森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


すでに平和な世界に住んでいる私たち
No.1803 森島恒吉    2000/04/09 (日) 21:27 富士宮市
世界人類が平和でありますように

青空さん、私の講義の内容を要領よくまとめて下さって、ありがとうございます。
「他力行をしていると、神仏の力である絶対力が現れてくる」という宗教の奥義を、多くの方々に理解し
ていただきたいものです。宗教理論がわかったら、あとは実行あるのみです。

世界人類が平和でありますように

と祈りつづけていれば、必要に応じて神の力である絶対力が現れてくるのです。いつ、どんな絶対力が現
れてくるのかは、考える必要はありません。思いがけない絶対力が、突如として現れてくるのものです。
「あなたに無くてならぬ物は、神から与えられる」のが真理なのですから、神の大愛と叡知と絶対力を信
じて、神におまかせしていればよいのです。

他力行と自力行を混ぜてやりますと、祈りの効果が薄くなります。他力行に徹することが、安心立命を早
く体得する秘訣です。他力行の道には、「こうしなければならない」と考える必要はなく、「こうしては
いけない」と思う必要もありません。自由を束縛する教えはありません。自由にやりたいことをしながら
道を外れることがなく、自分の為だとか、人の為だとかと区別せずに、自他一体観で愛を実行できるよう
になるのです。宗教の道に入りながら、行法に束縛され、時間に束縛され、空間に束縛され、土地に束縛
され、精神的に束縛されてはなりません。宗教とは、真の自由を得るためにあるのです。

世界人類が平和でありますように

と祈るだけで、私たちは神のみ心にかなった想念行為になってゆくのですから、「しなければならない行
為」も「してはいけない行為」も何一つ無いのです。なんという自由でしょう。それでいて、人に迷惑を
かけることがなく、宇宙の運行に正しく乗っているのです。そうなるまでに時間がかかるのは、やむをえ
ません。しかし、「成る」と今わかっていれば、今から成った時の喜びを味わえることができるのです。
地球世界は、まだ平和にはなっておりません。平和になるまでには、まだまだ時間がかかりますが、それ
でも「地球は平和になる」と今知れば、今信じることができるならば、その人にとっては、今から平和な
世界に住むことができるのです。「世界平和の祈り」に全託している私たちは、数千年先まで待つ必要は
ありません。私たちは、もうすでに平和な世界に住んでいるのです。

世界人類が平和でありますように

この祈り言は、数千年先の人類も唱えている平和な世界の祈り言であるのです。「世界平和の祈り」を祈
る時、私たちは時空を超えて、未来の平和な世界に住んでいるのです。なんと楽しいことでしょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


不平不満の無い感謝道
No.1805 森島恒吉    2000/04/12 (水) 21:14 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、ありがとうございます。ハーミットさんのように、唯一会の様子を客観的に書いて下さ
ると、初心者の方々は安心して参加する気持ちになると思います。「世界平和の祈り」の運動は、まだ始
まったばかりです。「世界平和の祈り」の真価は、これから発揮されてくるのです。「世界平和の祈り」
が最善の祈り言であることを知っている方々が、一堂に集まって「世界平和の祈り」を祈れば、過去には
なかった素晴らしい成果が現れてくるのは当然です。必要に応じて必要な叡知や力が現れてくるのです。

「世界平和の祈り」を祈っておりますと、いつしか不平不満が消えてゆき、いつも感謝の心が湧いてくる
ようになります。どんなに欲望を叶えても、どんなに願望を成就しても、それによって不平不満の想いは
消え去ることはありません。一つの欲望を叶えて欲望が満たされても、次の瞬間には新しい欲望が湧いて
きて、心の安定は乱され、再び不平不満の波にかき乱されてしまいます。不平不満の想いがあっては、い
つまでたっても人間は幸福にはなれません。欲望を追いかけていては、真の幸福は得られないのです。

欲望が叶えられなくても、願望が成就しなくても、神様が大愛であり、神様に自分が愛されていることを
知ればよいのです。「自分に必要な事物は、神様はすでにご存じであるのだ」と神様の大愛と叡知を信じ
て、ただただ神様に感謝の祈りを捧げていればよいのです。

神様、み心のままになさしめたまえ
神様、私の天命を完うするために必要な事物を与えたまえ
神様、ありがとうございます

どんな大きな願望を成就するよりも、「神様、ありがとうございます」という感謝の祈りに勝る喜びは、
ありません。願望や欲望を追いかけて不平不満の道に迷いこまず、私たちは神様に全託して、深い感謝の
道を進んでまいりましょう。「不平不満が無い」ということは、なんとありがたいことでしょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


美しく生きる
No.1830 森島恒吉    2000/04/24 (月) 21:39 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、ありがとうございます。キリスト教は、歴史が長いだけあって、すぐれた宗教曲がたく
さんありますね。音楽は、理屈ではなく、直接心にひびいてきます。「世界平和の祈り」についての宗教
曲も、これから多く生まれてほしいと思います。宗教をやる人の中には、ともすると常識はずれになった
り、美的なセンスや恥じらいを失って、臭みのある人になってしまう人がいます。奇妙な格好や動作をし
ても、なんの恥じらいもなくなっては、真の宗教とはいえませんし、世間と調和するはずがありません。
美しい音楽を聴いて、美しい言葉を語らい、一挙手一投足の動作が美しい人は、魅力的な人です。宗教を
やればやるほど、美しい人にならねばなりません。「世界平和の祈り」を祈っていれば、美しい人になれ
ますし、唯一会は美しい集まりになるはずです。唯一会が美しい雰囲気に満ちれば、多くの人に愛される
会となることでしょう。美しく美しく美しく、生きてまいりましょう。

