森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


宗教信仰は人に強要してはならない
No.1502 森島恒吉    1999/11/27 (土) 04:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ヌガーさん、はじめまして。ご意見を頂戴し、ありがとうございます。

[ご意見1]
ウチの母親が白光徒です。私も父も知らないうちに白光の会員にされてしまいました。今のところ、特に
これと言った問題が外部から持ち込まれたことがないのですが、母親はハマってます。根が無邪気な母親
ですが、ヒステリーの気質があって、一時期「御神事」とやらに無理矢理付き合わされて、けんかにまで
なりました。まあ、本人は反省してくれてるから良いんですけど、こういう狂信的(?)な信者への対処
を、白光ではちゃんとなさってるんでしょうか?

[お答え1]
唯一会は、白光真宏会会員有志が中心となり、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」を唯一の行法と
しておりますが、白光真宏会の支部組織には所属していない、独立した宗教団体です。唯一会では、たと
えわが子といえども、家族への宗教の強制は、決してしてはいけないもの、と教えております。ですから
唯一会では、あなたさまのような苦情は、まったくございません。信仰に熱心なことは大変結構ですが、
自分の家族を無理やりに自己の宗教団体に入会させたり、嫌がる家族に自らの宗教の行法をやらせようと
することは、宗教的把われでありまして、決してしてはいけないことであります。

宗教の目的とは、人間を真に自由にさせることであるのです。それなのに、逆に人間を不自由にさせ、自
由を束縛するようなことをしては、宗教の目的から外れてしまいます。行法を強制する宗教、人を不自由
にする宗教は、誤てる宗教であり、邪教である、と言うほかありません。あなたさまのご意見は、まこと
に正しく、ご尤もなご意見である、と私も思います。今後、狂信的な人が出ないようにするべく、唯一会
としましては、五井先生の真実の教えをお伝えし、まともな人間になる「世界平和の祈り」を広めること
に、全力を傾けてまいる所存でございます。

[ご意見2]
「2000年までに2万人の神人が必要」と言っているようですが、母は必死で何とかしようと色々私に
しつこく言い寄ってきます。私にまで勧誘活動に引きずり込もうとすることもあります。宗教無しでは生
きられない人もいますが、宗教を押しつけられると、死にそうになる人もいます。全く誰にも迷惑をかけ
ない人間はいないとは思いますが、宗教の形を取っている限り、誰も知らないところで何が起こるか解り
ません。くれぐれもカルトやヒステリーの種は落とさないで下さい。狂信者をおとなしくさせて下さい。

[お答え2]
あなたさまのお気持ちは、私にもよく理解できるつもりです。他人から宗教団体に入会するようにしつこ
く勧誘されることは嫌なことです。まして、いつもそばにいる家族から、宗教信仰を強要されることは、
死にたくなるほど、つらいことでしょう。宗教は人に押しつけるべきことではなく、人に押しつけられて
やるべきことでもなく、あくまでも各人の自由意思で自発的に求めてゆくべきものであるのです。

また、宗教のような自由思想に、共産主義のノルマの思想が加わっていることもおかしなことで、「西暦
2000年までに2万人の神人が必要」という教えは、私には神のお言葉とはとても思えません。毎日を自分
の欲望だけのために怠惰に生きることはあってはなりませんが、かといって、他人からノルマを課せられ
て、命令されて動かねばならない、というのでは、とても神の権威と無限の自由を持つ神の子とは言えま
せん。それでは、生命保険の外交員のようなもので、宗教に名を借りた、会費目当ての金儲け集団と誤解
されてしまいかねません。

あなたさまから頂戴したご意見は、すべて正しいものです。他山の石として、私達は、世間の常識から外
れたカルト集団にならぬように、またヒステリーの種を作らぬように、狂信者を出さぬように常に反省し
てゆくと共に、真実の宗教を伝えるように、今後とも一層努力してまいりたいと思います。
ありがとうございました。

あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」は未来永遠の祈り
No.1505 森島恒吉    1999/11/27 (土) 19:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
五井先生がご法話やご著書において、「今後一番中心となって働く」とその存在をうたわれていたマイト
レーヤと、現在英国にて活動をされているベンジャミンクレームさんをメッセンジャーとして出現されて
いる神霊は同一の存在でしょうか?

[お答え1]
ベンジャミンクレームさんの著書を読みますと、多彩な宗教知識が披瀝されていますが、要はヨガの教え
と自力の瞑想修行が行法の主体であることがわかります。キリスト教に似た他力の祈り言も説いています
が、自力の瞑想行から完全に抜け出してはいません。

それに対して、「世界平和の祈り」は未来永遠の祈りであり、マイトレーヤは未来仏の中心者であるので
すから、マイトレーヤは「世界平和の祈り」の中心者であると言えるのです。そのマイトレーヤが、今更
未熟な自力瞑想行などを教えるはずがありません。ベンジャミンクレームさんにメッセージを伝えている
背後霊と、実在のマイトレーヤが異なることは明らかです。

[質問2]
森島先生は、五井先生がその存在を説かれていた、マイトレーヤやヒマラヤの大聖ク−トフ−ミ−大師や
モリヤ大師とは、直接交流されておられますか?

[お答え2]
「直接、交流されておられますか?」というご質問は、特定の神霊を霊視して、その神霊と会話している
のですか、という意味であると思いますが、そのような霊現象はありません。私の天命は、五井先生のみ
教えを伝え、「世界平和の祈り」を教えることだけです。但し、救世の大光明霊団に、すべての神霊が集
っているのですから、すべての神霊と交流している、と言えないこともありません。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


人々の天命の完うを祈りましょう
No.1507 森島恒吉    1999/11/29 (月) 03:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[プルニエさんの質問]
今、世間を注目させているHちゃん殺害事件のようなケースのことなのですが、五井先生的に解釈すると
「Hちゃんは、W家の業を払うために、この世につかわされてきた。一方、Y容疑者は過去の過まてる想
念が引き起こした事件であり、これからの苦難の人生も消えてゆく姿」ということになる、と考えていて
良いのでしょうか。そして我々はHちゃんの霊界での、Y容疑者についてはこの世での、天命の完うを、
ただお祈りしてあげれば良い、こういうことでよろしいでしょうか。なにぶん、独学なもので大きな考え
違いをしていなければ良いと思うのですが。

