森島恒吉先生の法話集(過去ログ)



五井先生は「世界平和の祈りは最高の祈りである」と宣言している!
No.302 森島恒吉    1999/04/30 (金) 10:20 富士宮市
白光誌1999年5月号「いのち自由に生きる」五井昌久講話より抜粋

二人なり三人なり同志がいて、
「神様お願いします。あの人の天命が完うされますように、どうかあの人が立派になりますように」
という祈りの心を出すと、祈りは光であり、神のみ心ですから、光がその人のところへ行って、業をはぐ
というか、業を薄めてしまうわけです。それが五人なり十人なり団体になると、大勢の祈りが光となって
その業を消してゆくわけです。言葉で、「だめだ」「いい」と言うよりも、そうやって光を投げかけてゆ
くと、いつの間にか業がはがれてしまって、神様の軌道に乗れるわけ。本心が現れるわけです。そういう
行じ方を、私は教えているわけです。
       ☆ ☆ ☆
自分の業も消すんだし、人の業も消すんだし、消すためには、肉体の自分の力だけでは足りないから、神
様の力を借りてきて、
「守護霊さん、守護神さん、よろしくお願いします。あの人の天命が完うされますように」
という祈りの心でもって、「あなた、こうしましょうよ。私も一生懸命やるわ」というようにやれば、
「ああ家内が応援してくれる」「子供が応援してくれる」「うちのお母さんは応援してくれる」というふ
うになって、自分の力が倍加してゆくわけです。
       ☆ ☆ ☆
人間の生き方としては、焦ってはだめ。平和の祈りに入っている人は、平和の祈りの中で、運命は決まっ
ている。「世界平和の祈りは最高の祈り」なのだから、みんな人類が平和になるということは、神様のみ
心だから、平和の祈りに入ったら、その人は悪くなりようがないです。そのうちに、いいも悪いも問題で
なくなって、この世の現象のいいとか悪いとかは問題でなくなって、いつも心が平安であることだけを、
目指しててゆくようになってしまいます。
………………………………………………………………………
【私の解説】
以上のように、五井先生は「世界平和の祈りは最高の祈りである」と明確に説いているのです。最高の祈
りである、ということは、いいかえれば、「世界平和の祈り以上の高い祈りや行法は無い」ということな
のです。ですから「世界平和の祈りよりも、この方法はもっと良い方法である」と思うその方法は、神か
らの神示で来たものではなく、迷いから来たものであるのです。


自信を持って「世界平和の祈り」を人々に勧めて下さい
No.303 森島恒吉    1999/04/30 (金) 19:07 富士宮市
世界人類が平和でありますように

五井先生の講話「いのち自由に生きる」から、み教えを抜粋しましたが、短いお話の中に、他にも重要な
教えが二つ含まれていることを、くみ取った方もいらっしゃることでしょう。

その一つは、「神様、お願いします」「守護霊さん、守護神さん、よろしくお願いします」という祈り方
です。五井先生の祈り方の基本は、これに尽きるのです。短くいえば、「神様、お願いします」ですし、
長く言いたければ、「守護霊さん、守護神さん、よろしくお願いします」でも良いし、五井先生に親しみ
を感じている人は「五井先生、お願いします」でも良いのです。

肉眼では見えない守護の神霊よりも、顔や姿の見える五井先生を、守護の神霊の代表として拝んだほうが
信仰の対象としてつかみやすいので、昔の会員さん達は、「五井先生、お願いします」と五井先生をお呼
びしてから、「世界平和の祈り」を祈っていたものです。近頃は、五井先生が他界されて大分経ったせい
か、五井先生に会った人が少なくなり、「五井先生、お願いします」と親しみをこめて祈る人が少なくな
ったようです。人間の本体は神霊であり、肉体は器にすぎないのですが、肉体が見えないと、何か掴み所
がないような気がして、仏像を造ったり、仏画を描いて、信仰の拠り所とするのです。今は、私が肉体界
に生きているので、私に親しみを感じる人は「森島先生、お願いします」と祈ってもよろしいのです。

五井先生ご自身は、「皆さんが『五井先生、ありがとうございます』と唱えるのはいいけれども、私が自
分に向かって『五井先生、ありがとうございます』と唱えるのは、なんだかおかしくて、唱えにくいでし
ょ。だから私は、守護霊さん、守護神さんに感謝することを教えているんです」と、お話なさっていまし
た。ところで、「神様、お願いします」と「守護霊さん、守護神さん、お願いします」の二つの言い方の
うち、どちらが五井先生の講話の中に出てくる回数が多いか、と数えてみますと、圧倒的に「神様、お願
いします」のほうが多いんです。これが一番短いから、一番言いやすいんですね。たまに「神様、お願い
致します」なんてのもあります。

要するに、どの唱え方でもいいから、守護の神霊の中へ、あるいは五井先生の中へ、自分のすべての想念
を投げ入れてしまえばいいんです。そうして、常に守護の神霊のみ心の中に、自分の想念を投入しつづけ
ておりますと、想念がカラッポになってくる。自分の心の中が、空(くう)になってゆくんです。そして
その空の境地がしだいに深くなってゆくと、本心の力、神の力が、突如出現してくるのです。空から出現
してくる、この神力は、念力とは比べものにならないほどの素晴らしい超越能力であるのです。ですから
五井先生も私も、念力を勧めずに、空の境地になれる真実の祈りを勧めているわけです。

五井先生のもう一つの大事な教えは、「集団の力を生かす」ということです。
五井先生は度々このようにお話しされていました。

「悪いヤツは、一人一人は弱いんだけど、暴力団のように徒党を組むんですよ。だから、悪いヤツラは強
くなるんです。ところが、善人といわれる良い人というのは、他人を頼って迷惑をかけてはいけないと思
うせいか、人に遠慮しすぎて、一人一人がバラバラで、集団で行動する、ということがないのです。だか
ら、善人は弱いんですよ。善人が、悪人の集団に負けてしまうんです。善人が悪人よりも弱いんじゃ、こ
の世はますます悪くなってゆくばかりです。それじゃあ、いけませんね。これからは、善人が悪人よりも
強くならなくてはいけません。それでなくては、この世は善くなりません。そのためには、どうしたらい
いかと言うと、善人たちが、集団化することなのです。善人たちが心を一つにして集団化すれば、暴力団
よりも強くなれるんです。世界平和の祈りを合言葉にして、善人たちが集団化すれば、世界中の悪想念は
急速に浄化されてゆき、世界平和が実現するのです」

五井先生に教えていただいたように、私は「世界平和の祈り」を合言葉にして、善人達を集団化したいと
思うのです。「世界平和の祈り」の集団は、単なる集団ではなく、神力にバックアップされた光明集団な
のですから、こんなに強い団体はないのです。唯一会は、白光真宏会の中で、今や最大の勢力となってき
ました。「世界平和の祈りは最高の祈りである」という私たちの主張に対して、真っ向から反対できる人
は、一人もいなくなりました。それは、私たちが、五井先生の教えを忠実に実行していることもあります
が、それだけではないのです。今は、私一人ではなく、多くの皆さんが、私を応援して下さっている、と
いう事実が、他の会員にも知れ渡ってきて、私をあなどれなくなってきたからなのです。

五井先生への畏敬の念は、どの会員さんたちの心にも潜在しています。たとえどんなに古い教えと言って
も、五井先生の教えを忠実に実行している私たちを非難することは、五井先生を非難することになり、神
への冒涜となることを、会員さんたちは直観的に感じているのです。ですから、私たちは誰をも恐れるこ
とはないのです。「世界平和の祈り」を、ひたすらに祈り続け、五井先生のおっしゃるように、一人でも
多くの「世界平和の祈り」の同志を募ってゆけば良いのです。他力易行道の「世界平和の祈り」が多くの
人々に支持されないわけがないのです。自信をもって、「世界平和の祈り」を人々に勧めて下さい。

あなたが幸せでありますように


良いところだけを学んで、他は捨てれば良い。
No.307 森島恒吉    1999/05/02 (日) 20:40 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Aさん、ありがとうございます。合氣道について、真摯なご質問をいただき、ありがとうございます。
ご質問について、一つずつお答えしてゆきたいと思います。

[ご質問]

さて、氣の稽古には、ご存知の通り「臍下の一点に心を静め統一」して、「2分の1、2分の1」と心で 唱
えながら行う「氣の静坐法」、それに心身統一による「氣の呼吸法」があります。また「念」の重要さも
説かれていますし、中村天風先生の教えにもある「鏡を使った暗示法」もあります。これらは昌美先生の
今唱えられていることとは異なりますが、氣の稽古を行うと、五井先生の「世界平和の祈り」だけという
教えに余計なものを加えることになり、自力中心になってしまいます。この点、五井先生の弟子でもあ
り、藤平先生の内弟子でもあった森島先生は、どのようにお考えになられてきたのか、教えていただけま
すでしょうか。

[お答え]
五井先生の教えとしては、単純に「世界平和の祈り」だけで終始一貫してゆくべきだと思います。したが
って、唯一会では「世界平和の祈り」だけを行じておりますが、趣味や武道や芸術に、宗教精神を生かす
ことは、なんら悪いことではありません。「世界平和の祈り」を祈っている人が、合氣道を学ぶことは、
英語を勉強し、生け花を勉強し、ダンスを勉強するのと同じことなのです。

藤平先生の合氣道は、合気会の合氣道よりも技術面で優れていることはわかったけれども、氣の修行法が
自力行であるということに対して、どうしたら良いのか、とまどっているのでしょう。それならば、「氣
のクラス」には出席しないで、「心身統一合氣道クラス」だけに出席されるとよいでしょう。つまり心身
統一合氣道の技だけを学んで、他は学ばなければ良いのです。優れたところだけを学んで、他は捨てれば
良いのです。職員と違って、一般会員は、好きな稽古を選択することができるのですから、誰も文句は言
わないはずです。そして宗教面は、「世界平和の祈り」だけにすればいいのです。

藤平先生の心身統一の四大原則
(1)臍下の一点に心を鎮め、統一する。
(2)全身の力を完全に抜く。
(3)体のすべての部分の重みをその最下部に置く。
(4)氣を出す。

五井先生は、「心身統一の四大原則は、間違っておりません。正しいです」とおっしゃっていました。

心身統一の四大原則を、宗教的に解説しますと、次のようになります。
(1)については、「神様、ありがとうございます」と、神様のみ心の中心に、想念を放り込んで鎮魂し
てゆくのと同じです。
[2)については、「神様のみ心のままに」神様に全託することと同じです。
(3)については、宗教でいう不動心の感覚です。
(4)については、「平和の氣を出す」ということです。

「心身統一の四大原則」は、心身統一の原則であって、合氣道の原則ではありません。そこで、私が藤平
先生に提言して、「心身統一合氣道の五原則」を作ってもらいました。しかし、それでもまだ、私にとっ
ては満足のいかないものでした。私は、合氣道の技術と宗教精神の一致点を探し求めていたのです。そこ
で、氣の研究会から独立して数年後、私は合氣道の精神を「武道奥義」としてまとめたのです。

[武道奥義]

自分を尊び、人を尊ぶ。
自分を正し、人を正す。
自分を守り、人を守る。
自分を愛し、人を愛す。

「世界平和の祈り」を祈り、この「武道奥義」の生き方で合氣道を稽古してゆけば、必ず合氣道を会得す
ることができるのです。武神と心が一つになれば、技は無限に自然に出てくるものなのです。この武道奥
義によって、五井先生の宗教と植芝盛平先生の合氣道が、はじめて一致するわけです。

合氣道には、柔道に似た技もありますし、空手と同じ技もあります。剣道と同じ技もあります。それでは
合氣道は、他の武道と、どこが根本的に異なるのか、といいますと、「合氣道は他力の武道である」とい
うことです。他の武道は、ほとんどが自力の武道であるのです。他力の武道とは、祈りに始まって祈りに
終わる武道であるということです。心の中で「世界平和の祈り」を祈り、守護の神霊に全託して、「武道
奥義」に則して稽古されたら、合氣道の力は確実についてくるはずです。


光明思想は、積極思想とは違う。
No.308 森島恒吉    1999/05/02 (日) 21:16 富士宮市
世界人類が平和でありますように
[質問]

中村天風先生などのプラス思考、積極的思考が、光明思想とどう異なるのか、なども、お教えいただけま
すでしょうか。

[お答え]

中村天風先生は、日本にヨガ思想を伝え積極思想を説いたことで有名ですが、光明思想とは異なった思想
です。昌美先生も誤解されてしまったのですが、光明思想とは、積極思想ではありません。

積極思想は、「人間は不完全であるが、できると思えばできるようになる。できないと思えば、できなく
なってしまう」という思想です。ところが、光明思想は、「人間は完全な神の子である」というのです。
「善くしよう」と思わなくても、「善くなるにきまっている」のが光明思想なのですから、積極思想より
も、はるかに積極的であると言えるのです。

私は、「プラスに考えよう」とか、「積極的に考えよう」とは、考えません。「世界は平和になる」と信
じて、「世界平和の祈り」を祈り続けているだけなのです。「積極的に生きよう」とすれば、その積極思
想に把われ、「消極的に生きよう」とすれば、その消極思想に把われてしまいます。ある時は、電光石火
のごとく積極的に行動し、ある時は眠っているかように消極的になって岩のように動かない、というよう
に自由自在に生きることが一番良いのです。つまり、固定した思想があると、そこに把われが生じて、不
自由になってしまうのです。光明思想とは、「人間は本来は完全である」という思想であり、「世界は平
和になる」という思想であり、空の思想であり、自由自在の思想であって、「世界平和の祈り」の中から
光明思想は、自然法爾の行為となって現れてくるのです。


悪口は言ってはいけません
No.309 森島恒吉    1999/05/02 (日) 22:16 富士宮市
世界人類が平和でありますように
[質問]

一昨年ぐらいの『合気ニュース』に、藤平先生のインタビュー記事が、連載で掲載されていました。しか
し、そこに書かれていた藤平先生のご発言は、昌美先生の著書を拝読したとき以上に、私を戸惑わせ、失
望させるものでした。植芝先生に対する悪口、吉祥丸先生に対する蔑視、「合気会の師範方は皆私が教え
た」というような口振り、「合氣道で私の右にでるものはない」というような、はっきり言ってしまえば
「おごった」発言。特に失望したのは、弟子が3人連なって植芝先生の身体を押させても動じないという
技は、実は2人目の弟子が1人目、3人目の弟子を牽制しているからだ、と書いてあった部分です。
私はそのような発言があっても、五井先生が書かれた「神の化身 −植芝盛平翁を稱うー」という詩に書
かれた植芝先生が本当の姿である、と思っています。
確かに心身統一合氣道や氣の稽古は、私が6年間もんもんと「ああでもない、こうでもない」と考えてい
た合氣道の「技」のことを、1日にして氷解させてくれましたし、「心」の稽古についても、心をプラス
にするのには役立ちました。しかし、藤平先生のこれらの発言は、「氣の王道」の著者であるとは思えな
いほどの、凡人そのものと感じられました。例え藤平先生の言った事が事実であったとしても、発言した
こと自体が「天地に合する」ことや「争わざるの理」、「おちつき」に反していると思います。この点、
森島先生は、どのようにお考えか、お聞かせ願えれば幸いです。

[お答え]

誰に対しても、悪口を言うのはいけないことだし、悪口を聞くのは、耐えられないことですね。私などは
あなた以上に、藤平先生から、悪口をさんざん聞かされましたよ。藤平先生の技は立派なんだから、今さ
ら何も他人の悪口を言わなくてもいいのにね。私もそう思いましたよ。

藤平先生の立場に立って見ると、悪口を言いたくなる気持ちは、よくわかります。藤平先生が悪口を言う
のは、その前に植芝盛平先生が、藤平先生の悪口を言って歩いたのが、原因なんです。五井先生は、植芝
先生の良い所だけを見ていたのですが、植芝先生は、ご自分の真似をされると怒ったんです。その詳しい
いきさつについては、「中村天風と植芝盛平/氣の確立」藤平光一著(東洋経済新報社刊)に書かれてい
る通りです。

それでも、藤平先生が、悪口を言うのは、あなたのご指摘の通り、「争わざるの理」に反していることで
すね。藤平先生が教えていることに、ご自身の行為が反しているのは、あなたのおっしゃる通りです。あ
なたの言う通り、たとえ他人から悪口を言われたとしても、その相手に悪口を言い返すことは、人間とし
て凡人と言わざるを得ません。そういう欠点は、私たちは真似をしないようにしましょうね。

あなたのように霊性の高い人が、合氣道を修行すれば、藤平先生以上の実力者に、きっとなれることでし
ょう。ご精進を期待します。


神の試みに克つ方法
No.310 森島恒吉    1999/05/03 (月) 00:04 富士宮市
世界人類が平和でありますように

【神の試みと幽界の生物の存在】

釈尊、イエス、五井先生の聖者に共通していることは、悟りに至る途中に神の試みに遭っているというこ
とてす。ある時は、悪魔の姿となって甘い言葉で誘惑してきたかと思うと逆に脅迫してきたり、ある時は
神仏の姿をしておだでて有頂天にさせたかと思うと逆に落胆させたりして、巧みにだましてくるのですが
どの聖者も守護の神霊の助けを借りて、その試みに合格し、神我一体となり得たのです。直接に人間を試
みるのは、最初は幽界の生物なのですが、その背後には、その人間がどのような答え方をするかを、守護
神が目を光らせてじっと観察しているのです。そして、心境が上がるにつれて、守護神自身が、その人間
を試みてくるのです。

