森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


かくして大光明思想は完成した
No.1202 森島恒吉    1999/10/08 (金) 00:37 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

【想念の法則、心の法則、因果法則は同じ意味で、業の法則にすぎない】

「想念の法則」を利用して運命を改善しようとする人は、自分の未来を「こうありたい」「こうなりた
い」「こうしたい」と強く念願し、希望しつづけるならば、想いの法則の通り必ず成就するものなのであ
る、と説いています。これは昔から仏教で説かれていた因縁因果の法則を、「想念の法則」とか「心の法
則」という新しい言葉で言いかえたにすぎず、これらは神の法則ではなく、業の法則にすぎないのです。

【願望がすべて成就されることはない】

ところが、想念法則論者が、いくら「あなたは成功するのだ」と説いても、願望が成就される人もいる反
面、願望が成就されない人も出てまいります。現実には、病気や自己や災難にあっている人がいるわけで
す。その人たちは「私は健康だけを願っている、事故を欲してはいない、災難などにあいたいとは思って
いない。だけど、病気です。事故にあいました。災難にあいました」と主張します。

【想念法則論者は、相手のせいにして、相手を責める】

すると、想念法則論者は、「あなたが、希望の目標を実現できないのは、目標が実現される前に、待ちき
れなくて目標を投げ捨ててしまっているか、または、成功するという信念を無くしてしまったか、成功す
るための行為を棄ててしまったか、によるのです」と答えます。つまり、「あなたが成功できないのは、
あなたの信念が弱いからなのだ」と相手のせいにするのです。

【想念法則論の成功法則は、恐怖法則に一転する】

さらに、「何かを恐れれば恐怖の対象を創造してしまう、という想念の法則によって、あなたが、病気、
事故、災難を恐れているから、あなたは病気、事故、災難にあうのだ」と説くのです。最初は、因縁因果
の法則の善の面だけ、成功法則の面だけを説いていても、現実の失敗に対して、このように「恐怖は恐怖
を呼ぶ」という想念の法則の悪因悪果という暗黒面を、説明しないわけにはゆかなくなるのです。とどの
つまりは、「あなたが病気になったり、事故や災難にあったりするのは、あなたが悪いのだ」と人を責め
ることになってしまうのです。

【想念法則論で業想念を「無い」と否定する方法】

そして、このままでは人を責めることになってしまう、と気づいた想念法則論者は、ひたすら善念だけを
徹底して潜在意識にたたきこむ、という方法を考えます。そのために、病気、事故、災難といった否定的
な言葉や想念を、否定して打ち消そうとする方法を、思いつきます。たとえば、「病気は無い」「事故は
無い」「災難は無い」と否定する方法です。しかし、病気、事故、災難という言葉を使っているのですか
ら、いくら「無い、無い」と唱えても、否定的な言葉がつきまといます。

【想念法則論で真理の言葉を"I am 〜"と宣言する方法】

そこでもっと良い積極的な方法はないか、と考えて、「私は完全に健康である」「私は安全である」「私
は幸福である」という真理の言葉を宣言する方法を、思いつきます。「そうだ、これ以上の方法は無い。
病気、事故、災難は消えてゆく姿、と否定しているうちは、まだ、病気、事故、災難という言葉を使って
いるから、完全な光明思想にはなっていない。真理の言葉を宣言してこそ、完全な光明思想になるのだ」
と法則論者は考えるのです。

完全な健康、完全な安全、完全な幸福、完全な富、完全な能力、これらを一つの言葉に言い表すと、「私
は完全である」"I am a Perfect"すなわち「私は神の子である」"I am Son of God"という言葉になり
ます。そこで、「私は神の子である、私は神の子である」と宣言し唱えつづけていれば、想念の法則によ
って、神の子の完全な人間が現れてくるはずだ、と考えるのです。

【業波動の法則圏内で真理が現れることはない】

しかし、私から見ますと、そのような法則論者は、真理に把われた迷妄者としか映りません。「私は神の
子である」と宣言したり、「私は完全である」と唱えても、そうやすやすと神の子の姿が顕現されてきた
り、完全な人間になったりは、いたしません。なぜかと言いますと、業想念波動は、そんなに甘いもので
はないからです。どんなに善念を思っても、業波動の圧倒的な力で、善念を押しつぶしてしまうのです。
想念法則論者は、いかにも簡単に「私は神の子である、と宣言すれば神の子になれる」「私は完全である
と唱えれば、私は完全になれる」と説きますが、そのように説いている指導者自身、何年やっても、神の
子になっていませんし、完全な人間にもなってはいません。「こうしたら、たぶん、なれるだろう」と推
測してやっているにすぎないのです。私は、はっきり断言しますが、そのような方法では、決して神の子
にはなれません。完全な人間にはなれません。業想念の力を無視した、自力の方法では、神の子にはなれ
ないのです。

【神の子論を説いた宗教者が、新たに想念法則論を説く場合】

初めは「神の子論」を説いた宗教者が、現実の業の存在を実相論から「無い、無い」と説いても、多くの
人々は「業は無い」とは思えないのですから、「神の子論」「実相一元論」では説明しきれなくなって、
「想念法則論」を持ち出して、「神の子論」と「想念法則論」の二元論になってしまうのです。「想念法
則論」は、善因善果、悪因悪果が存在していて、人間は善の行為をするけれども、悪の行為もする存在と
見るのです。つまり、「人間は完全な神の子ではない」という前提が、「想念法則論」にはあるのです。
いいかえれば、「人間は完全な神の子ではない」と思っているから、ことさらに「悪いことを思うまい、
善の想念を思おう」とするわけです。完全な神の子が、悪いことを思ったり、悪いことをするわけが無い
からです。したがって、「神の子論」と「想念法則論」の二つを合わせて説けば、矛盾した二元論になっ
てしまうのです。

