森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


どんなことがあっても、心を乱さずにお祈りしましょうね(^_^)
No.1602 森島恒吉    2000/01/08 (土) 23:40 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ただいま〜\(^_^)。唯一会の集会を終えて、今家に帰ってきたところです。記念的な西暦2000年1月に
「世界平和の祈り」を皆さんとご一緒にお祈りできて、幸せでした。皆さん、ありがとうございました。

イロハニさんと迷惑電話さんのコメントを読ませていただきました。(^_^)

聖ヶ丘道場が閉鎖されたことについては、私も残念に思いましたが、そのことについては白光真宏会会長
である昌美先生に権限があり、私達一般会員の立場では、どうにもならないことです。どうにもならない
ことは、文句を言ったり、悔やんでいても仕方がありません。誰がどんな行為をしようと、その行為を見
て自分の心を乱したら、やはり神様のみ心に合わぬことになってしまいます。消えてゆく姿にまきこまれ
て、自己の心を乱してはなりません。神様のみ心が現れますように、お祈りしてまいりましょう。

迷惑電話さんは、ずいぶん過激なタイトルをつけましたね。(^_^;)白光のおばさんから電話がかかってく
る、ということは、以前にも連絡をとりあったことがあったからでしょう。電話で、はっきりと断れない
から、ここでうっぷんを晴らしているのでしょうが、白光のおばさんの大半は、この掲示板を見ていない
のですから、ここでそんなことを言っても、あまり効果はないと思います。やはり、あなたに電話をかけ
てくるおばさんに、思い切って、「もう、二度と電話をかけてこないで!」とはっきり言うしかありせん
ね。遠回しに言っても気づかないならば、もう、あなたの本音を言うしかありません。この掲示板に書い
たように、その迷惑な白光のおばさんに、はっきりとお断りすることです。迷惑電話さんは、怒りながら
も、「世界人類が平和でありますように」と書いて下さって、ありがとうございます。その点、エライ!

皆様の天命が完うされますように


相手を生かす愛とは
No.1616 森島恒吉    2000/01/11 (火) 13:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、講義の内容を書いて下さって、ありがとうございます。

「執着してはいけない」という教えについて、中途半端で終わっていますので、補足しておきましょう。
相手の命を生かし、相手に執着しない愛とするためには、相手の天命の完うをお祈りすることです。具体
的には「誰々さんの天命が完うされますように」「某さんの生命がいきいきと輝いていますように」と祈
ることによって、執着愛が相手を生かす愛へと純化されてゆくのです。もし、恋人や夫婦ならば、お互い
に「あなたの天命が完うされますように」と日々祈るようにすれば、相手を傷つけることがなくなり、相
手の命を生かしあう愛となります。

最近は、ストーカーという言葉が流行していますが、ストーカーは執着愛で、真実の愛ではないのですか
ら、相手を生かすことが真実の愛であることを教えなくてはなりません。また、ストーカー被害にあわな
いためには、守護霊にご加護を祈る必要があるのです。ともあれ、お互いに相手を傷つけることのないよ
うに、自らの愛を純化するように努め、相手の天命の完うを祈りあう習慣をつけてほしいものです。

皆様の天命が完うされますように


ピースポールのパワー
No.1624 森島恒吉    2000/01/12 (水) 23:20 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。ピースポールの写真が、朝日新聞に載って、私もうれしく思います。
カメラマンは、特別に意識したわけではないと思いますが、ピースポールが風景に自然に溶け込んでいる
ために、抵抗感なく被写体におさまったのでしょう。ピースポールは、うるさい拡声器のような騒音を出
すことなく、ひっそりと静かに立っていながら、常に「世界人類が平和でありますように」と祈っていま
す。実に素晴らしい「世界平和の祈り」の広告媒体であると思います。

人類の悲願が、単純な一言の祈りに集約された「世界人類が平和でありますように」は、子供にも誰にも
理解できる言葉でありますし、世界人類の中には、すべての民族、すべての宗教者、すべての思想者が含
まれているのですから、排他的な祈りとなるはずがないのです。「世界人類が平和でありますように」と
いう祈り言を読んで、「これも排他的な祈りである」と思う人は、よほど素直でない、ひねくれた人であ
ると思います。この祈り言は、簡単な言葉でありながら、最大の愛である人類愛にあふれており、神の高
い深いみ心にも通じています。この愛の祈り言を日頃から常に祈っている人は、誰でもおのずと神のみ心
と合致してゆくのは、当然のことであるのです。そして、世界平和を祈っているだけで、細かい願い事を
望まなくても、個人の幸福も、自然にかなえられてゆくのです。

ピースポールは、ローマ法王に贈呈されて、バチカン宮殿の庭にひっそりと立っておりますし、アッシジ
にある聖フランシスコの教会の庭にも、宗教宗派に関係なく世界各地の教会や寺院の庭に立っています。
このように世界にピースポールが多く立ってゆくにつれて、マスコミに取り上げられるようになり、各国
の人々が、「世界平和の祈り」を自然に祈るようになってゆくのです。過去の宗教を否定することなく、
すべての宗教と調和しながら、すべての宗教を生かしつつ、「世界平和の祈り」は広まっていくのです。
ピースポールを立てて下さっている皆さんは、平和の天使であり、柔和な神の子であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」から、完全円満な人格が現れる!
No.1627 森島恒吉    2000/01/14 (金) 09:54 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。音楽CD形式ですと、パソコンを操作しない人でも、CDプレイヤー
を持っている人は多いので、より多くの人に聞いてもらえますね。青空さんのようにメカニックに詳しい
人が、唯一会にいて下さるのも、救世の神々のお導きであると感謝しております。

私の解説によって、五井先生の真実の教えが、より多くの方々に理解され、「世界平和の祈り」の素晴ら
しさが再認識されたら、こんなにうれしいことはありません。「世界平和の祈り」は、世界平和実現への
最短距離の道であり、個人の神性開発にとっても、最善の方法であるのです。「世界平和の祈り」以外の
方法は、表現が古くて今や現代感覚に合わなかったり、自他を責めたり、理想に把われて現実から逃避し
たり、自己を実力以上に高く見せようと無理をしたり、正直に生きられなくなるなど、思いがけない欠陥
が潜んでいるものなのです。それに対して、「世界平和の祈り」には、欠陥が一つもないのです。短所と
いえば、自力行の人には向かないことと、あまりにも易し過ぎて、軽く見られてしまうことくらいです。

「世界平和の祈り」を祈っておりますと、一つも欠陥が無いのですから、祈っている人が円満な人柄にな
ってゆくのです。どこの宗教団体に行きましても、その宗教団体独特の雰囲気があるものですが、それは
その宗教団体で行なっている祈り言によって、その雰囲気が出てくるのでありまして、祈り言によって、
その人の人柄が変化してくるのです。「世界平和の祈り」のような大きな人類愛の祈り言を、常に祈って
いる人からは、神々と同じ明るく温かい清らかな雰囲気が、自然に現れてくるのです。宗教をやっている
人にありがちな、どこか非常識であったり、偽善的であったり、奇妙な言動に眉をひそめる、ということ
がありません。そうした実証を見定めた上で、「世界平和の祈り」は完全な祈り言である、と私はいつも
申しているのです。「世界平和の祈り」は完全な祈り言であるのですから、「世界平和の祈り」を祈って
いる人が、短所が消えてゆき、完全円満な人格が現れてくるのは当然のことであるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


勇気を出して守護の神霊に全託せよ
No.1629 森島恒吉    2000/01/19 (水) 02:53 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

山中の冬の時期は、言うまでもありませんが寒くて、暖房のない朝の部屋は、気温10度ほどです。雪の
多い北国よりはもちろん暖かいのですが、暖房がなくては、とても生活してはゆけません。今は、クリー
ンヒーターという暖房器具があって、このような山中の中でも快適に過ごせることは、ありがたいことで
す。人間が快適に暮らせる気温は、20度前後で、湿度は50度前後ですが、こんなことを改めて思うよ
うになったのは、ここで生活するようになってからで、人間は環境に順応性があるものの、気温10度の
ようなまるで冷蔵庫の中のような部屋では、ふとんをいくら掛けても寒くて眠れませんし、風邪をひいて
しまいます。北欧には、冬の期間だけオープンする氷でできたホテルがあって、室内は零下10度で寝袋
にくるまって寝るそうです。その幻想的な美しさにひかれて、多くの観光客が来るそうですが、世の中に
はなんとまあ物好きな人がいるものです。

