないのではないかと思います。それは富士山が四
季によって姿を変え、それぞれに美しいからで、見飽きることがないからです。誰にとっても、その人そ
れぞれ居心地のいい場所というものがあります。その人にとって、一番居心地のいい場所を見つけ、そこ
に住むことによって、幸福感は得られるものです。運をよくするために、吉日に吉方位を考えて移動しな
くとも、良い場所に、良い間取りの家を建てて住めば、運命はおのずと上昇してゆくものです。家の中心
から、東、東南、南の位置に汚いものをおかず、各室に南の太陽の光が入るようにして、水回りは北側に
おき、汚水は西へ流れるようにしますと、健康によく、快適であるばかりでなく、運命もよくなってゆく
のです。地相、家相は、そこに住む人間の運命に非常に影響を与えるもので、守護霊のお導きのままに素
直に行動することが、良い地相、良い家相の家に住めるようになる条件であるのです。

車を選ぶにも、事故をおこさない車と、因縁のある事故をおこしやすい車があって、守護霊に常に感謝し
ている人は、直観的に良い車を選ぶことができるものなのです。車だけではなく、宝石やアクセサリーに
しても、持ち物を選ぶ時には、守護霊に一度祈ってから決めるべきです。守護霊は、良いものと悪いもの
を選んで下さるからです。最近、私も軽自動車から普通乗用車に車を代えましたが、守護霊に祈っており
ますと、「これが良い!」と直観的に一番良い車を選択できるのです。このように守護霊のお導きに素直
にしたがっておりますと、次々と良いことが起こってくるものです。ですから、現状がどんなに悪い環境
にあっても、悪い環境は消えてゆく姿と思い、不平不満の想いも消えてゆく姿と思って、守護の神霊に常
に感謝の祈りを捧げておりますと、理想的な素晴らしい環境に導いてもらえるものなのです。現状に不平
不満のある人は、不平不満をこぼしてばかりいないで、まず守護霊に感謝することから始めて下さい。
いつも申しますが、肉親のように深く愛して下さる守護霊ほど、頼りになる存在はないのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


野の百合は如何にして育つかを思へ
No.1972 森島恒吉    2000/07/19 (水) 17:17 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

もう梅雨は明けて、東京は36度、静岡でも33度と、30度を越す暑さがつづいておりますが、皆さん、いか
がお過ごしでしょうか? 海や山へ遊びに行っている人もいるでしょう。お仕事で忙しいかな?

私は、「桃の天然水」か「富士山の天然水のアイスコーヒー」を氷を浮かべて飲むのが楽しみです。今も
「桃の天然水」を飲みながら、この文を書いているんですよ。暑い時の冷たい水は、とてもおいしいもの
ですね。裸足でフローボード(床板)の上を歩くのも、素朴な気持ちよさがあるものです。

ピースポールのそばで、ピンクのグラジオラスが咲きつづけていますが、今日は大きな白百合が二つ咲き
ました。この白百合は自生のもので、周囲に白百合の蕾がいくつもあって、そのうちの二つが咲いたので
すが白百合は花が大きく、甘い香りが匂ってきます。白百合のそばにたたずんでおりますと、甘い香りに
包まれて、なんともいえない快さを感じます。

そして、白百合といえば、聖書マタイ伝のイエスの言葉を思い出します。

「…何を食(くら)ひ、何を飲まんと、生命のことを思ひ煩(わずら)ひ、何を着んと、体のことを思ひ
煩ふな。生命は糧(かて)にまさり、体は衣(ころも)に勝るならずや。空の鳥を見よ、播(ま)かず、
刈(か)らず、倉に収めず、然(しか)るに汝らの天の父はこれを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも
遥(はる)かに優(すぐ)るる者ならずや。汝らの中(うち)たれか思ひ煩ひて身の長(たけ)一尺を加
へ得(え)んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労(ろう)せ
ず、紡(つむ)がざるなり。然(さ)れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装
(よそおひ)この花の一つにも及(し)かざりき。今日ありて明日(あす)、炉(ろ)に投げ入れらるる
野の草をも、神はかく装(よそお)ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。然(さ)らば何を
食(くら)ひ何を飲み、何を着んとて思ひ煩ふな。是(これ)みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天
の父は、凡(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まづ神の国と神の義(ただしき)と
を求めよ。然(さ)らば凡(すべ)てこれらの物は、汝らに加へらるべし。…」