【想念法則論を説いた宗教者が、新たに神の子論を説く場合】

その逆に、初めは「想念法則論」だけを説いていた宗教者が、善の想念を念じるうち、「人間は神の子で
ある」という真理の言葉を念じるように、教えてゆく場合もあります。しかし、低い想念波動の世界の中
で、「私は神の子である」と念じることによって、神の子になろうとしているわけですから、いつまでや
っても、やはり神の子にはなれません。想念の法則は業生の法則であるのですから、神の子にはなれない
のです。かえって、偽善者になってゆき、神の子の本心を厚い偽善の皮で覆っていってしまうのです。

【自力による想念変換法と他力による想念変換法】

暗黒想念から積極想念へと想念を転換しようとするのですが、次々と押し寄せる業波動に呑み込まれて、
自力で想念を転換することは、不可能といっていいくらい、むずかしいことなのです。私の「想念波動変
換原理」とは、自力で業想念を善想念に変換するのではなくて、守護の神霊のみ心の中で想念を変換して
いただく方法です。「神様、お願いします。この想念をお浄めして下さい。世界人類が平和でありますよ
うに」とささげ入れるだけでいいのです。電気洗濯機に、服を投げ入れれば、あとは自動で服が洗濯され
るように、守護の神霊のみ心の中で、業想念波動が光明波動に変換されて、「ありがたい」という光明波
動となって、私たちに還ってくるのです。

【光明思想とは積極思想でも真理偏重思想でもなく、理想と現実をつなぐ中庸光明思想】

五井先生の光明思想とは、想念の法則を利用した積極思想ではありません。無理無理に真理の言葉を宣言
する、理想に偏り、現実を無視した、神の子論でもありません。五井先生の光明思想とは、理想と現実を
一つに結んだ中庸の神の子論であるのです。それがすなわち、「消えてゆく姿」の教えであるのです。
「業想念は現実には存在している」と現実を認めた上で、「しかし、この現在の業想念は、時間がたてば
消えてゆくのであり、未来には一切無くなるのだ」と時間の要素を加えて、無理なく業想念を否定するの
です。このように「消えてゆく姿」という言葉で業想念を否定すれば、「業は無い」というような無理を
することなく、現実に正直に生きられて、しかも理想にも矛盾しない中庸の生き方ができてくるのです。

五井先生の光明思想には、「想念の法則」「心の法則」を利用した教えは、一切ありません。また「業は
無い。悪は無い。病気は無い、地震は無い。災害は無い。不幸は無い。私は完全である。私は神の子であ
る」というような「理想に片寄った神の子論」でもありません。五井先生の光明思想は、「業は消えてゆ
く姿」と時間の経過と共に、徐々に業を否定してゆき、未来において人間本来の神の子の姿が現れてくる
のだ、と説いているのです。ですから、現実と理想をつないだ光明思想と言うのです。この中庸の光明思
想こそ、自分を責めず、人も責めず、おのずと自分を赦し、人を赦せて、少しも力む必要がなく、偽善と
ならず、正直に、楽に、明るく、生きることのできる素晴らしい光明思想であるのです。

【「世界平和の祈り」の出現は、中庸光明思想を、さらに大光明思想へと完成させた】

その「消えてゆく姿」の業想念中庸否定法に加えて、守護の神霊に向かって「世界平和の祈り」を祈れば
救世の大光明によって、業想念を浄めていただき、私たち人間の本体を顕現していただけるのですから、
五井先生の光明思想の行法としては、「世界平和の祈り」一つだけであるのです。五井先生の光明思想の
具体的な実践法とは、「世界平和の祈り」を祈ることであり、「世界平和の祈り」以外に、光明思想の行
法は不要であり、「世界平和の祈り」が、神の子の本体を顕現する最も効果的な方法であるのです。

「私は神の子である」と、ことさらに言わなくとも、黙っていても、純粋な愛の行為をしている人は、神
の子を顕現している人です。「神は愛なり、愛は神なり」であるからです。それと同様に、人類愛の祈り
である「世界平和の祈り」をしている人は、ことさらいわなくとも、神の子の行為をしている人であるの
です。「世界平和の祈り」をしていれば、偉ぶらず、偽善者ぶらず、嘘をつかず、正直に、力まずに、明
るく、自然に神我一体になってゆくのであります。このように救世の大光明によって、人類の想念を光明
化するところから、五井先生の光明思想を、私は「大光明思想」と名付けているのです。

皆様の天命が完うされますように


願わずして与えられ、為さずして成る、祈りの道の奇蹟
No.1203 森島恒吉    1999/10/09 (土) 07:52 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[質問]
はじめまして。私は、白光真宏会の会員で、大学生です。正直なところ、今一つ、会員としての実感がな
く、情けないように感じている所です。五井先生の御教えには、小学4年生から触れています。会の主旨
が、「実益を追求する」というようなものでないことは、理解しているつもりですが、種々の行事の際、
「ただ一つのお願い」が叶ったことはなく、なんとも心細い限りです。その結果について、自分にどのよ
うな解釈を与えれば良いのかが分からず、困惑しております。「努力不足だ」と言われたこともあるので
すが、自分なりにはやったつもりです。それで無理というならば、別にお願いをしなくても、結論は一緒
ではないかと、落胆したこともあります。自分に確信がなくては、世界に向ける目も頼りないものになる
のではないでしょうか?
そんなことを考えている毎日です。私はまだ「世界平和だけが生甲斐です」とは言うことができません。
森島さんには今、個人的な願望がありますか?また、あるとすればその実現は順調と言えますか?
初メールにも関わらず失礼ですが、よろしければ御意見をお聞かせ下さい。