神様、美しい私たちにならしめたまえ

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


健康第一
No.1831 森島恒吉    2000/04/26 (水) 00:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「健康第一」という五井先生の随筆がありますが、私もトシをとるにつれて、「健康第一」といつも考え
るようになってきました。若くて健康な時には、肉体を意識せずに自由に動けますが、中年以降になりま
すと、自分のからだのあちらこちらに衰えが見られます。若い時のように走る気持ちになれないし、階段
を二段ずつ駆け上がってゆくよりも、エスカレーターに頼ります。若い時には、フサフサとして艶のあっ
た髪の毛も、だいぶん禿げてきて、白髪にもなってきました。小学生の時から、深夜に激しい咳をするこ
とはあったのですが、最近は昼間から咳きこむことも多くなりました。まるで、五井先生の晩年のようで
す。また、独り暮らしをしているときには気づかなかったのですが、私も食べる時に、舌をペチャペチャ
と鳴らす癖がついていることが、泉に言われて気づきました。若い頃の私は、舌をペチャペチャ鳴らしな
がら食べる人を見て、嫌ったものですが、今では自分が嫌われる人になってしまいました。泉に嫌われな
いように、舌の音を立てないで食べようとするのですが、自分の悪い癖を直すことができません。そんな
自分が「なさけないなあ」と思います。こうした加齢による現象は、肉体への未練を断ち切るためと教え
られましたが、健康な肉体のままで天寿を完うし霊界に移行できれば、それにこしたことはありません。
しかし、私の肉体はボロボロになっても、「世界平和の祈り」を祈っている私がいます。なぜ、私は祈っ
ているのだろう? という疑問も持たずに、「世界人類が平和でありますように」とひたすら祈りつづけ
ている私がいます。肉体の現象に把われずに、「世界平和の祈り」を私は祈っているのです。ここが人間
の不思議なところでもあります。私のとりえは「世界平和の祈り」を毎日祈り続けているところですが、
「世界平和の祈り」の効力は、人類の平和な歴史として、いずれ現れてくることでしょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」を愛する人よ、集まれ!
No.1833 森島恒吉    2000/04/26 (水) 11:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、励ましのお言葉を頂戴し、ありがとうございます。
人によって感覚が異なるのでしょうが、「時間のたつのは速いなあ」と今の私は思います。私が五井先生
とお会いして、「世界平和の祈り」を祈り初めてから、アッという間に三十年以上の月日が流れてしまい
ました。三十年の月日も、過ぎ去ってみると一瞬のように感じられます。この時間の速さにくらべ、学ぶ
べきことのなんと多いことでしょう。今後十年間の私の目標は、五井先生のみ教えを理解できる人を育成
することです。「世界平和の祈り」を唯一行とすることは、私が確立しましたから、あとは続けるだけで
充分です。「世界平和の祈り」を愛する人よ、集まれ。そして、共に祈ろう!

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


自力を捨てる
No.1840 森島恒吉    2000/05/02 (火) 17:05 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[お答え]
折原さん、ありがとうございます。折原さんがお答え下さった通りで結構です。
最初から、「世界平和の祈り」を絶対に信じて祈る、という高い境地で祈る必要はありませんし、そんな
ことはできないと思います。「世界平和の祈り」を信じなくともいいし、疑ってもいいし、だまされたと
思ってもいいから、「これは善い方法かもしれない」と思ったら、ためしに「世界平和の祈り」を行じて
みたらいいと思います。しばらく行じてみて、「これは素晴らしい」と思ったら、祈りの行をつづけたら
いいし、もしも「こんな方法ではだめだ」と思ったら、やめたらいいのです。まずは、日常生活の中で、
お祈りする習慣をつけることです。信仰をもつ家庭に育った人以外は、日常生活の中でお祈りをする習慣
がないと思いますが、お祈りの習慣をつけるためには、「世界平和の祈り」の会合に参加したり、家族に
賛同してもらい、家族と共に祈るようにして、お祈りの行事を日常生活の一部にしてしまうことです。そ
のようにして日頃から「世界平和の祈り」を行じているうちに、深い人類愛や感謝の気持ちが湧いてくる
ようになれば、もうしめたものです。「世界平和の祈り」は他力易行道でありまして、「神仏を強く信じ
ることのできる立派な心境になってから行じなさい」とは教えておりません。神仏への不信の念があって
も、疑い深い想いがありましても、そのままの心境で「世界平和の祈り」に全託すればよいのです。他力
の道では、自力で神のような高い心境になろうと力む必要はありません。自力を捨てることです。

法然さんと親鸞さんは、教義の根本はもちろん同じであるのですが、開祖と普及の導師という立場や役目
の違いから、教え方が多少異なっています。法然さんは、「百万遍の念仏を唱えよ」と説き、親鸞さんは
「一遍の念仏で救われる」と説いています。親鸞さんは法然さんを信じるだけでよいのですから、信一筋
であったのです。親鸞さんは、法然さんの開いた他力易行道を、より広くより易しい他力易行道へと発展
させたのです。これは役目の違いですから、百万遍の念仏でも、一遍の念仏でもどちらでもいいのですが
「そうか。念仏を一遍唱えれば救われるのか。それならば、死ぬ前に一遍念仏を唱えよう。死ぬ前に一遍
唱えればいいのだから、それまでは唱えなくてもいいだろう」と思っていた人が、死ぬまぎわになって、
うっかりして念仏を唱えることを忘れ、一度も念仏を唱えずに死んでしまった、ということがありますか
ら、日頃からお祈りの習慣をつけておいたほうがよろしいと、五井先生はおっしゃっていました。(笑)

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


アメジストさん、はじめまして。(^_^)
No.1842 森島恒吉    2000/05/04 (木) 12:23 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

アメジストさん、美しい宝石のお名前ですね。はじめまして。「世界平和の祈り」の祈り言を書いて下さ
って、ありがとうございます。

私は恥ずかしがり屋なので、唯一会の会員だけにメールでお知らせしたのですが、本年3月15日に私は
結婚しました。相手は、この掲示板にもコメントを書いていたムクちゃんです。白光真宏会の会員でした
が、私の宗教観に賛同して下さって、気が合ったので結婚しました。いつも一緒に「世界平和の祈り」を
祈っています。つい遠慮をしてしまう他人と違い、妻という立場で、私に対して率直な批判をしてくれま
すので、ありがたく思っています。私にとっては、とても優しく、よく気のきく、良きパートナーです。
今後は二人ともども、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。

[質問]
神仏への不信の念があったり、疑い深い想いがあったら「全託する」ことは不可能に思われるのですが、
どうなんでしょう?

[お答え]
おっしゃる通りですね。神仏に全託できたら、もうすでに立派な心境ですね。「全託すればよい」と私が
書いたのは、「想いをすべて神仏のみ心の中へ投げ入れればよい」という意味で書いたのです。誤解のな
いように、次のように書き直しましょう。ありがとうございました。

神仏への不信の念があっても、疑い深い想いがありましても、そのままの心境で「世界平和の祈り」に
想いを投げ入れてしまえばよいのです。神を信じられなくても、「世界人類が平和でありますように」と
祈り、神を疑う想いが出てきても「世界人類が平和でありますように」と、「世界平和の祈り」の祈り言
の中に入りこむようにするのです。そうしておりますと、神仏への信が自然に深まってゆきます。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「神さま、お願いします」と想いを神さまのほうへやる。
No.1846 森島恒吉    2000/05/07 (日) 00:57 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

今月も、白光誌の中から、五井先生のみ教えの最も重要な点を抜粋することにしましょう。

[「五井先生講話」より一部抜粋/白光誌/2000年5月号/白光真宏会出版局]