人間というのは面白いもので、冬の海にブルブル震えながら飛びこんでみたり、わざわざ危険なスカイダ
イビングやバンジージャンプをして楽しんでみたり、空気のない月へ飛んで行ったりと、肉体の束縛を超
えて自由に活動したい、と思うのですが、それは本来の人間が霊性で自由に活動できる存在であるからで
す。本来は自由であるとしても、今は肉体を持っている以上、肉体界の法則を知って生きてゆかねばなり
ません。気温と湿度の話に戻りますが、肉体は暑過ぎても寒過ぎても生きてはゆけません。湿度も高過ぎ
れば、うっとうしい気分になりますし、食品は腐りやすくなります。反対に湿度が低過ぎれば、ウイルス
が活発になり、風邪をひきやすくなります。肉体には、このように適度な気温と適度な湿度の環境という
制約があります。その肉体の法則に合わせて、暖房器具や冷房器具が発明されているのであり、入浴に適
したお風呂もあるわけです。

それと同じく宗教の道も、肉体を持って生活している限りは、肉体生活に無理のかからぬように霊性を開
発してゆかねばならないのです。病気になりたくないのに病気になり、貧乏になりたくないのに借金して
しまい、不幸になりたくないのに不幸になり、災難にあいたくないのに災難にあい、争いたくないのに争
い、戦争をしたくないのに戦争をしてしまい、地球を滅亡させたくないのに核兵器を持ってしまう、とい
うふうに、今や私達の地球世界は、肉体人間の意思力だけでは、どうにもならぬ時代になってしまってい
るのです。このような時代で、今さら「心の法則(想念の因果法則)」をやってみたところで、業因縁の
転回のほうが烈しくて、少しくらいの善念を積極的に思おうとしても、悪想念の圧倒的な力の前に押しつ
ぶされてしまうのです。積極思想では、人間は幸福には成り得ないのです。

また、肉体人間にとって、真理をそのまま行じることも、これまた至難のことでありまして、理想ばかり
を追いかけて、現実から逃避していれば、この世での生活ができなくなってゆくように、真理の言葉ばか
りを唱えてみても、現実生活とあまりにもギャップがありまして、真理を現実に現すことは不可能なので
す。その結果、真理をあたかも実行しているかのような偽善者になってしまったり、正直な人は非常に心
苦しくなってくるのです。効果のない修行法を、どんなに熱心にやっても、霊性は開発されません。時間
の無駄となるだけです。それは地獄の賽の河原で、石を積み上げては鬼に崩され、また石を積み上げては
崩される、しかし、それでもなお際限なく無駄な作業をさせられる、というのと同じで、これほど辛い作
業はありません。自力の難行苦行をしている人たちは、この世にいながらにして、この地獄の行をさせら
れているのです。自力行者たちは「この方法では駄目なんだ!」と心の奥底から気づくまで、難行苦行の
道を歩まなくてはならないのです。「苦行は悟りの因にあらず」と釈尊が説いたとおりなのです。

先日、フジテレビ系列の「永六輔の会いたい対談」で百歳になる永平寺の宮崎貫首が出演されていました
が、自力行の代名詞のような禅宗の代表者が、「私は観音さまを信仰している」とお話なさり、また「自
然にまかせて生きております」と他力行者のようなお話を、くりかえし説かれていました。禅宗といって
も、古来は念仏を唱えながら座禅を組んだりしていた時代もあったのですから、禅宗を簡単に自力行と決
めつけてはいけないのかもしれません。自力行の禅を修行しているうちに、宮崎貫首のように、いつのま
にか他力行の禅になってしまう姿こそ、禅の本来の目的かもしれません。私がいつも言っております自力
の難行苦行とは、曹洞禅や臨済禅のような仏を敬っている禅宗の行法のことではなくて、自己の外部から
援助してくれている守護の神霊の存在を認めない、「念力による行法」のことをさしているのです。

守護の神霊に頼らずに霊性開発できる方法などは、ありません。知性の高いインテリに見られたいがため
に、「人間は神の子であり、自己の内部に神性があるのだから、自己以外の他の何者にも頼るな」と説い
ている宗教者がおりますが、自己の内部神性に、守護の神霊が実在していることを知らなくてはなりませ
ん。肉体人間は守護の神霊に頼らなくては、いつまでも神性を開発することはできません。「他に頼る」
という行為が、いかにも知性の無い人に見られるような気がして、自分を神のように偉く見せたい人たち
は、なかなか素直に他力行に転向できないでいるのです。自力ではもうどうにもならぬ、という切羽詰ま
った事態に陥るまで、守護の神霊に頼ろうとしないのですが、それは言いかえると、守護の神霊に頼らな
いでいると、自力ではどうにもならぬ困難な事態に、いずれは直面するはめになる、ということでもある
のです。他人に頼る依頼心と、守護の神霊に頼る全託心とは、同じような想念と思っている人が多いので
すが、その内容は全く異なっているのです。他人に頼る依頼心は業想念の怠惰であり、守護の神霊に頼る
全託心は本心の勇気なのです。守護の神霊に全託した人は、真に独立自尊の人となるのです。

守護の神霊に頼って、守護の神霊に助けられて生きていれば、平穏無事に生きられるものを、守護の神霊
の手を借りようとせずに、自力だけで生きてゆこうとしますと、守護の神霊の霊的な応援が得られないの
ですから、次々と困難な運命が現れてくるのです。霊界から守護の神霊が霊力を用いて助けて下さるから
こそ、現世の私達は、何事もなく無事に安心して生きられるのでありまして、もし、守護の神霊による霊
的な援助がなければ、私達は不安動揺の毎日を送らねばならなくなるのです。守護の神霊は、神界と肉体
界をつないで下さるのでありまして、真理と現実の大きなギャップを埋めて下さる存在でもあるのです。
真理そのままを実行できない私達を、守護の神霊は赦して下さり、私達の業想念を浄め、少しずつ真理が
現れるように助けて下さっているのです。ですから、守護の神霊に加護を祈り、感謝しつづけてゆくこと
が、自己の運命を改善するにも、世界を平和にするためにも、絶対に欠かせない行法である、勇気を出し
て守護の神霊に全託しなさい、と私は教えているわけです。

「私は神の子である」と宣言したり、「私はすでに自己完成した。私は完全である」と理想の姿を口に出
すことは誰にでも容易にできますが、現実に実行することは、そんなにたやすいことではありません。自
己の心境がそこまで至っていないのに、安易に真理の言葉を口に出しておりますと、見せかけの嘘をつく
ことが習慣となってしまいまして、現実の行為が真理の言葉に伴わず、矛盾した言動をしていても、少し
も矛盾していることに気づかなくなってしまうのです。そんなことをしておりますと、かえって、神の子
になるどころか、偽善の皮が厚くなるばかりで、正直でない、うさん臭い人物に見られてしまうのです。
「私は神の子である、という真理の言葉を唱えていれば、心の法則によって、いつかは自分は神の子にな
れるだろう、真理が現れるだろう」と安易に思っている人が案外いるものですが、そんなに簡単に神の子
を現すことはできません。「私は神人である」という看板を首からぶら下げた、嘘つきばかりが増えるだ
けです。「あの人はインテリではない、と他人から低く評価されるかもしれない」という臆病を捨てなさ
い。「他人から馬鹿にされたくない、自分を偉く見せたい」という虚栄心を捨てなさい。「あの人は弱い
人間だ、と見られたくない」という強がりを捨てなさい。守護の神霊の力なくしては、自分は何事もなし
得ないことを、正直に認めなさい。臆病を捨て、嘘を捨て、虚栄心を捨て、強がりを捨て、裸の心になる
ことです。無理な難行苦行をしたところで、効果はありません。勇気を出して守護の神霊にお任せしなさ
い。それが今のあなたに一番ふさわしい最も自然で適当な行であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」は最高の自己啓発法
No.1632 森島恒吉    2000/01/19 (水) 23:51 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、ケントさん、コメントをありがとうございます。