[お答え]
例にあげた事件は、子供の受験進学にまつわる、激しい嫉妬による幼女殺害事件ですが、このような事件
を客観的に見ている私達は、被害者と加害者に対して、「守護霊様、あの人たちの天命が完うされますよ
うに。このような犯罪が一日も早く消えてゆきますように。世界人類が平和でありますように」と祈って
いればよろしいのです。被害者のご家族に対しては、なんら同情を示すことなく、「なぜ、あなた方はこ
のような被害にあわれたのか?それは、あなた方の過去の誤てる想念が引き起こした結果である」と、こ
んな時に、因果法則のお説教をしてはいけません。過去を責められても、今更どうにもならないのです。
因果法則のお説教を聞いても、殺された幼女は戻ってはこないのです。ですから、被害者の家族に対して
は、余計なお説教はせずに、自分の家族のように同情して「守護霊様、あの人の天命が完うされますよう
に」と心の中で被害者の冥福を祈り、家族の人たちの天命の完うも併せて祈ってあげるのです。また、容
疑者に対しては、「守護霊様、あの人の業想念が一日も早く消えて、本心が現れますように。あの人の天
命が完うされますように」と祈ってあげればよいのです。業想念はいずれは消えてゆくのですが、現実に
はまだ業想念が存在し残っているのですから、守護の神霊に業想念の一日も早く消え去ることを祈り、縁
のある人々の天命の完うを祈る必要があるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


古代からの祈りの原理
No.1510 森島恒吉    1999/12/01 (水) 03:35 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「世界平和の祈り」は、自力想念力で世界を平和にする、という意味ではなくて、あくまでも守護の神霊
のお力で世界を平和にして下さい、という意味の祈りです。「世界人類が平和でありますように」の祈り
は、本来の「神様、世界人類が平和でありますように、お願いします」という意味を省略した祈りである
のです。「世界平和の祈り」の祈りの短縮形は、「神様、お願いします」であるのです。困難な境遇にお
かれて切羽詰まった時、「神様、助けて下さい」と私達は必死に祈りますが、この祈り方は、決して間違
った祈り方ではなく、そのように祈れば、守護の神霊は、必ず助けて下さるし、救って下さるのです。

神様、祓いたまえ、清めたまえ。
神様、守りたまえ、幸(さきは)ひたまえ。
神様、恵みたまえ、助けたまえ。

これは日本の古代から伝承されている、きわめて素朴な祈り言ですが、この古代からの神への素朴な祈り
言を、現代語に直して、個人人類同時成道の広い道としたのが、「世界平和の祈り」なのです。数千年前
の古代の日本人の祈り方と、他力行という祈りの原理は、現在も同じであるのです。先日ありました東海
村の核燃料処理施設からの放射能漏れの事故のような時など、「神様、助けて下さい」と祈らざるをえま
せん。また、世界各地に目を向けて、悲惨な戦争による死傷者や紛争による難民の人々、飢餓や難病に苦
しむ人々を見ますと、「神様、どうか一日も早く助けて下さい」と叫びたくなります。私達には、どうし
ようもないのですから、神に救いを求めて、神にひたすら祈りつづけてゆく必要があるのです。そのよう
な気持ちで「世界平和の祈り」を祈ることによって、私達は神に助けられ、救われることになるのです。
「世界平和の祈り」を祈ることは、地球人類にとって最短距離の救われの道であり、「世界平和の祈り」
を祈ることは、私達にとって最善の生き方であるのです。

神様、地球を救いたまえ。
神様、私達を助けたまえ。
神様、世界人類が平和でありますように。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


凡夫易行実践五ヶ条について
No.1516 森島恒吉    1999/12/04 (土) 00:55 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、「続・如是我聞」について、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
”肉体の自分では何事もなし得ないのだ、と徹底的に知る”には、どのようにすればよいですか?
具体的にご教示おねがいします。

[お答え1]
「正・続/如是我聞」は、私も若い頃から何度も読ませていただきました。五井先生のみ教えを短く要領
よくまとめてあるので、わかりやすく、ありがたい本です。その中に書いてある「凡夫実践五ヶ条」につ
いてのご質問ですが、ここには他力行の方法と、他力行からおのずと生ずる信念が書かれております。

五井先生は、「徹底的に知ること」「こう思うこと」と説いていますから、過去の私もそうであったよう
に、ほとんどの人々はここで、「この信念の言葉を思いこまなくてはいけない」「この信念の言葉を自分
に言い聞かせなくてはならない」と誤解してしまうのです。ところが真実は、「この信念の言葉を思いこ
もう」とする必要もなければ、「この信念の言葉を自分に言い聞かせよう」とする必要もないのです。

五井先生は「肉体の自分では何事もなし得ないのだ、と徹底的に知ること」と説いていますが、自力的に
徹底的に知ろうとする必要はないのです。「神様のみ心のままにすべてをなさしめたまえ」と守護の神霊
に全託し、その全託が深まってゆきますと、自然に「肉体の自分では何事もなし得ないのだ」と知ること
ができるようになります。つまり、神への全託の祈りから、「肉体の自分では何事もなし得ないのだ」と
いう信念が生まれてくるのです。「神様、すべてをお願いします。世界人類が平和でありますように」と
「世界平和の祈り」に全託しつづけてゆくことによって、自力否定の境地になってゆくのです。

[質問2]
”何事も自分がやるのではなく、神様がやってくださるのだ、と思う”のは、どのようにすれば、思える
ようになりますか?

[お答え2]
質問1は自力否定形表現、質問2は他力肯定形表現であり、形式は異なっても、全く同じ意味であるので
す。五井先生は同じ意味のことを、自力否定形表現と他力肯定形表現の二つに説いたのであります。

「何事も自分がやるのではなく、すべて神様がやってくださるのだ」という信念も、祈り言から自然に湧
いてくる信念の言葉であるのです。それは「神様、み心のままにすべてをなさしめたまえ。世界人類が平
和でありますように」と常に祈っていれば、そうした信念が現れてくるのです。一日の初めを「世界平和
の祈り」で始め、「世界平和の祈り」で終わるように、神に全託していれば、守護の神霊が、24時間ずっ
と自分の肉体を動かして下さるのです。神への全託心は、他人への依頼心とよく似てはおりますが、内容
はまるで違います。全託心波動は、神のみ心の中で最強の絶対力波動に変換される原理を知れば、迷わず
に神に全託できるようになると思います。

[質問3]
臍下丹田に”息がおさまる”とは、どのようなことなのですか?
”息がおさまった”のは、どのようにすればわかりますか?