「世界平和の祈り」は神界の光明であり、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、いずれは誰しも神
我一体になり得るわけですが、人類には業想念の蓄積がありまして、業想念が消え去るまでは、「世界平
和の祈り」を祈ったからといって、人類はそう容易にすぐに神我一体になれるわけではなく、やはり時間
がかかるのです。神我一体というのは、神界にあるその人の本心の座に、想念が一つになったということ
で、そこに至るまでには、常時想念は、上がったり下がったりしているのです。心境が上がったかと思う
と、転落してしまうということがあるのです。そして、肉体界と霊界の間には、幽界という世界が存在し
その幽界の世界を通り越す途中で、様々な試練が待ち受けているのです。統一修行によって、自己の肉体
波動が微妙な波動を感じるようになると、幽界の波動を感じるようになってくるのです。

この試練というのは、幽界には人間をたぶらかす生物がいまして、その幽界の生物が、人間の欲望に乗じ
て干渉してくるのです。一般には動物霊ともいわれていますが、幽界の狐や狸は高級な霊ではありません
から、それは正確な表現ではなく、五井先生は幽界の生物という言い方をしているのです。神の子である
人間が、動物を神のように拝むことはいけないことなのです。また、悪魔と言いますと、一つの形をした
確固とした実在のように連想されるので、聖書の解説の時は別にして、悪魔という言い方はせずに、業想
念とか幽界の生物と言っているのです。

【いかにして人間をだますのか?その1…神仏名による試み】

それでは、幽界の生物は、いかにして人間をだますのか? それを考えてゆきましょう。幽界の生物のだ
ましのテクニックには、大きく分けて二つあります。

一つは、幽界の生物自身が、神仏をよそおってだます方法です。
これはちょうど、結婚詐欺師が、若い女性の憧れるパイロットや医師や実業家のふりをして、女性をだま
すのと同じです。ふつうの人は、肩書でコロリとだまされてしまいやすいのです。幽界の生物は、「私は
幽界の生物です」「私は悪魔でございます」と自己紹介することはありません。(笑い)

「われは、釈迦なり」
「われは、イエスキリストなり」
「われは、宇宙神なり」
「われは、五井先生なり」

と偉そうな名前をかたって現れてくるのですから、始末におえないのです。もうこの段階で、たいていの
人は、だまされてしまいます。だから、難しいのです。この試みに勝つには、すべてを「消えてゆく姿」
とすることです。たとえば、このようにすれば良いのです。

「われは、釈迦なり」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「われは、イエスキリストなり」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「われは、宇宙神なり」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「われは、五井先生なり」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

このように祈っておりますと、本物ではない幽界の生物ならば、すぐに消え去ってゆきます。「世界平和
の祈り」には、幽界の生物は勝てないからです。「消えてゆく姿」とやらないと、幽界の生物は、その存
在を認められますから、力が強まって、そのまま聖者のふりをして、人間をだまし、いかにも馬鹿げた行
動をやらせようとしてくるのです。そして「あいつらは、アホだ。こんな馬鹿げたことを、おれの指示の
ままにやっている。クックックッ…」と人間をあざ笑っているのです。ですから、統一中に、いかなる偉
い神仏が現れようとも、すべて「消えてゆく姿」として、把われないようにすることが大事なのです。

【いかにして人間をだますのか?その2…欲望による試み】

第二は、欲望による試みです。
先ほどの結婚詐欺師の例を出せば、「数年後に結婚してあげるから、おれとつきあってくれ」と男性に言
われて、うぶな女性がだまされるのと同じです。女性は、「結婚したい」と強く願っているのですから、
その欲望をかなえるような甘い言葉をいえば、その他のことは見えなくなってしまい、「百万円が必要に
なったから、貸してくれ」と男性に言われても、女性は疑わず、だまされてしまいやすいのです。もちろ
ん、そんな女性ばかりとは言いませんが、だまさないように気をつけて下さい。

また、ふつうの物質的な欲望には容易にだまされない宗教者でも、「神様の超特別な光をあげよう」と言
われると、うっかり信じてしまい、だまされるものです。そんな言葉にも、信じちゃだめなんです。すべ
てを「消えてゆく姿」にしないと、だめなんです。幽界の生物は、その人その人に、どんな欲望があるの
かを知っていて、その人の欲望を叶えるようなことを言ってくるのです。そうした欲望を叶えるような言
葉を聞いても、すべてを「消えてゆく姿」にしなければなりません。幽界の生物が、甘い言葉を言ってき
ても、あるいは脅すようなことを言ってきても、次のように、答えることです。

「汝の心境は、すでに神そのものである。汝にとって、もう『世界平和の祈り』を祈る必要はない」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「『世界平和の祈り』のような他力の守護の神霊に頼るようなことを、いつまでしていては、神として、
人々から崇められないぞ。『世界平和の祈り』はすでに古いのだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「あなたも超常現象を体験したいだろう。そのためには、『世界平和の祈り』を祈るよりも、ピラミッド
に入るほうが効果的なのだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「あなたも宇宙の真理を理解できるようにしてあげよう。そのためには、『世界平和の祈り』よりも『私
は神である』と唱えることだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「あなたも高次元の法則を駆使できるようになりたかったら、『私は神である』と宣言することだ。『世
界平和の祈り』だけでは遅れるぞ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「私の言うことをやっていれば、あなたを神人にならせてあげよう」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「地球の重力をコントロールして、自らを移動させるできるようになる。そのためには、『私は神であ
る』と宣言することだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「あなたは高次元のパワー、高次元の光を受け取ることができる」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「『私は神である』と唱える人は、宇宙の進化に進むことができるのだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「『私は神である』という宣言は、五井先生のご愛念である」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「自らに内在する神そのものを発見し、神そのものに目覚めることである」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「自分の周りにいる人々に対して、『人類は神である』という宣言を7万回唱えなさい。これによって、
あなたは変貌を遂げるのである」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「『私は神である』と宣言することによって、あなたは救世主となれるのだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「『世界平和の祈り』を祈っているだけでは、地球は滅亡するぞ。『世界平和の祈り」だけでは、もう間
に合わない時代に突入したのだ。『人類は神である』と宣言する時代に入ったのだ」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「宇宙神からの超特別な光を、汝に与えるから、私の聖地に来なさい」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「汝の願望を叶えてあげよう。これは念力ではない。五井先生からの愛である」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

「人類一人一人が、自ら神であると自覚できたなら、『世界平和の祈り』など、祈る必要は無い」
「消えてゆく姿、世界人類が平和でありますように」

【結論】

このように、誰にどんなことを言われても、すべて「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をしていれば、よ
ろしいのです。これは簡単なようで、実際には難しいことですが、練習を積み重ねてゆきますと、すべて
に把われなくなってきます。神仏の名に把われず、欲望に把われず、ひたすら「世界平和の祈り」を祈り
続けて下さい。そこに安心立命の境地が開けてくるのです。

守護霊様、守護神様、五井先生、
どうか、一日も早く人類の業想念を消し去り、本心を現わしめたまえ。
世界人類が平和でありますように


光明思想と積極思想は違う
No.312 森島恒吉    1999/05/03 (月) 07:56 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Aさん、ご納得していただけたようですね。心の中のモヤモヤが晴れてスッキリしたでしょう。すでに
お読みいただいたとは思いますが、私の考え方については、唯一会のホームページの「教義の基本」や
「宗教問答」をお読みになれば、概ねおわかりいただけると思います。

光明思想について、「積極思想とは違う」と気づいて良かったですね。光明思想の意味を知らない人が、
本当に多いのです。白光真宏会の会員のほとんどが、光明思想の意味を知らないのです。積極思想だと勘
違いしてしまっている。だから、五井先生の教えを理解できず、間違った方向へと外れてしまうのです。
「光明思想と積極思想とは、どこが違うのか?」これは皆さんに、宿題として出しておきましょうね。私
にレポートを提出して下さい。関心のある人は。(^_^)

Aさん、これからもご遠慮なく、なんでもご質問でもコメントでもお寄せ下さい。
ありがとうございました。Aさんの天命が完うされますように。


旧光明思想と新光明思想
No.313 森島恒吉    1999/05/03 (月) 08:17 富士宮市
世界人類が平和でありますように

言い忘れたけど、光明思想にも、二つあるんですよ。光明思想を発表したのは、生長の家が日本で最初な
んです。その後に、五井先生が「新しい光明思想」を発表したのです。ですから、生長の家の旧光明思想
と、五井先生の新しい光明思想を比較して、どこが違うのかを、よく研究する必要があるのです。

あなたが幸せでありますように


五井平和財団の今後の活動に注目したい
No.317 森島恒吉    1999/05/04 (火) 07:58 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさんの「あ〜言われたら、こ〜言う」というシミュレーションは、おもしろいね。ハハハ。私だけ
でなく、ほかの法友の皆さんも、クスクス笑っていると思います。シミュレーションとはいえ、体験から
にじみ出ているのか、リアルティに富んでいる。ユーモア大賞をあげます。(^_^)

「マンダラも書かない、印も組まないのでは、神人になるのは遅れてしまうわよ」と言っている人たちは
五井平和財団(以下、略して財団という)について、どう思っているのか、聞きたいところですね。財団
では、「世界人類が平和でありますように」だけを祈っていて、守護の神霊への感謝も五井先生への感謝
も省略されています。

すると、財団の関係者ならびにメンバーの人たちは、神人にはなれないのでしょうかね。もし、財団のメ
ンバーに「世界平和の祈りだけでは、神人にはなれないのよ。我即神也の印を組まないと、神人にはなれ
ないわよ」と言ったら、それは脅迫に近い強要となって、「やはり、財団は、白光真宏会へ入会させる窓
口として利用しているのか」と文部省に思われて、財団は認可を取り消されてしまうことになります。

白光真宏会の会員たちが、財団を認めれば、同時に「世界平和の祈り」一つの生き方をも認めなければな
らないということです。財団は、昌美先生が代表になっているのですから、白光真宏会の熱心な会員も、
当然なことに認めざるを得ません。昌美先生は、財団では、「世界人類が平和でありますように」だけを
説き、「我即神也」の宣言や印を組んだり、マンダラ行を勧めることはできません。他方、同じ昌美先生
が、白光真宏会では「世界平和の祈りと我即神也、人類即神也」の両方を勧めることになります。

昌美先生の心の中にある矛盾した二元論が、形となって現れてきたわけです。一方(財団)では「皆さん
世界平和の祈りだけでよろしいのです」と説きながら、他方(白光)では「皆さん、世界平和の祈りだけ
では足りないのです」と説いているわけですから、いったいどちらの昌美先生の主張が正しいのか、ちょ
っとでも頭の鋭い人たちは、理解に苦しみます。昌美先生の心の中は、矛盾に満ちているからです。

いずれにしても、財団の設立によって、「我即神也、人類即神也の印を強要すること」は、今後は減って
くるはずです。それは先ほども申しました通り、「世界平和の祈り」を祈っている人に、白光の数々の行
法を強要することになれば、文部省は黙ってはいないからです。財団を今後も守るためには、「世界平和
の祈り」だけを祈る生き方を、白光としても認めざるを得ません。つまり,財団ができたことによって、
私たちも活動がしやすくなった、ということです。五井平和財団の今後の活動を、私たちは注目してゆき
たいと思います。

あなたが幸せでありますように


五井先生の教えは、本に書いてある。
No.321 森島恒吉    1999/05/04 (火) 17:57 富士宮市
世界人類が平和でありますように

昌美先生の「追っかけ」をしていた女性が、ふとした機会で私を知って、五井先生の本を読み直したそう
です。それまで矢継ぎ早に出される課題の行を達成するのに忙しく、五井先生の本をまともに一冊も読ん
でいないことに気づいたのです。

それからは「森島先生のその教えは、五井先生のどの本の何ページ目に書いてあるんですか?」と、毎日
遠慮なく私あてに電話がかかってくるのでした。私が肉体を持ったふつうの人間であることを忘れたらし
く、霊界通信のように、夜中数時間も電話をつなぎっ放しにして、「エッ、そんな教えを、五井先生はど
こに書いているんですか?」と明け方まで質問してくるのです。そこで私は「この本の何ページに、これ
これと書いてあるよ」と答えるたびに、電話の向こうの彼女は、「ちょっと待ってね」と私を待たせると
同じ本を手にして、言われたページをめくり、「アッ、森島先生の言ったことは、ホントウだ」と叫んで
いるのです。「おい、私を疑ってたのかい?」「だって、初めて聞いた話なんだものー」と彼女。

彼女は、五井先生の本を、ほとんど読んでいなかったのです。昌美先生を信じて、昌美先生の言う通りに
熱心に率先してやってきたのでしたが、昌美先生の追っかけをして、昌美先生の言動にふと疑問を感じる
ようになり、私を知ってから、五井先生の本を読み始めることになったのです。私の教えていることは、
すべて五井先生の本に書いてあることなので、「五井先生の本がちゃんと残されていて良かった」とホッ
とした顔で言うのです。五井先生のお書きになった本が存在しているのですから、何かわからないことが
あったら、五井先生の本を読み返して調べれば、五井先生の教えを知ることができます。

私は、五井先生と同じように「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を教えていて、五井先生が教えて下さっ
たことを、そのまま伝えているだけなのですが、「今まで聞いたことがない話ばかりだ」と言うのです。
それだけ、昌美先生の教えと五井先生の教えは、異なってきてしまったんですね。最初は、私を疑ってい
たのですが、私の言う通り、五井先生の本には書いてあることなので、信用せざるを得ません。私を疑っ
てはいても、「五井先生の本を信じることはできる」と正直に言うのです。

「私を疑ってもいいよ。でも、五井先生のこの本には、この通り、私の言った通りのことが、ちゃんと書
いてあるだろう」と言うと、彼女は私を疑ってはいても、頭から否定せずに、五井先生の本を読むところ
が立派ですね、五井先生の本を読んで、「うん、その通りだ」と、えらそうに私に報告してくるのです。
「そうだろう。私は五井先生の教えた通りのことを、教えているだけなんだよ」と私は答えるのです。
「なんだ、そっか。それだったら、森島先生に習わないで、五井先生の本だけ読んでりゃ、いいじゃん」
「うん、でもね。五井先生の本だけを読んでいて、五井先生の教えを把握するというのは、時間がかかる
んだよ。それと同時に、五井先生の教えを理解した私のような先達に学ぶのが、早いんだよ」
「ふ〜ん、そっか〜。じゃあ、森島先生に学ぶとすっか」と威張る癖の抜けないオヤジ口調の彼女。

その彼女が、五井先生の教えを理解するにつれて、ガッカリした顔で言うのです。
「今まで、十年間以上も信じて課題をやってきたのに、私の人生、いったいなんだったのかしら?」
「それは五井先生の真実の教えを知るまでの通らなければならぬ経験だったと思うことだね」

五井先生の書かれた本があるということは、ありがたいことです。わからないことがあったら、五井先生
の本を読み返せばいいのですから。私たちは、五井先生の本を仏典聖書として学んでゆきましょう。


病気治療についてのご相談
No.325 森島恒吉    1999/05/05 (水) 01:18 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[ご質問]
森島先生は、病気治しや商売繁盛のコツなど、個人相談に関しては、どのような考えをお持ちですか?
昔、五井先生が、病気治しや個人相談をしていらっしゃったのを御著書で読み、思い出したので、聞いて
みました。

[お答え]
五井先生は、宗教者になって最初の頃には、病気治しをなさっていましたし、子供が欲しい夫婦には子供
ができるように祈り、商売繁盛のための人事相談や経営相談もされたし、どこの土地を買ったら良いかも
助言したし、学生には試験に出る問題の箇所を教え、お金に困っている人には、お金を誰から借りたら良
いかを教えることなども、個人的にアドバイスなさっていました。神様は、全智全能ですから、神様にわ
からないことはないのです。そのために、五井先生は、今でいう便利屋のような宗教者だったのです。

しかし、そうした現世利益のアドバイスは最初の5〜6年だけで終わり、「世界平和の祈り」が始まった頃
からは、本心開発だけを教えるようになったのです。同時に、今まで予言はなんでも「当たっていた」の
に、その頃からは、五井先生の予言が「当たらなくなってしまった」のです。たとえば、会社がつぶれる
とわかっているのに、「大丈夫、つぶれない」とアドバイスするのです。すると、アドバイスされた人は
一生懸命努力するでしょう。しかし、最初から「会社はつぶれる」と言ったら、努力を怠ります。そこで
五井先生は、皆さんの現世利益よりも本心開発のために、良い意味で嘘をつくようになったのです。

つまり、現世利益のみの個人指導は、中止されてしまったのです。そして病気は医師に任せ、商売につい
ては経営のアドバイザーに任せて、宗教者は、本心開発の教えを説くべきだ、というお考えに変わったよ
うです。現実の法律から言っても、宗教者が「病気を治す」という宣伝をしますと、医師法違反、薬事法
違反となって逮捕されてしまいます。それに「病気治しをすると、人間が小さくなる」と、ふともらして
いましたね。霊的な原因による病気や、霊的な原因による商売不振がありますが、その場合には、「世界
平和の祈り」を祈り、相手の天命が完うされますように、と祈りますと、霊的な病気は治り、霊的な原因
による商売不振はなくなります。しかし、霊的な原因で無い場合は、祈っても治すことはできません。そ
ういうわけで、個人相談としては、なんでもお悩みをお聴きすることはできますが、相談者の方の天命の
完うを祈るだけで、病気治しや商売繁盛の助言などについては、ご期待にそえない場合があります。

[ご質問]
森島先生は、五井先生に命をお預けになられて、五井先生より霊覚を授かった、とおっしゃっていますが
五井先生が、腹膜を患った青年に対して患部に手を当てたら、膿が止めども無く出てきて、その膿がつい
た手でおにぎりを食べた、というくだりがありますが、膿がついた手でおにぎりは食べなくとも、森島先
生は、霊覚による病気治しはやっておられますか?