守護の神霊への全託こそが、五井先生の根本のみ教えであり、守護の神霊に頼らずに、肉体の自力のみで
生きてゆけませんし、守護の神霊の助けなくして、神性を顕現することは不可能であることを知らなくて
はなりません。ところがアメリカを中心とする自己啓発書には、「私はできる、と思えば、できるように
なる」とか「私は完全である、とイメージすれば、その通りになる」というような教えがありまして、守
護の神霊に頼るような教えを説いている本は少ないのです。ところが、その自己啓発書を書いている著者
が、自分の書いた通りに実行できているかといいますと、ほとんど実行できてはいないのです。

自己啓発書のほとんどは、「このように思えば、たぶん、こうなるだろう」と自分の推理を書いているに
すぎないのです。しかし、その書き方が、非常に自信を持って書いているために、読者は、その自己啓発
書に書いてあるように、その著者も実行できているに違いない、と勘違いしてしまうのです。

アメリカの自己啓発が日本に進出してきてから、しばらく経ちましたが、ポール・J・マイヤーの有名な
SMI(サクセス・モチベーション・インスティチュート)にしても、ナポレオン・ヒル財団のセミナー
にしても、現在はすでに行き詰まりが来ているようです。SMIでは、そのセールス組織を批判する本が
ありますし、ナポレオン・ヒルの日本支部でセミナーを受けた人たちのうち、本当に成功した人は、1%
もいない、とその指導者は正直に告白しています。実際には、その1%もいないのが真実でしょう。

「あなたは成功できる」という本を読んだのに、そして、その本に書いたある通りに実行したのに、なぜ
成功できないのか? それは守護の神霊の存在を教え、守護の神霊とコンタクトする方法を教えていない
からなのです。本の一部に、それらしき霊的な知識は書いてあっても、実際に霊的な存在と交流する方法
を、もっと生き生きと書かなければ、読者は「人間は思った通りになる」という想念の法則の教えに興味
を持ってしまいます。つまり、「心の法則」(想念の法則)と「守護の神霊への祈り」の教えを、同じ本
に書いたら、たいていの人はわかりやすい「心の法則」の方へ興味が傾いて行ってしまうのです。

守護の神霊に日々感謝し、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆきますと、自己啓発の教えを実行してい
るよりも、はるかに安心した心境になり、日常生活の仕事においても、自然に成功してゆくことができる
のです。日本で初めてSelfhelpを、「自己啓発」という言葉に翻訳した桑名一夫先生に直接学ん
だ私が、自己啓発を実行している多くの人たちの行為を見てきて、「祈りは自己啓発よりすぐれている」
と実感しているのです。最高の自己啓発は、「世界平和の祈り」を祈ることであるのです。祈りの力によ
って、人間は最高の能力を発揮するようになるのですし、世界は平和となってゆくのです。「私はできる
私はできる」と念じるよりも、「世界人類が平和でありますように」と祈るほうが、人間の潜在能力を大
きく開発してゆくことができるのです。それは「神は愛なり」であるからです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」を一緒に祈りましょう
No.1634 森島恒吉    2000/01/22 (土) 00:43 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、ありがとうございます。折原さんのご感想は、他の皆さんの信仰心を高めるために大変役立つ
体験です。他の皆さんからも、「世界平和の祈り」を祈って、どのような心境になられたかを、お話して
いただければ幸いです。

私が五井先生のみ教えを、どんなに熱く説いても、もし、それを理解して下さる方がいなかったら、悟っ
たとはいえ、肉体を持つ私には、たとえようもない孤独と寂しさを感じることでしょう。長い間、私は孤
独でした。五井先生のみ教えをどんなに説いても、誰も理解してくれませんでした。

それどころか、五井先生の真実のみ教えを説く私は、白光真宏会の講師から「古い五井先生の教えに把わ
れている」と馬鹿にされ、嘲笑の種にもされました。また、「森島は釈尊に謀叛を起こしたダイバダッタ
と同じだ」とまで言われました。「昌美先生を救いたい」と思っている私が、逆に昌美先生への謀叛者と
して敵視され扱われたのですから、悲しみもひとしおでした。

同時に、「人即神也」と日頃唱えているはずの白光真宏会の講師や職員達が、実際行動としては、その真
理を現せず、それでいて、道場で会員の前では、あたかも誰をも神として拝んでいるかのような顔をして
説いている偽善がわかりました。それは、とりもなおさず、現在の白光真宏会の昌美先生の教え方が誤っ
ているからです。無理があるからです。それを知ったからこそ、よけいに私は、五井先生の真実のみ教え
を教え伝えなくてはならない、と思いました。そして、私一人で、伝道を始めたのでした。

…このような孤独と寂しさと屈辱を味わったからこそ、私の解説を理解してくれる人が、たった一人でも
現れてくれると、私のほうこそ、大変うれしく思うのです。現在では、幸いに私の考えに共鳴し、私と一
緒に「世界平和の祈り」を祈って下さる方が、増えてきておりまして、大変心強く思っている次第です。
世界平和運動は、「世界平和の祈り」を一緒に祈ることから始まるのです。一人一人がバラバラになって
活動していても、社会的にたいした影響力を与えることはできません。「世界平和の祈り」の集会にまず
参加することが、平和運動の第一歩です。「世界平和の祈り」を、ご一緒に祈りつづけてゆきましょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


今こそ全力を尽くして「世界平和の祈り」を実行する時
No.1636 森島恒吉    2000/01/23 (日) 01:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。英語のHPの今後が、楽しみですね。(^_^)

今晩放送されたNHK教育テレビ金曜フォーラムの「戦争のない世界を子どもたちへ」という番組を見ま
したが、ユニセフに携わっているコメンテーターの皆さんは、結局「戦争をなくそう」と、ごく常識的で
一般的な発言をしただけで、見ていた私は、すっかり失望してしまいました。「戦争をなくそう、子ども
たちを兵士にさせるのを禁止させよう、戦争の現実を忘れないようにしよう」という宣言をするのは無駄
ではありませんが、それだけでは戦争を消滅させる、大きな力とは成り得ません。「戦争のない平和な世
界にしよう」と平和宣言をするのは、無駄ではありませんが、戦争をしている国の指導者たちの耳には、
そんな平和宣言など届かないのです。平和を宣言をするのも結構ですが、なぜ「世界人類が平和でありま
すように」と一言祈らないのでしょうか。コメンテーターの皆さんと、一千人以上いる会場の皆さんが、
一体になって、声を合わせて「世界人類が平和でありますように」と祈れば、もっともっと世界平和のた
めに、大きな力となった、と思うのです。コメンテーターとして選ばれた知識人たちに、真の平和を望む
多くの方々に、NHKを含むマスメディアの皆さんに、私はそのことを強く提言したいのです。

世界を平和にするには、子どもたちの兵士につく年齢を引き上げたり、地雷を無くしたり、戦争の実情を
世界に知らせたりすることも必要ではありますが、いずれも枝葉の方法でありまして、地球を真実に平和
にする根本的な方法ではありません。戦争を核兵器の恐怖によって一時的に抑えたとしても、争いの想念
がなくならない以上、いつまた戦争が勃発しないとも限りません。戦争をしていない国々が、戦争をして
いる国に対して「戦争をやめなさい」と諫めても、「自国の政策に干渉してもらいたくない」と言われた
ら、それ以上何もできません。戦争をなくすために、警察のように正義のために軍隊を派遣するというの
は、他国からの見方でありまして、当事国にとっては、それは正義とは映らないかもしれません。より強
力な武器をもって、ある程度他の武器を制することはできても、完全に制することは不可能です。武器に
よって、世界を平和にすることはできないのです。愛の祈りによってのみ、武器を無くすことができるの
です。地球を平和にするには、人類の心から争いの想念を無くすこと、つまり人類の心を平和にしなけれ
ばなりません。人類の心が平和になれば、おのずと武器は必要なくなり、地雷も必要なくなり、軍隊も兵
士も必要なくなるのです。その一番根本的な「平和な心」を、いかにしたら人類のものとすることができ
るか、テレビに出演する知識人たちは、その方法について、なぜ、言及しないのでしょうか。