[お答え3]
「臍下丹田に息がおさまる」というのは、静かに長く吸った息を、すぐに吐かないで、約十秒間ほど、臍
下丹田に気を充実させて、息を止めておくことです。そして、息を吐くときには、臍下丹田から静かに長
く息を吐き始め、息を吐き切ったら、やはり臍下丹田に気を入れて、少し息を止めます。気が頭のほうに
上がると呼吸が浅くなり、気が臍下丹田に落ち着くと、呼吸が深まり、精神が安定するのです。臍下丹田
に息がおさまった時には、体が微塵も動かない不動体になります。体が少しでもグラグラッと動いたら、
気が乱れているためです。統一中に自分の上半身が、グラッと動くか動かないかで、臍下丹田に鎮魂して
いないか、鎮魂してしているか、がわかります。しかし、「世界平和の祈り」を祈り、正座で統一してい
ると、自然に臍下丹田に息がおさまるので、自力で呼吸法を意識する必要はありません。

[質問4]
もう少し易しい、森島先生による「凡夫易行実践5ヶ条」がありますれば、教えて下さい。

[お答え4]
五井先生の五ヶ条は、凡夫易行用といいながら、まだまだ難しいですね。もう少し易しい、私の凡夫易行
道とは、「世界平和の祈り」の行法の一ヶ条だけです。

☆私の凡夫易行道………毎日一回でもいいから、「世界平和の祈り」を一生祈りつづけること。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」の大行進の先駆けとなろう!
No.1518 森島恒吉    1999/12/04 (土) 16:37 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

総合宗教の始まりである出口王仁三郎聖師の大本教、谷口雅春師の生長の家、五井先生の白光真宏会へと
宗教の系統があるわけですが、この三団体は過去に師弟関係があったものの、その教義や行法は全く異な
る内容となっております。それに対して、白光真宏会と唯一会の関係は、浄土宗と浄土真宗の関係に似て
いて、同じ「南無阿弥陀仏」を行としているように、同じ「世界人類が平和でありますように」を行とし
ております。唯一会は、五井先生ご在世中の白光真宏会と全く同じである、とも言えるのです。

五井先生の教えの特長というのは、なんといっても他力易行道であることです。守護の神霊に加護と導き
を祈り、日常生活をなんら崩さずに「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、個人の幸福も人類の平和
も同時に成就されるという易しい道です。現代の宗教の道は、すべての人々が救われる道でなくてはなり
ません。すべての人々が救われなくては、地球は滅亡してしまうからです。そのためには、なんといって
も行法が易しくなくてはなりません。「世界人類が平和でありますように」と祈れば、難しい理屈を何も
知らなくても、難行苦行を何もしなくても、個人も人類も救われるのだ、という五井先生の教えは、地球
人類に光明を与えて下さったのです。

五井先生が新しく切り開いて下さった道を、私達は、ただ信じて行じてゆきさえすればよいのですから、
これほど簡単なことはありません。「世界平和の祈り」を行じるだけでよい、という易行道であるからこ
そ、この祈りと教えは、世界に大きく広がる可能性を持っているのです。自力難行道の教えでは、一部の
上根の人には理解されても、多くの一般大衆に受け入れられることはありません。大衆に受け入れられな
い宗教であっては、その宗教がどんなに高い秀れた道であっても、広まることはありません。大衆に広ま
ることがなくては、個人の救われだけで、国や世界を良い方向へと動かす力を持つには至りません。

唯一会は、五井先生のみ教えを忠実に継承し、「世界平和の祈り」を唯一の行としており、「世界平和の
祈りを祈りさえすれば、あなたも人類も救われるのだ!」と易しい救われの道を説いているのですから、
唯一会の支持者が増えないはずがありません。食べるために、生活のために、家族を養うために、一日の
大半を費やさなくてはならない多忙な現代人にとって、何十分、何時間もかかるような行法や、聖地に行
かなくては救われないとする教えや、祈り言を数万回も唱えたり書いたりしなくてはならない、という多
行であっては、経済生活に恵まれ、時間にゆとりのある、僅少の熱心な信者は、行ない得ても、多くの民
衆はついてはゆけません。高い真理を説いて、自己を神のごとく偉く見せたい、という欲望を満足させて
いる独りよがりの宗教者は、いつしか、気がついて後ろをふり返って見たら、自分について来る者は誰も
いなかった、ということになるのです。

「世界平和の祈り」は、誰もが易しく入れて、しかも宇宙神の奥深いみ心にまで通じている道であるので
す。「世界平和の祈り」の道は、無限に高く、無限に広く、どこまで行っても果てしなく進化向上してゆ
く道であるのです。宇宙神のみ心であり、神人一如の境地でもある「世界平和の祈り」を唱えております
と、自然に花が開いてゆくように、本来の人間である神の子の姿が、自然に現れてくるのです。心は太陽
のように明るくなり、どんな困難にも挫けぬ強い勇気が満ちあふれ、見るものすべてが美しく光り輝いて
見えるようになり、万物に感謝できるようになります。

「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、自分の居る所は明るい天国となり、自分の周囲の人々に光明
を与え、すべての悪は消え、すべての悪人は善人に変わってゆくのです。自分の歩く所、自分の進む所、
すべてが光明化してゆき、世界を平和にしてゆくのです。このように「世界平和の祈り」を祈っているだ
けで、知らぬ間に、平和の使徒の働きをすることになるのです。人類にとってこんなに易しく素晴らしい
道である「世界平和の祈り」が広まらないはずがありません。必ず広まるに決まっております。私達は、
「世界平和の祈り」の大行進の先駆けとして、お祈りしてまいりましょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


祈りによる想念転換
No.1524 森島恒吉    1999/12/06 (月) 23:43 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。抜粋していただいた五井先生の短い文章の中には、宝石のような大事
な教えがたくさん含まれていますね。祈りによる想念の転換、往相と同時に還相が行われること、世界平
和の祈りは唯一の祈りであること、等があります。

祈りによる想念の転換とは、自力で悪念を善念や光明念波に転換することではなくて、守護の神霊のみ心
の中に、「世界平和の祈り」を通して、想念のすべてをお渡しすることによって、空になり、そこへ守護
の神霊のみ心の中で転換された光明波動が、自己に流れ入ってくる、ということであるのです。