…肉体のほうで「神さま、お願いします」と想いを神さまのほうへやりますと、神さまの光は無限に速い
し、宇宙大にひろがっていますから、誰のところへでも、すぐ行く。たとえば、アメリカのAさんなら、
「(神さま)Aさんの病気が治りますように、どうか痛みをとってあげてください」と祈ると、サッと
(神さまの光が)行く。その人が真剣になればなるほど、その光がよけいに向こうの人に入ってゆく。す
ると、向こうの人の守護神の光と協力して、病気なら病気を治してゆくわけです。一人の人の守護神さん
の力でやれば、一年も二年もかかるものが、祈る人の守護神さんが応援しますと、それが半分にも十分の
一にも縮みます。だから、大勢の人が祈れば、よけいに早く治る。…だから、皆さんに直接見える効果が
あれば、もちろんいいけれど、それがなくとも、(神さまに)自分たちの祈りは聴かれているんだ、大勢
で祈れば、尚更のこと(神さまに)聴かれるんだ、と思ってください。…

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「消えてゆく姿」の教えの真髄
No.1857 森島恒吉    2000/05/15 (月) 01:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「本もの贋もの」五井昌久著(白光真宏会出版局)のP179に、五井先生は次のように書いています。

…「敵が無い」とか「(敵が)在る」とか、いうのではありません。「物質が在る」とか「(物質が)無
い」とか、いうのでもありません。この世に現れている、また現れてくる事物事象のすべては、神のみ心
が完全にこの世に現れるための変化変滅の姿、つまり消えてゆく姿であって、「そのまま完全である」な
どというものは、一つとして無いのです。…

五井先生が説いているように、現在の地球界では、「悪や不幸や病気などの業想念は無い」とは宣言でき
ないし、「私は完全な神の子である」と宣言することも時期尚早であるのです。現在は、完成に至る途中
の段階にいるのです。やがては、人類すべてが、神の子の完全な姿を現すようになるのですが、それはど
こかの宗教家に認定された、特別な人たちだけが神になったり、救われたりするのではありません。地球
人類すべての人が、「世界平和の祈り」によって、神性を顕現する時がくるのです。

私達は、自分の運命を波動調整する祈り言として「私達の天命が完うされますように」と祈っております
が、なぜ、「私達の病気が治りますように」とか「私達の貧乏が直りますように」とお祈りしないのかと
申しますと、守護の神霊方が、その人の魂の進化のために、「今、病気の症状を現したほうがよい」と思
われれば、病気の症状が現れてくるのです。天命を完うするために、病気の症状を一時的に早く現したほ
うがよい時もあるのです。また、「貧乏の経験を積んだほうがよい」と守護の神霊が思われれば、貧乏の
状態が現れてくるのです。

病気が現れても、貧乏が現れても、人間は常に、何事が起きても、不安動揺の想いを起こさぬようになる
ことが、人間としての究極の目的であるのです。いいかえれば、「私達の天命が完うされますように」と
祈っていることが、病気や貧乏の波動を消滅させるのに、最も効果的な方法といえるのです。現象に把わ
れ、いちいち一喜一憂し、不安動揺の想念を、常に起こしていてはいけません。現象に把われず、天命の
完うを、ひたすら祈りつづけていればよいのです。五井先生は、ご病気の症状があった時も、五井先生の
心は、健康の時と全く同じように明るく、屈託のないユーモアを充分にいえる状態でいたのです。「毎日
がよい天気でありますように」と祈る人はいません。なぜならば、一年365日、雨もふらず、風もふか
ない快晴の日がつづくわけがない、と知っているからです。現象に把われた祈り方をしていては、いつま
でも現象に揺り動かされて、平和な心を得ることはできません。ですから、現世利益的な祈り方はしない
で、「私達の天命が完うされますように」という祈り言にしたのです。


念力は宗教の本道ではない
No.1858 森島恒吉    2000/05/15 (月) 09:52 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

6月の唯一会集会は、東京では6月10日(土)テキスト「自らを信ぜよ」、大阪では6月25日(日)
テキスト「白光への道」の予定です。(テキストは共に五井昌久著/白光真宏会出版局)

「自らを信ぜよ」の中で五井先生の教えの大事な点は、「念力は宗教の本道ではない」「信念と念力のち
がい」という教えです。念力では、一時的に欲望が叶えられたとしても、心の真の平安は得られません。
守護の神霊にお委せする祈りの力は、力んで行なう念力よりも、はるかに大きな利益が与えられる事実を
知ることです。祈りとは、想念を空にすることですが、空になった時、空即是色といって、神の実在の世
界から真実の知恵や真実の力が現れてくるのです。ですから、念力のように、自分の願望を紙に細かく書
き出して強く念じる、というような行は不要であるのです。祈りの力を信じられずに、祈りと念力行を同
時に行なっている人が多いのですが、それでは祈りの力が効果を失ってしまうのです。付け加えておきま
すと、仕事や勉強や家事の計画を立てることは、念力ではありません。「世界平和の祈り」を祈ってから
人生の計画を立て、計画を実行するたびに「世界平和の祈り」を祈って、計画をよりよいものに修正して
ゆく、ということは、自力行ではなくて、他力行であるのです。守護の神霊のご加護を祈り、守護の神霊
のお導きを祈った上で、自分の思ったことを実行してゆくことは、自力行ではなく他力行となるのです。
「世界平和の祈り」を日々祈りつづけ、「世界平和の祈り」の中から、自分の生命をいただき直して思っ
たことを実行してゆけば、神のみ心に適った行為が、自然にできるようになってくるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


自分を赦し人を赦すには
No.1865 森島恒吉    2000/05/23 (火) 22:50 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

6月の東京集会では「自らを信ぜよ」のテキストが品切れのために使えなくなりました。そこでこの本の
中から五井先生のみ教えの大事な点をピックアップして、解説することにいたしましょう。

[「自らを信ぜよ」P11 五井昌久著白光真宏会出版局より]

「…今日までの宗教のあり方では、責め裁きつつ、真理に近づいていこうとします。他人を責め裁くこと
を止めても、自分の心が始終責め裁きつづけてゆきます。そういう心の姿勢は、他人を責めまいとしなが
らも、いつの間にか責めつづけています。ですから、どうしても、業の波がぐるぐる廻りをして、その人
から離れてゆきません。私は、それを本心から離してしまうために、消えてゆく姿という言葉を使って、
そういう責め裁く想いを、自分を取り巻く業の波のほうに向けたり、他人の業のほうに向けたりせずに、
一挙に神霊世界に光明波動の中で消してもらうための世界平和のお祈りをしてゆくのであります。…これ
が言葉を返していえば、自分を赦し、人を赦し、ということになるのです。…現在、自分がときおり間違
った想いをおこしたり、行なったりしたとしても、また他人が悪い行ないをしていたとしても、その人の
本体は、神の子なのですから、その間違った想念行為や、悪の行ないが、再び自分やその人に現れないよ
うに、世界平和の祈りで神々の光明によって、消していただくのです。…」