イエスのこの言葉を読むと、じつに爽やかな清々しい気持ちが満ちてまいります。山上の垂訓の一節です
が、この教えを説いた季節はちょうど夏で、「この花〜」とありますから、爽やかな山上には、ところど
ころに白百合が咲いていて、イエスのかたわらにも白百合が美しく咲いていたのかもしれません。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


五井先生のみ教えを今こそ実行しよう!
No.1973 森島恒吉    2000/07/20 (木) 01:28 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

先日紹介したご婦人のNさんと電話でお話したところ、昌美先生への疑問について、幾つかお話下さいま
した。また、唯一会へのご質問もいただきました。

1.「日本に、もう二度と地震は無い」と昌美先生は断言したのに、現実には地震があるではないか?
2.「2000年ちょっとで世界は平和になる」と昌美先生は断言したのに、現実の世界は、まだまだ平和に
   なる兆候は見られないではないか?
3.「私は2000年で引退して、2001年からは娘を後継者とする」と昌美先生は言っているが、二十歳そこ
   そこの娘を指導者としてついてゆく気持ちにはなれない。昌美先生は最後まで責任を完うするべき
   ではないか?
4.「みたま祭」を、なぜ「世界の歴史の浄め祭」にしたのか? 世界平和の祈りを一度もしないでは、
   先祖のみたまは清まらないし、歴史の浄めにもならないのではないか?
5.昌美先生を後継者にしたのは、五井先生であるから、昌美先生に従ってゆくべきか?
………………………………………………………………………………………………………
[私のお答え]
はじめに、唯一会についてのご質問にお答えしておきましたが、唯一会に入会するために、白光真宏会を
脱会する必要はありません。白光真宏会の会員でなければ、白光真宏会に進言しても耳を傾けてはもらえ
ません。白光真宏会を善くしようと思ったら、白光真宏会に会員としてとどまって、内部から変えてゆか
ねばなりません。白光真宏会会員1万人が、唯一会会員であれば、白光真宏会を変えることができます。

また1〜4の昌美先生への疑問は、昌美先生が答えるべきことで、私が答えることではないと思います。

予言が当たろうと当たるまいと、後継者が二十歳であろうとあるまいと、先祖のためのみたま祭を世界規
模のみたま祭にしようとしまいと、「そんなことはどうでもよい」と私は思うのです。

5の質問については、「法にしたがうべきで、人にしたがうべきではない」とお答えしておきました。
昌美先生が宇宙の法に適ったことを説いているならば、昌美先生にしたがってゆけばよろしいのですが、
もしも、昌美先生が宇宙の法に外れてしまい、五井先生のみ教えに反した教えを説いてしまったら、昌美
先生にしたがうべきではありません。いかに五井先生が定めた後継者であろうと、誤りは誤りとして認め
て、五井先生の正しいみ教えを守らねばなりません。これは私達に課された神の試練であるのです。

一番大事なことは、五井先生のみ教えを理解することであり、「世界平和の祈り」を祈るか祈らないか、
なのです。「世界平和の祈り」以外の昌美先生の提唱している行法(我即神也、人即神也、人類即神也、
などの真理宣言行、光明思想徹底行、非光明思想消滅行、願望成就行)が誤りである、という真実を知ら
ねばならないのです。これこそが一番知らねばならぬ大事なことであるのです。