人類の心を平和な心にするには、守護の神霊に向かって「世界人類が平和でありますように」と祈ればよ
いのです。守護の神霊を信じたくない人は、信じなくともよいから、各自の好きな思い方でもよいから、
「世界人類が平和でありますように」と祈って下さればよいのです。「戦争をしたくない、平和な世界に
したい」と誰しも望んでいるのですから、その気持ちを「世界人類が平和でありますように」という祈り
言に明らかに表現すればよいのです。「戦争がなければいい、世界が平和になればいい。誰かが平和にし
てくれるだろう」と弱々しく心に思っているだけで、何も行動しなければ、世界は平和にはなりません。
世界を平和にしたいのであれば、その心を「世界人類が平和でありますように」という祈り言にまで高め
口に出し、ペンに書き、世界へ向けて常に宣布してゆかねばなりません。「世界人類が平和でありますよ
うに」という人類愛の祈り言を常に唱えている人の心が、平和にならぬわけがありません。

戦争は、「戦争をしよう」という人の想念から生まれるものです。「世界人類が平和でありますように」
と常に愛の心でいれば、その人の心に、「戦争をしよう」とか「相手をやっつけて滅ぼそう」という想念
は湧いてくるはずがありません。具体的に提言したいのは、各国の首脳の会談や交渉の場において、常に
「世界人類が平和でありますように」と祈るセレモニーを実行することを、私はお勧めしたいのです。そ
して「あなたの国が平和でありますように」とお互いに祈ってから、実務的な会談に入るようにすれば、
多少の意見のズレはあったとしても、双方の国が調和の方向へと進んでゆくに違いありません。この簡単
で効力のある祈りによる平和運動を、なぜ、日本国は積極的に進めないのでしょうか。首相の立場になっ
た人は、もう首相の地位を得たのですから、あとは首相の座を捨ててもいいから、「世界人類が平和であ
りますように」と声を大にして、日本国民や世界人類に向かって、祈っていただきたいものです。首相が
伊勢神宮にお参りしたり、国会近くの神社にお参りするのをニュースで見ますが、「世界人類が平和であ
りますように」と一言発言しても、よいではありませんか。なぜ、それが、できないのでしょう。それは
現在の政治家に、勇気がないからです。日本の国を真実に愛していないからです。世界を平和にする熱意
がないからです。

いずれは、「世界平和の祈り」を公言できる政治家が現れることでしょうが、私たちは政府や行政に頼っ
ていてはいけません。国連に頼っていてもいけません。マスメディアに頼っていてもいけません。私たち
が、世界を平和にしなくて、一体誰がやる、と言うのですか? 私たちが、世界を平和にしなくてはなら
ないのです。私たちが、「世界平和の祈り」を広めなくては、誰もやりません。私たちが、「世界平和の
祈り」を広めるのです。私たちが「世界平和の祈り」を祈るのです。私たちが世界を平和にするのです。
私たちの愛の祈りの力によって、世界の紛争や戦争を消滅してゆかねばなりません。

現在は、自分の幸福と人類の平和とが密接につながっている時代です。日本は世界から多くの物資を輸入
しておりますし、石油が輸入できなくなっただけでも、日本の産業は大打撃を受けてしまいます。日本が
平和であるからこそ、個人も平和に暮らせるように、世界が平和でなくては、日本国民も真実に平和には
暮らせません。日本の商社をはじめ、多くの会社が外国に支店を持ち、多くの日本人が外国で暮らしてい
るのですから、外国で紛争があれば、日本にいる家族がたちまち不安になります。世界が平和でなくては
日本国も平和ではいられないように、世界が平和でなくては、日本人個人も平和ではいられません。個人
の幸福は、もし、国が戦争を始めれば、一瞬にして崩れさってしまう、もろい幸福であるのです。個人の
真の幸福を得るためには、国が平和であると同時に、世界が平和でなくてはなりません。このように、世
界の平和と個人の幸福は、直接つながっているのです。

したがって、私たちは自分の幸福や家族の幸福を望むならば、国の平和を祈り、世界の平和を祈らなくて
はなりません。世界の平和が確立することによって、私たち個人の幸福は確立されるのです。世界が真実
に平和にならなくては、個人の真の幸福は得られないのです。平和とは、争いのないことだけではありま
せん。戦争のないことだけではありません。地震や津波や火山爆発による災害もなく、病気もケガもなく
公害も事故もなく、富や地位の奪い合いもなく、怒りも嫉妬もなく、不安も悩みもない、実相の姿です。
その実相の世界を、無理なく自然に、この世界に現すことが、「世界平和の祈り」で可能となるのです。

個人と人類の理想の世界が、「世界平和の祈り」によって同時に現実化されるのです。世界が平和になら
なくては、個人の真の平安はありませんから、個人の幸福と人類の平和は、同時に成就(成道)されるの
です。現代の祈りの条件は、個人人類同時成道の祈りでなくてはなりません。核兵器の保有国が増え、地
球規模の危機が差し迫っている時代に、個人の幸福だけを追い求める小さな祈り言をやっていたのでは、
地球は滅亡してしまいます。今こそ、地球の平和完成のために私たちは全力を捧げなくてはなりません。
といって、個人の幸福を追い求めてはいけない、と申しているのではありません。自分の幸福を追い求め
てもよいから、その望みを「世界平和の祈り」に集約させて祈りなさい、と申しているのです。「世界平
和の祈り」を祈っていれば、個人の望み事は、特に望まなくても、念じなくとも、天命を完うされるため
に必要な事物は、守護の神霊からすべて授けられるのであります。

五井先生によって、「世界平和実現の最善の方法は、世界平和の祈りである」と、私たちは教えられまし
た。「世界平和の祈り」は、地球を救う神々から、五井先生を通して、地球人類に授けられた祈り言であ
るのです。「世界平和の祈り」は、誰もが思いつくような、やさしい表現でありながら、五井先生よりも
過去に思いついた人は、一人もいませんでした。五井先生の時代に至って、世界を平和にする「世界平和
の祈り」の祈り言が、神からついに授けられたのです。そして、「この祈り言こそ、人類史上において、
最初で最後の真の祈り言である」と神は教えて下さったのです。この「世界平和の祈り」以上に霊性開発
に効果のある祈り言が、どこにあるでしょうか? もしも、あったら教えてほしいものです。 

「世界平和の祈り」以上に世界平和に効果のある祈り言は、他には無いのです。今さら、迷っていては、
いけません。「世界平和の祈り」以外の行法に、無駄な時間を費やしている時ではありません。神智から
生まれた「世界平和の祈り」に、肉体知の浅知恵で思いついた行法が、及ぶはずがありません。地球人類
は、今こそ「世界平和の祈り」に全精神を統一し、「世界平和の祈り」を合言葉に、人類の心を一つに結
ばなくてはなりません。「世界平和の祈り」という人類共通の合言葉を持つことによって、しだいに人類
の心は一つに調和してゆくのです。合言葉が、二つも三つもあったら、人々は迷います。合言葉は、一つ
で充分であるのです。再度申し上げますが、「世界平和の祈り」以上の霊性開発の方法が、どこかにある
のではないか、もっと善い方法があるのではないか、と迷っている時ではありません。今こそ、私たちは
全精神を「世界平和の祈り」に統一し、全力を尽くして、この祈りを実行する時であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


現代にふさわしい「世界平和の祈り」
No.1642 森島恒吉    2000/01/24 (月) 00:21 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、コメントをありがとうございます。

[質問]
私がかつて所属した事のある、神道系団体の指導者から『「世界人類」 の一人目は、「自分自身」である 』
という言葉を聞いた事があるのですが、 これについては、どう思われますでしょうか?