ここで注意しなくてはならないのが、「自分を赦し、人を赦しなさい」と一方で説いても、「因果法則
(因果律)は超えられない絶対の宇宙法則である」と他方で説いてしまっては、赦すことと、責めること
を同時に行なう結果になり、せっかくの赦しの教えが生きてこない、ということです。真実に自分を赦し
人を赦すには、「因果法則を用いて業因縁を消そう」という考えを、捨て去らなくてはならないのです。
因縁因果の法則を、超えることのできない宇宙の法則として解釈してはなりません。

因縁因果の法則を、超えられない絶対の法則と見ますと、どうしても「あなたが不幸なのは、あなたのせ
いだ。あなたの想いを直しなさい」と説き、結局は「あなたが悪いのだ」と人を責め裁くようになってし
まいます。たとえ「あなたが成功できると思えば、成功できる」と言って、因縁因果の法則のプラス面を
強調したとしても、現実の生活ではマイナス面のほうが多いのですから、「あなたが病気になったのは、
あなたの責任だ」「あなたが貧乏なのは、あなたが悪いからだ」「あなたが不完全なのは、私は完全では
ない、と自分自身で思っているからだ」と人を責める方向へと行くのです。自他を責め裁くことによって
悪因を消すことができれば結構なのですが、自他をいくら責め裁いても、自分自身も業因縁の渦に巻き込
まれていながら業因縁を消すことは、不可能に近いぐらい難しいことなのです。因果法則を知ったがため
に、かえって、自他を責め裁いて苦しむ結果となるのです。

一方で「あなたは神の子である」と光明思想を説いたとしても、他方で因果法則を説き「あなたが悪いの
だ」と説いてしまっては、言われた人は、自分が神の子なのか、罪の子なのか、判然としなくなります。
神の子が悪いことをするはずがないのですから、「あなたは神の子である」と「あなたが悪いのだ」とい
う二つの評価は、どう考えても矛盾しているのです。このように、「人間は神の子で無罪なり」と光明思
想を説いても、因果法則を説きますと、「人間は善いこともするが悪いこともする善悪混淆の存在」とな
り、光明思想が曇ってしまうのです。この矛盾を無くすには、因果法則を用いた運命修正法を捨てなくて
はなりません。そして、「人間は神の子である」という光明思想一元論としなければならないのです。

因果法則は三界において厳然として存在しており、その法則を曲げることはできません。しかし、その法
則を超える法則も、また実在しているのです。物が上から下へ落ちるという引力の法則は、宇宙の法則で
す。しかし、鳥はなぜ空から地上に墜落しないのでしょうか。花から花へとヒラヒラと舞う蝶は、なぜ地
面へと落ちてゆかないのでしょうか。それは引力の法則を、鳥も蝶も超えることができるからです。飛行
機は、地球の引力の影響を受けてはいますが、空気の浮力の法則によって、引力の作用を超えて、高い空
へと飛んでゆけるのです。それと同じように、因縁因果の法則は、三界に存在し作用する法則でありまし
て、自分が三界の心境から解脱すれば、因縁因果の法則を超えることができるのです。相手がいくら刀を
ブンブンと振り回していたところで、その刀の届く圏内から離れた所にいれば、その刀は空回りをするだ
けで、自分の体は傷つけられることはありません。それと同じように、三界の因果の渦巻く波動の圏外に
抜け出てしまえば、悪い運命が潜在意識にあったとしても、その悪い運命の波は空回りしつつ、おのずと
消えてゆき、自分の運命にふりかかってこなくなるのです。この因果法則の作用する三界の波動圏から抜
け出ることを、解脱と言い、悟りと言うのです。ところが、因果法則を絶対超えることのできない存在と
見ておりますと、いつまでたっても因果法則の波動圏の中から抜け出ることができず、自己の神性を開顕
できないのです。自分を赦し、人を赦すためには、自他を責め裁く結果となる因果法則による運命改善法
を捨てなくてはならないのです。

それでは「自分を赦し、人を赦す」とは、具体的にどうするのかと申しますと、自分や他人の間違った想
念行為や悪い行為を、三界の波動圏を超えた働きができる守護の神霊に救いを求め、「世界平和の祈り」
の大光明で消していただくのです。守護の神霊の御手によって、三界の因果世界の波動圏から、因果を超
越した高い波動圏へと、自己をひっぱり上げてもらうのです。すると、自他を責め裁く業想念が、自分に
も人にもぶつからずに消えてゆき、おのずと自分を赦し、人を赦せるようになるのです。「自分を赦さな
ければならない」とか「人を赦さなければならない」と力む必要は少しもありません。ただ「世界平和の
祈り」の中へ自分や他人の間違った想念行為や悪の行ないを投げ入れて、消していただくことによって、
いつしか自他を赦せるようになるのです。「世界平和の祈り」を祈っているうちに、この赦しの境地は、
体験的に理解されてくるのです。

尚、現実問題として、自己の近くにどうしても赦せない相手がいたり、自己を赦してくれない相手がいた
場合、どちらかが暴力をふるったり、刃傷沙汰になるほどの危険が予期できたら、無理にその相手と和解
しようとしないで、その相手とは速やかに別れることをお勧めします。そして、相手から遠く離れた位置
にいて、お互いの天命の完うを祈ればよろしいのです。心では赦せないのに無理に人を赦したり、心では
和解できないのに無理に人と和解したり、心では嫌っているのに無理に好きな態度をとったり、心では相
手のそばにいたくないのに無理に相手のそばにいたりする必要はありません。自分の心に正直になって、
好き嫌いをはっきりさせて、交際することです。現在の人間は、まだ神性を開発する途中の段階ですから
完全な人など、どこにもおりません。好きな人もいれば、嫌いな人もいます。自分と似た波動の人もいれ
ば、自分とはまるで異なった波動の人もいます。嫌いな人を好きになる、ということは、口で言うほど易
しいことではありません。ですから、嫌いな人は、嫌いなままでよいから、嫌いな人とは距離をおいて、
「世界平和の祈り」を祈るのです。「世界平和の祈り」を祈り、人類の業想念が消えてゆけば、しだいに
嫌いな人もいなくなり、いつしか、すべての人を愛せるようになります。そこで、「世界平和の祈り」を
ひたすら祈ることが、自分を赦し、人を赦す行法である、と五井先生は結論しているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「世界平和の祈り」は人類の合言葉
No.1868 森島恒吉    2000/05/25 (木) 07:55 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