[お答え]
私は、病気治しをやっておりません。
「あと三カ月の命ですと、医者から言われていますが、なんとかなりませんでしょうか?」というような
具合に私に頼んでくる人は多いのですが、私には残念ながら治すことはできません。但し、その人が現世
にいる間に、少しでも業想念を浄めておいて、来生の運命を改善するお手伝いをすることはできます。
また、「90歳になる母の病気を治して下さい」と頼んでくる人もいますが、もうその年齢になったら、病
気を治すことよりも、あの世に行ったほうが良い場合があります。それでも頼まれたら、病気快癒の祈り
はして差し上げますが、あくまでも、その人の天命の完うを祈ることが、私の個人相談の方法です。

[ご質問]
単刀直入に聞きます、森島先生は、見えたり聞こえたりするのでしょうか?
もし、そうなら看てもらいたい人がいるんですけど。
[お答え]
私は五井先生より確かに霊覚を授かりましたが、その力は「五井先生のみ教えを人々に理解させる」とい
う能力に限られており、いわゆる霊視や霊聴の能力は持っておりません。直覚的にアドバイスする時もあ
りますが、それは景品についてくるおまけのようなもので、滅多にあることではなく、五井先生のみ教え
以外のことは、私には何もわかりません。したがって、相談者の天命の完うを祈り、運命を改善するお手
伝いはできますが、霊視による人生相談は私にはできません。私の天命に必要のない能力は、与えられて
いないのです。しかし、「世界平和の祈り」で解決できない問題は、何一つ無いと、私は断言できます。


神様、地球を平和にする科学力を授けたまえ。
No.328 森島恒吉    1999/05/05 (水) 08:37 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Mさん、ありがとうございます。Mさんのおっしゃる通り、「私は五井先生の教えの全てを悟った」と私
は書いたことがありました。そんなことを読んだら、たいていの人は、眉唾と思いますよね。そう思われ
るのも無理もありません。しかし、しばらく私の文章を読んでいるうちに、「ああ、この人はわかってい
るな」とわかっていただけて、うれしく思います。

白光の教えが、本来の五井先生の教えからずれてきてしまったのは、「守護の神霊の試み」ばかりとはい
えません。私は、なるべく昌美先生の悪口を言いたくないので、そういう言い方が良いと思って、そう説
明しているわけですが、迷いの原因は、人類の業想念(カルマ)に惑わされてしまったからです。具体的
にいえば、昌美先生は、五井先生の本以外の本を読むのは大変結構なのですが、五井先生の教えを完全に
理解していない段階で、他の本を読んだために、五井先生以外の他の宗教者の思想に影響されてしまい、
生長の家と同じく、矛盾した多元論的ミックス宗教となってしまったのです。

しかし、私は悲観論者ではなく、楽観主義者です。私は白光真宏会に対して怒りもしなければ、腹立たし
くも思いません。いかなる業想念も消えてゆく姿であって、白光真宏会を覆っている業想念も、消えてゆ
く姿であって、時間がたてば消え去ってゆくものです。そして、誰もが、五井先生の真実の教えを理解で
きる日が来るのです。私たちは、そのさきがけとして、「世界平和の祈り」を祈り続けているのです。

宇宙子科学については、秘密のベールに包まれているので、なんともお答えのしようがありません。宇宙
子科学メンバーの実際の研究内容はといえば、現代科学の最先端の情報を科学雑誌などで集めて、それを
書き写すという作業です。少なくとも現在の研究は、独創的なアイディアを生み出すというよりも、現在
の原子物理学を勉強することで、精一杯のはずです。「白光に宇宙子科学は必要なのか?」と言われても
私は白光の主宰者ではありませんから、私の立場では、なんともコメントのしようがありません。

ただ、私は世界中の科学者に「世界平和の祈り」を祈ってもらいたい、と願っています。「世界平和の祈
り」を日常生活で祈り、科学の研究に没頭して下さったら、必ず人類に貢献できる素晴らしい発明や発見
ができるにちがいありません。たとえば、ミサイルも、電子制御装置で動いているのですから、衛星から
特殊な電波を発信して、何度発射ボタンを押しても、ミサイルが発射できないようにする科学技術は、不
可能なことではありません。この技術ができれば、地球上の核兵器を含むすべてのミサイルは役立たなく
なり、地球人類の意識は、争いから調和へと大変革することでしょう。そうした科学は、案外、大学の研
究所や大きな軍事開発工場ではなく、小さな会社の小さな研究室から生まれるかもしれません。いずれに
せよ、そうした平和科学技術が生まれるのは、そう遠いことではありません。

神様、地球を平和にする科学力を授けたまえ
世界人類が平和でありますように


世界の街角で「世界平和行進」をしよう!
No.331 森島恒吉    1999/05/05 (水) 17:07 富士宮市
世界人類が平和でありますように
[質問]
1. 世紀末が近づくにつれて、ニューエイジ関係の書籍でも、「地球は二十一世紀には次元が上昇する」
といういわゆる"アセンション"(次元上昇)に関する話題が多く取り上げられておりますが、五井先生
は、このことに関して、またその時期に関して、どのようにお説きになれていたのでしょうか?
また、森島先生のご見解は、如何でしょうか?

[お答え]
五井先生からは「地球は二十一世紀には次元が上昇する」というお言葉は、一言も聞いたことがありませ
ん。現在は六劫(こう)の終わりとか、七劫の初めだとかの言葉は、伺ったことがあります。これがまぎ
らわしくて、ある箇所では六劫の終わりと書いてあったり、別の箇所では七劫の初めと書いてあります。
現代は、世界平和を完成させなくてはなりませんから、「七劫の初め」としますと、その七劫の初めは、
いつであったかというと、1900年代の今ではなくて、「釈尊の頃にすでに七劫が始まっていた」とおっし
ゃっていました。それ以上の詳しいことは不明です。

地球は進化を続けてゆくのですから、科学文明は上昇してゆくといえますが、「次元が上昇する」という
言葉は、どこかあいまいで抽象的です。前にも同じ話題がありましたが、「次元とは何か?」という言葉
が定義されなくては、どう答えたらいいのかわかりません。私は、そうしたあいまいな言葉は使わないよ
うにしております。「次元はなぜ上昇するのか?」「次元の上昇はいつなのか?」「また、その科学的な
根拠は何か?」と私も質問したいところです。おそらく誰かが空想で考え出した一つの説が、定説のよう
に流布されたものだと思います。「世界は平和になる」とだけ信じていれば、それで充分だと思います。

[質問]
2. 上記にて昌美先生曰く、「この機会に参加できる人々は、やがて地球の重力をコントロールすること
によって、時間空間を超えて、自らを自由自在に移動させることが可能になります。これは宇宙子科学で
はっきりと説かれています。」に関して、森島先生のコメントを頂きたいのですが、、、

[お答え]
どんなに地球の重力をコントロールできるようになって、時間空間を超えて、自らを自由自在に移動させ
ることが可能となった、としても、「心の真の自由を得た」とは言えません。久米(くめ)の仙人は、自
由自在に空中を飛翔していたのですが、ある日、いつものように空を飛んでいると、川で娘が洗濯してい
る風景が見えました。その娘の白いすねを見たら、ムラムラッと心が動いて、空からまっさかさまに落ち
てしまった、ということです。つまり、そうした超能力は、肉体に執着した能力であって、どこへ行くこ
とができようと、真の自由を得たことにはならないのです。心の真の自由を得ることが、宗教の目的であ
り、その真の自由を得るためには、いったん肉体にまつわるすべての欲望を、捨てなくてはならないので
す。いいかえれば、「神秘的な霊能力を得たい」という欲望をも、捨てなくてはならないのです。霊能力
に把われて、宗教の真の目的(愛と感謝の生き方)を見失ってはいけません。

[質問]
3. 私(K)が個人的に思うに、戦争の起こる(というか起こさせている、と思うのですが)最大要
因として、現在の米国主導の資本主義システム維持のための必須要因として、米国兵器産業の在庫一掃を
やらなければ米国経済が破綻するからである、と思っています。で、そのために、世界中でちょっといち
ゃもんを付けやすそうなやつ(ミロシュビッチ、サダム・フセイン、北朝鮮で中小企業みたいに世襲で国
のトップになった人等)に絡んで、人道主義の名の元に戦争を仕掛けていっているのは米国であると考え
ております。しかし、ここで米国のみを責めるのは愚かであって、米国がそのように自国の兵器産業を活
性化しなければ、日本からの借金漬け(日本は最大の債権国、米国は最大の債務国、ちなみに日本は米国
債を買わされ続けて売ることも禁じられている)を解消(返済)するだけの価値を生めずに破綻してしま
うし、そうなれば、日本も物を買ってくれている(消費担当の)米国が破綻すれば日本も黒字倒産します
から(日米の貿易収支をそのまま見ると日本は最大の貿易黒字、米国は最大の貿易赤字)、、、、(で、
K君、君の質問はなんですか?すみません。上記は多少主旨から外れてますね。出来ましたら、これ
に関して、森島先生のご見解を頂戴したく存じます。)

[お答え]
武器によっては、戦争を抑止することはできても、真実の平和は実現できません。今、アメリカを初めと
したNATO諸国が、ユーゴスラビア大統領による他民族虐殺をやめさせようと、ユーゴスラビアに空爆
をしているのは、虐殺を止めるには軍事力の他に方法は無い、と思っているからです。
そこで、私たちはアメリカ国民や世界の国々の国民に対して、「世界平和の祈り」の光明力による暴力の
抑止消滅方法があることを教えてあげなくてはなりません。ユーゴスラビアの国民が、「世界人類が平和
でありますように」と祈り、アメリカの国民が「世界人類が平和でありますように」と祈り、それぞれの
国内で「世界平和の祈り」の合唱が聞こえるようになれば、暴力の想いも他民族虐殺の想いも消え去って
ゆくのです。この真理を教えてあげなくてはなりません。唯一会の人数が多くなったら、私たちはニュー
ヨークの街角でパリの街角でユーゴスラビアの街角で、世界各地で「世界人類が平和でありますように」
のプラカードを持って、「世界平和行進」しようではありませんか!


過去に把われず、今を見る。
No.332 森島恒吉    1999/05/06 (木) 01:45 富士宮市
世界人類が平和でありますように

過去が、どんなにお金持ちで裕福な生活をしていたと自慢しても、今の生活がみすぼらしかったら、なん
の自慢にもなりませんね。それと同じで、過去世がどんなに偉大な魂であったとしても、過去にどんなに
立派な業績を残した人であっても、たとえ聖者とか天使と称賛された人であっても、今のあなたが立派で
なくては、なんにもならないのです。

逆に、昨日までのあなたが、人々からさげすまれ、いかなる罪悪を持った凡夫であったとしても、今日の
あなたが「世界平和の祈り」の大光明に包まれていたら、今のあなたは立派なのです。過去に把われて、
現在のその人を称賛してはなりません。過去に把われて、現在のその人を見損なってはいけません。今の
あなたが、神のみ心にかなった真実の行為をしているか、今のあなたを見つめなければなりません。

あなたが、今、幸せでありますように。


真理を一段下げたところに大きな意味がある
No.339 森島恒吉    1999/05/07 (金) 11:12 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[Mさんのご意見]

「昌美先生の言っていることは、どちらかというと直線的であり、真理をそのまま降ろすというか、ずっ
ばと教えを説くという感じで、五井先生の慈愛に満ち溢れた、肉体人間の立場を熟知した御教えの説き方
とは確かにカラーが違うとは思います」

[私のお答え]

あなたのその部分の直観は、正しいのです。但し、それはほんの少しのカラーの違いではなくて、非常に
大きな違いである、そこに大きな意味がある、と気づかなくてはなりません。五井先生は、真理を一段下
げた「消えてゆく姿の教え」を説いており、昌美先生は、「消えてゆく姿の教えのない真理」を教えてい
るのです。しかし、真理を、そのまま説くことは、別に難しいことではありません。真理を口先で説くこ
とは、誰にでもできることなのです。真理を実行できているかどうかが、重要なのです。

真理をそのまま説いて、真理を実行させようと教えたのは、生長の家であり、五井先生はその講師をして
いて、真理をそのまま説くことの欠陥を知ったのです。そこで、五井先生は真理を一段下げて、説くよう
になったのであって、そこには深い意味があるのです。一見すると、真理をそのまま説く昌美先生の教え
のほうが高く見えますが、実は真理を一段下げた五井先生の教え(消えてゆく姿の教え)のほうが、完璧
な中庸であり、欠陥がないのです。

具体的に説明しますと、「人間は神の子である」という真理の教えは実相論というのです。この真理の言
葉を宣言しているのは、昌美先生が最初ではありません。戦前から、生長の家では、「人類は神の子であ
る。完全円満」と宣言しているのです。それを真似したのが、昌美先生の教えであるのです。

この真理そのままを説く実相論には、大きな欠陥があるのです。

一つは、神の子にはなれず、鼻持ちならぬ「偽善者」になる、という欠陥です。実際の言動は、凡夫その
ものなのに、「自分は神の子である」と神の子をよそおって、自分をだまし、「あなたは神の子であるか
ら、病気は無い」と人をだましているうちに、それがすっかり板について、偽善の癖に本心が覆われて、
かえって神の子になれなくなってしまうのです。白光真宏会の会員の多くは、この偽善者タイプです。

二つ目は、これは正直な人に見られることですが、「私は神の子である、と宣言しているのに、自分の行
為は、完全な神の子の行為をしてはいない、なんと駄目な人間なんだろう。また、あの人は神の子である
と表面では言っているのに、私の心の中では嫌っている。ああ、自分はなんて駄目な人間なんだろう」と
平然と嘘をつくことに耐えられず、自分を責める人が出てくるのです。

こう考える人は、五井先生タイプで非常に少ないのですが、自己に正直な人ほど、このように自分を責め
さいなむようになるのです。そして、こう考えた人たちが、真理をそのまま行じることに疑問を感じて、
五井先生の教えの原点にかえり、唯一会に入って来ているのです。ですから、唯一会の会員はすべて、自
分に正直な人ばかりで、腹をわって話せるわけですから、親しい法友を作れるのです。お互いに真理とい
う偽善の皮をかぶっていては、本音を話せませんし、親しい友人を作れるはずもありません。

たとえば、白光真宏会の講師が病気になったとします。その講師は日頃から「私は完全円満な神である」
と宣言しているのですから、病気になったら、言い訳ができません。完全円満な神が、なぜ、病気になる
のですか?神が病気になるわけがないではありませんか?もし、神が、病気になることもあるのだ、とし
たら、そんな神は、不完全だ、ということになります。不完全な神など、いるわけがないのですから、
「私は神である」と宣言していることと、実際の行為とは違うことになります。このように真理に片寄っ
た「消えてゆく姿の教えのない」実相論では、現実に真理に反した出来事が生じたときには、説明がつか
なくなるのです。

そこで、昌美先生は、これまた生長の家と同じように「想念法則論」を持ち出してきたのです。これは因
縁因果論と同じことです。「あなたが病気になった原因は、みな、あなたの想念に原因があるのです。あ
なたが、自分は神ではない、と思っているから、不完全な病気という現象が現れてくるのです。自分は神
である、と本当に思えば、病気などは無いのです」と昌美先生に講師たちは言われます。

ところが、病気は簡単には直らない。すると、その「因縁因果論」「心の法則論」が、グサリを自分の胸
を突き刺すようになるのです。それが他人に向けられれば、人を責め裁く道具と化すのです。「心の法則
論」の非常な欠陥である「自分を責め裁き、人を責め裁く」という地獄のような苦しみが、そこから始ま
るわけです。

むずかしいけど、君には、わかるかなあ?