[お答え]
「自分の願いを強くイメージしなさい。皆様の願望は叶えられます。必ず、願望は成就できます。私は成
功できる、私はやってみせる、と思いなさい。皆様の願いは、五井先生に届けられました。皆様の願いは
叶えられます。おめでとうございます」というような願望成就のためのイメージ法は、祈りではなく、神
様のみ心でもなく、念力による願望成就法といいまして、業想念に執着させる誤った教えであるのです。

もちろん、五井先生は、そのような教え方を一切説いてはおりません。むしろ五井先生は、「念力は、宗
教本来の祈りとは違ったもので外道であり、誤てる宗教である。祈りと念力を同等に説く宗教者は、神を
冒涜する者である」と強く反対なさっているのです。たとえ、念力によって願望が成就されたとしても、
それは一時的に肉体感情が満足するだけでありまして、わがままといわれる小我が強くなってしまうだけ
なのです。ですから念力をやっている人は、共通して、我(が)が強いのが特徴なのです。

念力による成功は、神様から与えられるものではなく、自分勝手な執着念による結果でありますから、た
とえば一つの物を他人と奪いあえば、そこに他人との争いが生じます。また、念が弱まれば、念の強い相
手には常に敗北するようになります。そのために念を強めようと、緊張し、力んで、心の休まる暇がなく
なって、たえずイライラといらだつようになってしまうのです。しかも、いずれ念力が弱まる時がきます
と、何を念じても叶えられなくなってしまい、それまでの成功や安心感が一挙に崩れて、想いが千々に乱
れてしまうのです。あなたのように、どんなに願望をイメージしても念じても、その願望が一つも成就せ
ず、かえってガッカリして落胆する人もあります。

まず、祈りと念力は、まったく違うものであることを知らなくてはなりません。祈りとは、神様に自分の
運命をすべてお任せして、神様のみ心のままになさしめていただく、という方法です。自分の欲望や願望
を、神様のみ心の中に投げ入れて、自分の欲望や願望を無にすることであるのです。ですから、小我を強
める念力とは、まるで反対の生き方であるのです。神様は、愛であり、智慧であり、神様は、あなたを生
み育てて下さったのです。あなたに必要な物質や環境は、あなたがことさら願わなくても、とっくにご存
じであるのです。あなたが、神様に運命を任せ、神様のみ心のままに生きれば、あなたに必要なものは、
すべて整えられるのです。小我を棄て、神様のみ心にすべてをお任せすることが、祈りであるのです。

「森島さんには今、個人的な願望がありますか?また、あるとすればその実現は順調と言えますか?」と
いうご質問ですが、私には個人的な願望は一つもありません。私の願いは、ただ一つ「世界平和実現」で
す。私の心にあるのは、「神様から授けられた天命を完うせしめたまえ」という祈りだけであるのです。
「神様にとって、この世に私が必要ならば、私を生かしたまえ。されど、もし、必要なくば、神様のみ心
のままに、いつでも天に私を召したまえ」
「神様のみ心のままになさしめたまえ」
と、私は神様にすべてをお任せして生きているのです。

「できると思わなくては、何事もできない。欲しいものを念じなくては、何事もできない。目標を達成し
ようと思わなくては、何事も成功できない。何も思わないで、何もできるはずがない」と思っている人が
多いのですが、私は神様に全託していて、何も願ったりしませんが、必要なものはすべて与えられていま
す。何も念じてはいないのに、私に必要なものはすべて与えられているのです。願うことなく与えられ、
欲することなく得られ、歩かずして導かれるのです。「こうしよう、ああしよう」とか「こうなりたい、
ああなりたい」というように目標実現をイメージトレーニングしているわけでもないのに、何も思わずし
て何も念じることなくして、私に必要なものはすべて与えられ、何も為さずして成功するのです。

これが祈りの道であり、神のみ心にかなった安心立命の道であり、祈りの奇蹟なのです。それに対して、
念力の道は、正しい宗教の道ではなく、神のみ心から外れた道であり、どこまで行っても不安や恐怖がな
くなることはありません。念力の道の行き先は、絶望と落胆の境遇が待っているだけなのです。一時的な
念力による願望成就の成果に酔いしれて、祈りの道から外れてはいけません。それはちょうど競馬の馬券
を買って、たまたま大儲けした人が、その喜びを忘れられず、お金をつぎ込んで破産してゆくようなもの
です。念力の迷いの世界に踏み込んだら、そこから抜け出すことは容易ではないのです。

あなたの場合は、まず五井先生のみ教えの基本に戻って、「世界平和の祈り」一念の生き方をなさるよう
にお薦めいたします。念力による願望成就法は、すべて捨て去って、神様に自己の運命をすべてお任せし
てゆく生き方をするのです。神様の絶対的な力と深い愛を信じるのです。あなたは、神様に愛されている
のです。神様は、あなたに必要な物は、すべてお見通しなのです。神様は、あなたを生かそうとして下さ
っているのです。神様は、あなたを幸せへと導いて下さっているのです。その神様に、自己の運命を一度
すべてお任せして生きてゆくのです。神様に全託する具体的な方法が、「世界平和の祈り」なのです。何
も願わずとも、何も念じることなくとも、「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、あなたに必要な物
は、すべて与えられるのです。あなたが為すべきことは、ただ一つ、神様に全託することであるのです。

皆様の天命が完うされますように


途中で心境が転落することがあるのか?
No.1205 森島恒吉    1999/10/09 (土) 23:45 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

オサムさん、コメントをいただき、ありがとうございます。
Aさんからのご質問にお答えします。

[質問]
「世界平和の祈り」をしている人でも、途中で心境が転落することはあるのですか?