[お答え]
「世界人類が平和でありますように」の祈り言にある世界人類の中には、もちろん自分も家族も親戚も含
まれておりまして、日本人だけではなく、地球人すべてが含まれております。もっと詳しく申しますと、
地球以外の宇宙の星々に住む人類も含まれているのですし、肉体界とは次元の違う幽界・霊界に住む人類
も含まれているのです。「世界人類が平和でありますように」を、英語で"MAY PEACE PREVAIL ON
EARTH"と訳したのは、欧米に多いクリスチャンの方々になじみやすくするために、聖書の表現に近くした
のではないかと思いますが、ON EARTHでは、地球や肉体界の地上に限定されてしまいますから、最近、私
は"MAY PEACE BE IN THE WORLD"と本来の祈り言の意味に近い英訳を作ることにしたのです。

ところで、ご質問の『「世界人類」 の一人目は、「自分自身」である 』という言葉についてですが、世界人
類の中で自分の順位を意識するのは、ちょっと自意識過剰ではないでしょうか。自分を世界人類の一人目
にしようと、二人目にしようと、百番目にしようと、30億人目にしようと、中心者にしようと、はじっ
こにしようと、そんなことは、どうでもいいことのように、私には思われるのです。人類は一つの大生命
から分かれた小生命の集合であり、人類といっても、元々は一つの生命体であるのですから、自分も人類
も同じ生命体であるのです。生命においては、自分のほうが偉いとか、他人のほうが偉いとか、比較をし
たり、順位をつけられるものではありません。人類は誰しも、平等に尊い生命であるのです。

但し、「世界人類が平和でありますように」と祈る時、救世の大光明は、自分の器(肉体)を通して、横
へと広がってゆくのですから、自分が最初に救世の大光明に浴するのであり、自分が救世の大光明の中心
に立つことになることは間違いありません。「世界平和の祈り」を祈っている自分から、世界平和は始ま
るのであり、自分の心から平和になってゆくことは確かです。お金や権力を独り占めにする、わがままな
独裁者は困りますが、平和の中心者は、誰がなってもかまいません。平和の中心者は、他人に迷惑をかけ
ることはないからです。「日本人は最もすぐれた民族である」とか「日本は最強の兵器を持った国家であ
る」とか「日本は世界経済を動かす中心国である」といえば、他国から反発を受けますが、「日本は世界
平和の中心国である」と言えば、他国から尊敬されることはあっても、非難されることはありません。

世界平和は、自分から始まるのです。そう自覚することは、悪いことではありません。「誰かが、世界を
平和にしてくれるだろう」と、現実の世界情勢に少しも関心を持たずに、自分一人の幸福を望んでいる人
は、地球を破滅させる片棒をかついでいる人、と厳しく言っても、それは過言ではありません。世界を平
和にするのは、あなたなのです。「世界平和の祈り」を祈らなくてはならない人は、誰でもない、あなた
であるのです。この地球が平和になるか滅亡するか、その運命は、あなたが握っていることを忘れてはい
けません。その意味では、あなたの心が第一に平和な心境にならなくてはなりません。

しかし、実際には、難しく考えることはありません。日常生活を崩さずに、「世界平和の祈り」を祈って
いれば、そう力まなくても、あなたの心は、おのずと平和な心境になってゆくのであり、あなたの家族も
あなたの周囲も、世界も、水の波紋が広がってゆくように、おのずと平和になってゆくからです。ですか
ら、「世界は平和になる」と未来を信じた上で、あとは現実にしっかりと足をつけて、現実の仕事や勉強
や育児や家事に心を集中し、暇をみては、「世界平和の祈り」を祈ってゆけばよいのです。こうすれば、
現実の肉体生活を犠牲にすることなく、宗教の道を行じてゆけるのです。

この忙しい現代において、何時間もかかる読経や行法を行なうことはできません。宗教の道を行じるため
に、現実の仕事や家庭生活を犠牲にしては、本末転倒です。そうした現代に最もふさわしい方法として、
「世界平和の祈り」が神から授けられたのです。「世界人類が平和でありますように」と一言祈るのに、
十秒もかかりません。どんなに忙しい人でも、一日に十秒間くらいは、世界平和のために使ってもよいで
はありませんか。しかも、この「世界平和の祈り」は、世界平和のために大きく役立つと同時に、あなた
個人の生活をも、根本から幸福にしてゆくのです。このような点から、現代の人類の神性開発法としては
「世界平和の祈り」が最もやさしく、最も効果的な方法であると、私はここに断言するものであります。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


自分を中心に大きな円を描きましょう
No.1646 森島恒吉    2000/01/24 (月) 21:48 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさんのご質問については、「徳を積む」という意味には間違いありませんが、その元の字について
は知りません。「世界平和の祈り」を祈ると、天に徳を積むことになります。

折原さんのご指摘の通りですね。「自分が先、自分が第一…」と考えるのは結構なのですが、自分だけで
止まってしまいますと、自分だけの幸福しか考えない、小さな人物になってしまいます。「自分の生活も
幸福になっていないのに、世界人類の幸福なんて、考えるべきではない」といかにも尤もに言う宗教者が
おりますが、自分が立派な心境になってから、世界を平和にするのでは、地球破滅の危機が迫っている現
在では、時代遅れの古い考え方であると思います。

「まず自分の心境が立派になること」「まず自分が幸福になること」「まず自分が悟ること」「まず自分
が幸福になること」と、自分の幸福だけを考えていたら、心の狭い利己主義の人になってしまいかねませ
ん。自分を世界人類の一人というふうに考えて、自分だけの幸福を望む想いを、人類愛へと大きく広げて
ゆく必要があるのです。自分を中心に小さな円を描くのではなく、大きな円を描くことです。

「あなた自身が、まだ幸福にもなっていないのに、何が世界人類だ。世界人類の平和の前に、自分が幸福
になって見せろ。自分の幸福だけを考えろ」とある宗教指導者があなたに説いても、「ああ、この人の想
いは消えてゆく姿だな。世界人類が平和でありますように」と「世界平和の祈り」を祈ることです。

真実に悟っている宗教指導者に学ばず、悟っていない宗教指導者に学びますと、中途半端な誤った宗教観
を植えつけられてしまいかねません。私よりも以前に学んだ宗教指導者たちの言葉は、どんなに偉そうな
指導者であっても、一度全部否定してしまい、新たな心で「世界平和の祈り」を学んで下さい。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


世界人類をつなぐ合言葉
No.1661 森島恒吉    2000/01/29 (土) 12:36 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

皆さん、ありがとうございます。私は、この数日間、新居への荷物の引っ越しで忙しくしておりまして、
毎日皆さんのコメントを拝読しておりますが、何も書けない状態でした。来週も、住所の移動に伴う住民
票の移動や免許証の書き換えなどで忙しいと思います。イロハニさんのご質問については、いずれ私もお
答えさせていただきます。皆さんのお答えは、どれも納得することが多く、ありがたく思っております。

イロハニさんと、チリヌルさんには、「世界人類が平和でありますように」の合言葉を一言書いて、コメ
ントを書いて下さるようにお願いいたします。主義主張、思想宗教が異なっても、「世界人類が平和であ
りますように」の合言葉さえ同じであるならば、いつか人類は真実に調和してゆくものであると信じてい
るのです。その世界平和創造の最初のひな型が、この掲示板の世界であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


お浄めについて
No.1666 森島恒吉    2000/02/02 (水) 21:07 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[ご質問1]
白光真宏会では、個人指導でお浄めをしますが、あれは今生にいる限りは、ショッチュウしてもらわない
と、(魂が)綺麗になれないのでしょうか。お浄めする人自体はすっかり清まっているのでしょうか。ま
た、自分で祈りをしているだけではいけないのでしょうか?