「実相論」と「心の法則論」は、別の論理であって、この二つを用いると、矛盾に満ちた二元論になって
しまうのです。ある時は、「あなたは神である」と説いて、聞いている人々を天国に連れて行ったかと思
うと、次の瞬間「あなたの運命が悪いのは、あなたが悪いのだ」と心の法則を説いて、地獄へ突き落とし
てしまうのです。こんな矛盾した教えでは、真の安心立命が得られるはずがありません。

五井先生は、生長の家の講師であった時、そうした体験をして、まず二元論の一つ「心の法則」を捨て、
「人間は神の子」という実相論だけの一元論にしたのです。次に、「私は神の子である」と真理を宣言す
るには、時期尚早であり、無理であるからと、真理は真理として置いておいて、人間の神性を顕現する方
法を、そうした「自力の真理宣言法」によらずに、「他力の守護の神霊による神性開発法」を採用したの
です。それは、法然親鸞の時代からの他力念仏と同じ方法であったのです。その具体的な方法が、「消え
てゆく姿で世界平和の祈り」であるのです。

ですから、五井先生の「世界平和の祈り」と、昌美先生の「人類即神也」とは、まるで根本の原理が異な
っているのです。昌美先生の「人類即神也」とは、「人類はすでに神である。世界はすでに平和である」
という意味なのです。それは真理ではあるのですが、現実には矛盾してしまいます。現実に矛盾した真理
というのは、現実の役には立たず、かえって偽善という業想念をつけてしまって、神性が現れなくなるの
です。「世界人類は平和である」というのは真理であるのですが、その真理を現わすには、「世界人類は
平和である」という宣言法では不可能であることを、知らねばならないのです。ここが難しい。

「真理を今すぐ現わしたい」と願う気持ちはわかりますが、焦ってしまいますと、かえって真理が遠ざか
ってしまうのです。「早く、神の子になりたい、早く幸せになりたい、早く世界を平和にしたい」そう願
う気持ちは、よくわかります。しかし、そこで焦って、真理がすでに実現したかのような、嘘をついては
いけないのです。焦るという想念は、業想念であるからです。

「人類は神である、という真理を目覚めさせたい」というお気持ちには異論はありませんが、問題はその
方法なのです。「人類は神である」という真理宣言法が良いのか、それとも「世界平和の祈り」によって
人類の神性を目覚めさせるのが良いのか、といえば、私は「世界平和の祈りによる神性の目覚めの方法」
が良いと思います。なぜならば、「世界平和の祈り」による神性顕現法のほうが、無理がなく正直に生き
られて自然で誰にでもやさしくできる方法であるからです。

昌美先生は、ご自分の考えを一貫して通されれば、それはそれで理屈が合うのに、時々思い出したように
五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」も混ぜて説くものですから「人間は神である。悪は無い」
の立場に立っているのか、「人間は本来は神である。悪は消えてゆく姿」の立場に立っているのか、ご自
分でも、わけがわからなくなってしまっているのです。こんなわけのわからないことを、聞かされている
講師の話していることも、わけがわからなくなるのは当然です。

[やさしく結論をまとめると]

「世界平和の祈り」の原理と、「人類即神也」の原理とは、同じ原理ではなく、異なった原理であり、こ
の二つの方法を同時に併用すると、矛盾した二元論になってしまうのです。もっと簡単にいえば、この二
つの方法には、違和感がある、ということです。今はわからなくとも、あなたも行じているうちに、いつ
か、そう感じる時が来ることでしょう。そう感じる時がきたら、私の教えを思い出し、五井先生のご本を
読み直したらよろしいでしょう。

あなたが幸せでありますように


あなたの天命が完うされますように
No.340 森島恒吉    1999/05/07 (金) 13:41 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「人即神也」とは、「あなたは神である。あの人は神である」と真理を宣言することですから、そんなに
簡単に安易に口に出せる言葉ではないのですが、昌美先生は、誰でもいとも容易にできるように教えてい
るのです。あまりにも、安易に真理の言葉を口にしているのです。

たとえば、「森島恒吉さん即神也」ということは、「森島恒吉さんが神の子になりますように」という意
味ではなく、「森島恒吉さんは完全な神である」という宣言の意味なのです。ところが、Mさんは
口先では「森島恒吉さんは神である」と言ってはいても、心の中では「森島恒吉さんは神ではない」と思
っているわけです。私を本当に神である、と思っていたら、私を信じられないわけがないからです。私を
信じられないということは、「森島恒吉さんは神ではない」と心の中では思っているからなのです。

潜在意識のほうが、表面意識よりも強いのですから、どんなに表面意識で「森島さんは神である」と宣言
しても、潜在意識で「いや、森島さんは神ではない」と思っていたら、潜在意識が勝ってしまい、いつま
でたっても、「森島さんは神である」とは心の底から思うことはできません。潜在意識は、その人の嘘を
見抜いて、本音のままに働くものであるからです。潜在意識が納得しなければ、いつまでたっても、思っ
た通りにはなりません。ですから、そうした暗示法や、心からのものではない真理宣言法は、潜在意識が
協力しないのですから、効果がない、と言えるわけです。

「あなたは神である」と本心では思ってもいないのに、形式的に相手を拝むやり方は、自己矛盾であり、
偽善であることを知らなくてはなりません。自己の内面を正直に見つめれば、その矛盾がわかるはずなの
です。そうした偽善的な形式行に把われているうちは、いつまでも、その人の神性は開くことはないので
す。「あなたは神である」という真理を宣言する方法は無理があり、いずれ行き詰まってくるのです。

五井先生は、友人への神性開発の祈り方を、このように教えて下さっています。

守護霊さま、あの人の本心が現れますように
守護霊さま、あの人の天命が完うされますように
守護霊さま、あの人の業が消えて、本心が現れますように
守護霊さま、あの人の神性が現れますように
守護霊さま、あの人の本来の神の子の姿が現れますように

このような祈り方によって、自然に無理なく、相手の神性は開発されてゆくのです。嘘をつかずに、正直
に生きられる祈りの道が、五井先生の祈り方であるのです。「世界平和の祈り」は、無理なく、偽善ぶら
ずに正直に生きられて、一番易しく神性を顕現できる方法であるのです。

あなたの天命が完うされますように


Mさんへの質問
No.342 森島恒吉    1999/05/07 (金) 22:03 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[Mさんのご意見]

私と森島さんとの昌美先生のみ教えに対するとらえ方の違いは何かというと、昌美先生の御教えは、あく
まで、五井先生の本心と業想念の区別の御教えの延長線上にあると考えている点です。

五井先生は「世界平和の祈り」は、業性の自分が祈るのではなく、守護の神霊と一体となった本心の自分
が祈っている、と教えてくださいました。我即神也の宣言と印も同じ原理ではないかと考えています。
だから、「我即神也」と宣言し印を組んでいるときの自分は、偽善や自己処罰に陥っている消えて行く姿
の業性の自分ではありません。守護の神霊の援助のもとで、本心の自分が肉体に現れるために組んでいる
のだ、と思っています。これは世界平和の祈りの原理と同じことだと思います。

[質問1]

「我即神也の行」と「世界平和の祈りの行」は同じ原理である、とあなたは思っているわけですが、同じ
原理の行ならば、なぜ二つの行法をやらねばならないのか?、お答え下さい。同じものならば、どちらか
一つだけでも良いのではありませんか?二つの行法をやらねばならないのは、片方だけでは、不完全と思
っているからではありませんか?あるいは、別の原理と考えているからではありませんか?

[Mさんのご意見]

 私ごときが、「森島恒吉さん神也」などと書いてお気を悪くされたのならお許しください。書くべきか
どうか迷ったのですが、昌美先生を支持するということであえて書かせていただきました。

[私の質問2]


昌美先生の教えを守っているあなたなのですから、「森島恒吉さん即神也」と言うのは、当然です。あな
たは、そのように言わねば、昌美先生の教えを行じていることにはなりません。

そう言われたからといって、気を悪くするような私ではありません。私が指摘したのは、「森島恒吉さん
即神也」と言っているあなたは、本当に私を神であると思っているのかどうかを、お聴きしたのです。表
面的に「森島恒吉さん即神也」とは言っても、あなたの内心は、「森島恒吉さんは神ではない」と思って
いるのではありませんか、とお尋ねしたのです。あなたの正直なお気持ちを、答えて下さい。

あなたは私を、「森島さんは神である」と思っていますか、それとも「森島さんは神ではない」と思って
いますか?


本心と業想念の区別が、誰にでもできるのだろうか?
No.343 森島恒吉    1999/05/07 (金) 23:16 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[Mさんのご意見]

 「人即神也」と宣言し印を組んでいる自分も、相手に対する敵意を隠し表面上善人を装って組むもので
もありません。相手に対する憎しみを持ちながらも印を組んでいくことによって、それらの業想念感情が
消されていきます。実際これは自分自身が経験したことですが、「いやだ」と思っている人を思い浮かべ
て人即神也の印を繰り返すうちに、その人に対する憎しみが薄れだんだんと許せるようになってゆきまし
た。このとき気がついたのですが、「人即神也」と宣言し印を組むことは相手の神性開発のために組むだ
けでなく、人を許し愛せるようになるため、つまり自己の神性開発の為にあるとわかりました。

[質問3]

本心と業想念の区別ができる人は、すでに悟っている、と言っても、過言ではありません。あなたは、ご
自身「本心と業想念を区別している」とおっしゃっていますが、すべての人が「本心と業想念を区別でき
て、人即神也の宣言を実行できる」とは、私には思えません。
たとえば、自分の家族を殺され、悲嘆にくれている人に向かって「殺人者も本心は神であるから、あの人
は神である、と宣言しなさい。そうしているうちに、憎しみが消されてゆき、殺人者を許せるようになり
殺人者を愛せるようになります」と、あなたは教えることができますか?

あなたに実行できる教えであっても、すべての人が実行できる教えとは、言えないのではありませんか?


「我即神也」と「世界平和の祈り」は同じではない
No.346 森島恒吉    1999/05/08 (土) 21:59 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Mさん、私の質問に、お答えをいただき、ありがとうございました。あなたのお考えが、よくわか
りました。こうしてお互いの宗教観を話しあい、質問をしあい、議論をすることによって、相手の考えを
理解することができて、真実の調和へと進んでゆけるものと思います。以下は、あなたのご意見に対する
私の感想(考え方)です。質問ではありませんから、もうお答えいただく必要はございません。
ありがとうございました。

………………………………………………………………………
[Mさんのご意見1]

 まず、印にしろ世界平和の祈りにしろ、「やらなければならない行ではない」と思います。あくまで自
分の自由意思によって、おこなわれるものである、と思いますし、昌美先生も、「印を組むくまないは、
本人の自由である」とおっしゃっていますね。

「世界平和の祈りだけをしたい」と思われる方は、そうされたらいいのだし、「印を組みたい方は組めば
よい」と単純に考えています。だから、「どちらが上だとか下だとか、比較する必要などない」と思いま
す。「自分の信じる道を進めばよい」のだし、印の組んでいる組んでいない、ということで、「お互いを
別のものと見てしまうようなことがあれば、いけない」と思っています。

[私の感想1]

「どちらが上だとか、下だとか、比較する必要はない」と書いていますが、「我即神也と世界平和の祈り
は、同じ原理だ」とあなたが書いたから、「それでは、どこが同じ原理なのか、なぜ二つをやらなければ
ならないのですか?」と私は質問したのです。
「なぜ、我即神也と世界平和の祈りは同じなのか」という理論的原理は、あなたは何も持っているわけで
はなく、ただ、そう信じている、ということがわかりました。

あなたは、「我即神也と世界平和の祈りの二つを比較する必要はない」とおっしゃいますが、私は二つを
比較する必要があると思います。

「印にしろ、世界平和の祈りにしろ、やらなければならない行ではない」
「世界平和の祈りだけをしたい、と思われる方は、そうされたらいい」
というあなたのお考えは、よくわかりました。

「自分の信じる道を進めばよい」というあなたのお考えに、私も賛成です。あなたは、あなたの信じる道
をゆかれたらいいでしょう。私も、自分の信じる道を進みます。

「お互いを別のものと見てしまうようなことがあれば、いけない」というあなたのご意見に、私も賛成で
す。今後は、唯一会を「昌美先生批判ホームページ」と見ないで、白光真宏会とは別のものと見ないよう
に、法友の方にお知らせ下さい。
………………………………………………………………………

[Mさんのご意見2]

人間は、その本質において神である、と信じています。森島さんも私も、その本質において神です。

[私の感想2]

私は人間の本質論を聞いているのではありません。人間の本質が神であることは、知識としては、誰でも
聞いて知っているし、たやすく言えることです。

「我即神也とあなたは言っていますが、今のあなたは、神なのですか?」
「森島恒吉さん即神也とおっしゃいましたが、今の私は、神と思っていますか?」
と、私は、あなたに尋ねたのです。

これについては、以下に「私は悟っていない」と、はっきりと、あなたは、ご自身のことを書かれている
のですから、もうお答えはいりません。

「私は神であると宣言していても、今のあなた(Mさん)は、神ではない」ことがわかりました。
つまり、「今、私は神ではない」と心の奥では思っている、あなたが、口先では「今、私は神である」と
矛盾した宣言をしているわけです。
………………………………………………………………………

[Mさんのご意見3]

まず、私は悟っているとは、言いがたい人間です。日常生活の中で業想念にながされてしまうことは、し
ばしばあり、反省することも多々あります。ただ印を組むことを悟ってなければ組めないなどとは、考え
てはいません。五井先生は「業想念があればあったままで世界平和の祈りを祈りなさい、祈りの光明の中
で業が消されていく」と教えていますが、「人即神也も同じことだ」と考えています。憎しみがあったま
まで組んだとしても、実際に繰り返し組んでいけば憎しみが消されていくことが実感できると思います。

[私の感想3]

あなたは「我即神也」と宣言はしていても、本質はともかく、現実のあなたは悟っていない、つまり、
「今のあなたは神ではない」ということは、はっきりとわかりました。あなたはまだ悟ってはいないし、
現実のあなたは神ではないけれども、「私は神である」と宣言し続けていれば、「いつかは神になれるだ
ろう」と信じて、「私は神である」と宣言しているわけです。

[Mさんのご意見4]

森島さんは「我即神也の宣言・印」を行っている者を、自己反省のない欺瞞に満ちた思いあがった者と見
ているようですが、私は違います。
我即神也の宣言と印は、あくまで自己の神性顕現のために組んでいるのであって、自分をごまかすために
組んでいるのではありません。

[私の感想4]

「自分をごまかすために組んでいるのではありません」とおっしゃっても、結果的に、現実に神ではない
あなたが、「私は神になる」とか「私は神になりつつある」ではなく、「(今)私は神である」と宣言し
ているのですから、なんと言い訳をしようと、あなたは、今の自分をごまかしていることになるのです。

昌美先生の説かれる「我即神也」の意味は、「即身成仏」の思想のように「肉体を持った今の自分のま
ま、現実の自分が、神である」と宣言する教えのように、どうしても受け取れるのです。即(そく)と
は、「今」という意味であるからです。

昌美先生は「我即神也」の意味について、「私は神である」という意味である、とはっきり書かれていま
す。それは、もちろん本質論としての意味もありますが、「本来」とか「本質」という文字がないのです
から、どうしても「今の私は神である」という意味に解釈するほかはありません。

小学生が「私は大人である」と言ったら、周囲の人はその子の頭を疑うでしょう。この表現には、「十年
以上たったら、私は大人である」というふうに「十年以上たったら」という説明の言葉が必要なのです。
それと同じように、「本来」という意味で使っているならば、「即」という言葉を使わずに、「我本来神
也」と宣言するべきだと思います。それならば、五井先生の「人間と真実の生き方」(教義)と同じです
から、なんの異論もありません。

あなたの場合、「私は本来(本質として)神である」という意味で宣言されているのならば、「我本来神
也」か「我本質神也」と言うべきだと思います。

[私の感想5](あなたと私の解釈の異なっている点)

「我即神也・人即神也・人類即神也と世界平和の祈りは同じだ」という、あなたのお考えが、出てきまし
た。しかし、そのお考えについては、私は異論があります。

「私は神である」と「世界人類が平和でありますように」が、いったい、なぜ「同じ」と言えるのでしょ
うか。前にも書きましたように「本質は、私は神である」という言葉ならば、私も納得できます。しかし
そうした言葉は省略されていると言うのかもしれませんが、日本語の通念からは、「我即神也」という言
葉は、「本質として、私は神である」という意味よりも、どう考えても「私は、今、神である」と解釈し
ないわけにはいきません。

「私は、今、神である」「人は、今、神である」「人類は、今、神である」ということは、「世界人類が
現在の時点において、すべて神性を開顕していること」と私は解釈します。世界人類が神の姿をすでに完
全に現わしているということは、人類は完全であり、世界はすでに平和になっている、という意味です。

「人類即神也」とは「人類は、今、完全な神である」ということで、「世界は平和である」という意味と
同じなのです。「我即神也」は「私は今、神である」、「人即神也」は「人は、今、神である」、「人類
即神也」は「人類は、今、神である」という宣言です。人類が神の姿を現わしているならば、それはすな
わち「今、世界は平和である」という宣言と同じことになります。