[お答え]
大悟した人は、途中で迷うということはありませんが、小悟の人は、さまざまな誘惑や他の思想に影響さ
れて、途中で心境が転落することがあります。「世界平和の祈り」を祈っていた人でも、他の行法をやる
ようになれば、それは「世界平和の祈り」を否定したことと同じであり、迷いの証拠であるのですから、
心境が落ちてしまうのです。「世界平和の祈り」を祈っているかぎり、心境が向上することはあっても、
逆行することはありません。「世界平和の祈り」以外の余計な誤った行法は、しないことです。

皆様の天命が完うされますように


「世界平和の祈り」だけを祈っているのは、今や唯一会だけです!
No.1217 森島恒吉    1999/10/12 (火) 00:07 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ランランさん、はじめまして。ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問]
どんな宗教をやってても、「世界平和の祈り」さえしていれば良い、と聞いていたのですが、違うので
しょうか?

[お答え]
ランランさんのご質問は、立場によって、お答えの仕方が異なります。WPPSや五井平和財団の立場に
立てば、「その通り」とお答えすることになりますが、一つの宗教団体である白光真宏会の立場に立てば
「どんな宗教をやってても良い」というような無責任な放任した態度を取るはずがありません。「どんな
宗教でも良い」ということになれば、白光真宏会など存在しなくても良い、ということになります。

唯一会は、WPPSや五井平和財団のように「世界人類が平和でありますように」の一言だけを浅く広く
普及する、という役目の団体ではありません。唯一会は、宗教団体として、五井先生の教義を徹底的に深
く掘り下げて、教義の理解に努めると共に、「世界平和の祈り」の行法を守り、五井先生ご在世の頃のご
指導法を後世に継承する天命があるのです。浅く広く広めたり、ノーベル平和賞を受賞したりするのは、
WPPSや五井平和財団におまかせして、唯一会は、五井先生の教義を伝授する奥の院になるのです。

唯一会では、WPPSや五井平和財団と異なって、「世界平和の祈り」の全文を唱えます。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様 ありがとうございます
守護神様 ありがとうございます

今や、この「世界平和の祈り」だけを祈っている宗教団体は、唯一会だけなのです。

どの宗教団体を選ぶのも、どの平和活動団体を選ぶのも、個人の自由であり、他人に強制されてはなりま
せん。その意味では、どの宗教をやっても良いのです。しかし、「世界平和の祈り」の意味が真実に理解
できるようになれば、同時に幾つもの宗教団体に入会する必要はなくなるのではないでしょうか。

あなたの天命が完うされますように


守護霊と守護神のお働きについて
No.1225 森島恒吉    1999/10/13 (水) 00:10 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

道徳経56章さん、はじめまして。おもしろいニックネームですね。今までのニックネームの中で最高傑作
ですよ。ちなみに、知らない人のために紹介しておきますと、老子道徳経56章には、「知る者は云わず、
云う者は知らず」という教えや、「其の光を和らげ、其の塵に同ず」という和光同塵の教えがあります。

[質問]
どうして五井先生は守護神の指導を受けていたのに、森島先生は守護霊の指導を受けているのですか?

[お答え]
これも、ご質問者の頭脳知識の中に、断定的に自分で思い込み、自分で決めつけている誤解が、根底にあ
りまして、その上でのご質問ですから、ご質問の意味がわかりにくくなっているのです。もう少し具体的
に、何を尋ねたいのか、を書いて下さい。とりあえず、わかる範囲でお答えしましょう。

まず、「五井先生は守護神の指導を受けていた」とあなたは書いていますが、どうして、そんなに断定的
に言うのでしょう。あなたは、ご自分の思い込みで断定的にものを言う癖があるんですね。

「天と地をつなぐ者」という五井先生の自叙伝に書いてありますように、五井先生の霊修行をすぐ近くで
助けたのは、五井先生の少年時代からの親友の渡辺貞男さんと、五井先生のすぐ下の弟さんでニューギニ
アで戦死したことになっていた五井五郎さんという、二人の守護霊だったのです。そして、守護神として
は、修験道の開祖といわれる役の行者(えんのぎょうじゃ)が、五井先生を導いたのです。

このように、守護霊と守護神は一体となって、私たちを導いて下さっているのです。宗教家の中には、
「私は守護神の指導を受けている」と説いている人もいますが、それは自分を偉そうに見せたくて、そう
言っているだけなんです。「自分には、偉い神様がついているから、私は偉いんだ」と口では言わなくて
も、心の中では、そう言っているわけです。自分をもっと偉そうに見せたくて「私は宇宙神から指導を受
けている」と言っている宗教家もおります。そうした宗教家は、すべて偽物と思ってよろしいのです。

宇宙神が、肉体人間に直接、語りかけてくることはありません。相手の人間に神示を伝えたり、霊感を与
える場合には、必ずその人の守護神を通し、次に守護霊を通して、働きかけてくるのです。その人の守護
神や守護霊の許可がなければ、いかなる神霊といえど、相手にメッセージを送ることはできないのです。
たとえば、神霊となった五井先生が、私たちにインスピレーションを伝えてくる場合には、必ず私たちの
守護神、守護霊を通してから、インスピレーションが伝えられるのです。守護霊には、それだけの権威と
権限が与えられているのです。守護霊は、守護神よりも低い、と一概に考えてはなりません。神様のお役
目がそれぞれ異なるだけで、どちらが偉いとか、偉くないとか、勝手な尺度で計ってはなりません。