昌美先生の誤りには、枝葉の誤りと根本的誤りがあるのですが、枝葉の誤りにだけ注目するのではなく、
もっと根本的な教えの誤りについて注目し、五井先生の正しい教えを理解してゆく必要があるのです。
そして、昌美先生の誤りもまた、消えてゆく姿と見て、不平不満の想いを持ったり、いたずらに怒ったり
してはなりません。すべての誤りは、完全な正しい姿が現れるための一時的な現象であるのですから、人
の誤りも、消えてゆく姿と見て、「世界平和の祈り」の中に投げ入れてゆかねばなりません。人の誤りや
人の悪をつかんでしまったら、やはり自分の心をも乱すことになり、自分の心も汚れてしまいます。

私達は五井先生に教えられたように、昌美先生を含む、すべての人の過ちを、消えてゆく姿として見て、
ひたすら「世界平和の祈り」に中に入ってゆく必要があるのです。五井先生のみ教えを実行するのは私達
であり、今こそ、五井先生のみ教えを実行する時であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


この世の年齢と霊性の高さとは別です
No.1976 森島恒吉    2000/07/22 (土) 13:08 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ご質問をありがとうございます。
コスモスさんのご意見に、私も同感です。Nさんとは電話でお話して、Nさんのご意見をご紹介したので
すが、Nさんのご意見すべてに、私は同意しているわけではありません。コスモスさんのおっしゃるよう
に、この世の年齢と、霊性の高さは異なります。70歳のお年寄りが20歳の若者よりも霊性が高いとは
限りません。老齢の人よりも霊性の高い若い人は、たくさんいます。たとえ、自分よりも相手が若い人で
ありましても、その人が宇宙の真理にのっとった正しい教えを説いているならば、私も従いたい、と思い
ます。それが真理に素直に生きるということです。

白光真宏会の三代目会長については、20代のお嬢さんであろうと、私は一向にかまわないと思います。
問題は年齢ではなく、正しい教えを説いているか、いないか、です。しかし、世の中には、表面では口に
出して言わなくても、心の中ではNさんのように思っている人が、結構多いと思います。そういう方は、
自分の属している宗教教団の指導者が交代し、新しく若い宗教指導者をどうしても尊敬できなかったら、
自分の尊敬できる宗教指導者を探して、その指導者についていったらよろしいと思います。

現在の白光真宏会の会員には、五井先生時代からの会員が多くいますが、そういう会員は、五井先生を信
じるがゆえに、昌美先生に従っているのです。いいかえると、五井先生の徳のおかげで、多くの信者さん
がついているわけです。唯一会の会員も、私を信じるというよりも、五井先生の教えを信じている人たち
なのです。五井先生のお力で、唯一会の会員が増えてきているわけです。私の力ではありません。もし、
指導者が五井先生のみ教えから外れてしまったら、初めは義理や人情で、信徒さんはついてくるでしょう
が、五井先生を信じる信徒さんは、しだいにその指導者から離れてゆくことになるでしょう。

ですから、多くの信徒さんを抱えていたとしても、「これだけ多くの信徒が増えたのは、自分に力がある
からだ」と思い上がって、自己流の教えを説いてはいけないのです。人々から尊敬されるほど、先師の徳
のおかげと感謝し、謙虚に自己反省してゆかねばなりません。五井先生のみ教え以上の教えは、今後現れ
ることはない、と私は断言します。少なくとも、唯一会においては、五井先生のみ教えから外れることは
ありません。唯一会では、指導者が何代目になりましても、五井先生のみ教えを忠実に守り、千年一日の
ごとく、「世界平和の祈り」一本槍でまいります。唯一会の教えは、今後千年たっても不動不変です。
私達は永遠の教えを得て、永遠の生命を得たのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


祈りと統一行について
No.1985 森島恒吉    2000/07/24 (月) 01:19 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

くに・をさん、はじめまして。五井先生のご本を十年も前から黙々とお読みになっているそうで、うれし
く思います。今日は、くに・をさんのご質問にお答えする前に、先にいただいた禄堂さんのご質問にお答
えさせていただきます。「くに・をさんの天命が完うされますように」さんも、初めてお目にかかる方で
しょうか。よろしくお願いします。五井先生のご本から、就職に関する文章を引用して下さったのは、大
変時間がかかったことでしょうし、非常に大変ありがたいのですが、この掲示板ではなんせ長過ぎます。
愛情あふれるご親切な方だと推察しますが、参照するべきご本のタイトルとページを紹介し、ご自分自身
の簡潔なコメントを書いて下されば、それで充分だと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
………………………………………………………………………………………………………
禄堂さんのご質問にお答えいたします。