[お答え1]
結論から申せば、「個人指導のお浄めを、しょっちゅうしてもらわなければ、自分の魂がきれいにならな
い」ということはありません。お浄めを受けたい人で時間の余裕のある人は、何度でも好きなだけ受けた
らいいし、時間に余裕のない人は、時間の空いた時に受けたらいいのです。また、お浄めを受けたくない
人は、無理に受ける必要はありません。常に「世界平和の祈り」をしていれば、自然に自己の魂も人類の
魂も浄まるのですが、中には深い苦悩にあえいでいて、法話を聴いている余裕もなく、「直接、目に見え
る形ですがりたい」と救いを求めてくる人々が、現実には多く存在するものなのです。自分一人でお祈り
をしていて、それで納得している人ならば、講師にお浄めを受ける必要はありません。悩み多き人々のた
めに、個人指導という一つの救いの道を用意してあるのです。

お浄めする講師自身は、すっかり魂が浄まっているのかと申しますと、そうとは限りません。魂が清まっ
た講師からお浄めを受けたほうが良いにきまっておりますが、かといって、自己の魂がすっかり浄まって
から、会員を浄めるというのでは、現状では一人も講師になれないと思います。そこで講師として、会員
をお浄めする場合には、「お浄めするのは五井先生(守護の神霊)であり、私は器として使っていただく
のだ」という謙虚な気持ちを持つことが必要でありまして、「させていただく」という謙虚な態度でお浄
めするならば、守護の神霊はその人の器(肉体)を通して、光明を放射して下さるのです。もし、「お浄
めしてやる」と会員を見下げた態度をする講師がいるとしたら、それは五井先生のみ心に反する講師であ
り、お浄めの形式は五井先生そっくりでも、守護の神霊の光明は、その講師からは放たれません。

講師によっては、頼んでもいないのに、人をつかまえては「お浄めしてあげる」と申し出る講師もいます
が、そうした行為は、なにか恩きせがましいようで、あまり愉快ではなく、余計なお節介だ、と相手に感
じさせてしまいます。五井先生のみ教えも、ろくに理解していないどころか、誤って行じている講師のお
浄めなど、正直申して、お浄めの力はありません。どうせお浄めを受けるのならば、やはり、自分が心か
ら尊敬している講師から受けるのがよいでしょう。しかし、講師からお浄めを特別に受けなくとも、自分
一人で「世界平和の祈り」をしているだけでも、もちろん良いのですから、ご自分の納得できる信仰生活
をなさってほしいと思います。

五井先生は、多数の人々向けの法話としては「世界平和の祈り」を説き、個人指導の時には、主に柏手と
霊笛(れいてき)によるお浄めをなさっていました。いいかえますと、私たちは、五井先生のご指導によ
る集団の統一行の時には、初めに「世界平和の祈り」を声を合わせて祈りましたが、五井先生から個人指
導を受ける時には、その祈り言さえ唱える必要がなく、五井先生の前に座るだけでよかったのです。何も
思ったりしたりする必要がないのですから、全くの他力といえます。

個人指導では、最初に五井先生と向き合って正座し、お浄めを受けますと、「はい、うしろを向いて下さ
い」と五井先生から言われます。そこで、五井先生に背中を向けて座り直しますと、同じように柏手と霊
笛によるお浄めがなされます。その間、ふつう3分間くらいだったと思います。たくさん会員さんがいる
時には、五井先生の前に5人ほど横に並びまして、五井先生は柏手の方向を左右へと移動しながら、お浄
めをされます。この時も、もちろん、前後をお浄めします。正面をお浄めする時には、その人自身の運命
を改善することが目的で、背後を浄める時は、その人の先祖にまつわる因縁を浄めることが目的です。

お浄めの方法として、柏手と霊笛と同時にさまざまな印契(ムドラー)も結ばれます。五井先生の印を組
む手の動きをじっと観察しておりますと、毎回、固定した定まった印を組むのではなくて、その時その場
にいる人や背後の霊人に応じて、自由に形が変化していました。私も、五井先生の印の形を見ながら、ず
いぶん真似をしたものでしたが、五井先生の印の形は毎回変化し、一定の形が無いものであることを発見
してからは、真似をするのをやめました。一つの形に固定してしまいますと、臨機応変にその場に応じた
自由な動きができなくなり、手をどんなにきれいに動かしても、それは内容のない無意味な形骸だけの動
きになってしまうからです。守護の神霊のほうで必要とあれば、肉体想念とは関係なく、神秘的な力で自
分の手を動かして下さるものなのですから、「印を組もう」とか「手をこのように動かそう」と私たちは
ことさらに考える必要は全くないのです。手が動かない時には、手を動かす必要がないからなのです。そ
うした形式よりも、「世界平和の祈り」に入りこむことだけに専念していることです。

どなたかがコメントされていましたが、講師が会場にいる会員に向かって、「あなたは神である」と宣言
しておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、「あなたをお浄めしてあげる」と講師が言うのは、非常な
矛盾です。それでは、会員が完全な神の子であるのか、不完全な凡夫なのか、判然としなくなります。現
在、完全な神の子ならば、お浄めを受ける必要がありません。またもし、現在の人間をお浄めしなければ
ならない不完全な人間と見ているとしたら、「現在、あなたは完全な神の子である」と宣言するのは無理
があります。これを二元論といい、こうした矛盾した言動をとっておりますと、精神分裂症になって、何
を言っているのか、どちらが本論なのか、訳がわからなくなり、普通人からは、まともに相手にされなく
なってしまうのです。この矛盾点を、私は何度も何度も口を酸っぱくして指摘しているのですが、多くの
人々に理解されるようになるまでは、まだまだしばらく時間がかかりそうです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


人生において最良の選択をするために
No.1667 森島恒吉    2000/02/02 (水) 22:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[質問]
「直感で感じることは、守護の神霊の導きである」と考えてよいでしょうか。
「それに引き換え、後から出てくる思いは業生の思いである」と考えてよいのでしょうか。

実は、最近、見合いの話しがあって、写真と紹介書を見た時点では導きを感じなくて、
(かといってそのことで時間をかけて祈ったわけではありません)
「今回は見送りたい」との旨を間に人に伝えたのですが、
やはり、それでも会ってほしいとの依頼があり、会ったのですが、やはりお断りしました。
しかし、時間がたつにしたがって、あのときの判断は正しかったのかな?
と思ったりしています。この思いはやはり業生の思いでしょうか。

見合いに限らず、いくつかの選択肢があるとき、選択に迷いが出たとき、
直感でよいと感じたものを選択するのが結果的に良いのでしょうか。

[お答え]
新米者さん、こんにちは。私が今忙しいのを察して、折原さんがアドバイスをして下さいましたが、とて
も参考になったと思います。折原さんが指摘されていた通り、直観と直感は、ふつうは同じ意味として解
釈しておりますが、肉体頭脳の思考によらずに霊覚的に物事の正しい本質を知ることを直観といい、直感
という言葉は、理論という言葉に対する反対語として使います。

宗教の道を歩んで行くにも、知性的論理的に頭と心で納得してから信じてゆく理論的なタイプの人と、理
屈や論理で考えるのが苦手で、第六感を含む感覚で判断してゆく直感的なタイプの人がいるのです。どち
らが良い、ということはありません。理論的な人は、論理的に納得するまで実行に移さないという短所が
ありますが、いったん論理的に納得すると、巌のようにどっしりと落ち着いて信仰心が揺るがないという
長所があります。また、直感的な人は、神仏のみ心の中に素早く入ってゆける長所があるのですが、理論
的には何もわからないので、他の宗教のおかげ話を聴いたり、他の宗教書を読んだりすると、すぐに影響
を受けて、フラフラッと他の行法をやって、本道を外れて行ってしまう短所があるのです。

そこで私は、理論的な人にも直感的な人にも、どちらの人にも満足していただけるように教えているので
す。真実に直感的な人には、何も詳しい教義を説明せずとも「世界平和の祈りを祈りましょう」と私が一
言いえば、「それは素晴らしいですね」と答えて下さるものです。しかし、そうした直感的な人ばかりで
はありませんから、理論的にも納得できるように教える必要があるのです。理論的に正しい宗教を学び、
心で納得した上で、直感的に守護の神霊のみ心の中にパッと飛びこんでゆく、という生き方が、誰にでも
できる安全な宗教の道であろうと思います。

ご承知のように、第一直観は、神のみ心です。その次の瞬間に出てくる選択肢は、業生の想念から出てき
た答です。と申しましても、心を鎮めていないと、どれが第一直観なのか、第二想念なのか、判然としな
いことが多いと思います。潜在意識にある業想念が、第一直観をさまたげてしまいまして、ふつうの人の
場合、必ずしも最初に思い浮かんだ答が、第一直観とは限りません。自己に都合のよい、業生の甘い答が
出てくることもあるのです。第一直観は、ごくかすかな微妙な霊感のひびきで受信できず、第二想念が力
強く現れてきた場合、第二想念をあたかも第一直観と勘違いしてしまうことも少なくありません。第一直
観的に素早く行動しているつもりでいて、実は業想念の欲望のおもむくままに動いていたり、逆に忍耐し
て熟慮しているうちに、行動するチャンスを逸したりと、第一直観のままに行動することが大事とわかっ
ていても、業想念を浄めないうちは、正しい判断をすることが案外難しいものです。