五井先生は、守護神にだけ指導を受けていたのではありません。守護霊からも指導を受けていたのです。
私も五井先生と同様に、守護霊からも守護神からも、ご指導を受けているのです。肉体というのは、器な
んです。ある時は、守護霊が教えを説く時もありますし、ある時は、守護神が私の肉体に入って、厳しく
教えを説く場合もあります。宗教家によっては、片方しか説いていない人もいますけれど、守護霊と守護
神の両方の神霊が、どうしても必要なんです。守護霊だけで良い、ということもなければ、守護神だけで
良い、ということもないのです。私たちは、「守護霊様、ありがとうございます。守護神様、ありがとう
ございます」と守護霊と守護神の両方に感謝しなければならないのです。

皆さん、守護霊というとバカにしている人が結構いるのですが、五井先生がいつもおっしゃっていたよう
に、この肉体界のどんなに偉大な聖者よりも、たとえ最低の守護霊であったとしても、守護霊のほうが偉
いのです。ですから、守護霊をバカにしないで、謙虚に守護霊のご指導を受けようとする姿勢が大切なの
です。あなたの一番身近にいて、あなたの苦しみや悩みを一番理解しているのは、あなたの守護霊にほか
なりません。まず、感謝しなければならないのは、あなたの守護霊なのであり、あなたの守護神であるの
す。守護霊と守護神とは切っても切り離せない間柄なのですから、守護霊を低く見たり侮ったりせずに、
守護霊と守護神の両方に感謝を捧げることが、私たちのなすべきことであるのです。

皆様の天命が完うされますように


「世界平和の祈り」は神界のひびきである
No.1226 森島恒吉    1999/10/13 (水) 00:48 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

道徳経56章さん、ご質問をありがとうございます。

[質問]
霊界の住人が、神界の様子を知ることはできるのでしょうか?

[お答え]
霊界といいましても、数限りないほどの段階の世界がありまして、ご質問の場合は、霊界の下層に住んで
いる霊人であると仮定します。人間は、本体が神界にありまして、各人に「本心の座」というのが神界に
あるのですが、霊界では、その人の現在の心境に応じた世界に住むのでありまして、心境が上がらなくて
は、現在よりも少しでも高い霊界へと昇ることはできず、神界の様子を知ることはできません。

但し、例外があるのです。私たちが「世界平和の祈り」を祈っておりますと、五井先生と守護神のお導き
によって、一度自分の「本心の座」へ連れて行って下さるのです。「ここが、あなたの本来の住む場所な
のですよ」と五井先生と守護神に教えられてから、再び修行の場へと帰されるのです。そうすると、自分
の未来に住む神界の様子を知っているから、どんな修行場も、楽に過ごせるのです。

肉体界にいる私たちが、神界の様子を知るには、「世界平和の祈り」を祈ることです。正座瞑目してから
「世界平和の祈り」を祈り、統一に入りますと、私たちの魂が、守護霊守護神に導かれて、肉体界から幽
界、霊界へと、しだいに上昇してゆくのです。そして、統一修行を積んでゆきますと、最後には神界の自
分の本心の座に統一することになるのです。そうなりますと、肉体界にいながらにして、霊界のこともわ
かり、神界のこともわかるようになるのです。その神界の最高境地は、「世界人類が平和でありますよう
に」という祈り言そのものであるのです。したがって、「世界平和の祈り」を祈っている私たちは、肉体
界に生活していながら、魂は神界の愛と感謝の境地に住むことが可能なのです。

皆様の天命が完うされますように


誤った宗教への批判は神のみ心です
No.1228 森島恒吉    1999/10/13 (水) 15:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように。

らんらんさん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
「他の批判は神の完璧さを疑っている、自我のある状態」と聞いていますが、どうなのでしょうか?

[お答え1]
昌美先生は、インドのカースト制度を、「あんなものは無くさなくてはいけない」と批判されていました
が、私は、ヒンズー教の悪口を言った覚えはありません。

五井先生の教えには、「他の批判は神の完璧さを疑っている、自我のある状態」という教えは、ございま
せん。あなたの信仰しているヒンズー教の教えなのか、白光真宏会の友人の教えなのか、どなたからお聞
きになったかは知りませんが、それは五井先生の教えではありません。

あなたが、「他の批判は神の完璧さを疑っている、自我のある状態」という教えを信じることは、あなた
のご自由ですが、それならば、私に対する批判は、やめたらいかがでしょうか。あなたが、その教えを本
当に守るつもりならば、私に対する批判もしないはずではありませんか。「批判するな」というあなたの
ご意見も、私に対する「批判」なのです。あなたの言動は、矛盾しているではありませんか。

これからは、五井先生の教えについて述べますが、信仰とは、無批判な人間を作ることではありません。
信者を無批判にさせることは、個人の自由を認めない共産主義の権力者や独裁者と同じで、邪教の教祖が
使う手なのです。そのほうが信者をあやつりやすいからです。正しい信仰は深まれば深まるほど、本心が
開かれてきますから、正しい宗教と誤てる宗教の区別がついてきて、批判力が強まってくるのです。この
批判力は、業想念から湧いてくる悪口とは違って、相手の誤った業想念を浄め去る力があるのです。批判
と悪口は、似てはいますが、本質的に全く違うものであるのです。批判とは、本心の働きであり、悪口と
は、業想念の働きであるのです。本心から出る批判は、神のみ心であり、業想念を浄めるのです。

[質問2]
「世界平和の祈りが唯一、最高の祈りだ」と仰っていますが、それ以外の祈りはどうなるのでしょうか?
もし「世界中の人が平和で暮らせますように、守護天使様、神様どうぞ見守っていてください」と祈った
ら、その祈りは、世界平和の祈りに劣る祈りになるのでしょうか?