[質問1]
統一とはいつ頃から行われている行法なのでしょうか。

[お答え1]
統一行という言葉は使っておりませんが、イエスも釈尊も、統一行に励んでいたのです。人類が肉体界に
住むようになって、神と肉体人間が分離してしまった古代の人類が、神に統一しようとしたのが始まりで
すから、数千年前、数万年前から統一行は行なわれている、と言えましょう。しかし、現在までに開発さ
れた統一行は、個人の霊性開発には効果があったものの、人類的な霊性開発の点においては、必ずしも効
果的な方法ではなかったのです。

五井先生の説く統一行について説明しますと、五井先生は、生長の家の講師であった頃から、神我一体の
ための統一行をなさっていました。統一行といいますと、座禅の結跏趺坐を思い浮かべますが、五井先生
のなさっていた初めの統一行は、正座して合掌する形でした。ひたいにある(アジナ)チャクラに合掌を
近づけることによって統一しやすくなるということから、ひたいの前で合掌していたようでしたが、統一
が深まるにつれて、合掌の位置が下がってきて、胸(アナハタチャクラ)の前に落ち着いたようです。
「時代が進んで統一しやすくなり、合掌の位置をひたいの前に上げる必要がなくなったのです」と五井先
生は、その理由を説かれていました。

合掌の指先の方向は、天の方向へ真っ直ぐに向けて、両肘を左右に直角に張る形もありますが、五井先生
の場合は、合掌の指先の方向は、45度よりもやや上向きで、両肘は左右に張らずに両脇に下ろした自然
な形の合掌です。合掌は、大調和を意味しており、軽々しく行なうものではありません。インドやタイの
ような信仰深い土地では、合掌して挨拶する習慣がありますが、相手を神の子として心から拝める人は別
にして、五井先生は形式的にやたらに合掌して挨拶することは禁止されました。合掌して挨拶することが
形式的になってしまった生長の家を見て、白光真宏会では合掌して挨拶する規則は作らなかったのです。

もちろん、形式的な合掌がいけないのであって、なにがなんでも合掌してはいけない、という意味ではあ
りません。五井先生ご自身は、個人的お浄めあるいは集団での統一指導の時は、合掌されていましたし、
お手紙の末尾には、「敬具」の代わりに「合掌」と書かれるのが常でした。真心から感謝する時のように
心からあふれてきた真の合掌であるならば、何度行なっても誰に対して行なっても、それは良いのです。

合掌は合掌印といわれるように、さまざまな印の中の一つであり、神霊界と交流するためのラジオのアン
テナのようなものですが、五井先生の教えは他力易行道でありますから、真言宗のように、さまざまな印
を意識して組む必要はありません。五井先生がさまざまな印を組んでいたことから、五井先生の真似をし
て、自分勝手に印を作って組んでいる人がおりますが、いくら形ばかり真似しても、五井先生のような働
きはできません。五井先生の場合には、肉体を持った宗教者から印の形を教えてもらって、自己意識で印
を組んでいたわけではなく、背後の神霊が五井先生の手を使って動かしていたのです。五井先生は、背後
の神霊に肉体をすっかり委ねてしまっていて、自動書記のように、背後の神霊が五井先生の手を自由に動
かしていたのです。ふつうの人は、自分の手を動かしたり、止めたりするのは、自分の意識で行なってい
るので、自分以外の意識を持った神霊が、自分の手を自由に動かすことは理解しがたいと思います。