病気、貧乏、悩み、辛さ、苦しみ、悲しみ、孤独、不安、恐怖、…こうした暗い言葉、悪い言葉、嫌な言
葉、消極的な言葉、人間の完全神性を否定する不完全な言葉を、自己の意思力で、善の想念に転換するこ
とは、容易なことではありません。圧倒的なほどの業想念エネルギーが、潜在意識層に蓄積されているの
ですから、その力に対して自己の意思力で対抗することは、これは不可能に近いのです。

自力による想念転換をしなくても、「世界平和の祈り」の中に、自己のすべての想念をお渡ししてしまい
ますと、「世界平和の祈り」の持つ大光明が、その業想念波動を光明波動に転換して下さるのです。これ
を「祈りによる想念転換」というのです。電気エネルギーを光に転換したり、また光を電気エネルギーに
転換することができるように、人間の想念波動もまた、業想念波動から光明波動へと転換できるのです。
それを自力でやるのは無理なので、守護の神霊のお力によって、転換していただくわけです。

日常生活の中で「世界平和の祈り」を祈っておりますと、悪い言葉を使ったり、悪い言葉を聞いたりして
も、それをいちいち自力で善の言葉に置き換えるような、そんな面倒なことをしなくても、悪い言葉は自
然に浄められて、潜在意識に悪い想念が入ってゆかなくなるのです。そうしますと、悪い言葉にいちいち
臆病になる必要がなくなりますから、悪いニュースも、ふつうの人と同じように聞くことができるように
なって、世間話もできるようになるのです。「世界平和の祈り」を祈る行が、すなわち光明思想の行であ
りまして、「世界平和の祈り」を祈る行以外に、光明思想の行は無いのです。日常生活そのままで無理な
く自然に、人間の心を明るく光明化してゆく光明思想の行とは、「世界平和の祈り」であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


霊性開発と学問知識
No.1526 森島恒吉    1999/12/07 (火) 14:23 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

[お答え]
学問知識を持っている人は、この世的な地位も高まり、世間から信用されますし、神のみ心を知性的に表
現できますから、宗教指導者として幅広い働きができますから、歴史に名を残す宗教者となるのですが、
神様のみ心深く入りこめた人は、学問知識があろうとなかろうと、無名の妙好人であろうと、同等に素晴
らしい人であるのです。学問知識の吸収と霊性開発修行の関係については、老子も、「学を為(おさ)む
る者は日に益し、道を為(おさ)むるものは日に損ず。これを損じてまた損じ、以て無為に至る。無為に
して為さざるは無し」と説いております。その老子の教えを五井先生はこのように解説しておられます。

…道をおさめていて、この世的な生活環境では損を重ねていくように見えようとも、無為の世界に達し得
た時には、この世的な枝葉末節的な学問を、如何に多くおさめたと自負する人々が、どのように沢山集ま
ったよりも、それは比べるべきもない深い広い、偉大な行為のできる人になっているのだ、というのであ
ります。無為にして為さざるは無し、になるのです。無為の境地になれば、どのような智慧も、どのよう
な力も出てくるのでありまして、その場その時、必要に応じた能力が、無為の世界、宇宙根源の世界から
流れ出てくるのです。根源世界から流れてくる智慧能力は、この世的な学問知識の比ではないのです。…

ところが、この無為の境地に達するまで、道を極めることが大変なのでありまして、この世的な損失を受
けて、霊性開発修行も途中で挫折してしまいがちなのであります。ですから、道に生きることは後回しに
して、この世的に役立つ学問知識を得ることに力をそそいでも、無理からぬことであると思うのです。た
しかに今までの本心開発法は、この世的な学問知識と両立できず、学問知識を断ち切って、道の修行に打
ち込む必要があったのですが、現在は幸いなことに、神から「世界平和の祈り」という効果的な霊性開発
法が人類に授けられまして、この世的な学問知識に力をそそぎながらも、急速な霊性開発が可能となって
きたのです。「世界平和の祈り」によって、心身の調和のとれた生活ができるようになったのです。

日常生活そのままで、「世界平和の祈り」を無理なく祈っているだけで、本心開発は自然にはかどるので
ありますから、この世的な学問知識を得ることに力をそそげる時代になったのです。「世界平和の祈り」
は、一日に一回でも祈れば充分なのですから、残りの時間は、学問知識を学び、必要な資格や技能を身に
つけ、人々や社会のために働き、充分な財力も得て、霊性開発の向上と同時に、この世の生活を向上させ
ればよろしいのです。時間的に余裕ができますから、スポーツや趣味を存分に楽しむこともできます。

但し、肝心の「世界平和の祈り」の基本的な教えが理解できなくて、「世界平和の祈り」に疑問を抱き、
途中でやめてしまったり、誤てる宗教へと外れていってしまうような心境では、このような自由な生活は
できません。最初に、「世界平和の祈り」についての基本的な宗教的知識は、しっかりと学んでおく必要
があります。そこで、五井先生のご本を読んだり、私の指導する統一会に出席して、五井先生のみ教えの
基本をしっかり学んでおく必要があるのです。「世界平和の祈り」を日々祈りつつ、この世の生活向上の
ためにも、「世界平和の祈り」を広めるためにも、この世の学問知識を身につけて下さい。特に、外国語
の習得は、今後ますます必要となると思われます。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


神の大愛を信じれば、救われる。
No.1530 森島恒吉    1999/12/09 (木) 15:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
先生の”易行道”では、「一日一回、世界平和の祈りを祈ればよい」とのことです。これは、どういうこ
とでしょうか? 一日一回で、”真の救われ(救い)”を体得するには、どうしたら良いのでしょうか?