次に「今、世界は平和である」と「世界人類が平和でありますように」を比較しますと、この二つは同じ
意味ではありません。「今、世界は平和である」という宣言は、「すでに世界は平和になった」状態を現
わすのですから、世界が現実に平和でなくてはなりません。しかし、1999年の今日、この地球世界は、平
和ではありません。真理において、本質においては、「世界は平和である」と言えますが、その真理を理
解できる人はごく少数で、ほとんどの人々には、そんな真理論や本質論に納得できるはずがありません。
本質論ではなく、現実論としては、「今、世界は平和ではない」のです。

ここで、どうしても昌美先生の「我即神也、人即神也、人類即神也」の宣言は、本質論としては賛成でき
るけれども、現実論としては、現実の状態に対して、「どうしても嘘をつかずにはいられない宣言」であ
り、常識ある多くの人々を納得させるには、無理な宣言であることが、わかってきます。

それに対して「世界人類が平和でありますように」という祈りは、守護の神霊への願いを祈り言にした言
葉ですから、「世界は、今、平和ではない」という現実にも矛盾せず、「いつかは世界は平和になる」と
いう意味が含まれていますから、真理の理想にも矛盾しない言葉であるのです。これこそ、神智の中庸の
言葉でなくして、なんと申しましょうか。理想にも現実にも矛盾しない祈り言は、「世界平和の祈り」だ
けなのです。五井先生の智慧は、肉体智をはるかに超えた、じつに素晴らしい神智なのです。

ですから、私に言わせれば、「我即神也」と「世界平和の祈り」が同じである、というあなたのお考えは
とんでもない錯覚であり、誤りなのです。その二つは、まったく違った内容の言葉であるのです。

「私は神である」「人は神である」「人類は神である」という宣言を、どんなに繰り返したところで、そ
の人は神性を顕現できませんし、他人の神性を顕現できませんし、また人類の神性を顕現することは不可
能なのです。

しかし、あなたは、その真実を、まだ知りません。「我即神也では、神にはなれないのだ」とわかる、そ
の日まで、「この方法では不可能だ」とわかる、その日まで、あなたは、「我即神也」の行をやり続ける
ことでしょう。それが、あなたに与えられた神の試練なのです。

理想にも現実にも矛盾しない「世界平和の祈り」によってのみ、個人の神性顕現も、人々の神性顕現も、
人類の神性顕現も可能となってくるのであります。

世界人類が平和でありますように
昌美先生の天命が完うされますように
あなたの天命が完うされますように
五井先生、ありがとうございます。


他力易行道は、明るく力強い道。
No.347 森島恒吉    1999/05/08 (土) 22:32 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Hさま、おひさしぶりー。みんな待っていたよ。\(^o^)/ バンザ-イ
若い女の子なのに、五木寛之の「他力」を読んでいるなんて、シブイ、シブすぎる。関係ないことはない
よ。関係あるんですよ。五木寛之の宗教観は、「消極思想、マイナス思考の勧め」を説いているから、暗
く暗〜くなってしまい、虚無感のようになって、やる気がなくなってしまうんです。

五木さんは、作家として有名な人で、私も昔から彼の小説を読んでいるけれど、本当の他力思想が彼には
わかっていないんです。積極思想の欠陥を見抜いて、他力への可能性を説いている点は、たいした洞察力
なんですが、他力の真実の意味を悟るまでには、至っていないのです。簡単にいうと、「他力が絶対力に
変換する原理」を、五木さんだけでなく、他の多くの宗教者も知らないわけなんです。他力易行道は、虚
無思想でも消極思想でもなく、明るい力強い道なのです。

それにしても、Hさまは、偉いね。若い女の子なのに、そういう宗教書を読むなんて、ホント感心しち
ゃうよ。最近の女の子は、そんな本には目もくれずに、オシャレや遊びに夢中になっているのにね。やは
り、五井先生の本を読んだことがなくとも、あなたは霊性が高いんだね。あなたは、自分で思っているよ
りも、はるかに霊性の高い素晴らしい能力を持った女性なんです。自尊心と自信を持ってくださいね。

Hさまのような美人(想像だけど)や、ハンサムな男性が、唯一会に増えてくると、私も若い人たちの
仲人をしなくちゃね。(^_^)私も、これから忙しくなるなあ。o(^-^)o ワクワク


「私は神である」と繰り返し唱えている人は、まだ神ではない。
No.350 森島恒吉    1999/05/09 (日) 01:02 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Mさんのご質問に、お答え致します。

<質問1>

五井先生が、宇宙子科学メンバーに、世界平和の祈り以外の行をやらせたのはなぜなのでしょうか?

[私のお答え1]

五井先生が、宇宙子科学メンバーに自由に行をやらせたのは、どんな行をやっても、結局は「世界平和の
祈り」が最高の祈りであることを、頭ではなく、体験として気づかせる為だったのです。

祈り言については、五井先生が、ご在世中の時は、最高の祈り言は「世界平和の祈り」に定まっていまし
た。これは私も一時期、宇宙子科学のメンバーの一員として、五井先生ご指導の下、ご一緒に宇宙子科学
の研究室でお祈りしておりましたから、よく知っております。

昌美先生が、「世界平和の祈り」以外の行法を唱え出したのは、五井先生の他界後10年たってからです。

<質問2>

森島さんは、今、現在の御自分を、どう考えておられるのですか。悟ったものと考えているのか、それと
も違うのか、どうなのでしょうか?

[私のお答え2]

私は五井先生によって、み教えを完全に理解し、悟らせていただきました。私は、五井先生のみ教えにつ
いて、すべてがわかります。悟った時期は、1990年頃です。昌美先生が「光明思想徹底行」など、新しい
行法を考え出した時期にあたります。

だからといって、「私は悟っている」とか「私は神である」という宣言行を、7万回もくりかえす、など
という馬鹿げたことは、私は致しませんよ。これは、いつも言っていることなんですけどね。本当に悟っ
た人というのは、「私は悟っている」とか「私は神である」とか、そんな言葉を繰り返して唱えることは
しないのです。すでに、悟っていたり、すでに神我一体の境地になっていたら、今さら、唱える必要はな
いじゃありませんか。

健康な人は、「私は健康である、私は健康である」と言わないでしょう。健康な人は、今さら、「私は健
康である」とは言わないものなんです。大金持ちは「私は大金持ちである。私は大金持ちである」とは言
わないものです。なぜならば、すでに金持ちなんだから、唱える必要がないんですよ。

それと同じようにね、すでに悟った人というのは、今さら「私は神である、私は神である」と汗を流して
唱える必要はないのですよ。いいかえると、「私は神である」と繰り返し唱えている人は、まだ、「神に
なっていない」ということを、周囲の人に知らせているようなものなんです。

わかりますか。だから、昌美先生が、ここ数年間、「私は神である」とずっと唱え続けておりますが、い
まだに唱え続けているということは、昌美先生は、まだ神にはなっていない、まだ悟っていない、という
ことになるんです。「私はまだ神になっておりません」と宣言して、恥をかいているんですよ。

<質問3>

私は、今現在の自分の不完全な状態を、真実の自分が現れるプロセスだと思い、世界平和の祈りを祈り、
我即神也の印を組んでいます。現在の自分を神に至るまでのプロセス・消えて行く姿として祈り、印を組
んでいます。その点において「世界平和の祈り」「我即神也・人類即神也」は原理として同じだと考えて
います。あなたの御説明は単に言葉じりを捕らえて、これは違う、といっているようにしか思えません。
この私の考えをどう思いますか。未熟者の悟っていない者のたわごとなのでしょうか。

[私のお答え3]

五井先生の教えには、「消えてゆく姿」というプロセスの教えがあります。しかし、昌美先生の「我即神
也」というのは、真理をそのまま宣言するのですから、「私は神である。悪や不幸や病気は無い。過去は
無い」という意味であるならば、昌美先生の教えには、プロセスは無いのです。

ところが、昌美先生は、ご自分の思想に五井先生の思想「消えてゆく姿」を混ぜて、プロセス、プロセス
と説いているものですから、昌美先生の「我即神也」の教えにも、プロセスがあるように錯覚しているの
です。昌美先生ご自身も、わからずに使っている言葉ですから、皆さんがわからないのも無理がありませ
ん。しかし、私には、手にとるように昌美先生の心の動きがわかるんです。

「世界平和の祈り」には「消えてゆく姿」という教えがセットであるでしょう。でも、「我即神也」は
「私はすでに神である」と宣言してしまったのですから、「消えてゆく姿」があったら、神ではないこと
が露呈してしまい、矛盾していて、おかしいでしょう。だから、「我即神也」には、「私は完全な神であ
る」のですから、もう「業想念は無い」のです。「我即神也」を宣言しておいて、「まだ業想念の消えて
ゆくプロセスがある」というのは矛盾しているではありませんか。わかるかな。

私は言葉尻をとらえて、「我即神也と世界平和の祈りは違う」と言っているわけではありません。でも、
あなたが、そう解釈するならば、それは仕方がありません。私としては、わかりやすくわかりやすく、説
いているんですけど、それでも理解してもらえなければ、あきらめるしかありません。

<質問4>
今、世界中で、「神との対話」のように、人間は実は神なんだよ、と述べる考えが各所より出てきていま
すが、このことについて、どう思いますか。現象としては、人類の状態は混迷を深める一方ですが、深層
では人類の意識が目覚めに向けて、大きく動き出しているように思いますが、どうでしょうか。

[私のお答え4]

現象的には、まだまだ戦争や紛争、地震、天災、飢餓、病気などがありますが、こうした業想念はすべて
消えてゆく姿であって、消えてゆくに従って、人類の本心(神性)は目覚めてゆき、世界は平和になりま
す。現在は、すでに「世界平和の祈り」が、大神さまより人類に授けられたのですから、世界が平和にな
るのも時間の問題です。どんな現象が現れようと、「消えてゆく姿」と思って、「世界平和の祈り」をご
一緒に祈りつづけてゆきましょう。「世界平和の祈り」から、個人の真実の幸福と人類の平和が、同時に
実現されるのであります。

<Mさんのご感想5>
ここへの書きこみは、これで終わりにしたい、と思います。最初から議論は平行線になるように感じてい
ましたが、やはりそうでしたね。私は私の信じる道を行く、森島さんや唯一会の方も、自分の信じる道を
進んでください。

[私のお答え5]

議論が、たとえ平行線になっても、良いじゃありませんか。あなたのご意見を、ご遠慮なくここに書いて
下さい。あなたのご意見を削除することはしませんよ。どんどん、議論しましょう。あなたは、ご自分の
考えが正しい、と思っているのでしょう。それならば、積極的に発言なさったらいいではありませんか。
私一人を説得できなくて、世界の人々を説得できるわけがないではありませんか!がんばって下さい。

あなたにとっては、平行線に感じても、この"PEACE NIFON"を読んでいる方々にとっては、あなたのご
意見と私の意見のやりとりを読んで、五井先生の教えについて、より一層理解を深めて下さったに違いあ
りません。感情的にならず、乱暴な言葉を使わずに、終始穏やかに、多数のご質問やご意見をいただいた
ことに、感謝いたします。ありがとうございました。

あなたの天命が完うされますように
世界人類が平和でありますように
五井先生、ありがとうございます。


守護霊さまに感謝することが、幸せの秘訣。
No.351 森島恒吉    1999/05/09 (日) 01:45 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Hさま、今日は二度も書いて下さって、超ありがとう。(^_^)
ピラミッドに入って、おなかが痛くなったの。それは大変だったね。後で痛みが消えてよかったね。
お母さまの言う通り、「何か業が消えたんだ」と思うといいんです。痛みや苦しみは、いつまでも続くも
のではなく、必ず消えてゆくんだ、と思って、心を動揺させないことです。

いつでもどこでも「神さま(守護霊さま)、ありがとうございます」という心境で、生活することです。
私なんか、いつでもどこでも「ああ、ありがたいなあ。神さま、ありがとうございます。神さま、ありが
とうこざいます」っていう祈りが、心の奥からわき出てくるんですよ。「なんでありがたいんだろう?」
と考えても、わからないんです。呼吸をするときには、意識して吸ったり吐いたりしないでしょう。それ
と同じように、無意識に「神さま、ありがとうございます」という祈りが湧いてくるんです。

人生は、明るく明るく生きなくちゃだめです。美しい音楽を聴いたり、美しい風景を眺めたり、花を眺め
たり、料理学校に通ったり、お菓子を作ったり、洋服を作ったり、英語学校に通ったり、好きなことが、
この人生には、たくさんあるんですから、ご自分のやりたいことを紙に書いて、片っ端からなんでもやっ
てみるんですよ。そして、自分の一番好きなものを見つけてゆくんです。一生かけてやりたいことを探し
て、それをライフワークにしてゆくんです。あなたは若いんだから、無限の可能性に満ちているんです。

「世界平和の祈り」を祈り、守護霊さん、守護神さんに感謝するのを生活の基本として、自分の好きな勉
強や、好きな趣味をやってゆくんです。そうしていれば、あなたの好きな人もいずれ見つかるし、守護霊
さんのご加護の力を得て、順風満帆の幸せな生活を送れるんです。守護霊さんのご加護のお力があって、
はじめて無事な生活ができるのです。守護霊さんに日々感謝していることが、自己の運命を善くしてゆく
一番の秘訣なのです。守護霊さんに感謝していると、だいたい三カ月くらいで効果が出てくるものです。

あなたが、この"PEACE NIFON"を知ったのも、守護霊さんのおかげなんです。守護霊さんは、あなたを
愛していて、あなたを幸せな方向へと全力を尽くして導いて下さっているのですから、「守護霊さま、あ
りがとうございます。守護霊さま、ありがとうございます」と祈り続けてくださいね。人間の運命という
のは、日常生活の中で、こうした祈りを祈り続けてゆくことによって、大きく改善されてゆくのです。

あなたが幸せでありますように
守護霊さま、ありがとうございます。


神の子としての尊厳を放棄するな
No.353 森島恒吉    1999/05/09 (日) 09:17 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさん、おもしろい体験談を書いて下さって、ありがとうございます。Mさんのご質問のおか
げで、今まで私が皆さんに教えていなかった深い部分までも、書くことができました。皆さんにとっても
ご参考になったと思います。五井先生も、ご自身では知りすぎていて、今さら話す必要もなく感じられて
その部分を省略されて、私たちに話されることがあります。その隠れた部分を、五井先生に質問すること
によって発見したい、と私は思って、いつも質問していたものでした。

いつも言うことですけど、日本では、相手に質問をすると、「私の言うことを信じないのか」と怒り出す
人が、まだ少なからずいるようです。株主総会の進行妨害のための質問とは違って、相手の考えを知りた
くて質問するわけですから、質問に対しては、おおらかになんでも受け入れてあげるべきなんです。欧米
の学校では「質問は?」と教師が言うと、生徒はみんな手を上げますね。そのくらい違うんですね。
五井先生はいつも「質問ありませんか?」と講話の区切りにおっしゃっていたものです。

Mさんは、「議論は平行線で終わった」と書いてましたが、決して無駄な徒労の議論ではありませ
んでした。Mさんと私が、自分の解釈をお互いに話して、どこが同じで、どこが異なっているかを
お互いに知り得たことは、お互いにとって、大きな前進であると思います。何も議論をしないよりも、少
なくとも、相手の解釈のどこに、自分の解釈と異なる点があるかはわかったのですから、有意義な議論で
ありました。Mさんと同じような宗教観を持った人が、白光真宏会には多いので、Mさんと
私の議論を掲載しておけば、再び同じ議論をする必要もありません。

[Kさんからのご質問]

あの(ピラミッド)中心で、五井先生が立っておられるのを、霊視された人がいましたね。そういう体験
というのは、どうなんでしょうか?やはり、すべて、消えていく姿として、世界平和の祈りに統一してい
くのベストなんでしょうね。私は多分「見たい聞きたい」と必死で想っている人が、そういうものを見て
いるに過ぎないのではないか、と思います。

[私のお答え]

Kさんの言われる通りですね。霊視と言っても、いったいどの程度の霊視か、霊界を見ているのか、
幽界を見ているのか、それとも幻覚を見ているのか、はたまた妄想にすぎないのか、人によってさまざま
です。霊視と言ってはいても、多くは、「こうした映像を見たい」という欲望からくる夢のような幻覚に
すぎません。「こんなものを私は見た」と言って、自己を顕示したい、自慢したい、という欲望から、霊
視のような幻覚を見ることがありますから、すべてを「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」の中
に投げ入れてしまうのが、安全です。本物の霊視ならば、どんなに「消えてゆく姿」にしても、消えませ
んから、「世界平和の祈り」をしても消えない霊視ならば、本物と思ってよろしいでしょう。ほとんどの
場合は、守護霊のみ心は、霊視や霊聴で「ああしなさい。こうしなさい」と命令口調で指図するのではな
く、自然法爾(じねんほうに)に、さりげない直感的行為となって現れてくるものなのです。

「あなた方は神である」と宣言しておきながら、その一方で「今、宇宙神から、こんなご指示がありまし
た。皆さん、こうしなさい」と説いている宗教者がいますが、これほど馬鹿げた矛盾した話は、ありませ
ん。神である人が、なぜ、神に命令されて、いちいち言われた通りに動かねばならないのでしょうか。他
人の言動に振り回され、神示のままに命令される神など存在しません。

人間は神の子であるのですから、他人に命令されて動くような、そんな奴隷のような弱々しい意気地のな
い存在ではないのです。神の子である人間が、なぜ、他人や神に命令されて動くのか。そんな馬鹿げたこ
とはない、と私は言うのです。みずからの自由な意志で、自由に動けるからこそ、神の子としての価値が
あるのです。神の声や神示や宇宙神に惑わされて、神の子としての尊厳を放棄してはいけません。こうし
た誤ったことを教える宗教者もおかしいけど、その誤った教えを聴いて、なんの疑問も抱かずに、素直と
いう美名のもとに、その誤った教えにやすやすと従う信者もまた、頭がどうかしているのです。このよう
に直感だけでは間違うことがありますから、知性や常識を働かす必要もあるのです。

皆さんが幸せでありますように


「世界平和の祈り」以外の行をやらせる理由
No.356 森島恒吉    1999/05/09 (日) 22:05 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[質問1]

エンジェラスカラーさんからの神示とか、最近では、「宇宙の法理をつかさどる光」からの神示とか、単
に「宇宙神の光」「宇宙神」からの神示という表現をされておりますが、森島先生は、どのように解釈さ
れますか?