[お答え2]
日本国民においては、何人においても、自由に信仰する権利、信仰の自由の権利があります。あなたが、
何を信仰して、どんな祈り言で祈ろうと、それはあなたは自由なのです。

私は「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」と主張しておりますが、そう主張することは、私の自由
であると共に、また「世界平和の祈りは唯一最高の祈りではない」と主張することも自由なのですから、
そう思っている人は、「世界平和の祈りは唯一最高の祈りではない」というホームページを作って、大い
に主張なさったらいいのです。そのように誰でもが自由に主張できる環境を守らなくてはなりません。

この掲示板の過去のログを読んでいただければわかるのですが、「世界人類が平和でありますように」と
いう祈り言だけでなく、「世界中の人が平和で暮らせますように、守護天使様、神様どうぞ見守っていて
ください」というような祈り言は、私も書いております。その祈り言は、「世界平和の祈り」と同じ意味
で、正しい祈り言ですから、そのような表現で祈りたいならば、それはあなたのご自由なのです。

「世界平和の祈り」は非常に高い波動の祈り言であるために、人によっては高すぎて、祈りにくいという
ことがあります。その場合には、その人の想念波動に合致した、正しい祈り言から始めるのが、やさしく
神のみ心に入る良い方法であると思います。あなたにとって、「世界平和の祈り」よりも「世界中の人が
平和で暮らせますように、守護天使様、神様どうぞ見守っていてください」という祈り言のほうが、自分
の心境や感情にピッタリしていて祈りやすいと思ったら、その祈り言で祈ったらよろしいのです。

但し、世界中の人々が、別々の祈り言で祈っていたら、集団で声を合わせて祈ることはできません。個人
個人が別々に働いていては、地球を平和にする大きな働きはできません。地球人類が、心を一つに合わせ
なくては、地球を平和にすることはできません。そこで、一つの共通した合言葉の祈り言が必要となって
くるのです。祈り言のグローバルスタンダードが必要なのです。その合言葉の祈り言として「世界人類が
平和でありますように」が、最も適当な祈り言である、と私は教えているのです。「いや、それは違う。
私は、世界平和の祈りよりも、こんな祈り言が、世界の共通の祈り言として一番適当だと思う」という人
がいたら、その人は自由に、ご自分の信じるその祈り言を提唱したらよいのです。

あなたの天命が完うされますように


世界平和実現は、まだまだ先です。
No.1230 森島恒吉    1999/10/13 (水) 19:20 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、久しぶり。お元気そうで、なによりです。

[質問1]
私の存命中に(森島先生の存命中でも可)、世界って平和になりますでしょうか? もし無理なら子孫の
ための礎となるよう"世界平和の祈り"と唱えていこうと思います。

[お答え1]
私たちのこの世の存命中に、世界は平和になるか、というご質問ですが、残念ながら、今後、百年の間く
らいでは、世界は平和になりません。世界が平和になるのは、もっともっと先です。ご自分の来世の幸せ
のために、そして子孫の人々のために「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。

アメリカの国連の会議場で、世界各国の大使や外交官を集めて、WPPCが行なわれましたが、このよう
な「祈りによる世界平和運動」を、世界各国の人々に地道に浸透させることが第一です。たとえば、犯罪
の多い街には、道路の百メートルごとに、「世界人類が平和でありますように」のピースポールを立てれ
ば、その街の犯罪は急激に減ってゆくものと思います。

ピースセレモニー、ピースポールのほかに、テレビ、ラジオ、新聞などで、「世界人類が平和であります
ように」の祈り言を目にし、耳にするようになれば、日本も世界も、急速に犯罪が減ってゆき、平和にな
ってゆくことでしょう。このインターネットで常時「世界人類が平和でありますように」の祈り言を世界
に向けて発信していることも、世界平和に大きく貢献しているのです。

そのように各人の好きな可能な方法で、「世界平和の祈り」を唱え、時間的、経済的に少し余裕のある人
は、一人でも多くの人に「世界平和の祈り」を無理なく伝えてゆけばよいのです。すでに世界を平和にす
る方法は生まれたのですから、あとは「世界平和の祈り」を実行するだけでよいのです。世界を平和にす
る、という壮大なロマンのある仕事を、神から授けられたことは、私たちの喜びです。

[質問2]
間違ってEscキー押すと、今まで書いた全文が消えちゃうんですが、これってなんとかなりませんか?
(じつは一回消しちゃってからの書き込みだったりします(^^;)

[お答え2]
長い文章は、直接「記入欄」に書き込まないで、一度「メモ」を開き、「メモ」に文章を書きます。
書き終えたら、「メモ」の文章をコピーして、この「記入欄」に貼りこんで、文章をととのえます。
それから、「WRITE」ボタンをクリックします。
こうすれば、万一消えた時も、「メモ」に文章が残っていますから、心配はいりません。

皆様の天命が完うされますように


二重の把われから自然に解脱できる「世界平和の祈り」
No.1236 森島恒吉    1999/10/14 (木) 02:09 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。ケントさんのお話は良かったですね。