[お答え1]
凡夫というのは、愚かで無知で、迷いの境界ある人の意味で、普通一般の人、ただの人、あたりまえの人
とも解釈できます。修行らしいことを何一つできない愚かな人が、ただ念仏一筋で往生することを、凡夫
往生といいます。そうした凡夫が救われる易しい方法として「一日一回、世界平和の祈りを祈ればよい」
と私は教えております。一日一回ならば、ほとんどの人が実行できると思います。これは神の大きな赦し
の教えであるのですから、あとは「世界平和の祈りを祈りつづけていれば私も人類も救われるのだ」と神
の大愛と絶対力を信じるだけでよいのです。難行苦行を何一つしなくても、神を信じた人は、その瞬間、
すでに救われた人であるのです。

[質問2]
五井先生は「たゆみなく祈りなさい」と説かれています。たしか法然上人は「百万回念仏を唱えなさい」
と説かれ、親鸞上人は「一回でも念仏を唱えれば良い」と説かれていた、と記憶しています。五井先生の
教え方と森島先生の教えの違いに、法然上人と親鸞上人の教え方の違いとの類似性を感じております。

[お答え2]
五井先生は、「たゆみなく祈りなさい」という教え方もされていますが、「思い出したら、祈ればいい」
という教え方もされています。それにしてもご指摘のように、五井先生と私の教え方は、教えの根本は全
く同じであるのですが、その教え方の関係は、法然上人と親鸞上人の関係に、非常によく似ております。
親鸞上人の教え方が、法然上人の教え方よりも、更に民衆の立場に近づいて易行道になっているように、
私の教え方も、同じ「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の道を説いているのですが、五井先生の教えを総
合的見地から整理し、その根本的な基本原理を抽出し、参考書のように理論化してまとめているために、
五井先生の教えよりも更にわかりやすい表現になっているのです。教科書を読んだ後に、参考書を読むと
一層理解が深まります。そして、また教科書を読み直してみると、今度は意味がわかりますから、よく記
憶できます。それと同じように、五井先生のご本が教科書とすれば、私の教えは参考書であり、試験問題
集でもあるのです。これは五井先生と私の天命の働き方が異なっているためです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


未来の幸福は、今日の祈りによって作られる。
No.1537 森島恒吉    1999/12/12 (日) 00:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

今日行われた今年1999年最後の唯一会の集会は、楽しいものでした。今日の私達のお祈りによって、来年
2000年がより良い年になることは間違いありません。未来の運命は、今日作られていることを、私達は忘
れてはなりません。今日のお祈りが、未来に幸福な運命となって現れてくるのです。皆様、唯一会の集会
でご一緒にお祈り下さって、ありがとうございました。

ケントさんのご質問ですが、政府による首都の移転は当分無い、と思います。その代わり、今後は、民間
主導によって、地方の開発がどんどん進んでゆき、地方においても都会と同じ生活環境を享受できるよう
になり、東京への人口の一極集中化がなくなってゆき、地方へと人口が分散化してゆくことでしょう。空
気も水も星もきれいな地方にいても、東京と同じレベルの大学や会社や環境が整ってくれば、地方に住ん
だほうが快適に決まっています。住宅建設会社が、地方に大規模なニュータウンを建設してゆくにつれて
東京から地方へ移り住む人が増えてゆくはずです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


救世の大光明の神々に守られている私達
No.1539 森島恒吉    1999/12/12 (日) 15:19 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさんと青空さんに、唯一会の様子を書いていただき、ありがとうございます。唯一会に参加したい
と思いながらも、不安に思っている人たちにとって、お二人の記述は大きな励ましになる、と思います。
イエスのお言葉を記述したマタイ傳、ヨハネ傳、ルカ傳によって、後世に多くの人々が救われたように、
ケントさん、青空さん、ジュンちゃんが、同じ内容を記述したとしても、感銘する箇所が人それぞれ微妙
に異なりますから、多くの読者にとっては、三人の記述それぞれが、非常に参考になるものと思います。

「世界平和の祈り」を祈りながらも、心の中では「世界平和の祈りだけでは駄目なんだ。世界平和の祈り
はもう古いやり方なんだ。世界平和の祈りよりも、もっとすぐれた方法がどこかにないかな…」と思いな
がら、「世界平和の祈り」を祈っていたのでは、「世界平和の祈り」を疑っている分、祈りの効果が薄ま
ってしまいます。私達は「世界平和の祈り」一つに全託しているのですから、「世界平和の祈り」の持つ
大光明が、私達にはいかんなく放射され、神界の明るく清々しい崇高な雰囲気に包まれるのです。

「世界平和の祈り」のひびきにのって、来年も多くの霊性高き人々が、私達の唯一会に集まってくること
でしょう。「世界平和の祈り」の大光明の力が、自然に私達を結びつけて下さるのです。私達は、ふつう
の日常生活を送りながら、「世界平和の祈り」の作って下さる光輝く道を歩んでゆくだけでいいのです。
「世界平和の祈り」の純白な光は、なんと美しいことでしょう。守護霊、守護神、宇宙神へと私達の祈り
心は一つにつながっているのです。偉大な聖者である釈尊、イエス、五井先生と、一体化できるのです。

何度も申しますように、一人で祈るよりも、二人で祈ったほうが、祈りの効果があります。二人で祈るよ
りも、十人ほどの集団で祈ったほうが、更に効果があります。「世界平和の祈り」は、個人で祈るのも結
構ですが、集団で祈るのにふさわしい祈り言となっているのです。唯一会の集会で、皆さんとご一緒にお
祈りした後の霊的なパワーの充実感は、それはそれは素晴らしい力で、肉体にも力がみなぎってきます。

これは「世界平和の祈り」が生き生きと活動しているからで、救世の大光明パワーは常に不変であるので
すが、肉体界への現れとしては、地球の業想念が消え去った分、それだけ去年の「世界平和の祈り」より
も、今年の「世界平和の祈り」のほうが、より霊力が増してきているのです。「世界平和の祈り」の光明
は、日がたつにつれて、その光がいよいよ増してきているのです。私達が「世界平和の祈り」を祈ります
と、救世の大光明の神々が、私達の器(肉体)を通して、お働きになるのです。