つづいて五井先生のみ教えを抜粋いたします。(「自らを信ぜよ」P61〜63より白光真宏会出版局)

「世界人類が平和でありますように」という言葉を、人類すべての祈り言の中心として唱えつづけること
が、人類の心を一つ祈りにする、最短距離であることを知ったのであります。…各宗教宗派の人たちは、
それぞれの祈り言は、それぞれでつづけてゆかれればよいでしょうが、全宗教の合言葉のように、「世界
平和の祈り」を中心にして祈ることが必要なのです。今は、何宗も何派もありません。地球の滅亡を防ぐ
ことが、唯一無二のことなのです。地球を滅ぼすのは、鬼でも悪魔でもありません。人間の謝った業の
心、不調和な心が、自らを亡ぼそうとしているのです。その業の心を持ったままで、日々瞬々「世界平和
の祈り言」にのり、神の大光明の中で、その業を消して頂くのです。その繰り返しによって、個人も救わ
れ、やがては人類そのものも救われてゆくのです。神と人間との一体化以外には、人類の救われはない、
ということを、あらためて認識して下さい。

[解説]
「世界平和の祈り」は、人類の中心の祈り言であり、人類の心を一つにする最短距離の祈り言であり、か
つまた全宗教の中心の祈り言であるのです。今は、「自分の宗教が最高だ」と言って、各宗教、各宗派が
争っている時ではありません。全宗教者が、心を一つにして世界平和のために祈り、人類愛の心を広めて
ゆかねばなりません。神道、仏教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、すべての宗教者の皆さん、今
こそ、宗教宗派の垣根を超えて、一堂に集まり、「世界平和の祈り」を祈りましょう。私達は、排他的に
ならず、すべての宗教者と積極的にお会いし、ご一緒に「世界平和の祈り」を祈り、交流を深めてゆきた
いと思っております。

May Peace be in the World.


「世界平和の祈り」を祈れば、必要な物はすべて授けられる!
No.1871 森島恒吉    2000/05/27 (土) 06:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[五井先生著「自らを信ぜよ」P82〜(白光真宏会出版局)より抜粋]

宗教者によっては、祈りと願い事、それに念力など、みな一つにして教えている人もありますが、願い事
はまあよいと致しまして、念力は、宗教の道ではありません。祈りとは全く違った道なのです。釈尊の頃
でも、バラモンの人たちが、しきりに念力争いをしていまして、真の宗教から道を外してしまっていまし
たので、釈尊は「空の行」を説かれ、「念力が宗教の道でない」ことを、人々に示されたのであります。

…催眠術のような念力的生き方は、ついには念力競争になってしまって、昔のような、宗教の争いが起こ
ってしまいます。宗教というのは、祈り心によって、神との一体化がなされるものでありまして、念力と
は業想念の働きであります。…宗教の生き方はあくまで、神様に全託する、という方向に向かってゆくこ
とで、その生き方が大調和精神に通じるのであります。

…蛹(さなぎ)から蝶(ちょう)になるように、人類は未だ蛹で、これから蝶になって、自由に空中を飛
び廻ることができるようになるのです。それを、もうすっかり蝶(神人)に成りきっているつもりで、空
中を自由に飛ぼうとするので、うまくゆくわけがないのです。肉体人間が自由自在な蝶(神人)になるた
めには、守護の神霊の援助がなくてはならぬのです。そして、その守護の神霊は、救世の大光明として働
かれる神々や、宇宙天使と連絡し合って、その人々を救い、同時に人類のためにも有益な働きをさせるの
であります。…

…念力集中が習慣となってきますと、つい何かと念力を使って、自己を有利にしようとし、相手を自分の
想いで引き廻してしまいそうです。ですから、宗教的な人は、祈りの中から何事も行じるようにして、特
別に念力を使わぬほうがよいのです。

[解説]
念力とは、自分の願望を強く念じることによって、欲する物質なり、欲する環境なりを、手に入れるとい
う方法です。念力は、守護の神霊を対象にして祈ることはありません。いいかえれば、祈りとは守護の神
霊に全託して、守護の神霊のみ心に適った物質なり、環境なりを与えていただく、という方法ですが、念
力とは守護の神霊のみ心のご判断に委すという方法ではなく、守護の神霊とは無関係に自分の欲望を欲し
て、「私はできる、できる」「私の願望はすでに成就した」というふうに念じることです。

念力とは、五井先生の説くように業想念であり、「私は神である」という真理の言葉でありましても、そ
の境地に至っていない人間が、力んでその真理の言葉をどんなに念じたとしても、それは所詮、偽善であ
り、嘘の言葉なのですから、嘘から真が生まれるはずがなく、いつまでたっても神人になることはないの
です。宗教者によっては、祈りと念力の区別がつけられず、祈りと念力を両方教えている人もおりますが
どんなに祈りの効果がなかなか得られないからといって、焦るあまり、外道の念力に走ってはならないの
です。念力とは、自己の潜在意識や他人の潜在意識に語りかけるような、催眠術のような言い方をします
から、神への祈り言とは明らかに異なります。どの言葉が真の祈り言で、どの言葉が念力の言葉であるか
をはっきりと区別できるようになっておいて下さい。祈りとは、願望想念を空にする行為であるのです。

現在の人類は、いまだ蛹であり、蝶(神人)ではありません。それを、もうすっかり神人に成りきってい
るつもりで、真理や理想の行為を現そうとしますと、そこに非常に無理が生じて、すでに神人になったつ
もりになり、偽善者になって、偽善の世界の段階に止まってしまったり、正直に生きることができずに苦
しんだり、現実生活との調和ができなくなってくるのです。現在の人類は、守護の神霊に救いを求め、守
護の神霊のご加護を得て、神性を現してゆかねばならないのです。守護の神霊のご加護力を強めるには、
守護の神霊に常に感謝をし、「世界平和の祈り」を祈ることなのです。「世界人類が平和でありますよう
に」と祈ってから、ひとりでに湧いてきた正しい行為をすればよいのであり、祈りの中から何事も行じる
ようにすればよいのです。それが正しい宗教の正しい祈りの生活であるのです。

守護の神霊に向かって「世界平和の祈り」を祈っていれば、守護の神霊はその人に無くてならぬ物は知っ
ていらっしゃるのですから、必要に応じて、必要な物質や、適当な環境や、思いがけない叡知が授けられ
るのです。いくら善い知恵を出そうとしても、念力では、たいした知恵は出ません。守護の神霊に自己の
運命と人類の運命をお任せして、「世界人類が平和でありますように」と祈りつづけていれば、肉体知で
は計り知れない素晴らしい発明や神力が次々と湧いてきて、人々の協力支持を得られ、真の成功を得るこ
とができるようになるのです。私達は守護の神霊の大愛と、何事もできないことはない神の絶対力を信じ
て、「世界平和の祈り」に全託して生きてまいりましょう。

May Peace be in the World.