ふつうの人は、「何も思わないで、自分の手が動くはずがない」と思いこんでいるのです。その固定概念
から、「五井先生も、そうだろう」と思い、自己意識で印を作り、印を組もうとするわけです。しかし、
その自己意識を無くして、無念無想無為無行の境地にならなければ、真実の印とはなりません。自己意識
の印は、日本舞踊やダンスと同じ動きにすぎず、霊的な働きは無いのです。私達にとっては、「世界平和
の祈り」だけを行じていればよく、特別な印を組む必要はありません。もしも、印を組む必要があるなら
ば、その時は自己意識で印を組むという形ではなく、背後の神霊が、私達の自己意識とは関係なく、私達
の手を動かして下さるはずです。手が動かなければ、それは「手を動かす必要が無い」と守護の神霊が判
断しているからです。私達は、何も思わないで、ただ守護の神霊に身を委ねていさえすればよいのです。
他力行は、易しそうでいて、難しく感じるのは、「何も思わないで、動けるはずがない」という強い思い
込みがあるからでしょう。他力行即絶対力の境地があることを理解してほしいものです。

私達が統一行をする場合の印としては、五井先生から如来印(にょらいいん)を教えられましたが、これ
は真如(しんにょ)の世界、つまり実相の世界から来た、如来(にょらい)の組む印という意味で、釈迦
如来、阿弥陀如来、大日如来のような、如来と同じ心境の人に許される印なのです。この如来印は、合掌
のように胸の前で組んでも結構ですが、正座した時はふつう膝の上に、組んだ手をおきます。如来印の霊
的な意味は神秘的で不可解な部分が多いのですが、臍下丹田にあるスバディシュタナ・チャクラを覚醒さ
せ、生命エネルギーのプラナを貯蔵する効果があるようです。宗教をやる人には、理想ばかりに片寄って
いて、現実面に弱く、足が地に着いていないような、フワフワと浮かんだような感じを受ける人が多いの
ですが、身体の中心である臍下丹田の位置に如来印を持ってくることによって、理想を持ちながらも、現
実的な生き方ができるようになり、どっしりと落ち着いた心境になってくるのです。

この如来印の良さは、どのような場所でもできることで、電車の中でも、人との会合でも、奇異な格好に
見えないことです。また、霊的な人の中には、統一をしているうちに、組んでいる如来印が自然に外れて
きて、無意識に別の形の印を組んだりすることがあります。これは背後の神霊が、何らかの必要性があっ
て、その人の手を動かしているからで、そのまま背後の神霊にまかせていればよいのです。いずれにして
も、「世界平和の祈り」が中心の行であることに変わりはなく、私達は奇異な格好をしないで、常識的に
「世界平和の祈り」さえやっていれば、それでよいのです。

[質問2]
統一の祈りに対する役割が書かれているご本(み教え)はあるのでしょうか。

[お答え2]
五井先生のご本「心はいつも青空」のP93に、「祈りと統一」という文章がありますので、その箇所を
お読み下さい。祈りとは、意(い)を宣(の)る、からきたといわれ、祈り言とは生命(いのち)の宣言
(のりごと)である、と五井先生は説いていますが、簡単に申しますと、祈りとは、守護の神霊に向かっ
て本心からの願いを唱える行為です。

統一とは、二つ以上の散らばったものを、一つにまとめる、という意味で、宗教的統一とは、神のみ心
(本心)と一つになること、神我一体になることを意味します。守護の神霊にお祈りすることによって、
守護の神霊のみ心に統一できるわけですから、祈りの行も統一行も広義では同じ意味であるといえます。

但し、五井先生ご指導による統一行とは、「五井先生の柏手(かしわで)や霊笛(れいてき)を聴きなが
ら、正座瞑目して統一すること」を意味します。柏手は拍子木を叩いたような音であり、霊笛は小鳥のさ
えずりのように吹く口笛のことです。自分一人で統一する時には、守護霊守護神を呼び、「世界平和の祈
り」を祈りつつ統一するのですが、五井先生ご指導による統一行では、心の中で祈り言をくりかえす必要
もなく、五井先生におまかせしているだけでいい、これ以上ない楽な統一で、全くの他力行といえます。

五井先生が他界された現在では、「五井先生ご指導による統一行の録音」を聴きながら統一する、「世界
平和の祈り」を心の中で唱えて統一する、「世界平和の祈り」を声に出して統一する、の三つの行法があ
ります。唯一会の集会では、一つ目の「五井先生ご指導による統一行の録音」を再生して統一行を行ない
ますが、この方法は録音を再生する機器が必要ですから、いつでもどこでも、というわけにはまいりませ
ん。いつでも、どこでもできる方法は、やはり昔ながらの祝詞、唱名念仏、お題目と同じ方法をとること
になります。つまり、常住坐臥、「世界平和の祈り」を唱えることが、主な統一行となるわけです。

[質問3]
「守護霊様、守護神様、五井先生、ありがとうございます」の他に「守護霊様、ありがとうございます。
守護神様、ありがとうございます」という「本来の祈り」が録音されているものはあるのでしょうか。

[お答え3]
「本来の祈り」は、五井先生のご本や書跡にはっきりと記録されているのですが、録音されたものは残念
ながら無いと思います。集団で唱えている祈り言ではなく、五井先生個人だけで唱えている祈り言のテー
プ録音はありますが、それには「守護霊様、守護霊様、守護神様、守護神様、…ありがとうございます」
という祈り言が記録されています。

ご本の最初に載っている通り、「守護霊様、ありがとうございます。守護神様、ありがとうございます」
と唱えている五井先生のお声が一つでもあればよいのに、と思いますが、今となっては、手に入れること
ができません。五井先生は、頼めばなんでも気安くやって下さる方なので、周囲の誰かが気をきかせて、
「本来の祈り」をテープに収めておいてくれればよかったのですが、当時はそこまで気を配る人はいなか
ったのでしょう。

五井先生ご自身が「五井先生、ありがとうございます」と唱えても、それは間違っているわけではありま
せんが、信者さんではない、常識人の第三者から見れば、おかしな言い方に見えます。そのため五井先生
ご自身は、「五井先生、ありがとうございます」とはおっしゃっていないのです。録音された祈り言をよ
く聴きますと、その事実が発見できます。

五井先生とは、肉体の五井昌久先生だけを意味しているわけではなく、神道の言葉でいえば、五つの天
(てん)の真名井(まない)という、人間界を創造した五つの直霊を表しているのです。ですから「五井
先生、ありがとうございます」という祈り言は、直霊への感謝の祈りとなるのですが、しかし、他の宗教
の人から見れば、どう説明しても、五井先生は固有名詞であり、我田引水と受け取られてしまいます。

「世界平和の祈り」は、白光真宏会という宗教団体を超越し、宗教宗派を超越した祈り言であるのに、
「五井先生」という固有名詞があるばかりに、「世界平和の祈り」の普及が遅れては、ひいきのひき倒し
になってしまいます。かといって、五井平和財団のように、宗教色を極力省こうとして、守護の神霊への
感謝の祈りまで省いては、信仰心が満たされません。そこで唯一会の集会でのお祈りの際は「五井先生、
ありがとうございます」という祈り言は、各人の心の中で唱えていただくことにして、守護の神霊に感謝
する祈り言を含めた「本来の祈り」を唱えるようにしているのです。五井先生の意図した本来の祈りは、
唯一会の時代になって、ようやく花開き、実行に移された、とも言えます。

MAY7 PEACE BE IN THE WORLD.


転職についての助言
No.1987 森島恒吉    2000/07/25 (火) 11:50 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

くに・をさんの「転職」に関するご質問にお答えします。

転職に限りませんが、不特定多数を相手に講演する一般論と個人相談とは、アドバイスのしかたが異なっ
てきます。五井先生は、相手を見て自由に法を説く方で、「今の会社をやめず、辛抱したほうがいいよ」
と説く場合もありますし、「気のすむまで何回でも会社を変えてごらんなさい」と説く場合もあります。
そこが個人相談の難しいところでありまして、Aさんには合っている答えも、Bさんには合わない、とい
う例が多いのです。ですから、五井先生が、或る人に与えた過去のアドバイスが、すべての人に適合して
いる、とは言えないのです。五井先生のご本の一部に書いて助言を、金科玉条として信じて、いかなる事
情も背景も考慮しないで、その通り実行しようとする人がいますが、五井先生の他のご本には、それとは
まるで反対の生き方を説いている場合があります。相談相手によって、ケースバイケースで「あなたは右
へ行きなさい」と説いたり、「あなたは左へ行きなさい」と説くことがあるのですから、五井先生のお言
葉の一部分だけに把われてはいけないのです。五井先生のすべてのご本を読んで、はじめて五井先生のこ
うした多面的なご指導方法が理解されてくるものです。

たとえば、高橋英雄氏が五井先生の側近にいて、五井先生からお聴きしたお言葉をまとめた「如是我聞」
がありますが、その中の一節に「今の置かれた立場を逃げてはいけない」というお言葉があります。この
お言葉を実行しようとして、暴力団の構成員が、「今の立場から逃げてはいけないのか」と解釈して、い
つまでも暴力団に入っていては、これは誤った行為ということになります。火事にあって、「今の立場を
逃げてはいけない」と五井先生のお言葉を信じて、火が近づいても逃げずにいたら、焼け死んでしまいま
す。大きな岩が崖から落ちてきて、「今の立場から逃げてはいけない」と思って、その場にいたら、岩に
押しつぶされてしまいます。奇蹟的に生き延びることを期待するかもしれませんが、おそらく失望するこ
とでしょう。死んでも、「あの人は、五井先生のみ教えを信じて逃げなかった。なんと立派な人だろう」
と人々から尊敬されることはありません。「あの人は、なんてノロマな人だったんだ」と軽蔑されるだけ
です。これでは死に損です。

「今の置かれた立場を逃げてはいけない」という真意は、「責任のがれをしてはいけない」という意味で
あり、暴力団にいたら、暴力団とか不良グループから抜けることに努力しなければなりませんし、火事に
あったら逃げなくてはなりませんし、岩が落ちてきたら一目散に逃げなくてはなりません。会社に勤めて
いたら、置かれた立場の責任を果たすように努力しなければなりません。人によっては、短期間に数多く
の転職をくりかえす人がいます。この場合は、就職先に問題があるというよりも、本人の精神的弱さに原
因があることが多いのです。忍耐力のなさに原因があるならば、本人が忍耐力のなさを克服しなければ、
どこへ行っても、長続きはいたしません。自分の会社ではないのですから、自分の好きなように仕事をす
ることができないのは当然です。仕事のためには嫌な仕事もしなければなりません。嫌な人とも会わなく
てはなりません。これはどこに就職してもありうることですから、辛抱しなければなりません。

転職をくりかえすことによってキャリアが認められる、という外国とは違って、日本の社会では、頻繁に
転職した過去がありますと、まず信用されることはありません。良い会社であればあるほど、良い人材を
採用しようと思いますから、転職を頻繁にした人は、「うちの会社に入っても、またすぐに退社してしま
うだろう」と思われて、採用されることはありません。転職した人が、永年その会社に勤務している人を
飛び越えて重役になったり社長になることは、まずありません。転職するたびに、給料待遇が良い会社に
就職する人は、人並み以上のすぐれた才能と実力があるからで、普通の能力の持ち主では転職するたびに
低ランクの会社へ行くことになってしまい、「前の会社にいれば良かった」と後悔することになります。
転職するたびに特殊な技能を覚えて、将来独立して成功する人とか、多くの転職の経験を生かして小説家
になって成功する人は、たまにいますが、そうした例はごく稀であることを知っておかねばなりません。

相談者のご質問にお答えしますと、今よりも良い会社へ就職できることが、すでにわかっているならば、
転職したらよい、と思います。しかし、次に就職する会社が決まっていない状況で、今の会社をやめてし
まったら、後悔するかもしれません。今の会社よりも、自分に適した会社に行ける準備ができているなら
ば、転職をとめる理由はありません。次にどこの会社に行くか、予定もないのに、今の会社をやめてしま
っては、就職先を探すのに大変苦労します。どうしても転職したいのならば、今の会社に勤めながら、転
職先を探し、就職の内定をとった上で転職するとよいでしょう。

「守護霊様、私の天命が完うできますように、私に適したお仕事をお与え下さい」

と守護霊様にお祈りしていれば、その時期がくれば、自分の心の中に明確な答えが出てきます。守護霊様
にお導きをお祈りしていれば、必要な時に必要な行動をとることができるようになります。迷っているう
ちは、動かないことです。守護霊様に祈りつづけてゆくうちに、しだいに迷いが消え去って、考えが一つ
にまとまってきます。迷いがなくなり、判断が一つに決まったら、それが守護霊様からの答えと判断して
実行に移せば良いのです。迷っているうちは、何をやっても駄目です。守護霊様にお祈りをして、熟慮し
て、一度「こうしよう」と定めたら、もう二度と迷わないようにしなければなりません。正しい直観が湧
いてきても、その次の瞬間から、業想念の答えが湧いてきて惑わされるものですが、守護霊様に判断を仰
ぐようにしていれば、守護霊様が「これがあなたの行く道だ」とはっきりと指し示して下さるのです。そ
の答えは、自分の行為となって自然に現れてくるものです。

世の中には、いろいろな職種があり、いろいろな会社や公益法人や職場があるものです。私の友人に、船
に乗ったり、ヘリコプターを操縦して、遊ぶように生活している人がいます。その人に「あなたのお仕事
は、なんという名称のお仕事になるのですか?」と訊きましたら「静岡県委嘱の静岡県余暇プランナー」
という返事がかえってきました。「県民の皆さんに、いかに遊んでいただくかをアドバイスする」という
お仕事なのです。「こんな仕事もあるのか」と驚く、なんともうらやましい仕事です。このように、自分
の好きなことを仕事にすれば、それが一番幸せでしょう。あなたも、もし現在の職場に不満ならば、自分
に向いた職場を見つけ、充実した生きがいのある人生を送って下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


神様のみ心のままに
No.1992 森島恒吉    2000/07/29 (土) 00:23 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「宗教上の観点から、鬱に対する良い対策がありますか?」というソレイユさんからのご質問については
守護霊様に、このように祈れば、解決できます。

「守護霊様、鬱の想いを消して下さい、守護霊様、お願いします。世界人類が平和でありますように」

このように祈ることによって、鬱の想いが守護霊様と救世の大光明に浄められて、心が晴れてきます。

それから、鬱状態の時に、お祈りの集会に参加するのはおっくうでしょうが、鬱状態になる前に、できる
かぎり、お祈りの集会に参加されたらいいですね。しかし、福井から東京までは遠いし、時間も費用もか
かりますから、「世界平和の祈り」を共に祈る法友を近くに作って、お祈りの集団から生じる光明の活気
を、自分の心に充電しておくことです。そのようにしていれば、鬱の時期を軽く乗り越えることができま
す。もしご要望があれば、私が福井まで行って、元気をつけてあげます。

自殺することなど考えないで、何もしないでもいいから、生きることだけを考えることです。生きること
だけだったら、難しくはありませんね。欲望があるから苦しくなるのです。この際、自己の欲望をすべて
捨てて、神様に生命を差し上げてしまいましょう。

「守護霊様、あなたさまのみ心のままになさしめたまえ」

と守護霊様にすべてをまかせてしまうのです。このように祈りますと、心にあった重荷がスーッと消え去
っていって、心が軽くなるはずです。この祈りによる癒しの感覚を、ぜひ体得なさって下さい。

「ソレイユさんの天命が完うされますように」

と私達は、ソレイユさんの天命の完うをお祈りしております。解決手段の一つとしては、鬱になったら、
この掲示板に書き込んで、皆さんから祈ってもらい、励ましてもらうとよいでしょう。ソレイユさんは、
一人ではありません。法友であり同志の私達がついているのです。元気を出して下さい。

※「抗鬱剤をのむ」という医薬以外に、新しい物理科学的解決方法を発見しました。これは私自身が臨床
研究している段階で、いずれ発表することになるかもしれません。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.