守護霊が加護して下さるだけで、私達は守られ、私達の運命は好転してゆくのですから、救世の大光明の
神々によって加護された私達の運命が、向上しないはずがありません。「世界平和の祈り」を祈る私達に
は、生まれた時からの親しい正守護霊や副守護霊だけでなく、救世の大光明の神々の守護力が、加わって
いるのです。自分自身の幸福のためにも、家族の幸福のためにも、日本の平和のためにも、世界を平和に
するためにも、ご一緒に「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。目に見えぬ守護霊の霊界からの加
護力と、救世の大光明の神々の加護力によって、私達は幸福で平和な人生を歩むことができるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」を妨げる業波動もいずれは消えてゆきます
No.1542 森島恒吉    1999/12/13 (月) 01:21 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

himeさん、ありがとうございます。あなたは若い女性でありながら、五井先生の教えを理解し、五井先生
の教えを学ぶことに、幸せを感じられるのですから、あなたはとても霊性の高い女性といえるでしょう。
それに加えて、明るく輝く瞳を持ち、ファッション誌のモデルになってもおかしくないほどの美貌と容姿
の持ち主です。また唯一会草創期に、私を信じ慕って集まってくれた数少ない貴重な弟子の一人でもある
のですから、自分の娘のように可愛がりたくなる、いとおしい弟子です。それにしても、他の宗教団体の
集会といいますと、中年から老齢のご婦人達が圧倒的に多いのですが、唯一会では若い女性のほうが多い
のは、インターネットによる広報活動しかやっていないことに原因があるのでしょう。

himeさんの言うように、五井先生の教えを学び、「世界平和の祈り」を祈っていると、運命が知らないう
ちに良くなってゆくのです。自分の直観が、守護霊のみ心と合致してきて、守護霊からのインスピレーシ
ョンが感じられるようになって、より良い方向へと進めるようになるのです。人間関係ががらりと変化し
て、嫌な人と会わなくてもすむようになったり、仕事や生活の環境がぐんと改善されたり、良い友人がで
きたり、悩み事が少なくなってきたり、災難や嫌な目にあうことが減ってきたり、体調がよくなってきた
り、自分でも思いがけない才能が現れてくる等、運命が少しずつ好転してくるのです。

守護霊の存在を知って、守護霊にご加護を祈り始めますと、守護霊が人間(被守護体)を非常に守りやす
くなりまして、その霊力を発揮できるようになるからです。守護霊が充分に霊力を発揮できるので、その
人間は運命が良くなってゆき、幸福な人生を送れるようになるのです。ところがその反対に、守護霊を知
らず、守護霊に祈る行為をしておりませんと、守護霊はその人間(被守護体)を守りにくくなり、前世か
らの徳を使い果たしますと、それまでの幸運は消え去り、とたんに運命が下降線をたどってゆくのです。
まるで守護霊に見放されたように、惨めで悲しく辛い人生へと転落してしまうのです。

守護神は、非常に厳しい霊的指導者で、甘えることなど少しも許されませんが、守護霊は、以前に肉体を
もって生活した経験があるために、肉体人間の悩みや苦しみなどがよくわかり、守護霊に熱心に加護をお
願いしている人は、守護霊の愛情ある霊力によって、本心開発を促進させながらも、悩み少なく痛み少な
く生きてゆけるように助けてもらえるのです。守護霊の強い守りに助けられている人は、平穏無事に生活
できるようになるのです。守護霊は、私達にとって、なくてはならない頼りになる存在であるのです。

ところで、ご質問の件ですが、或る宗教団体に入ることによって、それまでその人に働いていた守護霊が
その宗教を嫌って、パッタリと姿を隠す、ということがあります。宗教団体に入れば、守護霊がもっと活
動しやすくなりそうですが、それは正しい宗教に限られるのでありまして、誤てる宗教を行じるようにな
った場合には、守護霊はいやがって、その人から離れてしまうのです。すると、その代わりに、その宗教
団体に住んでいる邪霊が、その人の欲望に乗じて肉体を占領し、おもちゃのように使うのです。たとえ、
五井先生の目前でも、五井先生のお写真が飾ってあろうと、動物霊や悪霊が憑依する危険は、あります。
五井先生の目前で悪霊に憑依された人には、五井先生が「エイッ」と気合をかけて治しておられました。

欲望というと、「お金がほしい」という金銭欲を思う人が多いと思いますが、「私は人から神のように崇
められたい」という宗教的な想いも、ふつうの欲望の変形にすぎないのです。「超能力が欲しい」「超特
別な宇宙神の光が欲しい」「自分を偉く見せたい」「自分を感謝している人間と見せたい」「自分を人に
悟っていると見せたい」「愛が深い自分であると見せたい」という虚栄心や権力欲を持ちますと、その欲
望に合致した幽界の生物や悪霊が、その人間を操るようになりますから、宗教的な虚栄心や権力欲は、き
っぱりと捨て去らなくてはなりません。虚栄と偽善の想念は、神のみ光を一時妨げてしまうからです。

さて、ご質問の件に戻りますが、お母さまがいつも印を組んでいる部屋には、動物霊や悪霊は住んではお
りませんから、ご安心下さい。しかし、「世界平和の祈り」を妨げようとする業想念波動がありますから
その部屋には、なるべく近づかないほうがよろしいでしょう。まだまだ長い時間がかかりますが、あなた
の「世界平和の祈り」の大光明波動に浄められて、お母さまも、いつかは「世界平和の祈り」に戻って来
て下さる日がくることでしょう。「世界平和の祈り」を祈らせまいと妨害する業波動も、いずれは消え去
ってゆきます。それまで家の中で、一人静かに「世界平和の祈り」を祈っていましょう。
あなたのお母さまの天命が完うされますように、と私もお祈りしております。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「愛すること」より
No.1545 森島恒吉    1999/12/14 (火) 02:05 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

来年1月の唯一会集会は、1月8日(土)午後1時〜3時で、テキストは「愛すること」です。

………………………………………………………………………………………………………
[愛すること]五井昌久先生著・白光真宏会出版局より抜粋(一部編集)

自己のみが神の子である、自己のみが救われればよい、こういう心は神のみ心に反する心で、決して真の
信仰心ということはできません。

自己の肉体生活における様々な願望を、神に願うことも、時にはよいと思いますが、それより、もっと各
日に自己の幸せをつかむのは、そうした様々な願望さえも、消えてゆく姿として、神のみ心の中に、世界
平和の祈りと共に投入してゆくことなのであります。なぜならば、神はすべてのすべてであり、人間の生
命の根源であって、すべてはそこから生まれ出てくるのですから、あなたに必要なものは、すべて神のみ
心の中に備わっているのです。ですから、あなたの願っている望み事より、更に更に深い高い、尊い望み
事を、適えてくださることになるのです。

世界人類が平和でありますように、という祈り言葉は、そのまま人類愛の心の現れでありまして、なんの
かんのと、自己の現世利益の頼みごとをしなくとも、その人の前途は知らぬうちに開けてくるのでありま
す。世界人類の平和の祈りの後で、自己の願いごとをしてもよろしいのですが、願わなくとも救世の大光
明のひびきは、あなたの人類愛のひびきに合わせて、あなたの生活を明るいものにして下さるのです。