「真理への把われ」という「把われ」があることを、知らない人が多いんですね。「真理に把われてはい
けませんよ」と私が教えると、「真理の言葉を宣言して、どうして把われになるのか、何が悪いのか?」
と、食ってかかってくる人もいます。もう一つの「把われ」に「業への把われ」があります。これは業想
念の法則、心の法則に把われることをいいます。「真理への把われ」と「業への把われ」の両方の把われ
を持った人を、「二重の把われを持った人」と五井先生は説いています。

「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をしている人は、理論理屈はわからなくても、知らぬうちに真理への
把われから解脱し、業への把われから解脱して、自然に神我一体への道を進んでいるのです。私は、皆さ
んに道を教える場合、真理にも業にも把われさせないように、真理に把われたケースと業に把われたケー
スを、具体的に教えるようにしております。むずかしい理論はわからなくても、「世界平和の祈り」を素
直に信じて、「世界平和の祈り」に全託できる人は、実に幸せな人であると思います。

皆様の天命が完うされますように


私に関心があるならば、集会にいらっしゃい。お待ちしております。


五井先生のご本を読みなさいね。
No.1249 森島恒吉    1999/10/15 (金) 23:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

やんちゃ坊主さん、はじめまして。

[質問]
はて・・・、あやまてる宗教なんてあるのでしょうか?
もしそのあやまてる宗教で人が悟ったらそれは、間違いの悟りなのでしょうか?
何が間違いで、何が正しいのかを教えてください。

[お答え]
五井先生著「愛・平和・祈り」(白光真宏会出版局)のご本を買って、「正しい宗教と誤てる宗教」の章
をお読みなさい。

あなたの天命が完うされますように


自分を愛するとは
No.1255 森島恒吉    1999/10/16 (土) 08:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ジュンちゃん、ありがとうございます。秋田は、もう紅葉の季節になってきたんだね。こちらは、桜の木
の葉は落ちてきましたが、くぬぎや栗や楡の木には、まだ葉が残っています。車で街を走ると、ときおり
美しいコスモスの花々を目にします。

[お答え]
愛と愛情とは、厳密にいうと違うんですね。愛が太陽の光そのものだとすれば、愛情は地球の大気圏を通
して地上に届く太陽の光のようなものです。愛そのものでは、光が強すぎ、まぶしすぎて、肉体人間は消
滅してしまい、生きてはゆけません。それで愛が地上界に働くときは、愛情という形で現れます。また、
愛の働き方にも二通りあって、優しい愛と厳しい愛があるんです。

自分を愛するというのは、自分の肉体を守る、自分の心を傷つけない、という浅い意味もありますけれど
深い意味では、自分の本心のままに生きる、ということです。これは、自分の欲望のままに、自分の業想
念のままに、したいほうだい、他人の迷惑を考えずに、自分勝手に生きる、ということではありません。
自分の本心がほんとうにしたいことは何か、と守護の神霊に尋ねていると、守護の神霊のほうから、おの
ずと教えられます。それは声で聞こえてくるのではなくて、あなたの行動となって自然に現れてきます。

「守護霊様、自分を本当に生かす道を教えて下さい。私を導いて下さい」

と祈りつづけておりますと、守護霊様が直感的に教えて下さいます。後は、その第一直感に従うのです。
ときどき、その直感が、業想念の波を受けて間違うこともありますが、守護霊様に祈りつづけていれば、
正しい軌道に修正してもらえます。

私のパソコンの中にある時刻は、しばらくすると、早くなったり遅くなったりとずれてきましたが、日本
の標準時間に修正するソフトを組み入れましたら、一週間に一度、自動的に標準時間のコンピュータにア
クセスして、パソコン内部の時刻を修正してくれます。そのおかげで、一秒の狂いもなくなりました。

これと同じで、守護霊様に祈っておりますと、もし、直感や生き方が間違えても、自動的に軌道修正され
るんです。自分を愛するとは、自分の本心の欲するままに生きること、自分の天命のままに生きること、
神様のみ心のままに生きることです。したがって、他人の生き方を真似するのではなく、自分が心の奥か
らほんとうにしたいこと、行動したあとで絶対に後悔しないだろう、と思うことをすることです。

私の場合をいえば、私は五井先生の教えを皆さんに伝えたい、「世界平和の祈り」を皆さんと祈りたい、
と本心から願っています。その本心の指示のままに、私は素直に生きるようにしているのです。そのよう
に自己の本心のままに生きることが、自分を愛することであるのです。

また、愛の心を磨くためには、常にこう祈ることです。

「守護霊様、愛深い私にならしめたまえ。私の心に愛を充実せしめたまえ」

人を愛することが、自分を愛する道であると思ったら、たった一人でもいいから、愛しぬくことです。

あなたが幸せでありますように


「世界平和の祈り」は神界へのエレベーター
No.1257 森島恒吉    1999/10/16 (土) 09:38 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

道徳経56章さん、ご質問をありがとうございます。前にも言いましたけれど、おもしろいニックネームで
すね。老子さんの代理として、唯一会の集会にぜひ参加していただきたいものです。

[質問1]
世界平和の祈りは神界への梯子/エレベータではないのですか?世界平和の祈りだけでは足りないのです
か?

[お答え1]
おっしゃる通り、「世界平和の祈り」は神界への梯子でもあり、エレベーターでもあります。「世界平和
の祈り」だけでは足りない、ということはありません。「世界平和の祈り」一つだけで、神界へ昇ること
ができます。

[質問2]
五井先生は相談者の守護神によく頼まれていたようですが、森島先生も相談者の守護神に頼まれることは
あるのですか?