先祖霊に感謝することが信仰の基本
No.1879 森島恒吉    2000/05/31 (水) 22:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、コメントをありがとうございます。ハーミットさんのお祖母さんは、とっても立派なお
祖母さんですね。お祖母さんの教えは、正しい宗教観で、一つの間違いもありません。お二人の息子さん
達には、「私のお祖母さん、君たちのヒイお祖母さんは、こんなふうに、いつも語って聞かせてくれたん
だよ」と、お祖母さんのお話を伝え聞かせてあげて下さい。それだけで、神様への信仰心の基礎教育は、
充分です。そして今後は、ハーミットさんご自身が、ご先祖を敬い、ご先祖に感謝する行為を、息子さん
達に見せてあげればよいのです。よいお話を聞かせて下さって、ありがとうございました。

ハーミットさんのお祖母さんの天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD.


真の悟りとは
No.1880 森島恒吉    2000/06/02 (金) 11:09 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

悟った人以外、悟った状態は自覚できないのですが、悟りとはどのようなものか、知識として知っておく
ことは無駄ではありませんから、五井先生のご著書「自己を信ぜよ」から、その部分を抜粋しましょう。

(「自己を信ぜよ」五井昌久著P70より白光真宏会出版局より)
…肉体がありながら、肉体の何事にも把われていない、痛ければ痛いなりに、嬉しければ嬉しいなりに、
常人と何の変わりもなく、その状態を受け止めながら、その想いの中に入ってゆかない、そういう心の状
態を、真の悟りの人は持っているのです。…真の悟りを得た人でも、痛みや、苦しみや、悲しみを、普通
人のように感じる人はたくさんあります。しかし、感じた時に、それがすべて、真実のものではなく、仮
の姿の消えてゆくためであることを知っているのです。釈尊でも、阿難に「我が背、痛む。背をさすって
下され」というように言っておられ、肉体の痛みを訴えておられます。ですから、そういうことで、真の
悟りを云々することはできません。…普通の人では、とてもできないような、修業方法を通してでなけれ
ば、大悟に至らないということはありません。…その一番易しい方法を、私は「消えてゆく姿で世界平和
の祈り」という方法で、人々に知らせているのです。…

[解説]
五井先生の次のお歌に、悟りの状態が凝縮されていると思います。

うつるものおのづうつりておのづ消ゆ おのれは澄みてただひそかなり

現世のご利益や奇蹟の話ばかりして、信者を引きつけている宗教者がいますが、真の悟りとは、功利的な
感謝や形式的な感謝ではなく、何のご利益がなくとも、何の奇蹟がなくとも、そのままで心の底から神の
生命に感謝できる状態になることであるのです。相手の人の健康状態や表情だけで、その人の悟りの程度
を計ることはできません。

「神さま、ありがとうございます」と心の奥底から思えた時、それが真の悟りなのです。
「世界人類が平和でありますように」と人類を深く愛する時、それが真の悟りなのです。
その真の悟りを得た人は、「世界平和の祈りの他に、もう何もいらない」と感じるものなのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


自己の幸福は守護霊によって授けられる
No.1883 森島恒吉    2000/06/04 (日) 21:31 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

(「自らを信ぜよ」五井昌久著P141白光真宏会出版局より抜粋)
…人間は肉体的な想いで、いくら頑張ってみても、自分の思ったような生活を築き上げられるものではあ
りません。そこには常に運命というものが、根幹となっているのであります。その運命というものは、そ
の八十パーセントが、過去世の因縁によるものでありまして、その運命を変化させるためには、その運命
の外にいて、常に各個人を助けてくれている、守護霊、守護神の力にすがらなければなりません。そこで
寝ても、覚めても、守護の神霊の、常日頃からの、守護に対する感謝をしつづけてゆかねばならないので
す。人間の運命を、変化させるのは、守護の神霊以外の力ではないからです。各個人を守っていて下さる
守護の神霊こそ、その個人を立派にし、世界人類の平和を築く、基礎の力となるのであります。…

[解説]
「人間の運命を開く方法」とか「幸福に生きる秘訣」など、幸福になるための方法を述べている自己啓発
本が多くありますが、「守護の神霊の力にすがる」という方法が、最も効果的な最善の運命改善法である
のです。いいかえれば、守護の神霊にすがらずに、自己の努力だけで運命を切り開いてゆく、という自力
の方法は、過去世の因縁という力が次々と押し寄せてくるのですから、そう容易なことではないのです。

守護の神霊にすがる、ということは具体的には「守護霊さま、お守り下さい」「守護霊さま、お導き下さ
い」「守護霊さま、お願いします」というふうにすがることです。自己の運命を変化させるのは、守護の
神霊のほかにはいないのです。「守護霊さま、お願いします。守護霊さま、お願いします…」と守護霊に
すがってゆくことで、自己の心と守護の神霊の心が一つにつながり、自己の運命は急速に改善されてゆく
のです。宗教団体に入会したり、神社仏閣へお参りしたり、有名な神仏の名をたまに唱えても、それだけ
では自己の運命は容易に改善されることはありません。

自己の運命を直接改善して下さるのは、自己を専属に守っている守護の神霊であるからです。「守護霊さ
ま、お願いします」という祈りが、自己の運命を改善するのに、最も効果的な方法であるのです。それを
一歩進めて、五井先生は「守護霊さま、ありがとうございます。守護神さま、ありがとうございます」と
守護の神霊に感謝することを説いています。このように守護の神霊に感謝できれば、それが一番よいので
すが、もし、感謝する気持ちになれなかったら、一段下げて「守護霊さま、お願いします」と唱えたらよ
ろしいのです。「守護霊さま、お守り下さい、お導き下さい」と日々祈りつづけてゆくだけで、あなたの
運命は大きく改善されてゆくのです。それに加えて「世界平和の祈り」を祈って下されば、個人人類同時
成道になって、自分が幸福になると同時に、世界平和実現に大きく働いていることになるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


宇宙子科学と地球の未来
No.1887 森島恒吉    2000/06/05 (月) 17:49 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、いらっしゃい。皆さ〜ん、コスモスさんは、唯一会の会員ですから、仲良くしてあげてく
ださいね。彼女の年齢は、私の口からは申せませんが、とても若い方です。五井先生のご本を熱心にお読
みになっていて、この掲示板の過去ログも読破され、唯一会の主旨をしっかり理解された方です。