私は、すべてを、自己専属の守り神である、守護神様、守護霊様におまかせしておいて、ただひたすらな
る感謝の生活をしていることがよいのだ、と申しているのです。むずかしく、面倒くさいことが、深い宗
教でもあるかのように思い違えしてはいけません。また、何々の神ともっともらしい名がついているから
といって、その神様が尊いわけではありません。

神々ではない、もっとずっと低い階層の霊魂や幽波動の生物が、かなり神々のふりをして、人間の信者を
たくさんもっておりますので、この点を十分注意する必要がある、と私は常に申しているのです。そこで
そういう贋(にせ)神にとりつかれぬように、いつも自己専属の守り神である、守護神、守護霊の加護を
頼んでおくことが大事なのです。頼むというより、頼まれずとも守っていて下さるのですから、常に守っ
ていて下さることを感謝しつづけていればよいのです。

守護の神霊の中心者は、自身が守っている肉体人間を、「愛(いと)しの我が子よ」というような呼びか
けをしてきます。

智慧の必要な時、物の必要な時、その人に必要なものは、自然と神のほうから与えられるようになってい
るのです。

真実に自分を愛することのできぬ人に、なんで他を愛することができるでしょうか。

真に自分を愛するならば、一生一代の有意義な平和運動に自己の全力を挙げてもよいではありませんか。

「誰々さんの天命が完うされますように」「某さんの生命がいきいきと輝いていますように」とかいうふ
うに、祈り言にしてしまうとよいのです。それなら、いくら想っても、相手の生命を縛ることにはなりま
せん。相手のためになることになります。執着の想いを、常に祈り言に変えてしまうことが非常に善いこ
ととなるのです。

子供や近親の人が病気になったりしている場合、どうしてもその病気に把われてしまいます。愛するがあ
まりの執着になるわけです。この時も世界平和の祈りをして、この子(私の親)の天命が完うされますよ
うに、と祈りつづけているとよいのです。

どんな人にでも容易にできる大きな愛の行為、それは世界平和の祈りより他にありません。

釈尊が大法を説き、イエスが十字架上に人類の業生の身代わりになって以来、二千年以上も経った今日で
も、この現象世界は救われの方向には動いていないのは、真理があまりに高過ぎて、人類の手に届かない
ところにある、行うにはむずかしすぎることにあったのではないか、と気づかされたのです。誰にもでき
ないような真理では、とてもついてゆけない。神の法則と肉体人間きょ間に立って、人間の欠点をカバー
してくれる存在者を、私は求めたのです。そして守護の神霊の存在を、私ははっきり突き止めたのです。

言葉だけの真理を説いていても、また聞いていても、実行に移せないようでは、その教えが死んでしまい
ます。科学の世界では、実際に役立たぬものは、忽ち消滅してしまいます。

重大なる祈りということを、変に儀式化し、迷信くさくしてしまった、旧来の宗教心の誤りは、人類の進
化を妨げる、宗教的カルマなのです。

宗教によっては「欲しいものがあったら、その欲しいものを頭に描いて、この願いが叶えられる、叶えら
れる、と一心に想いなさい、そうすれば、それは叶えられます」という念力の願望達成の方法を、祈りと
して教えているところもありますが、それはあくまで念力でありまして、神のみ心によって叶えられたも
のではありません。業生の想いの力によって達成したものです。

すべてを神の方(かた)から与えられる、という基本的な生き方、これが祈りの生活なのであります。

よく「金持ちなどにろくなやつはいない」とか、「よほど悪いことをしなければ、あの権力の座は握れな
い」とか、言う人がいますけれど、金持ちになった、権力の座についた、ということは、そのこと自体、
他の人々になんらかの力が勝っていた、ということで、なんらかの力という長所があるわけです。
例えば、「仕事においてヒラメキを持ち、周囲の気をはからず行う」「実行力に富んでいる」「思ったこ
とを押し通す」というような、気力迫力の充実した人間でなければ、なかなか並はずれた地位とか、富と
かを得ることはできません。それはやはり一つの長所と見るべきで、その裏面が、「強引だ」とか、「思
いやりがない」「薄情だ」とか、言うことになるのでしょうが、やはり金があり、地位がなければ、善い
ことをするにも大きな善いことはできませんで、その長所に加えて、「愛」とか「思いやり」というもの
を、その人と反対の精神の友人や知人が補ってあげる必要があるわけです。

自己の生き方や、人類全体の今日までの在り方を冷静にみつめて、「正を取り、誤ちを捨て去ってゆく」
ように、一人一人の人間が、自己のできうる範囲で、勇気をもって処してゆかねばなりません。

「善悪混交の想念を、自力で善のみの想いに変えろ」などという、できそうにもないことを、言うのでは
ありません。善悪混交の想念のままで、そのすべてを消えてゆく姿という意識をもって、世界平和の祈り
の中に、その想念すべてを投入してしまう祈り言の連続の日々をつづけてゆけばよいのであります。

私は、世の教祖のように「我は神なり」といった態度で、尊大ぶって人に接することはありません。

神仏のみ心に反する権力欲、名誉欲のようなものを、宗教団体が助長するような在り方ではいけない。

頭の知識だけで「人間は神の子である」「病気だの不幸だのというものの無い完全円満な存在だ」と知っ
ても、これは真実心から知ったわけではないので、口で人に言ってみたり、自分で一生懸命、表面の心に
言って聞かせたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三界を経巡っているのですから、実際
の行為としては、神仏の行為になるわけがないのです。

うっかりそんな生き方に慣れますと、他の生き方をしている人が、皆愚かな人に見えたり、自分の生活に
病気や不幸が現れたりすると、他人にはひた隠しにしようとして、自己を幸せそうに見せようとします。
常に、自己の心の底を割って、人と相対することのできぬ、偽善的な人物になってきてしまいます。みせ
かけの多い人間になってしまうのです。

その反対に、「みんな、あなたの心の持ち方が悪いのですよ」などという教えにふれますと、いつでもい
つでも自分を責めつづけ、また他人の病気や不幸を見ると、「あの人、心の持ち方が悪かったのよ」とい
うように、同情するより先に、その人の心を非難するような想いが自然に出てきて、常に自他の精神分析
をして生きていなければならなくなってしまいます。