[お答え2]
五井先生について、あなたはずいぶんとお詳しいですね。その通りです。五井先生と同じく私も、相談者
から、いろいろと相談される時には、必ずその相談者の守護霊さんと守護神さんから「この子をよろしく
お願いします。この子に教えてあげて下さい」と頼まれているのです。

皆様の天命が完うされますように


神様を深く敬う心を持とう
No.1259 森島恒吉    1999/10/16 (土) 13:15 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。
相談者の守護の神霊と私の関係については、たしかに相手の守護の神霊に依頼されて相談に答えるわけで
すが、守護の神霊の言うままにストレートに伝える場合もありますし、私が調整役になって、少しやさし
い表現で教えることもあります。私は、単なる霊媒とはちがって、守護の神霊から言われるままに、なん
でも言うわけではありません。私の判断で黙っていることもあります。そうした判断は、その人その人に
応じて自然法爾にしていることなので、頭で考えて判断しているわけではありません。

らんらんさんの場合には、ご存じのように、あれほど叱ったのは、初めてです。私が叱っておいてあげな
いと、守護神さんによって、らんらんさんは大変過酷な運命をたどりかねなかったのです。五井先生のよ
うな方や教えを、「神を冒涜する者だ」という表現で言った場合、守護神さんの怒りによって、その後、
即死させられることがあるのです。神様は愛であり、神が罰することはありません。肉体人間のような感
情的な怒りも持ってはおりません。しかし、守護神の厳しさというものは、肉体人間の想像を絶する厳し
さで、その厳しい愛が、怒りのような形で人間の生命を断つことがあるのです。そこで代わりに私が叱っ
て浄めておいてあげますと、その分、相手の業が消えますから、相手は死なないですむのです。

本人は何も知らずに言ったとしても、言うべき相手を間違えて「神を冒涜する者」と神に対して言ってし
まったら、それは大変な罪となるのです。神を冒涜する以上の大きな罪はありません。そうした重大な言
葉を、五井先生の教えも理解していない者が、えらそうに使うものではありません。神に対して恐れるこ
とはありませんが、もう少し畏敬の念を持たねばなりませんね。脅すわけではありませんが、守護神を甘
く見て侮っていると、痛い目にあいます。「すべての人は平等で対等だ」というのは人間の基本的な理念
ですが、それは神の子としてのことであり、神の前では、肉体人間は、平等でも対等でもありません。

私が宇宙子科学の部屋で、五井先生から統一の直接指導を受けることになった時、「五井さん、私を人間
として平等に扱って下さい」とか「五井さん、あなたもおれも対等だ」なんて生意気なことを言うどころ
ではありません。宇宙子科学のある部屋のふすまを隔てた玄関の土間に正座させられて祈り、神様のご指
示があるまで、何分間も私は冷たい土間に座って祈りました。それでようやく神様に許されて、玄関の土
間から座敷にあがらせていただき、五井先生のご指導を受けることができたのです。そのように、神様を
深く敬う気持ちを持たねばなりません。白光真宏会では、今では講師も理事もみんな平等で「さん」づけ
ですけれど、唯一会では、師弟関係は、平等ではなく対等でもありません。それが気に入らない人は、や
めてもらって結構です。それは私を敬えというのではなく、神様を敬う心を教えたいからなのです。神様
を友だちのように軽んじてはなりません。神様を深く敬う心を持つことが大事であるのです。

皆様の天命が完うされますように


神に全託すると、自分は消える!
No.1268 森島恒吉    1999/10/16 (土) 18:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、ご感想をありがとうございます。おっしゃる通り、この掲示板を見る人は、五井先生に会
ったことがなく、五井先生のご本をすみからすみまで読んだわけではなく、しかも唯一会のホームページ
の教義もろくに読まないのに、知ったかぶりの偏見的思い込みで、私を誤解してしまっている人が多いで
すね。掲示板ですと、興味のある人以外は、全体を読まずに、断片的な記事しか読みませんからね。どう
しても、いずれはまとめた本を出さないといけませんね。自伝的なものは出せるかわかりませんが、教義
に関する解説書は、必ず出版します。楽しみにして下さい。

[むくちゃんの質問]
森島先生が、「私」という言葉を使われる時の「私」って誰のことなんだろう?・・・と
森島先生には、個人の思いというものが、おありなのでしょうか?

[お答え]
五井先生に、「私の生命」を差し上げてしまったでしょう。ですから、ほんとうは「私」は、もうどこに
もいないんです。森島恒吉は、五井先生に生命をあげた時点で、消えてしまったのです。森島恒吉の生命
は、この宇宙のどこにも存在しないのです。それじゃ、誰がここにいるのかというと、森島恒吉の顔をし
た五井先生がいるんです。私は誰かというと、ほんとうは五井先生なんです。私がご飯を食べたり、散歩
に行ったり、お風呂に入ったりするのも、五井先生がご飯を食べ、五井先生が散歩に行き、五井先生がお
風呂に入っているんです。戸籍や住民票は、もちろん森島恒吉の名前になっていますよ。でも、五井先生
の生命が生きているんです。おかしなことを言いますけれど、霊的にはそうなんです。

といって、過去の五井先生と全く同じ人間であるわけではなく、教えの根本は同じですけれど、役目が異
なるので、教え方は若干異なるんです。神は、同じタイプの全く同じ人間をコピーのようには作らないん
ですね。個人の想いのようなものもありますよ。でも、そうした想いも、業想念からくる想いではなく、
本心からくる個性の想いなんです。業想念は消えても、本心としての個性は消えることはありません。

皆様の天命が完うされますように