宇宙子科学というのは、現在の地球科学では原子、分子、中性子の存在が確認されていて、それらは微粒
子であると同時に波動の性質を持っていると解明されているのですが、五井先生によりますと、原子、分
子よりも更に微小の宇宙子という根源的な微粒子が存在していて、その宇宙子の働きを研究する科学であ
る、というのです。その宇宙子にも、精神宇宙子と物質宇宙子がありまして、それぞれプラス(+)とマ
イナス(−)の働きを持っているのだそうです。

宇宙子科学の基礎物理学理論は、亀の甲に似た化学式とか、7進法とか、諸説ありますが、その実態は神
秘のベールに包まれております。金星の宇宙天使が、五井先生を通して宇宙子科学の智慧を授けて下さっ
ていたのですが、実際には地球科学をも勉強しなければならず、メンバーは海外の科学雑誌にも目を通し
ていたようです。宇宙子科学の目的は、もちろん世界平和実現にあります。世界平和のための科学といい
ましても、兵器をコントロールする機器、病気を治癒する機器、食料を補給する機器、精神波動を調和す
る機器、霊界通信テレビ機器、空飛ぶ円盤のような乗り物等々、いろいろと考えられます。

こう申しますと、「宇宙子科学をやりたい」と思われる方が出てくると思いますが、「世界平和の祈り」
を祈っておりますと、必要な人には守護の神霊が、科学的な智慧を授けて下さるのです。その人に必要で
なければ、いくら願っても、科学的な智慧は授かりません。守護の神霊に全託して、「世界平和の祈り」
を祈ることこそ、大事なすべての人に共通した天命であるのです。

ご質問にありました「資源の限界」については、石油や石炭の採掘が終える頃には、人類はそれに代わる
新しいエネルギーを手に入れることでしょうから、ご心配はいりません。神は人類を常に見守り、必要な
智慧を授けて下さっているのです。必要な時に、必要な智慧や力を必ず授けて下さいます。人類は、守護
の神霊のご加護によって、資源の危機を乗り越え、必ず世界平和を達成します。「世界は平和になる」と
未来に楽観的になって、明るく「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


ピースポールは平和波動発振器
No.1892 森島恒吉    2000/06/07 (水) 01:06 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ありがとうございます。世界を平和にする手段としては、出版物や、このインターネット
による「世界平和の祈り」の普及がありますが、現在はなんと言っても「ピースポール」が効果的に感じ
られます。祈り言を石に刻んで人々に伝えるということは昔からあって、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法
蓮華経」など祈り言を刻んだ石碑が、富士宮でも道端で見られます。

ピースポールは、騒音を出しませんから、静かで、ひっそりとたたずんでいます。ピースポールの前を歩
いても、気づかぬままに通り過ぎてゆく人がほとんどです。しかし、ピースポールは24時間、いつでも、
私達が眠っている間も、祈りつづけていてくれます。私の家のリビング室内にも、170pのピースポール
が人間のように立っていて、「世界人類が平和でありますように」と光明波動を常に放射しております。

「世界平和の祈り」を常に口に出して唱えることは難しいことですが、ピースポールを身近に置いておけ
ば、自分の代わりにお祈りをしてくれて、自己も世界をも浄めていてくれるのですから、こんなに楽な霊
性開発法はありません。ピースポールこそ、素晴らしい平和波動発振器だと思うのです。今は、大きなピ
ースポールから、机の上に置ける小さなピースポールまで、幾つかそろっていますから、自分の好きな大
きさのピースポールを、いつでも自分の身近に置いておくとよいでしょう。霊性開発と世界平和に大きな
効果があります。日本中、どこへ行っても、どの家に訪問しても「世界人類が平和でありますように」の
ピースポールが置いてあったら、どんなに素晴らしいことでしょう。いずれはそうなるのです。

ピースポールの置いてある家で育った少年少女は、すくすくと健全に育つことでしょう。ピースポールの
ある家で育った少年少女が、犯罪や悪事をおかすはずがありません。ピースポールの平和な波動環境が、
平和な心を育て、人間本来の神性を自然と開発してゆくのです。ですから、日本中、もっともっとピース
ポールで埋めつくしたいものです。子どもには、難しいお説教も小言も必要ありません。「世界人類が平
和でありますように」という一つの愛の祈り言だけを教えれば、子ども達は健康に育つのです。少年犯罪
が頻発している現在、少年達の目につくように、ピースポールをより広く普及させたいものです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


非光明思想消滅行は誤りです
No.1895 森島恒吉    2000/06/07 (水) 13:31 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ハーミットさん、ありがとうございます。

[コスモスさんのご質問]
私は、心の中に悪い思いが出てきたら「消えていく姿で世界平和の祈り」、これが誰も傷つけず、自分の
なかの思いも緩和されていく、最高の方法だと思います。そして「あの人の天命が全うされますように」
と祈る、たったそれだけで良いのではないでしょうか。先生、ぜひコメントと、この行についての先生の
考え方を教えてください。

[お答え]
「姑のアホ、死んでしまえ」「あいつを殺してやりたい」「嫁が憎たらしい」などと、自分の心にある業
想念を大声で吐き出す行を、昌美先生は富士聖地で会員たちにやらせたんです。これは嘘のようですが、
実際にあったお話なんです。ハーミットさんの言われたように、これはやはり生長の家の「浄心行」と同
じもので、「非光明思想消滅行」と新しく名付けてはおりますが、そっくり真似したんですね。業想念の
言葉を吐き出せば、心の中がきれいになり、その後で光明の言葉を潜在意識に入れればいい、と昌美先生
は教えているのですが、この方法は守護の神霊を無視した、自力的な方法で、不自然なやり方なんです。

五井先生の真のみ教えは、無理に背伸びをするように、ことさらに「私は神の子だ」と真理を宣言する必
要もなければ、自分の大便を人前にまき散らすように、ことさらに「私はこんなに悪い人間だ」と自分の
欠陥や悪癖や悪想念を、人前でさらけ出す必要もないのです。非光明思想消滅行は、とても恥ずかしいで
すよね。「あなた方は皆さん、神なんです」と説いている昌美先生が、他方で「心の中にある悪口を吐き
出しなさい」と説いているのは、昌美先生は心の奥底では、会員の皆さんを、本当に神である、とは信じ
ていないからなのです。会員さんたちも、そんな恥ずかしい行はやらなければいいのに、恥ずかしいとは
思っても、「これが行なんだ。私は昌美先生を信じているんだ」と思いこみ、盲目的に従っているわけな
のです。もちろん、私は、昌美先生のような指導はしません。私は、ことさらに「私は神である」と宣言
させることはありませんし、ことさらに「心の中に隠している悪口を表面に出して言いなさい」と命令す
ることもありません。このように昌美先生の指導と私の指導は、まるで異なっているのです。