思えば、人生とは選択の連続で、どこの学校へ行くか、誰とつきあうか、どこの会社へ勤めるか、誰と結
婚したらよいのか、どこに住んだらいいのか、誰にこの仕事を頼んだらいいのか、自分に適した宗教は何
か、等々、いつ、どこで、何を、どのようにするか、と選択することによって、その人の人生が大きく変
化してまいります。幸福になるのも、不幸になるのも、人生の選択しだいともいえます。学校の成績がト
ップで幸福そうに見えた人が、しばらくたって会ってみると、まるで別人のようにやつれはてていたり、
そうかと思うと、学校の成績が悪くてビリだった人が、会社の社長になって幸福に暮らしている、という
ことがあって驚かされますが、こうした結果も、より良い選択をしたか、誤った選択をしたかによって、
人生が変わってしまった例です。それでは、最良の選択をするには、どうしたらいいのでしょうか。

「世界平和の祈り」とその他の行法を比較してみた場合、私の第一直観では、「世界平和の祈りは最善の
方法である」という正しい答が出てくるのですが、業想念がありますと、「世界平和の祈りよりも、『世
界は平和である』と断定的に宣言するほうが効果的だ」というふうに、誤った答が出てくるのです。「世
界平和の祈り」を祈っていれば、ただそれだけで、いずれは守護の神霊の正しいみ心を、第一直観として
受け取ることができるようになるのですが、それだけで満足できない人は、「守護霊様、み心のままに、
正しい選択(正しい判断)ができますように、私を導いて下さい」と祈るとよろしいでしょう。

お見合い話の場合、「守護霊様、私たちの天命が完うされますように」と祈ってから、「今回のお見合い
話は見送りたい」と判断した場合には、お祈りしないで判断した場合とは違うのですから、後で「私の判
断は正しかったのだろうか?」と想い悩んでいてはいけません。仕事上では、自分のミスに気づいたら、
自分のミスをすみやかに上司に報告し、自分の行為を改めるべきですが、お見合い話のような場合には、
たとえ過去に自分の判断が誤っていたとしても、一度決断して相手に伝えた答を、後日くつがえすべきで
はありません。それはかえって、相手に迷惑をかけるからです。「やはり、あの人と結婚したほうがよか
ったかな」と迷う行為が、「あの人は優柔不断の人だ」と思われて、人から信用を失ってしまうのです。

「世界平和の祈り」を祈っておりますと、守護の神霊の加護力が強くなり、守護の神霊の智慧が授かりま
すから、より良い選択ができるようになります。守護の神霊に常に感謝しておりますと、たとえ、自己の
判断が間違えても、守護の神霊が自己の運命を修正してくれるのですし、過去に決断したことは、もう、
とりかえしがつかないのですから、過去の行為は消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」から再び再出
発すればよいのです。人によっては、一度決めたことであるのに、すぐに不安になってしまい、途中でキ
ャンセルしたり、約束を破ったりする人がいますが、そのように不安定な気持ちでは、人に信用されなく
なります。たとえ最善の方策でなくてもいいから、一度約束したことは守らなくてはなりません。結論に
至るまでは、いくら迷ってもいいのですが、一度選択し決断したら、もう迷わぬようにすることです。

高速道路の分岐点で、「右と左のどちらへ行こうか?」と車を止めて迷っているわけにはゆきません。一
瞬の判断で決めなくてはなりません。仮に間違った方面へ進んでしまったとても、途中で引き返すわけに
はゆきません。しばらくはそのまま進んで行き、目的地へ行ける、新たな進路を見いだせばよいのです。
守護霊様のご判断を信じて、「守護霊のみ心のままになさしめたまえ」と祈った後に決めた結論は、守護
霊様のみ心であり、守護霊様との約束であると思って、選択した結論を変えぬことです。相談者のお見合
い話のように、結論を下した後で、「あの時の判断は正しかったのだろうか?」と迷うのは業生の想いで
ありまして、今さら未練がましく迷っていてはいけません。

もし仮に、自分にとって、この世で最もふさわしい配偶者と出会ったとしても、お互いに業想念を持って
いる間は、完全な結婚生活などあり得ません。いいかえれば、自己の業想念が消えてゆけば、自己の本心
が現れてきて、正しい直観が働くようになり、正しい決断が下せるようになるのです。業想念のあるうち
は、その時は正しい判断をしようと、次は誤った判断をしてしまうかもしれません。また、失敗したよう
に見えても、その経験が、次の成功に生かせるかもしれません。ですから、自己の業想念を、守護の神霊
に浄めていただくことこそ、第一になすべきことであるのです。「世界平和の祈り」を祈り、守護の神霊
に感謝して、自己の業想念を浄めていただきながら、決断したことを実行し、過去の失敗も成功も消えて
ゆく姿として割り切り、「未来は必ず善くなるのだ」と明るい未来を信じてゆくようにすれば、しだいに
守護の神霊のみ心と自己の判断が一つになり、直観力が増してきて、正しい選択ができるようになってゆ
くのです。皆さんは、正しい直観力を増すために、迷わずに先ず「世界平和の祈り」を選択して下さい。
「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、あなたの人生の大事な分岐点において、最良の選択ができる
ようになり、次々と幸運に恵まれ、幸福な人生を歩めるようになるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"

(追記)
ところで何度も申し上げておりますが、ご質問の際にも、「世界人類が平和でありますように」の地球人
類の合言葉を一言添えていただければ、ありがたく存じます。「世界人類が平和でありますように」の合
言葉がない場合、原則として、ご質問にはお答えしません。


現実にいながらも未来永劫の平和世界に住む
No.1671 森島恒吉    2000/02/06 (日) 01:09 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

最近の私は忙しくしておりまして、この掲示板に書きこむことが少なくなって、ファンの皆さんにさびし
い想いをさせて、申し訳ありません。五井先生のみ教えについては、だいたい書き終えたので、み教えを
理解できたら、あとは実行に努めて下さい。朝起きたら祈り、食事の前後に祈り、歩く時に祈り、夜寝る
前に祈る、というふうに日常生活を少しも崩さずに「世界平和の祈り」を祈ってゆけば、守護の神霊のお
力で、私たちは必ず幸せになり、世界は平和になるのです。幸せになることを信じられなかったり、平和
になることを信じられなかったら、そうした業想念を消えてゆく姿として否定して、「世界平和の祈り」
に入りこんでゆくのです。そうすることによって、現実の世界に住みながらも、同時に数千年先の未来の
平和世界にも住むことができるようになるのです。なぜならば、「世界平和の祈り」は、現実の人々を癒
しながらも、未来永劫の人類の祈りでもあるからです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


人類に与えられた最終の試練
No.1674 森島恒吉    2000/02/08 (火) 18:24 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、コメントをありがとうございます。折原さんは、五井先生のみ教えをすでに理解し得た人、と
言ってよろしいでしょう。折原さんがお書きになったような知識は、五井先生のご本を熱心に読んでいる
白光真宏会の古い会員さんならば、誰でも知っていることであると思います。ところが、同じ教えでも、
理解する深浅の度合いは、人によってまるで異なっているのです。

「世界平和の祈り」が最善の祈りである、と頭では知ってはいても、実際には「世界平和の祈り」だけで
は不安でたまらずに、自力多行を行なっているようでは、「世界平和の祈り」は最善の方法ではない、と
いうことになり、真実に五井先生の教えを知った、とは言えません。また、「世界平和の祈り」は完全な
祈りである、と説きながら、実際には他の行法を付け足しているようでは、「世界平和の祈り」は不完全
な祈りである、ということになり、これまた五井先生の教えを真実に知ったとは言えません。実際に実行
できてこそ、真実に教えを知った、ということになるのです。折原さんは、実際行動として「世界平和の
祈り」一念に徹しておられるのですから、折原さんは、五井先生の教えを真実に知った人であるのです。