まして、前者の教えと、後者の教えとが一緒に組まれた教えについた人などは、或る時は「完全円満論、
神の子論」になり、或る時は「精神分析論者」になって、二重の把われをもって、宗教の道を行かねばな
らなくなります。

いくら「神の子完全円満」と唱えていても、その人にかえってくるものは、その人の心境でしかありませ
ん。ただ口先で「人間神の子」をやっていたところで、たいしたことはない、と言うのは、肉体的な自己
がいつまでもそこにいて、神仏としての自己のいる場所が、そういう人には無いからであります。

「人間神の子、完全円満」を唱えるなら、自己が宇宙と一つになるほどの気持ちで、神の完全円満性の中
へ、自己をぶちこんでしまわねばなりません。そこには肉体人間の「願いごと」など、あるはずはありま
せん。なぜならば、「その時から、その人は、完全円満でなければならぬ」筈だからです。だから私は、
そんなむずかしいことを言ったり、想ったりするより、世界平和の祈りの中に投入してしまうことを教え
ているのです。(※わかりやすくするために、一部分、書き直しました)

人間は、人間の力でない、あらゆる自然の要素の恩恵にあずかって、生かしていただいているのに、なん
で「自分たちの力で生きてゆく」「やってみせる」などという、感謝を知らぬ、生意気な口がきけるので
しょう。

「世界人類が平和でありますように」…世界中の合言葉にふさわしい言葉です。

現代における宗教の在り方は、どちらにも片寄らぬ中庸の道でなければならぬ、と思います。

「神」という言葉を使わなくとも、「世界人類が平和でありますように」というような広い人類愛から生
まれ出た言葉の中に、力の無いわけがありません。実際に、神の大光明は、この祈り言葉の中で輝きわた
っているのであります。個人の現世利益のために祈っても、そのまま世界人類のための祈り言にもなって
いるのであります。個人人類同時成道の祈り言であることは、確かな事実なのです。
………………………………………………………………………………………………………
ちょっとだけ抜粋するつもりが、ご本の最後まで抜粋してしまいました。(^_^) 皆さんも、五井先生の
ご本を読んでくださいね。多くの方々に、五井先生の教えを理解してもらいたいものです。
"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


人類の業想念の消えてゆく姿
No.1553 森島恒吉    1999/12/16 (木) 03:28 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。

[お答え]
放射能汚染による胎児への影響は、目をそむけたくなるほど悲惨なもので、慰める言葉も出ません。その
ような状況を見て、守護神さまは何をお考えになっているのだろうか、と疑問に思うのは無理もありませ
ん。しかし、神が悪を人間に与えるわけがないのですから、放射能による障害も、人類の潜在していた業
想念が表面に現れて消えてゆく姿と見るべきでありまして、障害を受けた赤ちゃんは、その犠牲になって
しまったわけです。この場合の赤ちゃんは、各家の先祖の業想念の浄めだけでなく、国家的人類的な業想
念の浄めを、一挙に引き受けてしまったのです。かといって、「自己の魂にとって大きなチャンスだ」と
自己の利益を計算して生まれてくるわけではありません。損得感情を持つ人が実行できるほど、待ち受け
ている運命は、そんな生易しい運命ではありません。何も報いを求めない無償の愛の心で、犠牲となるの
です。このように国家や人類の業想念を浄めるために生まれてくる赤ちゃんもいるのです。その赤ちゃん
が短い肉体生命を終えると、高い霊界へと昇ってゆくのです。このような放射能汚染も、人類の業想念の
消えてゆく姿と見て、宗教者は「世界平和の祈り」によって、地球環境を浄化して天命があります。誰が
悪い、というのではない、みんな人類の過去世の業想念の消えてゆく姿であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


正直の頭に神やどる
No.1564 森島恒吉    1999/12/24 (金) 17:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

皆さん、ありがとうございました。ケントさんの富士登山のお話は興味深かったですね。HSKの青年の
誰かが、お馬さんに乗って下りた、というお話には、笑わせられました。「特別訓練をする」という目的
でHSKに入ったはずなのに、ちょっと苦しいからといって逃げてしまうような、そんな弱い心境ならば
最初からHSKに入らなければいいのです。たいして苦労もしないで、宗教的な地位を得たい、人々から
崇められたい、という気持ちは、権力欲、物質欲、名誉欲と同じ業生の欲望の変形にすぎないのです。

人間というのは、いさぎよさが大事ですね。HSKに入り、課題をまじめに実行しようと努力して、その
結果、その課題を達成できなかったら、「私には、できませんでした」と素直に発表すればよいのです。
一生懸命やろうと努力して、できなかったら、できなかった、と正直に話せばよいのに、それを、自分を
実力以上によく見せようとして、ごまかそうとするから、表面的には課題を達成したように見せても、守
護の神霊は、不合格とみなすのです。肉体人間をごまかせても、守護の神霊をごまかすことはできないの
です。守護霊は、霊の目で常に被守護体の人間を見守っているのですから、誰もその場にいなくても、誰
からも見られていなくても、守護霊は、あなたをじっと見ているのです。

守護霊は、不正をする人間を嫌います。もし、自分の守っている人間が、道徳的倫理的に不正をしたり、
自分をごまかして欺瞞の行為をする場合、加護の力を弱めてゆき、徹底的にこらしめようとするのです。
表面の成功、不成功が、問題なのではありません。自分を正直にさらけだせたか否かが、問題であるので
す。失敗は恥ずかしいことではありません。自分を実力以上に見せかけようとごまかす、自己隠蔽するこ
とが、恥ずかしいことであるのです。自分に正直であること、それが神性開発の第一歩であるのです。
それは「正直の頭(こうべ)に神やどる」という古いことわざの通りなのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


批判をしたら、その人のためにお祈りしましょう。
No.1570 森島恒吉    1999/12/28 (火) 13:57 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

靖子さん、初めまして。この投稿欄に書き込みをされる時には、「世界人類が平和でありますように」の
合言葉を書いて下さるようにお願いいたします。また、白光真宏会の講師を批判されるのは結構であるの
ですが、批判をされた後には必ず、「誰々さんの天命が完うされますように」という祈りを書き加えて下
さい。批判と悪口の違いは、その人を愛して言っているのか、その人を愛することなく言っているのか、
の違いです。人の批判をしたら、必ずその人の天命の完うを祈る、というように習慣づけてまいりましょ
う。愛の祈りが根底にあってこそ、批判は生きてくるのです。

あなたの天命が完うされますように