[お答え1]

神示というのは、古くからある言葉ですが、特に生長の家で使われている言葉で、昌美先生は生長の家の
本をよく読んでおられて、生長の家の教えの「真理」に心酔しているために、昌美先生も神示という言葉
をさかんに使うようになったのです。生長の家の本を出版している日本教文社発行の本からの引用が多い
のが、その証拠です。生長の家を非常に嫌っていた五井先生には、まったく考えられないことです。

神示には、もちろん正しい神示もありますし、その人の潜在意識があたかも神示であるかのように見せか
けている偽の神示もあります。生長の家の神示には「消えてゆく姿」の教えが示されておりまして、五井
先生は、その神示を正しい神示として、見逃さず採用したのですが、谷口雅春教祖は、せっかくその「消
えてゆく姿」の神示が出ていながら、軽く見てしまい見逃してしまった、という経緯があります。

また、そうした神示を出す人ならば、立派な人に違いない、と誰しも思いますが、しかし、その後、谷口
教祖は、日本の軍隊を持つ必要性を説くようになってしまったのを見ても、神示の内容と、それを説いた
人の人格は、別と考える必要があります。

五井先生は、神示について、このように説かれました。
「私は神示を言うのが大嫌いなんです。だから、私は神示など一度も言ったことがないでしょ。神さまの
言葉を、自分の言葉として話しているのです。たとえば、守護神さんが肉体人間に厳しいことを言ってく
るとする。すると、守護霊さんは肉体経験があって、肉体人間には守護神の言葉を実行するのが難しいこ
とがわかるから、『まあまあ、そんな厳しいことはおっしゃらないで下さい。私がなんとかうまく指導し
ますから、もう少しお時間を下さい』と守護神さんにお願いするのです。…

…それでも、時には守護神さんは、『こいつは、こらしめなくてはいけない』と厳しい考えを変えない時
がある。そんなときは、守護霊さんが私の所へ来て『五井先生、私がこの人間をなんとか立派にしますか
ら、うちの守護神さんに、もう少し優しく指導してくれるように、取り計らって下さいませんか?』とお
願いにやってくるんです。個人指導をしている時にも、守護神さんは、厳しく指導してくる時があるので
すが、その守護神さんの言葉を、そのまま伝えたら、あまりにも厳しくて、人間のほうは失望してしまう
ことがあります。そこで、守護神さんの厳しい言葉を、守護霊さんと相談しながら、やさしく愛をもって
指導するのが、私の役目なんです」

生長の家には「神示集」があるのですが、五井先生は、みずからが神人なので、他の神霊からの指示を仰
ぐ必要はなく、すべてご自分の教えとして説かれたのです。ですから、五井先生の「神示集」は残ってい
ないのです。

五井先生は、神さまの声について、このようにも説かれました。
「神さまから言われて動く、というのでは、神さまと自分が一体になっていない証拠ですね。神さまと自
分が離れているわけです。神さまと自分が一体になっていると、自分の望むことが、神さまのみ心に一致
していて、自分が行なうことが、自然と神さまのみ心にかなっている、ということになるんです。だから
神さまの声を聴いて、動いているようじゃ、まだまだ神我一体になっていない証拠なんです」

さて、そこでご質問にお答えしますと、「エンジェラスカラーさんからの神示」「宇宙の法理をつかさど
る光からの神示」「宇宙神の光」「宇宙神からの神示」「宇宙神の一筋の光の神示」という神示について
は、どう考えたらよいかと申しますと、すべて「消えてゆく姿」として見て、「世界平和の祈り」の中に
投げ入れてしまえばよろしいと思います。

「世界平和の祈り」の中に、「宇宙神の神示」を投げ入れて、消してしまったからといって、宇宙神に
「コラッ、わしの神示をよくも消し去ってくれたな!」と叱られることはありませんから、全然心配はい
りません。(^_^) 相手が、どんなに偉そうな名前のついた神さまであろうと仏さまであろうと、エンジェ
ラスカラーさんであろうと、五井先生であろうと、すべての神示を、「消えてゆく姿」として消し去って
しまうのです。そして、ひたすら「世界人類が平和でありますように」と唱え続けていればよろしいので
す。いつも申しておりますように、神さまのみ心は、自然法爾の行為となって現れてくるのですから、神
示は一切不要であるのです。

[質問2]

昌美先生は五井先生と一体であり、昌美先生のおっしゃっていることは、直接、神界の五井先生のお考え
である、というのが、現在の会にいきわたっている代表的な考えであると思われるのですが、これについ
ては、どのように思われますでしょうか?

[お答え2]

五井先生の他界後は、五井先生が昌美先生を通して、み教えを下さるものと、私も思っておりました。な
ぜならば、五井先生は、昌美先生を非常に愛しておられましたし、昌美先生の心境を高く評価され、昌美
先生が後継者になることも知っておりましたから、昌美先生のおっしゃっていることは、神界の五井先生
からの直接のお考えである、と私も当然のように思っておりました。

ところが、五井先生の他界後十年ほどたってから、昌美先生を擁護する立場に立って、どんなに昌美先生
をかばおうとしても、かばいきれないほど、五井先生のみ教えから外れたことを、昌美先生が説くように
なって、私は大変悩みました。

昌美先生が結婚する前から、私は昌美先生をかわいらしい女性と見ていました。富士山に一緒に登った時
には、途中で彼女が手袋を持っていないことに気づき、私は自分の両手にはめていた毛糸の手袋を、彼女
に差し上げました。彼女は喜んで、私の手袋をご自分の両手にはめて、富士山登頂に成功したのです。そ
うした楽しい思い出もあり、それに尊敬する五井先生の養女になった方でもありますから、昌美先生を支
援したい気持ちはあります。

しかし、昌美先生の説いている教えは、頭が痛くなるほど考えても考えても、五井先生の正しい教えから
外れているとしか、思えない。五井先生のご恩をお返しするために、ここは目をつぶっても、昌美先生を
支持してゆくべきか、それとも義理人情を断ち切ってでも、五井先生の教えの法に従ってゆくべきか…。
あるいは、私の心境が低いために、昌美先生の教えが正しいのかもしれない。私自身の解釈は、間違って
いると思って、昌美先生を信じて従ってゆくべきか…。

私も、このように悩んだのです。もし、その頃、私が白光真宏会の講師か職員だとしたら、昌美先生がど
んなに誤っていようと、私は昌美先生を生涯かばいつづけたに違いありません。それほど、愛情を持って
いたのです。しかし、私は誰にも束縛されることのない自由な立場にあり、この自由な立場にいるからこ
そ、神さまは私を選んだのかもしれない、とも思いました。白光真宏会の講師や職員の立場で、昌美先生
を批判することは難しい。しかし、一般の会員の立場ならば、わりかし自由に発言できる。そうした自由
な私の立場を利用して、神さまは私を通して昌美先生の教えを修正されようとしているのではないか…。

ともかく、私は昌美先生に直接、自分の意見を申し上げることが先決と考えました。世間に、昌美先生の
教えの誤りが知られてしまう前に、なんとか、昌美先生に直接アドバイスして、修正していただこう、…
それまでは会員の人にも世間にも黙っておこう、と私は思いました。

そこで、私は昌美先生に「昌美先生がこのたび発表された光明思想徹底行は、失礼ながら、五井先生の光
明思想とは異なり、誤っていると思います。五井先生の光明思想とは、世界平和の祈りによって自然に光
明心が現れてくるという光明思想であって、生長の家のように積極的な言葉を念じるような光明思想では
ありません。今のうちに、修正しておきませんと、後で取り返しのつかない事態にもなりかねません。生
長の家の誤りの二の舞にならぬように、ぜひご一考をお願い致します」というお手紙を差し上げました。

ところが、昌美先生からは、なしのつぶてで、ご返事がありませんでした。白光誌を見ても、昌美先生の
教えには、なんの変化もありません。その頃には、私は五井先生の光明思想の真実がわかって、五井先生
の教えのすべてを悟り、同時に昌美先生の教えの、どこが誤りかも、明瞭にわかってきていました。そこ
で、「誰もやらなければ、私がやるしかない」と私は決意したのです。五井先生から言われた「あなたは
自由にやっていいよ」というお言葉にも励まされました。「私は何をやろうと、五井先生は許して下さる
のだから、五井先生の教えを伝えてゆこう」と私は心に決めたのです。

五井先生が私に対して「あなたは自由にやって良い」と許可して下さっているのですから、昌美先生も理
事長も会員も誰も、私に対して文句は言えないのです。一番偉い五井先生が、私のやることを許可して下
さったのですから、誰も私に口出しすることは、できるはずがありません。私に文句を言うことは、「自
由にやって良い」とおっしゃった五井先生に文句を言うことになるのですから。私に誰も文句を言えるは
ずがないのです。

宇宙神の法則や教義は、永遠不変の真理ですが、肉体人間は時間がたつと変化する場合があります。善く
なる場合もあるし、間違ってしまうこともある。昌美先生も、完全になっていなければ、途中で変化して
誤った方向へ進んでしまうこともあります。五井先生が昌美先生についておっしゃった事は、過去のこと
であって、過去の昌美先生は正しくとも、現在の昌美先生が間違っていたら、肯定するわけにはいきませ
ん。過去に把われず、現在のその人を見なければなりません。

そこで、質問にお答えしますと、私の考えは、このようになります。
(1)現在の昌美先生は、五井先生と一体ではない。
(2)現在、昌美先生のおっしゃっていることは、神界の五井先生のお考えではない。

もちろん、昌美先生のおっしゃることを信じようと、私の説を信じようと、それは皆さんが自由に選んだ
らよろしいでしょう。私は、昌美先生の教えについて批判はしますが、反対運動はするつもりはありませ
ん。どちらが正しいのかは、時間がたてば、わかることです。誤りはいずれは消えてゆき、真理は永遠で
あるからです。私たちは「世界平和の祈り」の大光明の中に入っていればよいのです。

[質問3]

「今、五井先生からのメッセージが入りました。」という説き方をすると、五井先生時代からの古い会員
さんは、素直に信じるからなんでしょうね、きっと。しかし、そういったことを、本当に作為的にやられ
ている、とまでは思いたくないです。としたら、昌美先生にいろいろなメッセージを、五井先生の名前で
出させている存在というのは、一体、何なんでしょうか?

[お答え3]

その存在とは「世界平和の祈りを、なんとかやめさせようとしている人類の業想念、幽界の魔物」です。
地球の業想念にとっては、「世界平和の祈り」は憎い敵なのです。「世界平和の祈り」が広まったら、自
分たちの居る場所がなくなって消されてしまうわけですから、「世界平和の祈り」の光明を恐れているわ
けです。そこで、「なんとか世界平和の祈りを祈らせまい」と昌美先生をターゲットに選んで「世界平和
の祈り以外の行をやらせよう」とたくらんでいるわけです。

「世界平和の祈り」以外の行をやってくれれば、業想念たちにとっては、その時間だけ、自分たちの存在
を消されずに生き延びることができるのですから、手を変え品を変え、「世界平和の祈り」以外の行法を
思いついては、昌美先生の頭にそのメッセージを流し込むわけです。人類の業想念である幽界の生物が、
五井先生に扮してメッセージを送り込むわけですから、昌美先生といえど、だまされてしまうわけです。

五井先生と一体である昌美先生のお言葉となれば、会員も信じないわけにはいきません。つまり、幽界の
魔物は、多くの会員をだますために、昌美先生をだましている、と言ってもよいのです。なぜ、そうして
だますのかといえば、先にも言った通り、「世界平和の祈り」が広まっては、幽界の魔物の住む場所がな
くなり、魔物にとっては困るからです。「世界平和の祈り」以外の行法を、昌美先生がさかんに勧めてい
るのは、その背後であやつっている人類の業想念が、「世界平和の祈り」を皆さんに祈らすまいと、「世
界平和の祈り」の広まりをなんとか阻止しようと、暗躍しているからなのです。

しかし、そうした昌美先生の言動を、五井先生や神々が、いつまでも黙って見ているはずがありません。
そこで、私を使って、五井先生の真実の教えを改めて伝え直し、昌美先生の教えを修正しようと働かれて
いるわけです。もう一度申しますが、「世界平和の祈り」以外の行法をやらせるということは、その行法
をやっている時間は、「世界平和の祈り」をしていない、ことになります。他の行法をやらせることによ
って、「世界平和の祈り」を否定しているわけです。「世界平和の祈り」をやらせない為には、他の行法
をやらせるに限るのです。幽界の魔物のそうした巧みな悪知恵によって、「世界平和の祈り」以外の行法
が作られたのです。

ですから、「世界平和の祈り」以外の教えは、すべてを消えてゆく姿にして、「世界平和の祈り」を祈り
続けてゆかねばならないのです。私には、そうした業想念の手の内がすべてわかっているので、業想念は
私をだますことができないのです。「世界平和の祈り」を伝えることが私の天命なので、五井先生や神々
が、私を強力に加護して下さっているからでもあります。考えてみると、生長の家で働いていた神さまが
五井先生に移ってきたり、昌美先生を守っていた神さまが私に移ってきたり、白光真宏会で働いていた神
さまが唯一会に移ってきたりするのは、不思議なことで、神さまのそうした計らいというのは、肉体人間
の考えの及ばないところで動いているのでしょう。実質的に、今や、私は「世界平和の祈り」の中心者で
あり、唯一会は「世界平和の祈り」の中心団体であるのです。

[Kさんのご報告]

英語版の掲示板へのリンクを、ICQで知り合ったアメリカ人の友達全部に紹介しておきました。「よく読
んで何か書き込んでくれ」と言っておきましたので、それらの人から、何か書き込みがあるかも知れませ
ん。よろしくお願いします。

[私よりKさんへ]

ありがとうございます。私は英語が苦手でわかりませんので、Kさん、英語で書いてあげて下さい。
私がなんでもやってしまったら皆さんの働く場所がなくなってしまいますから。よろしくお願いします。
(^_^)


自然に神人になれる理由
No.360 森島恒吉    1999/05/10 (月) 14:40 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Mさん、ありがとうございます。
「世界平和の祈り」が、なぜ神人顕現に効果があるかといえば、こうなんです。
神さまは「世界人類よ、平和であれ」と思っているわけです。それに対して、人間側が「神さま、世界人
類が平和でありますように」と祈りますと、神さまの愛のみ心と人間の願いが、ピタッと一つに合いまし
て、一瞬でも神我一体になるわけですね。そうしているうちに、神我一体観がしだいに深まってきて、
「神人になろう」と力んで思わなくても、無理せずにいつしか自然に、神人になってゆくわけです。
簡単でしょう。たった、これだけの話なんですね。むずかしいことは、何一つないのです。ただ問題は、
「世界平和の祈り」を、本人が信じるか、信じないか、それだけなんです。

Kさん、ありがとうございます。
「森島先生金言集」を作って下さって、ありがとうございます。私の言葉のはしばしに、五井先生の教え
が出てまいります。その小冊子の「引用文献/参考文献」欄に、「森島先生金言集には、五井昌久先生の
全著書(白光真宏会出版局)から引用した教えが、多数含まれています」と、五井先生のお名前と白光真
宏会出版局の名前を入れておけば、著作権の問題はありません。引用した本や著者を紹介しないで、自分
一人であたかもすべて考え出したかのように書くと、いけないんですね。白光真宏会の名前を書いておけ
ば、白光真宏会にとっても、広告費を1円も出さずに良い宣伝になるわけで、喜ぶわけです。
希望する方々に、どうぞ、ご自由に差し上げて下さい。

Kさんのおっしゃった通り、「森島先生金言集」を読むことによって、五井先生と同じ教えを私が説
いている事実が、どなたもおわかりになることと思います。ありがとうございます。

五井先生、ありがとうございます。


「世界平和の祈りが唯一の方法です」宇宙人のメッセージ
No.365 森島恒吉    1999/05/12 (水) 00:33 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[質問1]

宇宙子科学シニアメンバーの先生方は、昌美先生の教えについて、すでに五井先生の教えから外れている
ことに、はっきりと気付かれているような気がしてなりません。よって、あるしがらみが取り外されたと
きに、一気に島田先生のようにお気づきになるように思うのですが、いかがでしょうか?

[お答え1]

シニアメンバーは全員が、すでに白光真宏会を退職された名誉職にいて、白光真宏会の運営については、
なんの権限も持っておりませんから、すでに、しがらみは取り外されてはいるのですが、島田先生以外の
シニアメンバーは、五井先生のみ教えを、まだ一人も悟っておりません。おそらく、シニアメンバーとい
えど、今生で悟るのは無理でしょう。なぜならば、いまだに「我即神也」を宣言し続けているからです。
「私は神である」と繰り返し唱えている人は、まだ悟っていない証拠なのです。

[質問2]

私のもっとも知りたいこととして、何故に、村田先生が昌美先生の過ちにお気づきにならなかったのか、
ということがあります。或いは、お気づきになっておられたのでしょうか、そして、何らかの理由で、口
をふさがれてしまわれたのでしょうか?

[お答え2]

ご承知のように、村田正雄先生は、五井先生の他界後まもなく、斉藤秀雄先生とご一緒に、白光真宏会の
職を引退されました。その後、昌美先生の主催された「世界各国の平和の祈り」の行事には、村田先生は
参加されていましたが、昌美先生が「我即神也」を発表された頃には、村田先生はすでに老齢で病床にふ
せっていて、昌美先生の教えについて、どうのこうのと評価する力は残っていなかったのです。

ご質問についてはっきり答えれば、昌美先生の過ちについては、村田先生はお気づきにならなかったので
す。なぜならば、村田先生は会の中で最高の霊能力を持っていましたし、五井先生の教えについて正しく
理解し正しく説かれていましたが、五井先生の教えについて、すべてを悟ったわけではなかったのです。

一番重要な教えである、生長の家の光明思想と、五井先生の光明思想との違いついては、さすがの村田先
生も理解されていなかったのです。しかし、幸いなことに、村田先生には、五井先生の教えが強く残って
いて、村田先生の残された著書には、五井先生の「世界平和の祈り」だけで、昌美先生の教え「光明思想
徹底行、地球世界感謝行、我即神也」などについての称賛の言葉は、一文字も残っておりません。

………………………………………………………………………
「空飛ぶ円盤と超科学」(村田正雄著・白光真宏会出版局)の最後には、こう書かれています。

[空飛ぶ円盤内の宇宙人の祈り言は、「世界平和の祈り」であった!]

「食事をする前に、皆さまと共にお祈りを致しましょう」
瞑目してお祈りに入りました。その時…機長婦人が、朗々と唱えた言葉は…いったいなんであったと思い
ますか?
「世界人類が平和でありますように」
という祈り言は、全く私(村田)の全身全霊を、ふるい立たせずにはおきませんでした。私は、この時ほ
ど、私たちの幸せを感じたことはありませんでした。スーとそのまま昇華してゆくのを感じました…。

[「世界平和の祈りが、唯一の方法です」機長婦人(宇宙人)の言葉]

ただ一つの救われの道があるのです。それは地球人類を救済しようとして、神様がお許しになった「唯一
の方法」です。それは世界人類の平和を、全身全霊でもってお祈りすることです。このお祈りをする人が
一人でも多くなってゆくことです。多くの人々が、この祈りをする時、すでに決まっている地球の運命も
徐々に修正されてゆくものです。

今、地球の上空には、多くの円盤に乗って、宇宙人たちが来ております。その人たちの働きの場が、一番
大切であります。「地球世界の平和を祈る場」こそ、私たちの働く場となるのです。

「世界平和を祈る人々」は、私たちの同志です。この同志の人々と協力一体となってこそ、初めて地球世
界の平和が、打ち立てられるものであります。

「世界平和の祈りのグループの同志」よ、皆様のお祈りによって、劫末の地球が救われてゆくことを、如
実に知る時が、必ずまいります。その時こそ、各自の天命の偉大さを知る「悟る」ことでありましょう。

今は一人でも多く、心より「世界平和を祈る人々」の協力を求めて、やまないものであります。どうか、
このことを同志の皆様に、くれぐれもお伝え願いたい。あなたの月の基地の見学も、宇宙科学の一片を知
ったことも、「世界平和の祈りの同志」に、真実を知らしめて、協力を求めようとしたことであります。
あなた方、「世界平和の祈りの同志」と、私たちとが一体になって働く時、必ず必ず地球世界は救われる
ことを、固く信じて、「世界平和の祈り」に徹していただきたいのであります。(引用以上)
………………………………………………………………………

村田先生が他界される前には、村田先生から年賀状をいただきましたが、そこには、手書きで「宇宙人の
本の続編を書きたいと思っております。世界人類が平和でありますように」と丁寧な文字で書かれてあり
ました。村田先生にとって「世界平和の祈り」は、この世において最後まで唯一の祈りであったのです。


日本は平和の中心国、私たちは平和の中心者。
No.370 森島恒吉    1999/05/13 (木) 11:57 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Oさん、お忙しいところ、ありがとうございます。
ご存じの通り、世界平和の祈りの中にある、「日本が平和でありますように」の日本とは、霊(ひ)の本
(もと)の国という意味で、世界の中で日本は霊の中心国であるというのです。霊の中心国とは、どうい
うことかというと、地球人類の霊性を開く中心となる国という意味で、日本がまず第一に霊性を開発し平
和にならないと、地球は平和にならないのです。「日本が平和でありますように」という祈りには、そう
いう深い意味が含まれているわけですね。

ところが、現在はまだほとんどの日本人が、そうした重大な天命が与えられていることを知らないで、平
和政策については、外国、主にアメリカに頼って暮らしているわけです。アメリカに軍備のことは任せて
おいて、自分たち日本人は、経済活動に専念していればいい、と思っている人が多いのです。日本は、平
和の中心国としての天命が与えられているのですから、アメリカやその他の外国に右顧左眄せずに、堂々
と独自の真実の平和政策を、世界に対して提言してゆかねばなりません。

それは夢のような話に聞こえるかもしれませんが、日本の政治家が外国の政治家たちと会うたびに、「世
界人類が平和でありますように、貴国が平和でありますように」と挨拶し、記者会見の場でも、「世界人
類が平和でありますように」と祈ってから演説し、日本の新聞には毎日「世界人類が平和でありますよう
に」という祈り言が掲載され、日本のテレビをつければ「世界人類が平和でありますように」という祈り
言が放送されている、という日本にしなければなりません。しなければならない、というよりも、いずれ
はそうなるのですが、一日も早くそうなるように日本人が努力してゆくことが大切なのです。

石原慎太郎さんが、先日新しい都知事に選ばれましたが、日本の総理を選ぶ時とは違って、都知事を選ぶ
場合には、大統領のように都民の直接選挙で選ばれるわけですが、実際に都知事の椅子に座ったら、副知
事を選ぶにも、都議会の自民党に反対されたら、知事の思うようには副知事を選べないのです。都議会の
承認なしでは、知事といえど、何も事が運べない。この政治制度は、独裁者を生まないための知恵でもあ
るのですが、その反面どんなに優秀な政治家といえど、能力を発揮できないわけです。

そこで、やはり日本を平和にするのは、私たち国民の一人一人が立ち上がらねばなりません。政治家にま
かせておいても、日本は平和にはなりませんし、世界は平和になりません。私たち一般国民が、先頭に立
って、真の平和運動を盛り上げてゆかねばならないのです。"PEACE NIFON"が、その具体的な平和運動
の一つとして大きな役目を担っております。皆さんが「世界人類が平和でありますように」と書いて下さ
るたびに、その祈りの光明は世界を大きく浄め、世界平和のために大きく貢献して下さっているのです。

私たちは「世界平和の祈り」を祈り続ける、ということが大事なのです。途中で、もっとよい方法がある
のではないかとコロコロと迷ったら、見ている人々も疑います。「世界平和の祈り」を一筋に祈りつづけ
てゆくことによって、「ああ、あのグループは、何十年たっても、一貫して世界平和の祈りを祈り続けて
いる」と多くの人々に思われ、信用されるようになるのです。人から信用されようと思ったら、やたらに
むずかしい誓いを立てたり、できそうもない約束をしたり、自分を偉そうに見せよう、人に偉く見られよ
う、自分を神に見せようなどと、見栄を張ってはいけません。

「私はこれだけの者です」と自分を正直にさらけ出して、「日々反省し、少しでも神様のみ心にかなうよ
うに努力してまいります」といえば、それで充分立派なのです。そうやって見栄を張らずに、正直に生き
ている人たちが、「世界平和の祈り」一筋に、何十年も何百年も続けていれば、世間から信用されるに決
まっています。「あんなに正直な人たちが、やっていることならば、本当なんだろう」と思って、他の大
勢の人々も、この平和運動に参加して下さることになるでしょう。私たちは、日常生活を崩さずに、小鳥
たちが大空で歌を歌うように、朗らかに「世界平和の祈り」を祈り続けていればよいのです。

日本が平和でありますように
世界人類が平和でありますように


我即神也の印の効果について?
No.371 森島恒吉    1999/05/13 (木) 13:01 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[Kさんのご質問]

最初に言明しておきたい点なんですが、私は、森島先生と知り合ってからは、「我即神也」の印、「人類
即神也」の印をまったく組んではおりません。「我即神也」の印の効果について、私などは効果をまった
く感じなかった類の人間ですが、人によっては、確かに効果を上げているという事実もまた否定できない
ようであります。
白光誌に紹介されている体験としては、
1)神戸の震災の際に、印を結んでいた部屋のみがまったく乱れずあたかも震動を受けなかったかのようで
あった、2)印を組むと光のシャワーを浴びているのを感じる(ある外国人の方の体験)、3)最近では、音
楽家の簗瀬さんという方の体験、4)オーラ測定器を用いて「我即神也」の印を結んだ直後の状態を測定し
たところ、オーラの状態が低位から高位に変わった(要は、白光・紫色などの高い精神性を表す色に変わ
った)、等があります。
これらのいわゆる「印の効果」については、森島先生はどのように解釈(評価)されますでしょうか?

[私のお答え]

「我即神也」の印を信じている人には、何を言っても無駄ですが、私の感想を申しておきましょう。

1)印を組む組まないにかかわらず、守護霊さんが、その人を助けて下さったのです。それにもかかわらず
「自分が印を組んだから、自分は安全だったのだ」という言葉には、本人の表面意識はそう思っていなく
とも、「自分の印の力で、自分の身を守ったのだ」という傲慢な気持ちが見え隠れします。守護霊さんへ
の感謝の心が欠けているのですから、現在の運命はよくとも、今後の運命は下がってゆきます。

2)「我即神也」の印を組んだ時には光のシャワーを浴びているように感じて、「世界平和の祈り」の時に
は何も感じないというのは、その人の魂が低くて、幽界のひびきだけを感じて、高いひびきを感じる力を
持っていない、ということです。魂の低い人には、高いひびきの「世界平和の祈り」の大光明を感じるこ
とはできないのです。それはちょうど、バッハやベートーベンのような高級な音楽には、少しも感動でき
ず、低級な音楽には熱狂できる人と同じです。

(Kさんのために内緒で教えてあげたので、これは人にあまり言わないようにしてくださいね。私は
正直なもんだから、つい本当のことを言ってしまう。面と向かって、「あなたの魂が低いからだ」と言っ
てはいけませんよ。自分にはわかっているからといって、正直に言い過ぎては、だめです。)

3)Yさんは信仰深い方で素直な良い人です。Yさんにとって「印が効果があった」というなら、それ
はそれで大変結構なことです。私は何も申し上げることはありません。

4)オーラ測定器については、少なくとも数万人という、もっと詳しいデータを集めてくれなくては、信用
したくとも信じることはできません。オーラ測定器で、精神の高さを測定できるとしたら、素晴らしい器
械といえますが、本当なのかどうか、まだ疑わしい感じがします。

「我即神也の印を組んで効果があった」という人は、白光誌でも体験談を募集しているのですから、これ
から先も、聞かれると思います。「効果があった」と喜んで話す人に、「それは嘘だろう」といちいち水
をかけるのも、おとなげない態度だと思います。ですから、「効果があった」と話しかけてくる人がいた
ら、「それは結構なことで、良かったですね。おめでとうございます。印を組んでまた効果があったら、
また教えて下さいね」と相手をほめて喜ばせてあげることです。(こういう嘘は、赦されるのです)

「我即神也」で効果があったというのは、すべてその人の潜在意識の力や念の力で、効果があったように
見えるのであって、神のみ心によって、授けられたものではありません。そうした現世利益に把われず、
「世界平和の祈り」を祈ることが大事なのです。これだけは、はっきりと申し上げておきます。


世界平和の祈りは、高級神霊の光のひびき。
No.373 森島恒吉    1999/05/13 (木) 14:36 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさんの予想も、はずれてはおりません。「世界平和の祈り」を祈らせまいとする、幽界の生物の力
による現世利益もあります。前にもいいましたけど、幽界の生物は、釈尊やイエスキリストの姿にも現れ
るし、五井先生の姿を真似て現れることもできるんです。光明だって、いくらでも現わすこともできるん
です。だから、五井先生は「統一中に、『光』が見えたり、神仏が見えても、それに把われず、消えてゆ
く姿として、世界平和の祈りの中に入れなさい」と教えておられるのです。

「世界平和の祈り」の効果が一つも宣伝されず、「我即神也の印」の効果ばかりが宣伝されるのは、そこ
に昌美先生の意図的なものが感じられます。今後も「我即神也」の効果ばかりが、しばらく宣伝されるこ
とでしょう。それは昌美先生が、白光誌の編集方針にしているからです。昌美先生は「世界平和の祈りと
我即神也は同じである」と説いてはいますが、心の中では「我即神也のほうが優れているのだ」と信じ込
んでいるのです。昌美先生が「世界平和の祈り」を「我即神也」よりも低い行として見ているのは、誰が
なんと言おうと、事実なのです。しかし、私たちは、そうした昌美先生の言動も、すべて消えてゆく姿と
して「世界平和の祈り」の中に静かに入りこんでいればよろしいのです。

「世界平和の祈り」を祈れる人こそ、高級神霊の光をしっかりと感じることのできる人なのです。


真理に把われるな
No.374 森島恒吉    1999/05/13 (木) 17:32 富士宮市
世界人類が平和でありますように

五井先生の教えを、私はわかりやすく種々の角度で説くように努力しております。この"PEACE NIFON"
を熱心に読んで下さっている方々には、私の考えが、よくおわかりのことと思いますが、初心者の方も多
いので、何度でもわかりやすく説明することに致します。

「世界平和の祈り」は本心から出た教えであり、「我即神也」は業想念から出た教えであるということが
私には明瞭に判るのですが、ふつうの人には、本心と業想念の区別がつかず、「我即神也」の行も本心か
ら出た教えであると思い違いしてしまう人が多いのです。

なぜ、本心から出た教えである、と誤解してしまうのかと申しますと、「我即神也」つまり「私は神であ
る」という言葉そのものは、真理の言葉であるからです。「真理の言葉であるのだから、その真理の言葉
を、行法として用いることが、なぜ間違いなんだ」とこう思うわけです。

真理の言葉であっても、その真理の言葉を、行法の言葉とすると、それは誤りなのです。そこを理解して
もらうのが、なかなかむずかしいのです。真理の言葉であるけれども、真理の言葉を唱えたからといって
その真理が実現化してくるわけではないのです。しかし、真理の言葉を唱えていれば、必ず真理の言葉通
りに具現化してくると、その人々は信じているわけです。そういう人を、五井先生は「真理の言葉に把わ
れた人」と名付けているのです。昌美先生も、真理に把われたお一人なのです。

真理の言葉を行法の言葉として唱えるだけで、真理を実現化できるならば、「世界は平和である」と唱え
ればいいわけです。しかし、五井先生がその方法を取らなかったのは、その方法では、無理であると知っ
ていたからなのです。五井先生も「我は神の子なり」「我は神なり」という生長の家の教えは、知ってい
たのですから、同じ手法で「世界は平和である」という宣言法を思いつかないはずがありません。しかし
その宣言方法では、真理を現わすことはできないのだ、と知っていたからこそ、五井先生は自力を捨てて
守護の神霊への他力行に集中し、悟ることができたのでした。

「真理の言葉を宣言し、どんなに繰り返し唱えても、真理を現わすことはできないのだ」と五井先生はま
ず悟ったわけです。それがわからないと、いつまでも他力に転向できないのです。皆さんも、五井先生の
ように、真理の言葉への把われから解脱できて、他力の「世界平和の祈り」の道に運良く乗り得た方々な
のです。真理の言葉に把われている人々に、劣等感を感じる必要はありません。(^_^)


守護の神霊に感謝することを忘れずに
No.382 森島恒吉    1999/05/15 (土) 07:31 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさんのご質問の中で、「個の時代」という言葉がありました。これは外国の自己啓発書にある言葉
から引用した言葉だと思います。一国の存続を優先する時代にあっては、個人の自由意思よりも国の政策
が優先され、個人の自由な生き方ができにくい時代でした。しかし現代は、自由圏諸国に限られますが、
個人の自由が尊重され、思想の自由、行動の自由、富の自由があります。日本においても、戦後になって
から、個人の自由が尊重されるようになり、自由に意見が主張できるようになりました。いまだに思想の
自由を禁じられている国のあることを思うと、これはじつにありがたいことです。

さて、昌美先生がお使いになる「個」というのは、昌美先生の法話を拝見している限り、「あなた方は、
神であるのだから、自分以外の他の何物にも頼るな」というニュアンスが、あるように受け取られます。
それは、昌美先生が「我即神也」を教え始めてからは、ここ数年間、講話を除いて、「守護霊、守護神へ
の感謝の祈り」に関する記述がほとんどなくなってしまったからです。この事実は、昌美先生が、他力行
を捨てたことにほかなりません。昌美先生は「五井先生の教えは他力の教えです」と説きながら、昌美先
生ご自身の教えについては、「他力である」とは説いておりません。これはなぜか?

「私は完全な神である」と宣言してしまったら、今さら他の誰かに頼ったり、他の神霊に頼ったりするこ
とは、論理的におかしいからです。完全な神が、宗教指導者に頼ってお浄めしてもらったり、外部の守護
の神霊に頼ったりすることは、明らかに自己矛盾です。昌美先生は、そのことを知っていて、守護の神霊
への感謝の祈りについては、「我即神也」の教えに付加していないわけです。いつも申しておりますよう
に、真実に神我一体になった人間が「私は神である」と宣言することは、それは真実であるのですから、
そこには嘘はありません。しかし、まだ真実に神我一体の心境になっていない者が、「私は神である」と
宣言しますと、それは嘘なのですから、守護の神霊に頼らない分、自力行になってしまうのです。

本当に健康な人が「私は健康である」と言い、本当に大金持ちの人が「私は金持ちである」と言うならば
それは嘘ではありません。しかし、病人が無理に「私は健康である」と言い、実際は貧乏生活をしている
人が見栄を張って「私は金持ちである」と言うのは、言う方も恥ずかしいでしょうが、その言葉を聞いて
いるほうも、なんともそらぞらしく聞こえて、偽善の言葉にいたたまれない気持ちになります。それと同
様に、安心立命も得ていない人間が「私は神である」と宣言しているのは、見ていてどうにもやりきれな
い感じがします。ことさら、そんなことを唱えるのは、悟っていない証拠であるからです。

他力行を経ないで、いきなり絶対力(神我一体)の境地を得ようとしても、それは無理であるのです。絶
対力をそのまま宣言しても、絶対力が現れないように、法則としてできているからです。ですから、絶対
力をやっているつもりでも、結果的には自力行をやることになってしまうのです。そこでいつまでも悟れ
ずに苦しみつづけるのです。守護の神霊に頼ることは、肉体人間として恥ずかしいことではありません。
大神さまが、肉体人間を救おうとして、守護の神霊をつかわして下さったのですから、その愛の御手にし
っかりつかまって、救っていただいたらよいのです。守護の神霊に頼ることこそ、素直な生き方と言える
のであって、地球が滅亡するか滅亡しないかの瀬戸際の今にいたって、今もなお守護の神霊の助けを拒否
して自力行をやろうとする生き方は、わがままな幼児と同じで、素直でない生き方なのです。

私たちは、守護の神霊に頼り、守護の神霊の加護の力にすがり、守護の神霊に自己の運命を委ねて生きて
ゆきましょう。守護の神霊にとって、私たちのように全託している人間ほど、楽に導きやすい人間はいま
せん。その反対に守護の神霊のほうに顔を向けず、想いを向けない人間を、指導してゆくのは、守護の神
霊にとって非常に苦労するのです。どちらの生き方が、より良い運命を生きられるかは、わかりきったこ
とです。守護の神霊の導きに素直に生きている人のほうが、運命が善くなるのは当然のことです。

守護霊さま、あなたさまに、私の運命をすべてゆだねます。
守護霊さま、あなたさまの英知のままに、私をお導き下さい。
守護霊さま、あなたさまの慈愛のままに、私をお守り下さい。
守護霊さま、守護神さま、世界人類を一日も早くお救い下さい。
守護霊さま、守護神さま、お願いいたします。

このように守護の神霊に、すべてを委ねて、「世界平和の祈り」を祈っていれば、あなたの運命は日増し
に善くなってゆき、あなたが幸福になると同時に、世界平和も実現されてくるのです。守護の神霊の加護
のお力なくして、個人の幸福も世界の平和もなし得ないのです。守護の神霊に感謝することを忘れずに、
「世界平和の祈り」を祈り続けてまいりましょう。


「五井先生と神界との約束事」だけが真実である
No.388 森島恒吉    1999/05/16 (日) 13:21 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさん、はじめまして。この"PEACE NIFON"をホームページに設定して、いつも熱心にお読みいただ
き、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
それではご質問に、お答えしたいと思います。

[質問1〜次元について〜]

哲学的(宗教的)な意味で次元に言及した場合には,たとえば
3次元が肉体界,4次元が幽界,5次元が霊界,6次元が神界,7次元がその上の神界
などと解釈しても間違いないと思われるのですが..
 
[お答え1]

私は、五井先生の教えを忠実に伝えることを天命としています。次元については、五井先生は明確な定義
をなされなかったので、「3次元が肉体界,4次元が幽界,5次元が霊界,6次元が神界,7次元がその
上の神界 」と、ここで定めるわけにはいきません。肉体界は、一つしかありませんが、神界、霊界、幽
界には、実際には無数と言えるほど段階がありまして、その一つ一つを次元と考えれば、無限次元の世界
が存在することになります。

昌美先生は、富士聖地が「3.75次元になった」とか、「4次元になる」というお話をされていますが、
それがいったい具体的に何がどうなる、というのでしょうか。もっと具体的に説明してほしいものです。
抽象的な言葉の羅列では、SF小説を書いている作家の空想や、少女マンガの魔法を使う少女のセリフと
なんら変わりありません。

昌美先生は「私は神である、人は神である、人類は神である」と宣言しています。だったら、なぜ「(神
が住んでいる)富士聖地は神界である」と宣言しないのでしょうか。一方で「人類は神である」と実相論
を説きながら、その一方で、なぜ、3.75次元などという「人類はまだ神ではない」という現象論の発言
をされるのでしょうか。なぜ、神が住んでいる地球の土地が、まだ3.75次元なのでしょうか。それは昌
美先生ご自身が、「人類は神である」と心の中では、本当には思っていない証拠なのです。昌美先生ご自
身が、まだ実相論に徹することができないからなのです。昌美先生の頭の中は、実相論と現象論が矛盾し
たまま混じってしまっているのです。

五井先生は、「この世の波動は霊界のように微妙になってゆきます。それはスピードが速くなってゆくと
いうことです」というお話はされましたが、次元についての詳しいお話はされませんでした。ですから、
私も宗教的な次元について定義することは、さけているのです。それにすでに私は、肉体界にいながら、
同時に神界に住んでいるのですから、3.75次元とか4次元とか、そんな話には全く関心はないのです。

[質問2〜二つの約束事について〜]

(世界平和の祈りの約束事)
この祈りは五井先生と神界との約束事で,この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き,
自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。

(我即神也の約束事)
この宣言は昌美先生と宇宙神との約束事で、この宣言をすることによって,神そのものの自己の
真の姿を顕現し、人類に示してゆくのです。

この2つの約束事を比較すると,「世界平和の祈り」は、個人人類同時成道の道なのに、「我即神也」は
自分自身の光明化だけのかたよった道のような気がします(小乗?)。
「神そのものの自己を顕現」することは、信仰を持つ者すべてにとって、魅力あるものと思いますが
私のような凡夫にとっては、正直いって難しいです。従って私のような凡夫は,易行道の消えてゆく姿で
「世界平和の祈り」をがんばればよいのだ、ということが、新たに発見できました。

森島先生,私の意見は間違えていますでしょうか?

[お答え2]

あなたのご意見は、間違っておりませんが、あなたが二つを比較しているということは、昌美先生の「我
即神也」を少しは信じている、ということが、うかがわれます。ところが私は、「我即神也」の宣言その
ものを、まったく信じてはいないのです。当然、「我即神也」の約束事も、私は信じてはおりません。

「我即神也」の宣言文には、「私の行為は、神そのものの行為である」と説きながら、同じ文面の中で、
「人が自分を見て、『吾は神を見たる』と思わず、思わせるだけの自分を磨き高め上げ、神そのものとな
るのである」と書いてありますが、国語の先生が指摘するまでもなく、これでは「神である」のか「神と
なる途中の段階である」のか、どちらなのか、わかりません。こんな矛盾した文章を、宇宙神が書くと思
いますか?宇宙神が、こんな矛盾した幼稚な文章を書くわけがないではありませんか!

ついでに書いておくと、「人類即神也」についても、「私が思うことは、人類の平和のみ、私は光そのも
の、真理そのもの、神の存在そのもの…」と説きながら、その一方で「地球上の天変地変、環境汚染、飢
餓、病気、…世界中の戦争、民族紛争、宗教対立は…プロセスである」と昌美先生は説いています。完全
な神の世界に、天変地変も、環境汚染も、戦争も無いのです。しかし、それらの現象をプロセスと見てい
ることは、無いはずのその現象が、まだ存在していることを意味しているではありませんか?完全な神で
ある人が、なぜ、不完全な現象を見なくてはならないのでしょうか?完全な神ならば、完全な現象しか、
見ないはずではありませんか?ここにおいても、昌美先生は、実相論に徹しきってはいないのです。

昌美先生は、高過ぎる実相論を説くものですから、実相論一本で説明しきれなくなり、現象論を持ってき
たり、五井先生の「消えてゆく姿」のプロセスの教えを混ぜたりして、矛盾だらけの複雑怪奇な、わけの
わからない文章になってしまっているのです。こんな幼稚で馬鹿げた文章を「宇宙神との約束事である」
と信じて、毎日唱えている人は、頭がよっぽど、いかれているのです。宇宙神に対しても、冒涜している
ことになります。原点である五井先生の教えに早く還ってほしいものです。

[質問3]

昌美先生は五井先生の波動を受信可能だから、五井先生が後継者に御指名された筈ですから,「約束事」
は自己宣言では無くて、本当に「約束事」なのではないでしょうか?
実は,約束事のお相手の宇宙神とは,五井先生が太陽系の宇宙神になられたものでは?と私は考えており
ます。(少し変かしら)

[お答え3]

「我即神也」に付記されている「宇宙神と昌美先生の約束事」は、真実のものではありません。昌美先生
の潜在意識がつくり上げた妄想にすぎません。

「世界平和の祈り」に付記された「五井先生と神界との約束事」には、「世界平和の祈りを祈れば、自分
が救われるとともに、世界人類の光明化に絶大なる力を発揮する」と書いてあります。この約束事だけで
私には充分に思われます。これ以上の約束事は無いではありませんか。


昌美先生に関することは、昌美先生に尋ねて下さいね。
No.391 森島恒吉    1999/05/17 (月) 00:24 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさんのご質問にお答えします。Kさん、ありがとうございました。

[質問1]

昌美先生は、「世界平和の祈り」を広めて、世界平和を実現する中心的なお働きをする方であることは、
間違いの無いことである、と思います。そして昌美先生以外に、世界平和を実現する、現実的な力のある
人はいないと、私は思います。

[お答え1]

あなたの昌美先生に対する信仰は、非常に立派である、と思います。どうぞ、昌美先生をこれからも固く
信じつづけて、昌美先生の教えに従って、ご立派な信仰をお続け下さい。

[質問2]

昌美先生の天命は、宗教指導者ではなく、五井平和財団等の会長として、世界の平和実現をはかることな
のではないのでしょうか?

[お答え2]

昌美先生は、現在、宗教法人白光真宏会の会長であり、同時に五井平和財団の会長でいらっしゃいます。
各々の団体の会長職については、ご本人が望んだことであり、ご本人の自由な意志で、決めたことです。
それについて、私のような者が、とやかく口出しすべきことではありません。あなたが、そのほうが良い
とお考えならば、あなたがご自分で、昌美先生にご提言されたらよろしいでしょう。

[質問3]

しかし、白光真宏会は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
凡夫の手の届かない、高い、高い所へ行ってしまったのでしょうか?
また、これから何処へ行ってしまうのでしょうか?

[お答え3]

白光真宏会は、昌美先生が代表をつとめているのですから、昌美先生の自由な意志のままに、これからも
運営されてゆくでしょう。行く末については、昌美先生に伺って下さい。

[質問4]

ところで、地湧の菩薩とは、白光会の神人のことですか?

[お答え4]

そのことを話した人に、直接に伺って下さい。 私は、存じあげません。

あなたの天命が完うされますように


私たちは、すべての人を愛しています。
No.400 森島恒吉    1999/05/18 (火) 21:25 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Kさん、ありがとうございます。宗教指導者として、私に従いたい、というあなたの真摯なお気持ちは
よくわかりました。ここは昌美先生を批判するページではなくて、五井先生の教えを信仰し、五井先生の
提唱された「世界平和の祈り」を唯一の行としている人たちのページです。あえて、昌美先生を批判する
必要はありません。あなたも、ぜひ私たちと一緒に、「世界平和の祈り」を祈って下さい。

五井先生の教えと昌美先生の教えが正反対のために、愛する昌美先生の教えを立てたいのは、私もやまや
まなんですけれど、昌美先生の教えを正しいと立てれば、五井先生の教えを否定することになってしまう
のです。五井先生の教えを立てれば、今度は昌美先生の教えを否定することになってしまう。五井先生と
昌美先生の両方を、私は立てたいと思うのですけど、お二人の教えが正反対のために、どちらかを立てれ
ば、どちらかを否定しなくてはなりません。ここが私の苦しむところなのです。

五井先生の教えと昌美先生の教えを、よくよく比較してみて判ったことは、「五井先生の教えのほうが正
しい」という結論でした。もし、「昌美先生の教えのほうが正しい」という結論が出たら、私は五井先生
の教えも本も、すべて捨ててもかまわない、と思うのです。私の理解力、私の直観力で考えた末に判った
ことは、「五井先生の教えは正しい」という結論だったのです。誰かに言われたから、そう思ったのでは
ありません。誰かに、そう信じるように言われたからでもありません。どう考えても、「五井先生の教え
のほうが正しい」と、私には思えるのです。

そこで、五井先生の教えである「正しい宗教と誤れる宗教」を比較し、五井先生の教えを説きますと、否
応なく、昌美先生の教えを否定することになってしまうのです。私とても、昌美先生を批判したくはあり
ません。しかし、五井先生の教えを肯定すれば、昌美先生の教えを認めるわけにはいかないのです。昌美
先生の教えを否定しなくては、五井先生の教えを肯定できないからです。

たとえば、「祈りと念力」について、五井先生は念力を否定しているのに、昌美先生は「これは念力では
ない」と言いながら、実際には念力行を自身もやり会員にも勧めております。もし、昌美先生を立てよう
とすれば、五井先生の教えを否定しなくてはなりません。五井先生の教えを否定してしまったら、私の信
仰は根底から崩れます。そんなことは、できるはずがありません。そこで涙をのんで、昌美先生の教えに
ついて批判をしなければならない時もあるわけです。これは五井先生の教えを生かすためであるのです。

五井先生が「真実の宗教とは、こうした教えである。誤った宗教とは、こうした教えである」と説かれた
ことを、私はそのまま伝えているだけなのです。何度説明しても、なかなかわかってもらえないので、私
もくどいほど言いますが、私は、五井先生が説かれたことを、そのまま同じように説いているだけなので
す。私が説いていることは、その前に五井先生がすでに説かれた事柄なのです。私の説いている教えは、
五井先生の本に書かれてあることなのですから、五井先生の本をよくお読みになっていただければ、その
事実は、必ず納得していただけるはずなのです。

ところが、五井先生の本を少しも読み返そうともせずに、昌美先生の教えを頑固なまでに信じている人達
から見ると、まるで私が鬼のような世にも恐ろしい怖い人間に見えるらしく、私が昌美先生を執拗なまで
にいたぶっているようにさえ、見えるらしいのです。この事態は、私にとっては実に不本意なことであり
まして、五井先生の教えを忠実に守り、五井先生の教えを愛情をもって親切に正しく教えてあげているの
ですから、こうした言い方は自慢のように聞こえるので、あまり言いたくはありませんが、本来ならば、
人々から涙を流すほど喜ばれ、「よくぞ教えて下さいました」と両手を地面につけ額を地面にこすりつけ
たくなるほど深く感謝されてもおかしくはないほどの愛の行為をしているのです。

私には、昌美先生に対する怒りも憎しみもありません。ただ、愛の光だけがあるのです。誤った宗教観も
人類の業想念がつくり出したものであり、それもすべては消えてゆく姿と観じて「世界平和の祈り」を祈
り続けているのです。あなたも、五井先生の本を再度読み直して、五井先生の教えを学び直してみること
をお勧めします。ご一緒に、世界平和実現のために働いてまいりましょう。私たちは、すべての人を愛し
ているのです。ありがとうございました。

あなたの天命が完うされますように