五井先生の他界後、「世界平和の祈りは、真実に究極の祈りであるのか?」という神の試練を、私たちは
改めて受けたのです。神のその質問に対して、ある人々は「世界平和の祈りは、もうすでに過去の古い祈
り方であり、現代の究極の祈りではない。世界平和の祈りだけでは足りない。世界平和の祈りだけに把わ
れてはならない。他の行法もやるべきだ」と答え、私たちは「世界平和の祈りは、今もそして永遠に、究
極の祈りである」と答えました。その結果、私たちは神の試練に合格し、永遠の幸福を授かり、「世界平
和の祈りは究極の祈りではない」と答えた人々は、再び無限とも見える試練の道へと転落して行ったので
す。五井先生の教えを真実に理解できるまで、神は何度でも何度でも試練を与え続けるものなのです。

雨が降って地面が固まるように、試練が与えられることによって、人間は完成へと近づいてゆくのです。
神が人類に最後に与えた試練とは、「世界平和の祈りは、はたして究極の祈りであるのか、否か?」とい
う問題でした。神は五井先生を通して「世界平和の祈り」を人類に授けて下さいました。その上で、神は
人類が真実にその教えを理解し得たかを確かめるために、様々な新しい思想や教えや行法を指し示し、そ
の誘惑に負けないかどうかを、厳しい眼差しでじっと見つめてきたのです。五井先生があれほど「世界平
和の祈りは完全であり、最善の祈りである」と説いたにもかかわらず、五井先生が他界すると、五井先生
の教えを疑い、五井先生の教えを捨てる人さえ、現れてきました。それは釈尊が他界した後に、釈尊の真
実の教えを理解できず、誤って解釈する人々が多く現れてきたのと似ています。

しかし、神の試練に不合格になったからといって、その人々を放っておくわけにはまいりません。そこで
慈愛の神は、最終の試練にすべての人々を合格させようと、私を使わし、五井先生の教えを改めて説き直
し、「世界平和の祈りは完全であり、最善の祈りであるのだ」と強く宣言し始めたのであります。私の行
為は、五井先生のみ心によって導かれているのであり、唯一会は、神のみ心で創立されたのです。神の最
終の試練に合格した人々のみが、唯一会に集まっているのです。一度試練を受けて、その試練をくぐり抜
けてきた人ばかりなのですから、「世界平和の祈り」の救世の大光明が輝かないはずがありません。

唯一会の私たちは、真実に幸せです。この幸せを人々に与えようと、私たちは「世界平和の祈り」を日夜
祈り続け、「世界平和の祈り」の素晴らしさを讃え、「世界平和の祈り」を伝道しているのであります。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


愛に憎しみはない
No.1676 森島恒吉    2000/02/11 (金) 23:37 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、ありがとうございます。
バレンタインデーのお話が出ましたけれど、「女性から男性に愛を告白できる日」ということで、チョコ
レートを売る販売戦略として考案された記念日かもしれませんが、2月という寒いこの冬の時期に、この
ような温かい記念日があるのは楽しいことです。街を仲良く二人で歩く若い男女を見ますと、私まで楽し
くなってきます。私はどういうわけか、若い頃から、他人の若い男女が仲良く楽しく語らっている姿を見
ても、ほほえましく感じるばかりで、自分のことのように幸せに感じて、嫉妬心というものを感じたこと
がないのです。世界のみんなが、争うことなく、仲良く楽しく愛し合ってほしい、と願うばかりです。

明日の唯一会では「愛、平和、祈り」をテキストにしますが、宗教の目的とは、愛深い人間になることと
言ってもいいでしょう。その他のことは、枝葉のことです。思いやり深くなり、愛が深くなること、誰に
対しても愛の行為ができるようになること、これが宗教の目的のすべてであるのです。奇蹟も超能力も病
気治癒の御利益も、愛が無くては、何の意味もありません。五井先生は「愛に憎しみはない」と書かれて
います。人を愛して、たとえ、その人から愛されることがなくとも、愛する人を、憎んではなりません。
憎しみが伴う愛は、真実の愛ではないのです。私たちは、愛無くしては生きてはゆけません。神を愛し、
自然を愛し、人を愛してゆくのが、人間の生きる道であるのです。時には、情に把われて悩み苦しむこと
があっても、人を憎んではいけません。人を憎む想いは、消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」の中
へ入り込みましょう。私たちは、誰をも憎むことなく、人々を愛してゆきましょう。

あなたが幸せでありますように
あの人が幸せでありますように
あの人たちが幸せでありますように
あの国の人たちが幸せでありますように
世界人類が平和でありますように

と、私たちは人々を愛してゆくのです。憎しみがあったら、それは愛ではありません。愛に憎しみはない
のです。私たちが「世界平和の祈り」を祈る時、私たちは純白の愛の光明に包まれているのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


何事にも順序がある
No.1681 森島恒吉    2000/02/13 (日) 14:06 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
ケントさんが書いたように、「宇宙神様」「宇宙大神様」「創造主様」と遠い神様を呼ぶよりも、肉体人
間の身近に降りてきて波動の近い守護霊に、「守護霊様、お願いします」と祈ったほうが、宇宙神に統一
しやすいのです。守護霊に統一できれば、自然に守護神につながり、奥深い宇宙神へとつながることがで
きるのです。その一番身近な守護霊を軽視して、守護霊を呼ばずに、宇宙神との対話ばかりしようとして
も、それは不可能であり、宇宙神と対話しているように見えても、それは自己にとって都合の良い潜在意
識の想念にすぎないのです。

なぜ、自分を実力以上に偉く見せる必要があるのでしょうか。なぜ、そんなに周囲の人々に見栄を張る必
要があるのでしょうか。神の子の姿をまだ現していないのに、なぜ、すでに神の子になったふりをする必
要があるのでしょうか。なぜ、嘘をつくのでしょう。なぜ、もっと正直に生きようとしないのでしょう。
そんな嘘と虚栄の生き方は、生きるのが苦しくなり、いずれは剥がれ落ちてしまいます。

守護霊は、地球上のどんな聖者よりも、高い霊性を持った聖なる実在であるのです。守護霊は、あなたが
お金を支払って護衛を命令するガードマンではなく、あなたの運命を導くガーディアンスピリットである
のですから、守護霊を軽視したり、見下してはなりません。やたらに宇宙神の名を出し、自分は宇宙神と
だけ交信しているかのように、自己を偉く見せようとするのは虚栄であるのです。

あなたの運命を直接司るのは守護霊と守護神であり、宇宙神ではありません。宇宙神と話したところで、
どうにもならないのです。悩みがあったら、守護霊に相談することです。苦しいことがあったら、守護霊
に助けを呼ぶことです。わからないことがあったら、守護霊に尋ねることです。守護霊ほど頼りになる存
在はありません。守護霊は、神秘な智慧と霊力で、肉体界の私たちを助けて下さるのです。私たちの天命
の完うに必要な、すべてのものを授けようとして下さっているのです。守護霊は、ケガや事故や災難から
私たちを守っていて下さるのです。守護霊は、有益な人に会わせて下さるように、導いて下さるのです。
守護霊を呼びつづけ、守護霊に常に心を統一していれば、私たちはおのずと神性を発揮し、幸福を得て、
世界は平和になるのです。私たちの幸福は、守護霊のお力によって、授けられるものであるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


色即是空・空即是色
No.1687 森島恒吉    2000/02/13 (日) 20:54 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、講義の内容をまとめて紹介して下さって、ありがとうございます。
「色即是空・空即是色」について、誤解のないように補足しておきますと、色とは物質の意味ですが、こ
れは譬えでありまして、人間の想念行為のことをいうのです。色即是空の初めの色とは、本心と業想念の
混ざり合った想念行為であり、空即是色の色とは、業想念の無い、光り輝く本心行為をいうのです。この
ように般若心経では、「悟りを得るには、空になればよいのだ」と教えているのです。その空の境地にな
る最もよい方法は、現代では「世界平和の祈り」なのであります。「世界平和の祈り」を祈っております
と、一瞬でも空の境地を味わうことができるようになり、しだいに空の境地が深まってゆくにつれて、人
間本来の神性が開顕されてまいりまして、真実の平安を得るようになってくるのです。これは「世界平和
の祈り」を祈っている人ならば、誰でも体験できることであるのです。「守護霊様、守護神様、よろしく
お願いします」という気持ちで「世界平和の祈り」を祈りますと、救世の大光明の中へとスーッと吸い込
まれてゆき、誰でも大安心の世界に常時住めるようになるのです。ぜひ、あなたも体験なさって下さい。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"