業想念は、自力では消せないのです。守護の神霊に業想念をお消しいただくのです。業想念を、いつ、ど
れだけ消すかは、守護の神霊のほうで、ちゃんと計算なさっているのですから、守護の神霊に業想念を浄
めていただくように、お願いしているだけでよいのです。ことさらに「私は神である」と言う必要もなけ
れば、ことさらに「私はこんなに悪い想いを持っている」と人前でさらけ出す必要もありません。どちら
も不自然ですし、悪い言葉を聴かされる周囲の者は迷惑ですよね。イヤ〜な後味が残ってしまいます。

ですから、コスモスさんの言うように、心の中に悪い想いが出てきたら、「消えてゆく姿で世界平和の祈
り」をやればよいのです。これならば、はた迷惑にはなりませんね。そして、心の中で気になって祈りた
い人がいたら、「あの人の天命が完うされますように」と祈ればよいのです。ハーミットさんも言ってい
るように、「世界平和の祈り」以外、何もいらないんですね。「世界平和の祈り」は、あまりにも容易な
行法であるので、何か物足りない気がして、生長の家のように、わざわざ難しい行法をしたくなるのは、
やはり業想念であるのです。昌美先生の誤った指導に、決して従ってはいけません。何が正しいのか、何
が誤りなのか、会員さんたちが五井先生から試みを受けている時代であるのです。自分の頭でよく熟慮し
て、少しでも「おかしいな」と思ったことは、とりあえず用心し、先のばしして、やらないことです。
「世界平和の祈り」これだけは、間違いのない真実の行であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.


「我即神也」の行法は誤りです
No.1899 森島恒吉    2000/06/07 (水) 21:39 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[質問]
質問させてください。あの4文字の印(生理的に受け付けず、あまり書きたくないのです)は、確かに真
理かもしれないのですが、肉体人間が言ってもいいものなのでしょうか。肉体人間は、罪悪深重の凡夫で
あるはず。と同時に、神の分け御霊であるはず。それが、あのように宣言することは、思い上がりも甚だ
しい、と私は思うのですが。思い上がりも業想念なので、水にも身体にも悪影響を及ぼすはずです。どう
なのでしょうか。肉体人間が、あのように宣言することは、思い上がりと考えてもよろしいのでしょう
か。それとも真理だから、思い上がりではないのでしょうか。ぜひ、先生のご意見をお聞かせください。

[お答え]
「我即神也」という真理の宣言を、昌美先生は提唱されていますが、昌美先生ご自身は思い上がって唱え
ているつもりではなく、「この方法は絶対に正しい!」と思いこんで指導なさっているのです。「我即神
也」という表現は、植芝盛平先生が説いていた「我即宇宙」の真似なのです。ちなみに「我即神也」とは
「私は神である」という意味にほかなりません。

実際に自己の神性を自覚した人が「我即神也」と宣言するならば、それは真実であるのですから、思い上
がりではなく、間違いではありません。しかし、まだ神性を自覚していないのに、「この言葉を唱えてい
れば、いつかはそうなるだろう」という軽い気持ちで、「我即神也」と唱えているとしたら、それは思い
上がりであり、間違った行法である、と言えます。これはいつも言うのですが、実際に自己の神性を自覚
した人は、ことさらに「私は悟った」とか「私は神である」と、くりかえし人に言い聞かせるように、ペ
ラペラとおしゃべりするようなことは、しないものなのです。それは健康体の人が「私は健康体である」
とことさら言ったり、大金持ちの人が「私は大金持ちである」とことさら言うことがないのと同じです。
「私は神である」とくりかえし唱えている人は、まだ真実に神になっていない人、と判断できるのです。

今、無理に真理を宣言することをしなくても、人類が進化してゆけば、しだいに真理が現れてきて、人類
は神性を発現する時代がやってきます。その時になって、「私は神である」と宣言すればよいのでありま
して、今の未完成の時代に、無理に真理を宣言する必要はないのです。時期尚早なのです。昌美先生は、
生長の家と同じように、真理を早く現そうとして焦り過ぎてしまったのです。人間の本体は神の分霊であ
るのですが、現在の人間は、まだ神の分霊の力を充分に発揮してはいないのです。それは過去世からの業
想念が蓄積されているからで、業想念が現れては消えてゆき、同時に、本心が現れてきているのです。今
は、「業想念が消えてゆく」時代であり、「人類は神になりつつある」時代であるのです。

「我即神也」と唱えていれば、想念の法則によって「思った通りになる」つまり「私は神である」という
状態になれるはずだ、というのが、昌美先生のお考えの根拠であるようです。ところが、どんなに宣言し
ても、その方法では、神にはなれません。それは三界の法則で、三界を超える目標を達成することは不可
能であるからです。三界を超えて働くことのできる守護の神霊のご加護の力を無視して、自力で神性を開
発しようとしても、それは駄目なのです。守護の神霊に全託しきれない理由は、他力行を真実に理解して
いないからです。守護の神霊に自己を委ねる生き方は、弱々しい人間になるような気がするかもしれませ
んが、実際に神に全託しますと、いつの間にか神我一体となりまして、弱々しいどころではない、守護の
神霊の持つ強い絶対力を発揮するようになってくるのです。これを他力行即絶対力と言うのです。

昌美先生は、五井先生のみ教えだけにあきたらず、他の宗教者の本を読んでは、そこに書いてある行法を
次々と真似しているのです。最近のマンダラ行にしても、昌美先生のオリジナルではなく、すでに他の著
者が書いた「マンダラ」についての本が出ており、その本の内容を真似したものにすぎません。そうした
一連の行法は、五井先生からのご神示でもなければ、宇宙神からの神示でもありません。昌美先生の潜在
意識が、神示のように見せかけて、書いたり、しゃべったりしているのです。

そういうわけで、昌美先生の「我即神也」の教えは、五井先生のみ教えに反しているのですが、かといっ
て、私達は昌美先生を積極的に批判するつもりはありません。昌美先生の誤った教えもまた、消えてゆく
姿であるからです。昌美先生が、生長の家の真似をしてしまっている行為も、「世界平和の祈り」以外の
行法に熱心になっている行為も、全く意味のないことではなく、神の私達への試みとして解釈すれば、そ
れなりに意味のあることで、うなずけます。昌美先生に対して嫌悪の感情を持ったりせずに、誤った言動
や誤った教えは、すべて消えてゆく姿として赦し、私達はひたすら「世界平和の祈り」の道に邁進してい
ればよいのです。私達が確固不動の心で「世界平和の祈り」に全託していれば、人々はおのずから私達の
後についてくるに違いありません。「世界平和の祈り」の真価は、今後いよいよ発揮されてくるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD.