森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


自然法爾
No.101 森島恒吉    1998/12/05 (土) 02:36 静岡県
世界人類が平和でありますように

1990年頃に五井先生の教義を明確に悟り、1995年に唯一会を創立し、今年1998年5月に唯一会のホーム
ページを開設して、11月には見学者が2000人を突破しました。私自身の能力不足のために私の平和活動は
遅々としておりますが、「世界平和の祈りは最高の祈りである」という五井先生の神示を伝える天命を授
けられたことは、なんにもまして幸せなことだと思います。また、少数の意見であっても、無名でなんの
地位もない人間であっても、1万部の本を出版した人以上に、世界に向かって自分の意見や思想を広く発
表できるインターネットの出現は、私にとっても幸運なことでした。

インターネットのホームページは、見たい人が見ればよく、見たくない人は見なくともよいのですから、
押しつけがましさがなく、見る側が見たいものを自由に選択できるところがいいですね。車でもパソコン
でも、ユーザー側で自由に好きなものを選択できるということが大事であるように、宗教でも信仰の生き
方については、会が画一的に「こうしなさい」とトップダウン式に軍隊のように信者に押しつけるのでは
なく、信者が自分の自由な意志で自分の生き方を選択できる自由な環境が必要なのです。

デパートに行ったとき、地下の食料品売り場から屋上まですべての商品を見て回り、すべての商品を買う
必要はありません。「これはいかがですか?」と店員から次々と勧められるネクタイや香水を、すべて買
う必要はありません。自分の気に入った物を、自分に必要なだけ買えばよろしいのです。それと同じよう
に、一つの宗教団体の中の教えでも、「この行法もあります。あの行法もあります」とたくさんの行法を
教えられても、無理にすべての行法をやる必要はないのです。それで「あなたは信仰心が足りない」と責
めてくる人もいますが、責める人のほうが誤りなのですから、いずれ消えてゆきます。

「世界平和の祈り」は最高の祈りであり、最高の行法であると、私は思います。そう信じている私にとり
ましては、「世界平和の祈り」以外の行法には、少しも興味がありません。「世界平和の祈り」を祈りつ
づけてゆけば、守護の神霊と一体化して、私たちは真実に幸せになれるのです。私たちは神性を開発でき
るのです。私たちは世界を平和にすることができるのです。「世界平和の祈り」は一つの欠陥も無い、た
だ一つの完全な祈りであり、完璧な行法であるのです。それに対して「世界平和の祈り」以外の祈りや行
法には、どこかに欠陥というものが潜んでいるのです。完全な行法は「世界平和の祈り」だけなのです。

私の背後にいる神霊は、「世界平和の祈りは最高の祈りである」と、この一言だけを力強く繰り返し私に
伝えてくるのです。皆さんは、この世の損得を、あまり計算しすぎてはいけません。この人についたほう
が得だろうとか、あの人についたら損だろうとか、損得を計算しておりますと、神霊から流れてくる神智
の直観力をさまたげてしまい、業想念に惑わされてしまうのです。たとえば、「この人とこの人のどちら
と結婚したらよろしいでしょうか?」というような質問を受ける時がありますが、「この人と結婚した場
合には、将来はこのくらいの収入で、この程度の暮らしができて、あちらの人と結婚したら、この程度の
暮らしだろうから、こちらの人がいいかな」と、あまりにも損得を計算しすぎてしまいますと、直観力が
鈍ってしまい、神智の正しい判断ができなくなるときがあるのです。

私は最初たった一人だけで「世界平和の祈りは最高の祈りである」と唱え始め、白光真宏会の会長にも理
事長にも訴えたのですが、残念ながら聞き入れてもらえず、しかたなく「世界平和の祈りは最高であると
信じる唯一会」を私一人で創ったのでした。常識からいえば、こんな私の行為は、損な行為と見えること
でしょう。しかし、私は、そうしたこの世の損得を計算せずに、自分の直観力を信じて行動したのです。
その結果、それまでは人々の上に立って指導するつもりはまったくなかったのに、「世界平和の祈り」の
中心者として働くという思いがけない天命を、神様から授けられたのです。ですから、熟慮して祈って、
また熟慮して祈っても、どうしても「自分の意見のほうが正しい」と直観的に判断したら、数万人と意見
が異なっても、自分の直観力を信じて、自分の思う通りに実行したらよいのです。

私はただ「世界平和の祈り」を祈っていればよいのですから、ほんとうに気楽な立場です。もし、私の考
えに賛同する方々がいるならば、しだいに私のもとに集まってくることでしょう。もし、私の考えに賛同
する人が現れなければ、私は一人であの世に行くことでしょう。真理を知っている私にとっては、どちら
でもかまいません。また、私の心の中には「将来はこうしよう」とか、特別に予定していることは、一つ
もありません。「世界人類が平和でありますように」とただひたすら祈っているだけで、何も想いが無い
のです。直観的に、守護の神霊の導くままに、私は実行しているのです。守護の神霊に全託した後の心境
は、安心立命した自然法爾の境地になるのです。

親鸞が八十八歳の時に書いた「自然法爾」についての美しい文章を、ここに載せておきましょう。

−親鸞八十八歳御筆(ごひち)−(古語のまま、句読点は筆者)

「自然(じねん)といふは、自(じ)はおのづからといふ。行者のはからひにあらず、しからしむといふ
ことばなり。然(ねん)といふは、しからしむといふことば。行者のはからひにあらず。如来のちかひに
てあるがゆへに。

法爾(ほふに)といふは、如来の御(おん)ちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふ。この法爾
は、御(おん)ちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆへに他力(たりき)
には義(ぎ)なきを義とすと、しるべきなり。

自然(じねん)といふは、もとより、しからしむるといふことばなり。彌陀仏(みだぶち)の御(おん)
ちかひのもとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからせ
たまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然(じねん)とはまふすぞと
きゝてさふろふ。」


念仏は易きが故に一切に通ず
No.102 森島恒吉    1998/12/05 (土) 06:19 静岡県
世界人類が平和でありますように

法然は、易行道と難行道の違いを説いた上で、「念仏がすべての民衆にとって救われの道である」ことを
懇切丁寧に説いております。古文ではありますが、内容はそう難しくはない文なので、法然の書いた「選
択本願念仏集」より、「念仏は易きが故に一切に通ず」と説いている箇所を紹介しましょう。法蔵比丘が
なぜ「称名念仏の一行」のみを本願としたのかが、詳しく説明されています。いつも申しておりますよう
に、「世界平和の祈り」は念仏と同じ他力易行道であり、自力難行道ではないのです。

−法然「選択(せんちゃく)本願念仏集」より−(古語のまま、句読点は一般の注釈に従う)

念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。
しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、
難(なん)を捨て、易(い)を取りて、本願としたまふか。

もしそれ造像起塔(ぞうぞうきとう)をもって本願とせば、
貧窮困乏(びんぐうこんぼう)の類(たぐい)は
定(さだ)んで往生の望(のぞみ)を絶たむ。
しかも富貴(ふき)の者は少なく、貧賤(ひんせん)の者は甚だ多し。

もし智慧高才(ちえこうさい)をもって本願とせば、
愚鈍下智(ぐどんげち)の者は
定んで往生の望を絶たむ。
しかも智慧の者は少なく、愚痴(ぐち)の者は甚だ多し。

もし多聞多見(たもんたけん)をもって本願とせば、
少聞少見(しょうもんしょうけん)の輩(ともがら)は
定んで往生の望を絶たむ。
しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。

もし持戒持律(じかいじりつ)をもって本願とせば、
破戒無戒(はかいむかい)の人は
定んで往生の望は絶たむ。
しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。

自余の諸行、これに准(じゅん)じてまさに知るべし。

まさに知るべし。
上(かみ)の諸行等をもって本願とせば、
往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からむ。

しかれば則ち、彌陀如来、法蔵比丘(ほうぞうびく)の昔、
平等の慈悲に催(もよお)されて、
普(あまね)く一切を摂(しょう)せむがために、
造像起塔の諸行をもって、往生の本願としたまわず。
ただ称名念仏の一行(いちぎょう)をもって、
その本願としたまへるなり。


神さまからすべてを頂き直そう
No.104 森島恒吉    1998/12/07 (月) 00:22 静岡県
T.F.さんへ

世界人類が平和でありますように
いつもお読みいただき、また「歩きながらの世界平和の祈り」も実行して下さっているそうで、ありがと
うございます。ご質問にお答えさせていただきます。

【ご質問】
疑問に思っていることがあります。現在の社会では、競争が激しく、会社内でも仕事の奪い合いのような
ことがおこります。そして悪い言葉で言えば、腹黒い所がなければ、良い評価は得られない(出世はでき
ない)ようなところもあります。また、スポーツなどでもポジション争い(競争)があります。これらは
五井先生御著書"神と人間"に書かれている「分霊が直霊から縦取りをしないで、分霊同士互いに横取り
を始めた」と、どのような関係があるのでしょうか?

【お答え】
T.F.さんは、五井先生の教えを実によく勉強なさっておられますが、「神と人間」を読んでいない方々の
ために、ご質問の箇所について書かれた前後の文章を補足してから、お答えしましょう。

「神と人間」五井昌久先生著(白光真宏会出版局)より抜粋
「……分霊の創造の始めにおいておこされた想い(光の波動)は、神より来たる本来因果(真善)であっ
たが、肉体界に自己限定を始めた頃より生じた想いが業因となって、人類の悲劇が始められたのである。
即ち、自己限定した各分霊は、お互いの不自由性を解放しようとして、縦である直霊にむかわず、横につ
ながる兄弟姉妹である分霊魂から、その自由を得ようとし始めた。即ち、『縦取りをしないで横取り』を
しはじめたのである。そして、幽体及び肉体に蓄積された想い(知識)並びに腕力を使い合って、闘争の
歴史を繰りひろげていったのである。しかし、時折り、みずから閉じ込め、今は閉じ込められた肉体の隙
間から、神の顔を、その光明を、ちらりと観ては、蓄積された想念の中から、かつての自分の光を見出し
直霊にむかって救いを求める祈りの絶叫を挙げるのである。これが信仰心の始まりであった。……」

自己限定した分霊が、自由を得るために、直霊から縦取りをしないで、兄弟姉妹の分霊魂から横取りをし
はじめた、ということは、つまりその時点から「人類の闘争が始まった」ということになります。地球人
類は、肉体生活の自由を得るために、神から自分に必要なすべての物を授けていただくということを忘れ
て、兄弟姉妹と争い合ってまで、必要以上に土地や物やお金を奪い合うようになりました。この闘争行為
は、肉体界に自己限定してしまった古代から現代にいたるまで、ずうっと続いてきております。

ご質問にあります「社会での競争、会社内での仕事の奪い合い、出世競争」などは、自己限定した分霊が
兄弟姉妹の分霊と争って、物質を横取りしようとしてきた、過去からの闘争習慣からきた行為であること
は、間違いありません。同じ会社に勤めている社員なのですから、お互いに助け合えば会社が発展するの
に、現実にはお互いに悪口を言い合って、お互いの足を引っ張り合い、相手をけなすことによって、自分
を高く見せようとする人が多いようです。そうした行為は、過去からの習慣性のものであるわけです。

競争といっても、学生たちが受験競争をしたり、自動車会社が車の販売競争をしたりする行為は、切磋琢
磨となって、競争している本人も社会も向上してゆくのですから、多少マイナス面はあるものの、現在に
おいては必要なことであり、悪い行為とはいえません。また、スポーツも表面的には戦っていても、路上
のケンカと違って、憎悪から戦うのではなく、自己の肉体能力を高めたい、という本心からきているので
すから悪いことではありません。むしろ、自己の奥に潜む闘争心を、スポーツに昇華してゆく形は望まし
いことであります。このような競争は、他人を殺傷したり、他国を侵略したり他国と戦争するような闘争
心とは、まったく別の行為と考えてよろしいのです。

会社内で出世するためには、おっしゃるように「腹黒いところがなければ、上司から良い評価が得られず
出世できない」ということも確かにありますが、出世する人には欠点や嫌な面があっても、それ以上に何
かしら人に抜きんでた才能や努力があるものです。だから出世するのであって、腹黒いだけの姑息な手段
で出世しても、いつかは化けの皮がはがれてしまうものです。もし、他の同僚が腹黒い手段で、どんどん
出世してゆき、あなた一人がいつまでたっても平社員だったとしても、上司の誰からも認められなくとも
正しく生きていることは、人間の生き方として最高の生き方であり、神様に褒められることなのですから
他人に左右されず正しく生きることを、私はお勧めします。この世で一生、あなたが平社員のままであっ
ても、真面目に正しく生きていれば、子供や孫の代で、あなたのその正しい生き方が、きっと実を結び花
を開かせることでしょう。

自分は正しく生きようと思って、正しく生きることができるならば、それにこしたことはありません。し
かし、現実には、正しく生きるということが、非常に難しいということもあります。たとえば、自分の会
社が、他の会社に勝つために、不正に経理を操作したり、賄賂を関係者に贈ったり、裏で談合をしている
というような事があって、自分がその担当責任者として働かねばならない、という立場に立たされた場合
に、良心の強い人ほど悩んでしまいます。そうした隠された悪の行為も、時代がたつにつれて表面に現れ
てきて、警察に逮捕されたり、新聞テレビのマスコミに暴かれて、しだいに無くなりつつありますが、そ
れでもなお、法律にひっかかる寸前の悪行為が行なわれております。どうしても不正の行為をするのが嫌
なら、会社をやめればよいのですが、しかし会社をやめれば、家族を食わせてはゆけなくなる、という立
場に立った場合、どうしたらよいのか?

こんな場合、どうしたらよいのか、五井先生は教えて下さっています。
「この世の中の道は、曲がっているのです。その曲がった道を、真っ直ぐ歩いてゆくことはできません。
そこでどうしたらよいかというと、曲がった道を曲がりながらも、その道を浄めてゆけばよいのです」
つまり、家族を食わせるために、会社や職場での不正に加担せざるを得ない場合は、次のように祈りつつ
与えられたその立場で、全力を尽くしたらよろしいのです。
「守護霊さま、私たちの天命が完うされますようにお守り下さい」
こう祈っていれば、もし、新聞ざたになるような大事件に巻き込まれるような時は、神秘的な予知能力を
持っている守護霊が、前もって自然な形で、あなたをその立場から抜け出させてくれます。また、会社や
組織の不正を隠蔽するために、自殺する人がおりますが、絶対に自殺してはいけません。警察に会社の不
正を話さなくてはならない時になったら、そういう時こそ良心を強く働かせて、会社の不正を隠さずに明
らかに話すという勇気も必要です。そうした判断や決断は、守護の神霊に日頃から感謝している人は、守
護の神霊からインスピレーションが伝ってきますから、おのずと判ってくるものなのです。

同じ肉体界に住んでいて、同じ人間の格好をしておりますから、皆さんすべてが同じ心境かというと、そ
うではありません。いまだに原始時代の野蛮人のような進化の遅れた人がいるかと思うと、神性の開発さ
れた素晴らしく進化した魂の人も、同じ地球に同居しているのです。「世界平和の祈り」を理解できて、
日々「世界平和の祈り」を祈って下さっている方々は、地球人の中でも最も進化した人間であるのです。
ですから、会社の同僚が、腹黒く、悪口を言いあっていたとしても、進化しているあなたが、進化の遅れ
ている人々に妥協する必要はありません。

あなたは、出世に目を奪われず、他人の仕事を奪わずに、守護の神霊に感謝しながら、清く、正しく、美
しく生きることです。それでも生きてゆけないならば、死んでもいいではありませんか。しかし、守護の
神霊に全託している人を、守護の神霊は決して見放しはしません。あなたが守護の神霊の存在を信じて、
正しく生きていれば、守護の神霊は、必ずあなたを守ってくださるに違いありません。地球人類にも、い
ずれは、各々が天命のままに自由に生きながら、誰とも競争しなくてもすむ、競争の無い社会が実現され
るのですが、それまでは、私たちは守護の神霊としっかりとつながって、守護の神霊のご加護の下に生き
てゆく必要があるのです。たとえ荒波さかまく不安な世の中にあっても、守護の神霊のご加護があれば、
穏やかな水面を行く大船に乗ったように、安心して生きてゆくことができるのです。

あなたの天命が完うされますように。


あなたは世界を平和にするために生まれてきたのです
No.105 森島恒吉    1998/12/09 (水) 06:58 静岡県
世界人類が平和でありますように

宇宙ステーションの組み立てが始まり、宇宙時代への第一歩が始まりましたが、地球上ではいまだに戦争
が続いており、人類の快挙を心から喜んでばかりもいられません。日本のテレビニュースには、海外の戦
争の実況報告がほとんどありませんが、海外のABCやCNNのニュースを見ますと、宗教や民族の対立が原因
で、銃を持った人たちが撃ち合っている様子や、放置された死体、爆撃で破壊された家々、悲嘆にくれる
市民たちのありさまが、毎日のように報告されています。

国が平和であることは、国民にとってはなんにもまして幸福なことで、日本は徴兵制もないのですから、
自分の幸福だけを考えて生活してゆけばよいのですし、総理大臣の悪口を言ってもとがめられない、言論
の自由があるのですから、どこの国よりも恵まれた国民といわざるをえません。平和と豊かな水に恵まれ
た私たちは、ほんとうに幸せだと思います。日本の天命は、世界において平和の中心国であり、世界を平
和にする、という天命を持っているのです。私たち日本人は、世界中の人々に向かって「世界人類が平和
でありますように」と祈りつづけ叫びつづけてゆく天命があるのです。私たちは、世界を平和にするため
に、生まれてきたのです。

一人一人の力は小さなものですが、「世界平和の祈り」を祈る人々が、十万人、百万人となってゆきます
と、善集団の巨大な善力というものが生まれてきて、地球は急速に平和実現へと向かってゆくのです。一
人で祈るのもいいし、集団で祈るのも自由ですが、時間があれば、一人より二人で、二人より三人で、と
いうふうに集団で祈ることが、人類の霊性開発を早く促進させることは事実なのです。日本人が、世界に
さきがけて、心を一つにして「世界平和の祈り」を祈り、平和の模範国としようではありませんか。

宗教の目的は、あくまでも本心開発にありますが、かといって、現世利益や奇蹟のない宗教では、人々を
魅了せず、多数の人の賛同を得られず、集団の力が生まれません。「世界平和の祈り」からは、本心開発
(神性開発)と同時に現世利益も与えられ、奇蹟も出現するのですから、「世界平和の祈り」は広まるに
きまっているのです。「世界平和の祈り」を祈っていれば、必要なすべてを神さまから与えられ、念力と
はくらべものにならないくらいの大きな奇蹟も起こってくるのです。「世界平和の祈り」を祈る私たちを
通して、神々は今も光明を放っているのです。


冷酷な業因縁の法則を捨て、愛の祈りを伝えよ。
No.106 森島恒吉    1998/12/09 (水) 16:52 静岡県
世界人類が平和でありますように

「相手を神の子として拝めば、相手は神の子として現れるのです」
「『私はできる』と想えば、あなたはできるのです」
「『病気や不幸は無い』と想えば、病気や不幸は無くなるのです」
「『私は神の子である』と想えば、神の子になれるのです」

想念の法則を使ったこうした言葉の中には、人を責め裁く意味はありません。ところが、念の法則、業因
縁の法則というのは、知らないうちに、人を責め裁く言葉に変容してゆく性質があることを知らねばなら
ないのです。相手を神の子として拝んでも、「私はできる」と思っても、現実には業想念の力が強くて、
そうそう思う通りにはいかないものです。思う通りにいかない場合のほうが多いのです。そうした現実に
直面して、再び宗教指導者に相談しますと、今度はこんなふうに言われるようになるのです。

「相手を神の子として拝まないから、相手が悪く現れるのですよ」
「自分はできると信じないから、あなたはできないのですよ」
「病気や不幸は、あなたが自分で引きつけているのですよ」
「神の子になれないのは、あなたの否定的で破壊的な想念が原因であり、当然の結果です」

このように業因縁の法則というのは、人を責め裁く言葉へと変質変容してゆく欠陥が潜んでいるのです。
業因縁の法則の教えの中には、愛はありません。五井先生は、この業因縁の法則の欠陥を悟り、業因縁の
法則を超える方法として、守護の神霊による救われを教えて下さったのです。五井先生の教えを継承した
私も、五井先生と同じく、このような念の法則を利用した指導法は致しません。守護の神霊による救われ
を説く「世界平和の祈り」の教えには、念の法則のような人を責め裁くという欠陥が全くないのです。
皆さんも業生の法則の欠陥を悟り、業生の法則を捨て去り、「愛の祈り」を人々に教え伝えて下さい。


我は神なりと宣言しても、神にはなり得ない。
No.107 森島恒吉    1998/12/09 (水) 22:35 静岡県
世界人類が平和でありますように

−「神と人間」五井昌久著(白光真宏会出版局)より抜粋−

…幽界に転移しながらも、肉体界に異常な興味を寄せている霊魂と、幽界のみに生存する感情霊、あるい
は動物霊という、人間のような倫理観や道義など持ち合わせぬ生物がいる。これらの霊魂や生物は悟りか
ら程遠いのであるから、俗事に非常に興味があり、自己の神性を探究することよりも、何か、事件を起こ
して、騒ぎたかったり、崇められたかったりする心が強いので、肉体人間があまりに自己の「欲望達成」
のための神頼みや、奇蹟に頼ったりしているのを見て、茶目っ気を出し、ある種の霊媒素質のある人たち
に送念して、あるいは肉体を借りて口をきき「我は何々の神であるぞ」式に現れ、種々と肉体世界の出来
事の予言をするので、これはなかなか当たるのである。(中略)これらの霊魂は幽界の生物であって、神
からくる守護神、守護霊ではないので、ただたんに面白半分に、肉体人間を驚かし、畏敬させて得々とし
ているのである。肉体人間いえば、不良青年のようなものである。…

五井先生は、幽界の生物について、このように度々教えて下さいました。ふつうの人が判断に迷うのは、
幽界の生物(動物霊)が、この本で五井先生が書いているように、「我は神である」と宣言して現れてく
ることなのです。このような事があるので、昔から霊媒にかかってきた霊魂が、はたして高級霊魂なのか
低級の動物霊なのかを見定める審神(さには)係がいたのです。「我は神である」と唱えて現れたからと
いって、またその予言が当たったり、人の心を見抜いたりするだけの奇蹟で、かかってきた霊魂を「神さ
まである」と思ったりしてはいけないのです。また、欲望達成、願望成就を目的に祈っておりますと、そ
の欲望想念に波長の合った動物霊が感応してきて、やはり「我は神である。汝の願望を成就してやろう」
と語りかけてきて、その人の肉体をあやつって崇めさせるのです。そうなりますと、その人は非常に尊大
ぶったり、下卑た口をきいたりするようになります。あるいは、知性的な人には、とてもついてゆけない
ような矛盾した言動を平気でとるようになったりするのです。

まとめますと、一つは「我は神である」と宣言して現れてきた霊魂が、必ずしもほんものの神様であると
は限らないのですから、「我は神である」という言葉を唱えている人や霊魂を、鵜呑みに信じないこと。
もう一つは、神を「欲望達成・願望成就の道具」としないことです。神への祈りは、自己の勝手な欲望想
念を無くし、想念を浄化していただき、神性を開発していただくためにあることを知らねばなりません。
さて、ここで問題となるのは、「我は神である」と宣言している動物霊も、「我は神である」と常に宣言
して、人間たちに言い聞かせているのですから、想念の法則で、その動物霊が神になることはあり得るか
という問題です。結論をいえば、それはノーです。動物霊であろうと人間であろうと、どんなに「我は神
である」と宣言したところで、永久に神にはなれません。なぜかといいますと、「我は神である」とどん
なに宣言しても、その方法では神には決してなれないように、法則ができているからなのです。ふつうの
人は、憑依してきた霊魂が、はたして高級霊魂なのか動物霊なのか、判断に迷うと先にも述べましたが、
想念の法則でも判断できないとすると、どうしたら動物霊の憑依の危険から免れられるのでしょうか。

それには、まず、常識的な判断に一度立ち返って見るのです。信仰という言葉に把われて、批判力を失う
ことが信仰と勘違いして、善悪の判断もせず、神の言葉のままに「ハイ、ハイ」となんでも従うことが信
仰だと思っている人の肉体は、動物霊にとっては非常に使いやすい肉体であるのです。その反対に、知性
的で常識的な批判力を持つ人には、動物霊にとっては自由に使いにくく、近寄りにくいのです。
そして次に、聞こえてくる「我は神である」という宣言も、「すべてを消えてゆく姿」と一度は思って、
「世界平和の祈り」の中に投げ入れてしまうのです。「我は○○仏である」「我は○○神である」「我は
キリストである」「我は釈尊である」「我は五井先生である」というような言葉が聞こえてきても、鵜呑
みにせずに、すべてを「消えてゆく姿」として「世界平和の祈り」の中へと投げ入れてしまうのです。す
べての神霊の声を「消えてゆく姿」にしたからといって、真実の神霊は怒ることはありませんから、ご心
配はご無用です。そうしておりますと、動物霊のさわりは消えてゆき、自己の想念も浄められて、自己の
神性が開発されてくるのです。つまり「世界平和の祈り」による神性開発法が、もっとも安全で、もっと
も効果的で、もっとも無理のない神性開発法であると、私は言いたいのです。「世界平和の祈り」の本道
から皆さんが外れぬように、そして一時期、本道から外れてしまった人も、再び本道に戻ってこれるよう
にと私は祈りつづけ説きつづけているのです。


「消えてゆく姿」の教えは完全光明思想である
No.108 森島恒吉    1998/12/11 (金) 03:59 静岡県
世界人類が平和でありますように

悪や病気や不幸を見て、「悪も病気も不幸も無いのだ。すべては善なのだ」という実相論は、理想に偏り
すぎた実相論といい、理想偏重実相論といいます。この理想偏重実相論には、「現実に矛盾する」という
重大な欠陥がひそんでいる事実を、皆さんには、まず知っていただきたいと思います。

「すべては善きことである」という言葉は、神界においては真理であるのですが、肉体界にいるふつうの
人にはとてもそうは思えないし、実行できない真理であるのです。悪や病気や不幸や嫌な出来事は、善き
ことではありません。それらは悪きことなのです。それなのに無理やりに「病気や不幸も不完全な姿も、
すべては善なのだ、すべては完全なのだ」と自己に言い聞かせたり思い込もうとしますと、それは現実に
正直でない生き方ですから、偽善者を生む原因となるのです。偽善者となりますと、偽善の想いが本心を
覆い隠してしまい、かえって真理から遠ざかることになるのです。そして、この理想偏重実相論を、自分
ばかりでなく人にも押しつけますと、ふつうの人々にとっては、真理の言葉が励ましの言葉に聞こえるど
ころか、冷淡にさえ聞こえることがあるのです。

五井先生の教える「消えてゆく姿」の中庸実相論では、不都合な出来事は、不都合な出来事と見てよいの
です。悪は悪と見てよいのです。病気は病気として見てよいのです。嫌な事は嫌な事、嫌な人は嫌な人、
汚いものは汚いもの、苦しみは苦しみ、痛みは痛み、間違いは間違い、として業想念の一時的存在を一度
は認めるのです。その上で、それらの不都合な事や不完全な出来事は、永遠に存在するものとは認めず、
すべては消えてゆく姿である、と未来において完全否定するのです。

五井先生は「悪は無い、すべては善である、と思いなさい」とは一言も教えておりません。「悪は今は存
在するけれども消えてゆく姿であり、消えてゆくにしたがって、本質的な善が現れてくるのである」と私
たちに教えて下さっているのです。もっと短くいえば、「悪は消えてゆき、善は現れてくる」という理想
と現実の中庸の位置にくらいした実相論であるのです。五井先生のこの中庸実相論は、理想にも矛盾せず
現実にも矛盾しない、驚嘆すべき神智であるのです。「消えてゆく姿の無い実相論」は、理想には矛盾し
ないけれども、現実には矛盾してしまう、という致命的な欠陥があるのに対して、「消えてゆく姿のある
中庸実相論」は、理想にも現実にも矛盾しない完全な光明思想であるのです。

中庸実相論と理想偏重実相論を合わせて教える宗教者がいます。たとえば、「消えてゆく姿」の教えを説
いたかと思えば、同じ口先から「悪は無い、完全円満、神の子」の教えも説いているのです。真理を知っ
ている者から見れば、明らかに矛盾した話とわかるのですが、その教えを説いている宗教者も、その教え
を聴いている信者も、その二つの教えが矛盾していることに気づいていないのです。

このような宗教指導者は、五井先生の教えを真実に理解していないから、混ぜ合わせているのであって、
皆さんはそのような矛盾混乱した教えや言動に惑わされてはいけません。「今の悪は消えてゆく姿、未来
に人間は神の子になる」という五井先生の中庸実相論と、「今、悪は無い、今、この世は完全円満なの
だ、今、人間は神の子である」という現実を無視した理想偏重実相論とは、全く別の実相論であるので
す。この二つを併用することはできないのです。もちろん、五井先生の教えである「消えてゆく姿」を説
く中庸実相論のほうが、無理なく嘘をつかずに正直に明るく生きられることは、言うまでもありません。

「消えてゆく姿の教えよりも、悪は無いの教えのほうが高い教えだ」と教えている宗教指導者は、過去の
宗教への逆戻りであり、理想偏重実相論の欠陥を知らないから、そんな馬鹿げたことを教えるのです。
今、世界は平和でありません。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」によって、未来において、世界は平和
になるのです。真理に把われて、現実の足元を見失ってはなりません。真理に把われず理想に把われず、
しかも現実にも把われない方法が、「消えてゆく姿」の教えであるのです。この「消えてゆく姿」の中庸
の教えこそが、完全な光明思想なのであり、これ以上のもっと高い光明思想などは一つも無いのです。
五井先生の光明思想を、欠陥のある他の光明思想よりも低めるということは、神への冒涜であるのです。
私たちは、頭は天におきながらも足は大地にしっかりとつけて、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を、
最善の行として、うまずたゆまず祈りつづけてまいりましょう。


中庸実相一元論とその実践法
No.109 森島恒吉    1998/12/13 (日) 06:12 静岡県
世界人類が平和でありますように

【二元論とは何か?】

まず二元論の矛盾に気づくことが、五井先生の教義を理解する最初の段階であると思います。
二元論というのは、どういう意味かと申しますと、これは善悪が二つあるという意味ではありませんで、
異なった二つの原理を、同じ思想の中に併せ持つ、という意味であるのです。一つの原理のもとに統一さ
れている思想を一元論といい、幾つもの異なった原理を含む思想を多元論というのです。

「地球は太陽の周囲を回っているのだ」という意見と、「地球の周囲を太陽が回っているのだ」という意
見は、異なった矛盾した意見です。一人の人間が、ある時は「地球は太陽の周囲を回っているのだ」と話
し、ある時には「地球の周囲を太陽が回っているのだ」と話していたとしたら、その人は二元論の持ち主
ということになります。花子さんに対して「花子さんは好きだけど、さくらさんなんて嫌いよ」と言って
おきながら、さくらさんに会うと「さくらさんは好きだけど、花子さんなんて嫌いよ」と言っている女性
は、やはり二元論の持ち主であるのです。同様に、「人間は神の子である」と説きながら、一方で「人間
は神の子ではない」と説いたり、「あなたは神の子です」と説きながら、一方で「あなたは神の子ではな
い」と説いたり、「あなたは完全である」と説きながら、一方で「あなたは不完全です」と説いている宗
教者がいるとしたら、その宗教者は、矛盾撞着した二元論思想の持ち主といえるのです。

【矛盾した二元論の例】

「人間は神の子なのです。あなたは神の子であるのです。皆さんは神の子であるのです。必ず良くなるの
です。絶対に良くなるのです。幸せになることは間違いないのです。病気も癒されるのです」という言葉
は全く真理の言葉であり、人々を勇気づける素晴らしい光明思想の言葉であります。

ところが、その一方で「病気は、真理に目覚めていないあなたが創り出しているのであり、引きつけてい
るのです」「あなたの心の在り方が間違っていることに原因があるのです」「病気に限らず、事故も災害
も貧乏も失敗も闘争も、ほとんど本人の意志のまま、創り出されているのです」「想念とは磁石のような
もので、必ず想念の通りの結果を引きつけ、引き寄せるのです。多くの人々は精神が否定的想念にむしば
まれています。この否定的想念の結果、個々の人生が不幸で不調和で破壊的なのは当然の結果です」と説
いてしまったら、前に説いたせっかくの光明思想が曇ってしまうことになるのです。

「あなたは必ず良くなるのだ」と説いても、その一方で「あなたの心の在り方によっては悪くなります」
と説いてしまったら、励ましているのか脅しているのか判然としなくなります。「あなたは幸せになるこ
とは間違いないのです」と説きながら、その一方で「あなたの心の在り方によっては不幸になります」と
説いてしまっては、聴いている信者は不安になってしまいます。「あなたの病気は癒されます」と説きな
がら、その一方で「あなたの心の在り方によっては治りません」と説いては、病人は意気消沈してしまい
ます。

【どこが矛盾しているのか?】

「人間は神の子である」を説く実相論と、後の「善因善果、悪因悪果」を説く業生の法則論とは、全く異
なった原理でできているのです。この二つを説きますと、その話は二元論となり、矛盾対立した話となっ
てしまうのです。じっくりと次のように自問自答して考えてみて下さい。

神の子である人間が、なぜ病気をつくり病気を引きつけるのでしょうか?
人間が神の子であるならば、不完全な病気を、わざわざ創ったりするわけがないではありませんか。
神の子である人間が、なぜ事故も災害も貧乏も失敗も闘争も創るのでしょうか?
人間が神の子であるならば、事故や災害や貧乏や失敗や闘争など創るわけがないではありませんか。 
神の子である人間が、なぜ不幸と不調和と破壊的な否定的想念にむしばまれているのでしょうか?
人間が神の子であるならば、そのような否定的な想念にむしばまれるわけがないではありませんか。

【実相論と現象論】

新興宗教団体のほとんどの宗教家の教えは、むずかしい実相論ではなく、やさしい業生の法則論であるの
です。それは宗教家が悟っていないためもありますが、実相論では現実の説明がつかないので、どうして
も業生の法則論に傾いていってしまうからなのです。たまに実相論と現象論の二つを同時に説いている宗
教家もいますが、それは知識として説いているだけであって、宗教家自身が悟っているわけではなく、信
者にとっても実相論よりも現象論のほうがわかりやすいので、どうしても現象論のほうを強く意識して、
実相論は形だけのものとなってしまうのです。教えている宗教家自身が悟っていないのですから、その話
を聴いている信者がそのまま鵜呑みにしていたら悟れるはずもありません。

【矛盾している実相論と現象論】

人間は神の子であるという実相論と、因果法則を説く現象論とは、異なった原理の宗教観であるのです。
この二つを説いたら、矛盾対立した思想となり、その話を聴いている信者の頭の中も混乱してしまうこと
になります。もちろん、二元論をかかえたままで、神我一体の境地になれるはずもありません。宗教指導
者が、ある時は「皆さんは神の子です」と説いて神の子になったかと思うと、ある時には「皆さんは否定
的な想念を持つから病気になるのです。不幸の原因はあなたにあるのです」と業生の子にさせられてしま
うのでは、変身ロボットではないのですから、信者はいったいどちらになったらよいのか、さっぱりわか
らなくなり、迷ってしまうのです。実相論でゆくならば、徹底して実相論でゆくべきです。また業生の法
則論でゆくならば、徹底した業生法則論でゆき、強い意志力で、自己の運命を切り開いていったらよいで
しょう。ある時は実相論を説き、ある時は業生法則論を説くような、そんないいかげんで中途半端な宗教
観で生きていては、いつまでたっても神性は開発されませんし、個人の真実の幸福も得られないし、世界
の平和を実現させることなどとうてい不可能なのです。

【五井先生の教えは中庸実相一元論】

五井先生の教えは、二元論ではなく、実相論だけの一元論であるのです。但し、五井先生の実相論は、
「病気は無い、貧乏は無い、事故も災害も無い、不幸も不調和も無い」という現実を無視した理想偏重実
相論ではなく、「病気は消えてゆく、貧乏は消えてゆく、事故も災害も消えてゆく、不幸も不調和も消え
てゆく」という現実と理想を結ぶ中庸実相論であるのです。病気も貧乏も不幸も災難も消えてゆくのです
から、「病気の原因は、あなたにあるのだ」とか「あなたが病気を引きつけたのだ」とか「否定的な想念
を思えば、また病気になるぞ」と相手を責めたり脅すことはなくなるのです。「病気は消えてゆく姿」と
説きながら、一方で「否定的な想念を思えば、病気になるぞ」と説いている宗教家は、真実に病気は消え
てゆく姿であることを心の奥底で知らないから、現象の因果論を持ち出してきたりするのです。実相論を
説いたら、因果論を捨て去るべきであり、因果論にいつまでもしがみついていてはいけないのです。

【実相論をどうしたら実現できるのか?】

人間は神の子であるという一元論の立場に立ったら、次にどうしたら、神の子である人間の本質を顕現で
きるか、という問題に移ります。そこで再び、「悪いことを想うな、善だけを想え」という想念の法則を
持ち出してきてはいけません。想念の法則論は、人間は善いことも想うが、悪いことも想う存在であり、
人間の本質は不完全である、という前提の上に成り立つ思想であるからです。想念の法則論では、人間は
いつまでたっても完全な神の子にはなり得ないのです。そこで必要になってくるのが、守護の神霊論なの
です。分霊の力だけでは、業生の厚くて硬い殻から脱出できないのですが、守護の神霊のご加護を得て、
守護の神霊との一体化によって、分霊は業生の殻から抜け出すことができるようになるのです。

【守護の神霊との一体化によって実相は現れる】

守護の神霊との一体化によって、はじめて、人間は本来の神の分霊の力を発揮できるようになるのであり
守護の神霊との一体化の方法が祈りであるのです。守護の神霊に祈り、守護の神霊の加護の力を充分に発
揮していただくことにより、人間の分霊も内在していた神性能力を充分に発揮できるようになるのです。
守護の神霊の存在を教え、守護の神霊からご加護を得る方法を教えれば、「すべてはあなたが原因であな
たが悪いのだ」と人を責めたり、「あなた自身で自分の運命をよくしなさい」と冷たく突き放すような言
い方をする必要は一切なくなるのです。

【神の子である人間は不完全なものを創りはしない】

神の子である人間は、病気を創りはしません。
神の子である人間は、貧乏を創りはしません。
神の子である人間は、不幸を創りはしません。
神の子である人間は、災難を創りはしません。
神の子である人間は、戦争を創りはしません。

【不完全な現象はすべて消えてゆく姿である】

病気も貧乏も不幸も災難も不幸も戦争も、すべての不完全な現象は消えてゆくのです。不完全な姿が消え
てゆくにしたがって、完全な神の子の姿が現れてくるのです。未来には、病気も貧乏も不幸も災難も戦争
も、すべての不完全な現象はすべて存在していないのです。人間の本質は善悪混合で不完全であるという
思想は、人類の心を暗くさせるので暗黒思想と呼び、人間の本質は完全な神の子であるという思想は、人
類の心を明るくさせるので光明思想というのです。暗黒思想では、人類はいつかは滅亡してしまうことに
なるのですから、「人間の本質は完全な神の子であり、悪いことを想ったり悪を創り出す存在ではない」
という徹底した光明思想で私たちは生きてゆかねばならないのです。

【世界平和の祈りによって、人間は神の子の本質を現し得る】

そして、その神の子の本質を顕現する方法として、守護の神霊への祈りがあるのですし、今日では「世界
平和の祈り」が大神さまから授けられているのですから、「世界平和の祈り」を素直に祈りつづけてゆけ
ば、想念の法則で責めなくとも、あなたの神性も人類の神性も顕現され、個人の幸福と人類の平和も同時
に成就されることになるのです。「世界平和の祈り」は、自分を責め、人を責めるという苦行の檻の中か
ら人類を解放させる、神の赦しの教えであるのです。神がすでに赦して下さっているのに、宗教家がいつ
までも想念の法則を取り上げて、自分一人高見に立って、信者を責めさいなんでいてはいけないのです。
現在では、「世界平和の祈り」という素晴らしい神性開発の方法があるのです。業生の法則に把われず、
中庸実相一元論の実践法である「世界平和の祈り」を祈りつづけて下さい。「世界平和の祈り」を祈りつ
づけてゆけば、あなたは完全な神の子の本質を自然に現し得て、世界は平和になるのです。


国民の祈りで国は平和になる
No.111 森島恒吉    1998/12/18 (金) 00:53 静岡県
世界人類が平和でありますように

米英両国は、国連査察へのイラクの協力拒否に対する制裁措置として、イラクのバクダッドの軍事施設な
どに対して、巡航ミサイル、B52戦略爆撃機などによる爆撃を実施しました。(日本時間17日午前7時頃)
イラクのサダムフセイン大統領が、国連の査察を拒否せずに受け入れれば、アメリカもこのような手段に
出ることはありませんでした。イラクは国連の査察を拒否しており、核兵器のみならず、生物・化学兵器
を製造する恐れもあるのですから、米英の軍事攻撃を一方的に非難することはできません。

CNNが伝えるイラクへの爆撃の様子をテレビで見ましたが、「地球に平和が訪れるのは、まだまだ先だな
あ」と思わずため息が出てしまいます。イラク国民が「世界平和の祈り」を知り、「世界平和の祈り」を
祈って下さるようになれば、政治家の政策も正しい政策へと変わってゆくのです。国の運命は、一人の政
治家の責任だけでなく、やはり国民の想念が政治家の考えに反映し、国の運命を決めてゆくのです。日本
の発展も、首相一人の責任ではなく、国民一人一人に責任があるのです。大きく考えれば、地球の運命は
地球人に責任があるのですから、地球の裏側で起きている事件も、私たちは注目しなくてはなりません。

イラクの国内のどこへ行っても「世界人類が平和でありますように」と書かれたピースポールが立ってい
て、イラクの国民の多くが、アラーの神への祈りと共に「世界平和の祈り」を祈って下さるようになれば
イラクの政治は平和の方向へと大きく前進してゆくのです。一日も早くそうなるように、私たちは「世界
平和の祈り」を祈りつづけてゆかねはなりません。「世界平和の祈り」の光明がささない闇の所に戦争が
起きるのであり、「世界平和の祈り」の光明が輝いている所には、戦争は起きないのです。

イラクや中近東諸国から日本に留学に来ている人たちも、たくさんいると思います。そうした人たちが、
日本国内で「世界平和の祈り」を知って、自国に帰ってから「世界平和の祈り」を広めて下されば、自国
の平和のために大きな働きができることになります。イラク人の友人を持っている方は、「世界平和の祈
り」を知らせてあげて下さい。アメリカの旗を焼いたりして憎悪を燃やすよりも、「世界平和の祈り」を
祈るほうが、イラクの国にとっては有益な行為です。「世界平和の祈り」によって、自国の指導者の政策
を改善できるのですし、自国の経済も良くなり、国民は豊かになり、平和になってゆくのです。

世界人類が平和でありますように
メイピース・プリベイル・オン・アース
アッサラーム・リルアーラミ・アジュマ


最高の美容法は「世界平和の祈り」
No.114 森島恒吉    1998/12/19 (土) 00:03 静岡県
世界人類が平和でありますように

この世の中で、最高に美しくなる美容法って、皆さん、なんだと思います? 女性だったら、誰でも美し
くなりたいでしょ? 最高に美しくなる方法…それはやっぱり「祈り」なんです。神さまに祈っていると
誰でも美しくなってゆくんです。神さまというのは、愛であり、勇気であり、智慧であると同時に、美で
あるんです。だから、お祈りをして、神さまのみ心と一つになっていれば、美しくならないわけがないの
です。神に祈っている人が、不平不満な顔や憎悪の顔になるわけがないのです。

五井先生はよくおっしゃっていました。「世界平和の祈りをしていると、なんともいえない魅力があふれ
てきて、おばあさんでも、シワの一本一本が光ってきて美しくなってくるんです。心が美しくなると、そ
の心の美しさが顔の表情に現れてきて、『ああ、なんて美しい人だろう』と見られるようになるんです」

「世界平和の祈り」は愛の祈りなのですから、愛する喜びにあふれた顔になるのです。
「世界平和の祈り」は平和の祈りなのですから、人々の心を和ませる穏やかな顔になるのです。
「世界平和の祈り」は神々の大光明なのですから、人々の心を明るくさせる輝いた顔になるのです。

朝、「世界平和の祈り」を祈ったら、「ああ、私はこれで美しくなる」と思っていいんですよ。夜、寝る
前に「世界平和の祈り」を祈ったら、「ああ、私はこれでまた美しくなる」と思って寝たらいいんです。
「世界人類が平和でありますように」と唱えますと、その一言一言が、ダイヤモンドのように光となって
宇宙へとひびいてゆくんです。その時、あなたの顔は、美しく光り輝いているのです。

女性だったら、もっともっと美しくなりたいでしょう?
もっともっと美しくなるためにも、「世界平和の祈り」を祈りましょう。
美しくなる最高の美容法は「世界平和の祈り」なんです。


聖書の歴史と翻訳比較論
No.115 森島恒吉    1998/12/20 (日) 06:23 静岡県
世界人類が平和でありますように

クリスマスが近づいたせいか、イエスのお導きを強く感じるこの頃です。
文語体の聖書は、神の教えを伝えるには最もふさわしい格調の高い文章です。現在の人々にとっては難解
な言葉が多いのですが、やはり、この文語体の聖書を第一に読むべきだと思います。神のみ心を伝える上
において、ことばの持つひびきというものが、非常に大事であるからです。

現代語訳としては、口語訳、新共同訳、新改訳と主に三種類ありますが、私は新改訳が現代語訳としては
最も自然に訳されていると思います。口語訳と新共同訳は、イエスの話し言葉を権威づけるために「だ。
である」体にしている点が、どうも不自然に感じられてなりません。文語体聖書の「なり」体は、昔にお
いては話し言葉でも実際に用いられた言い方ですし、イエスも民衆も同じく使っているので納得できるの
ですが、「だ。である」体というのは、現在ではよほど威張った人が演説する場合をのぞいて、常識人な
らば話し言葉として使うことはありません。どんなに良い内容であっても、「だ。である」体で話してい
たら、誰からも嫌われてしまい、相手にもされなくなるに違いありません。「だ。である」体は、新聞や
書籍の中だけで用いられる表現であり、五井先生も随筆の文体として用いていますが、文章に限定されて
いるのです。

それに対して新改訳は、イエスの言葉も「です。ます」体にしているので、会話としては自然な表現であ
ると思うのです。またこの表現のほうが、イエスの民衆に対する愛深い心が、ずっと素直に伝わってきま
す。イエスもこの世における生存中は、新興宗教の教祖でありまして、貧しい民衆の中で説法しておりま
した。大きな教会を建てるだけの財産はなく、もっぱら信者の家を借りて教えを説いたり、人がたくさん
集まるような時には空き地や草原で説法していたのです。ですから、イエスは神の子の自覚をしたとはい
え、民衆と話す時に、「だ。である」体のような民衆から遠く離れた、不自然な話し方はなさらなかった
でしょう。

聖書の意味がわかってきて、英和対照の聖書に興味を持つようになりますと、今度は、英語の表現が気に
なってきます。日本の現代聖書は、イギリスの英語聖書よりも、アメリカの米語聖書の影響を強く受けて
いるようですが、そのアメリカの聖書にしても、異なった表現(バージョン)の聖書が存在するのです。キ
リスト教の中心の祈りである「主の祈り」にしても、同じ英語でも、バージョンによって微妙に表現が異
なっているのです。たとえば、旧約聖書の初めの有名な言葉を、各々の言葉で書いてみましょう。

「はじめに神天地をつくりたまへり」(日本語文語体聖書)
In the beginning, when God created the universe,…[TEV]
In the beginning God created the heavens and earth.…[NIV]

こんな具合に旧約聖書の初めから、もうすでに異なっているのです。私はどちらかといえば、NIVを読ん
でおりますが、これはどちらが正しいといえるものではなく、その人のセンスで選ぶしかありません。こ
こで、ご参考までに、日本と欧米における聖書出版の歴史を見ることにしましょう。
(いのちのことば社「新聖書辞典」CD-ROMより引用し、私が箇条書きにまとめました)

〔日本における聖書出版の歴史〕
1549年(天文18年)スペイン人のフランシスコ・サビエルがキリスト教を初めて日本に伝える。
1880年(明治13年)聖書翻訳委員会「新約全書」出版
1888年(明治21年)聖書翻訳委員会「旧約全書」出版
1917年(大正6年)聖書翻訳委員会「新約聖書改訳」出版
1954年日本聖書協会「口語訳聖書」出版
1965年日本聖書刊行会「新約聖書新改訳」出版
1970年日本聖書刊行会「旧約聖書新改訳」出版
1978年日本聖書協会とローマカトリック側の委員会合同「共同訳聖書」出版

〔欧米における聖書出版の歴史〕
1455年グーテンベルクにより「ラテン語の聖書」が初めて印刷される。
1522年ルターによる「ドイツ語訳の新約聖書」が完成。
1534年ルターによる「ドイツ語訳の旧約聖書」が完成。
1611年イギリスで「欽定訳聖書」が出版される。
1804年英国聖書協会の創立。
1966年米国聖書協会「現代英語聖書」Today's English Version出版 [TEV]
1963年「新米標準訳新約聖書」New American Standard Bible出版 [NASB]
1971年「新米標準訳旧約聖書」New American Standard Bible出版 [NASB]
1974年「新国際訳新約聖書」New International Version出版 [NIV]
1978年「新国際訳旧約聖書」New International Version出版 [NIV]

キリスト教は「印刷された聖書」によって急速に発展普及したことがわかります。それにしても、イエス
が他界してから1400年以上も経過した後に「ラテン語の聖書」が初めて出版されて、日本では、ようやく
1917年に「文語体聖書」が完成されたのですから、イエスの教えが日本に伝わってくるまで、ずいぶん長
い時間がかかったものです。

五井先生の教えも、世界中の言葉に翻訳されるまでには、現代は通信技術が発達したとはいえ、まだまだ
あと数百年はかかることでしょう。日本人の私たちは、五井先生の教えを日本語でいち早く読むことがで
きるのですから、なんといっても幸せなことです。外国の人たちは、五井先生の教えを翻訳した本を読ん
でいるわけですが、まだごく一部の本にすぎません。そのために、五井先生の教えの全体像を把握してい
るとは必ずしも言えません。五井先生の教えの一部しか理解できていなかったり、誤解しているところも
あるでしょう。疑問に思うことも、質問したいことも、たくさんあることでしょう。

それを思いますと、日本人の私たちは、日本語で五井先生の本を読めるのですから、実に幸せなことだと
思います。しかし、五井先生の本をせっかく読めても、誤解して教えてしまったらなんにもなりません。
五井先生の教えを正しく理解して、正しく人々に伝えるように、私たち日本人は、努めねばなりません。
まず、五井先生の本をよく読んで、正しく理解していただきたいものです。その理解の一助として、私の
解説が、皆さんのお役に立てたら幸いであると思うのです。


初めに神への祈り言あり
No.118 Kokichi    1998/12/22 (火) 03:40 静岡県
世界人類が平和でありますように

久美ちゃん、調べてくださって、ありがとう。おかげさまで、わかりました。>^_^< エクボ
以下は、久美ちゃんへの言葉ではありません。久美ちゃん以外の方々を対象にした講義です。 

「神はわが内にあり」の出典について、あれから日本聖書協会にお尋ねしましたら、丁寧に調べていただ
き、次のようなご回答を頂戴いたしました。日本聖書協会の皆さま方に、篤くお礼申し上げます。
……………………………………………………………………………………………………………………………
> イエスの「神はわが内にあり」

が聖書のどこにあるかですが、内にあり,内に在り,うちにあり,うちに在り,中にあり,中に在りと
やってみましたが,そのものズバリは見つかりませんでした。手元に新教出版社の文語コンコルダンスも
ありますが,それも参考に,以下を資料としてお送りします。

●「我が内に在り」
ガラ2:20
"我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるな
り。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生
くるなり。"

●「内にあり」
使徒20:10
"パウロ降りて其の上に伏し、かき抱きて言ふ『なんぢら騒ぐな、生命はなほ内にあり』"

●意味内容が似ているもの

ルカ17章21節
"また「視よ、此處に在り」「彼處に在り」と人々言はざるべし。視よ、神の國は汝らの中に在るなり』"

ヤコ"4章5節
"聖書に『神は我らの裏に住ませ給ひし靈を、妬むほどに慕ひたまふ』と云へるを虚しきことと汝ら思ふ
か。"
(事業部翻訳係 中村真之介)

HIROYUKI KISHIOKA
<<<Japan Bible Society>>>
Development & Fundraising
……………………………………………………………………………………………………………………………
アメリカの自己啓発書や日本における聖書引用の宗教書には、「神はわが内にあり」という言葉がたびた
び出てくるのですが、原典の聖書には、そのものずばりの言葉は無い、とわかりました。「神は人間に内
在する」という意味の言葉を、誰かが「神はわが内にあり」という短い言葉にまとめたようです。中でも
最も近いと思われるのは、ルカ17章21節「神の國は汝らの中に在るなり」の一節で、ここから「神はわが
内にあり」という言葉が生まれてきたのでしょう。そのものずばりの表現は無いものの、イエスは、外側
にいるスピリッツやエンジェル(神霊)の存在を認めると同時に、仏教と同じく人間内部に神性が内在す
ることを認めていたことがわかります。

但し、イエスは「神の国は汝らのうちにあり」とは説いても、実際に神の国をこの世に現す方法としては
「天にいます我らの父よ、…みこころの天のごとく地にもおこなはれん事を。…」というように「神への
対話形の祈り」を私たちに勧めているのです。つまり、真理の言葉と、真理を実現する方法とは、分けて
考えねばならないのです。「神はわが内にあり」と知って、この言葉を唱えているだけでは、内在してい
る神性は顕現されません。どうしても神に全託する祈りが必要となるのです。

初めに神への全託の祈りがあって、それから「神はわが内にあり」と自覚させられるのです。それを「神
はわが内にあり」と唱えるだけで充分と思い、神への全託の祈りを忘れるようでは、本末転倒といえるの
です。何事にも順序や順番があるように、神への全託の祈り言があってこそ、人間の内部神性が開かれて
ゆくのです。これは法則なのですから、順序が逆になっておりますと、いつまでたっても神性は開発され
ることはありません。神への全託の祈りが、いかに必要かが、おわかりになったことと思います。

また、「汝は神の子なるか?」との質問に、イエスは「我は神の子なり」とはっきりと答えておりますが
イエス自身は「父よ、みこころの成らん事を願ふ」「父よ、わが霊を御手にゆだぬ」というように祈って
おりますし、自分につき従ってくる弟子にも、実際の行法として「神への祈り」を勧めておられる事実に
注目していただきたいのです。イエスは「我は神の子なり」という言葉を宣言し唱えたから、「神の子」
になれたわけでもないし、なったわけでもないのです。

「天にいます我らの父よ、みこころの天のごとく地にもおこなはれん事を」というイエスの祈り言を、現
代に合わせた祈り言が「世界人類が平和でありますように」です。この二つの祈り言は、全く同じ意味で
あるのですから、どちらの言葉で祈っても、世界は平和になるのです。私たちは祈る対象を「守護霊さま
守護神さま」としておりますが、この守護神さまの中に、釈尊もイエスさまも含まれているのでありまし
て、「世界平和の祈り」を祈りますと、当然なことにイエスさまにも助けていただけるのです。こうした
霊的な真実は、現在はまだ理解する人は少ないのですが、いずれ誰にも判ってくることでしょう。
「初めに神への祈り言あり」なのです。その後「神はわが内にあり」という自覚が授けられるのです。


みこころの天のごとく地にも行はれん事を
No.119 森島恒吉    1998/12/24 (木) 05:08 静岡県
世界人類が平和でありますように

クリスマスなので、聖書から「イエスの言葉」を書き出してみましょう。

【マタイ傳第五章38〜48】

「目には目を、歯には歯を」
と云へることあるを汝ら聞けり。
されど我は汝らに告ぐ、
悪(あ)しき者に抵抗(てむか)ふな。
人もし汝の右の頬(ほほ)をうたば、左をも向けよ。
なんぢを訴へて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。
人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。
なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。

「なんぢの隣を愛し、なんぢの仇(あた)を憎むべし」
と云へることあるを汝等きけり。
されど我は汝らに告ぐ、
汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。
天の父は、その日を悪しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、
雨を正しき者にも正しからぬ者にも降(ふ)らせ給ふなり。
なんぢら己(おのれ)を愛する者を愛すとも
何(なに)の報(むくい)をか得べき、
取税人も然(しか)するにあらずや。
兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、
異邦人も然(しか)するにあらずや。
さらば汝らの天の父の全(まった)きが如く、汝らも全かれ。

これは広く知られているイエスの言葉ですが、まったく真理の言葉であり、人類の心を清める力を持つ素
晴らしい迫力を持っております。人類すべての人が、イエスのこの言葉通りに実行すれば、この世はたち
まち天国となるのです。ところが悲しいことに、現在の地球人にとっては、この真理を実行することは甚
だ難しい心境であるのです。イエスは「天の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」と説
くのですが、天の父のように完全な行為をすることは、なかなかできるものではありません。

たとえば、旅人が寒風吹きすさぶ夜に、キリスト教の教会の門を叩き、「今夜は寝るところがありません
から、一晩でもいいですから、教会の中で寝かせていただけませんか?」と頼んでも、実際には断られる
ことが多いようです。教会の人は当然なことに聖書を読んでいるはずですから、「なんぢに請ふ者にあた
へ、借らんとする者を拒むな」というイエスの言葉を承知しているはずです。ところが、実際に「一晩寝
かせてほしい」と請う者が現れた場合には、そのイエスの言葉を実行することができないのです。このよ
うに一般の人よりも高い心境の人であっても、真理の言葉と実際行動の間には、非常なギャップがあって
イエスの言葉をそのまま実行することは難しいのです。

このギャップを無視して真理を実行しようとしても、それは心からのものではなくなって、偽善的な行為
になってしまうのです。もし笑顔で真理を実行したとしても、心の中に少しでも嫌な想いがあったとした
ら、それは真理を実行したことにはなりません。聖書を読んでいる人でさえも、真理を実行することはこ
のように容易ではないのですから、まして聖書も読まず、自分の生活しか考えていない人に、真理を実行
させるということは、不可能に近い至難のことなのです。イエスは正に聖者であるのです。イエスの言葉
は真理であるのです。しかし、地球人にとっては、実行し得ないほど高すぎる教えでもあったのです。

ところが真理を実行するのが難しいからといって、お互いに愛し合うという真理を実行しなければ、核爆
弾の撃ち合いによって、近いうちに人類は滅亡してしまいかねません。ですから核兵器の脅威が存在する
今日となっては、否応なくイエスの真理の言葉を、実行に移さねばならない時期なのであります。その真
理と現実の行動のギャップを埋めるために、聖書にもしばしば出てくる「平和の神」「天使」「御霊(み
たま)」という守護の神霊の存在が必要となってくるのであります。

イエスとて、現在の人間の心境を知らぬわけがありません。実行することは難しいことを承知の上で、人
類の業想念を大きく浄めるために真理の光を投げかけていたのです。真理の光をまともに現したために、
この世の業想念の強い抵抗にあって、十字架にかけられたのでしたが、それも神の深い愛のみ心の現れで
あったのです。現在では、イエスを導いた御霊(みたま)方を含む守護の神霊集団ができておりまして、
それを私たちは救世の大光明霊団と呼んでいるのです。その守護の神霊方に祈ることによって、イエスの
説かれた真理を実行できるようになるのです。

イエスは「このように祈りなさい」と説いています。

【マタイ傳第六章8〜13】

汝らの父は求めぬ前(さき)に、
なんぢらの必要なる物を知りたまふ。
この故に汝らは斯(か)く祈れ。
「天にいます我らの父よ、
願はくは御名(みな)の崇められん事を。
御國(みくに)の來(きた)らんことを。
御意(みこころ)の天のごとく地にも行はれん事を。
我らの日用の糧(かて)を今日もあたへ給へ。
我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、
我らの負債をも免し給へ。
我らを嘗試(こころみ)に遇(あ)はせず、
惡(あく)より救ひ出(いだ)したまへ」

真理を実行しようとしてもできない事を知っているからこそ、神への祈り言が必要なのであり、イエスは
「天にいます我らの父よ、赦したまえ」という祈りを、私たちに教えて下さっているのです。「天にいま
す我らの父よ」という言葉がありますが、イエスは「わたしだけが天の父の子ではなくて、皆さんも本来
は天の父の子、すなわち神の子なんですよ」と教えて下さっていることがわかります。マタイ傳(第六章
8〜13)にも「幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん」とイエス
は説いていますが、イエスだけが神の子であるというのではなく、誰でも本心を現し、この世を平和なら
しむる者はみな神の子と称えられるのです。

五井先生も若い頃は、この「主の祈り」をよく祈っていたと聴きました。「みこころの天のごとく地にも
行はれん事を」という祈り言は、「世界人類が平和でありますように」という祈りと同じなのです。しか
し、この事をクリスチャンに話してもクリスチャンによっては、「祈る対象が違う」とか「言葉が違う」
という理由で、「世界人類が平和でありますように」という祈り言に賛同して下さらない人がいるのは、
じつに残念なことです。この点は、日本人クリスチャンよりも、外国のクリスチャンのほうが自由で、堅
苦しい不自由な形式にこだわることが少ないようです。また、神道のように、イエスの祈り言を中心にし
ていさえすれば、自分の好きなように祈り言を作る自由があることも一因のようです。

すでにローマのバチカン宮殿をはじめ世界中の多くの教会に「世界人類が平和でありますように」の祈り
言が受け入れられているのですから、クリスチャンの方々には、主の祈りと共に、「世界平和の祈り」も
祈っていただきたい、と私たちは願っております。イエスさまが現在においては「世界平和の祈り」を勧
めておられるのであり、「世界平和の祈り」の中にイエスさまも働かれているのは霊的な事実なのです。
「世界平和の祈り」の愛の光の元に、人類の心は一つに結ばれてゆくのです。

世界人類が平和でありますように


「世界平和の祈り」は唯一最高の祈り
No.123 森島恒吉    1999/01/01 (金) 05:26 静岡県
世界人類が平和でありますように

新年、明けましておめでとうございます。
新しい年を迎えた瞬間に、心がパーッと明るくなりました。

昨年は唯一会のホームページを開設して、「世界平和の祈り」を唯一最高の行としている私たちの存在を
皆様に公開しました。白光真宏会の会員の中に、十年一日のごとく「世界平和の祈り」だけを行じ続け、
その他の行法(断食法・呼吸法・印相法・念力願望成就法・完了形暗示法)などを、全く行じないグルー
プがひそかに存在している真実が明らかになった時、他の会員の人たちは驚きの目で私たちを見ました。

昌美先生が指導されている「我即神也」「人類即神也」の印と宣言を行じないで、「世界平和の祈り」だ
け一つをひたすら祈っている私たちは、まるで異端者のように感じられたのです。しかし、私たちの行動
は「世界平和の祈り」を唯一の行とするだけで、昌美先生への反対を唱えるわけでもなく、白光真宏会の
方針に反対するわけでもない事が次第に理解されるにつれて、私たちへの非難の声は消えてゆきました。

私たちは「世界平和の祈り」を祈っているのですから、誰も、私たちに反対することはできないのです。
「世界平和の祈り」に反対することは、教祖の五井先生に反対することになるのですから、白光真宏会の
会員の人たちは、私たちの「世界平和の祈り」に反対することは、絶対にできないのです。

「昌美先生のご指導を通して、五井先生は新しい教えを教えて下さっているのだから、昔の五井先生の教
えに把われてはいけない」と説く人に対しては、「昔の五井先生の教えが、今は真実ではなく、すでに古
い教えであるならば、五井先生の本を、すべて焼き捨てたらよろしいでしょう」と私は答えます。

「昌美先生の教えと五井先生の教えとは、同一の教えである」と説く人には、「それならば、五井先生の
教えだけをやっていても、文句はないでしょう。同一とおっしゃるのですから」と私は答えます。

「五井先生の『世界平和の祈り』と昌美先生の『我即神也・人類即神也』の二つを合わせて行じることに
よって、より急速に人類の神性が開発され、世界平和が実現するのだ」と説く人には、「五井先生の教え
『世界平和の祈り』は不完全な教えであった、とおっしゃるのですか?」と私は答えます。

「五井先生が『世界平和の祈り』を教えられた頃は、皆さんの心境が低く、まだ高い真理を理解すること
ができなかったから、『世界平和の祈り』しか五井先生は教えられなかったのです。今は皆さんの心境が
高くなったので、『世界平和の祈り』以上の『我即神也』の行を、五井先生から与えられたのです」と説
く人には、次のように答えます。

「それでは、『世界平和の祈りは最善の祈りであり、人類史上最後の祈りであり、世界平和の祈り以上の
高い行法は無い』とおっしゃった五井先生の教えが、間違っていたことになるではありませんか?」と。
五井先生の教えが、過去の時代にだけに通用した教えだとしますと、信仰が根底からくつがえされます。
誰がなんと言おうと、私たちは五井先生の教えは永遠であると信じ、「世界平和の祈り」を信じます。

今はすでに、私たちへの無理解で不当な非難の嵐は去りました。これからは私たちは「世界平和の祈り」
をひたすら祈りつづけ、「世界平和の祈り」を広めてゆけばよいのです。白光真宏会の会員の中からも、
次々と私たちの考えに賛同して下さる方々が増えてきております。「世界平和の祈り」は五井先生の教え
であり、神のみ心なのですから、私たちに同調して下さる方々が増えるのは、当然の成り行きなのです。
「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りなのです。「世界平和の祈り」以上の祈りや行法は無いのです。
本年も、私たちとご一緒に「世界平和の祈り」を祈って下さいますように、お願い申し上げます。

皆様が幸せでありますように
世界人類が平和でありますように


呼吸法と念力による願望達成法は正しいのですか?
No.124 森島恒吉    1999/01/01 (金) 08:50 静岡県
世界人類が平和でありますように

【質問 1】〔要旨…呼吸法と念力による願望達成法は、正しいのですか?〕
「三十秒から一分間ほど呼吸を止めて、その間に自分の欲する願望を思い描くと、願望が成就する」とい
う教えがありますが、これは真実の宗教の教えなのでしょうか?

【答え 1】〔要旨…呼吸法は必要なく、念力による願望達成法は誤りです〕
「呼吸を止めて願望を思い描く」というその方法は、真実の宗教の教えではありませんし、五井先生の教
えでもありません。どんな行法にしましても、やるやらないは、本人のご自由ですが、願望成就法につい
ては、五井先生は「それは真実の宗教の道ではなく、真実の祈りではなく、念力であり外道である」と教
えておられることを明言しておきます。

筋力や瞬発力を高めるために呼吸を一時的に止めたり、体を柔軟にするために息を吐くという動作は、私
たちが日常で無意識にやっていることですが、そうした呼吸と心身に連繋する法則を研究して、意識的に
呼吸を様々にコントロールすることによって心身をコントロールする、という考え方がヨガにあります。
息を止めることを、ヨガではクンバハカ(止息)と呼んでおります。ご質問にあるような教えを説く指導
者は、ヨガの行法と念力の教えとを組み合わせて教えているのでしょう。

まず呼吸法についてですが、「息をゆっくりと長く吐くように世界平和の祈りをするとよい」とか「臍下
丹田に気を集中しなさい」というようなご指導は、五井先生の個人的なご指導としては確かにありました
が、一般的なご指導としてはありませんでした。印にしても、五井先生が各人に合う印の形を教えられた
ことがほんの一時期ありましたが、これも誰にでも合うような一般的な教えではありませんでした。

五井先生の教えは、教義の「人間と真実の生き方」と「世界平和の祈り」が基本であって、呼吸法とか願
望をイメージする念力とか、特殊な印を組むという行法はありません。印については五井先生は「如来印
が一番よい」と勧めておられました。呼吸法も特別な印を組む必要もなく、「世界人類が平和であります
ように」と守護の神霊に向かって唱えるということが、五井先生の教えの行法のすべてであるのです。で
すから、「一分間ほど息を止める」とか「息を数える」とか、息をコントロールする必要はありません。

願望成就については、「思い描く」という新しい言葉を使ってはいても、それは念力のことであり、念力
による願望成就法は、功利的な卑しい人間にさせますし、真実の祈りとは違うのですから、いつまでも真
実の安心立命の境地には至りません。仮に、自分の欲する求めた物が得られたとしても、それによってか
えって運命を悪くする、ということもあることを知らねばなりません。また、お互いに念力を強めて一つ
の物を欲すれば、念力闘争の世界となり、念力の弱い者は敗北者とならねばなりません。それに念力の生
き方では、ちょっとでも気を緩めれば、目標を達成できなくなるので、常に緊張を強いられることになり
感情の起伏が激しくなり、欲求不満が積もり積もって、人に当たり散らす精神不安定な人間になります。

真実の祈りというのは、自分勝手な欲望願望を叶える方法ではなくて、自分勝手な欲望願望を神のみ心に
投げ入れて、欲望願望想念を無くしてしまう方法なのです。ここでほとんどの人が思うのは、「何も欲望
願望を思い描かずに、念じないで、いったいどうして成功できるのか?」という疑問です。

この疑問について、イエスはこのように教えて下さっています。

「汝らの父は求めぬ前(さき)に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ」    〔マタイ傳第六章8〕

「何を食(くら)ひ、何を飲み、何を著(き)んとて思ひ煩(わづら)ふな。
 是(これ)みな異邦人(いほうじん)の切(せつ)に求むる所なり。
 汝らの天の父は、凡(すべ)てこれらの物の汝らに必要なるを知り給(たま)ふなり。
 まづ神の国と神の義(ぎ)とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」
                                   〔マタイ傳第六章31〜33〕

文語体に苦手な人のために、現代語でやさしく意訳しますと、こういう意味になります。

「あなた方が、あれが欲しいこれが欲しいと願い求めるよりも先に、神はあなた方に必要な物をとっくに
知っていらっしゃるのです。ですから、あなた方は、まず、この地上に神の平和な世界が現れることと、
神の真実の相(すがた)が現れることを、求めて祈りなさい。そうしていれば、あれが欲しいこれが欲し
いと、細かいことを神に願わなくとも、あなた方に必要なすべての物は、神から与えられるのです」

このイエスの言葉こそ、真実の祈りと現世利益の関係を説いた教えなのです。あなたが自分勝手な想いで
いちいち欲しい物を思い描いたり、願望を強く念じなくとも、守護の神霊は、あなたに必要な物は、すで
にご存じで、あなたに必要な物を、すべて与えようと、準備して下さっているのです。それを言いかえま
すと、あなたは、神のみ心である世界平和を祈り、天命の完うされることを祈っていさえすれば、あなた
に必要なすべての物は、神から与えられる、ということになるのです。

このイエスの教えは、仏教の「色即是空、空即是色」と同じ教えなのですが、空という言葉が使われてい
ないために、イエスの深い真意を理解できず、欧米のほとんどの自己啓発思想には、この「空の思想」が
欠けているのです。その自己啓発書の影響を受けた、日本の宗教家の中にも、願望を達成するには念力し
かないと思い込み、祈りと併用するか、あるいは祈りを否定して、「あなたの求めたいものを、思い描き
なさい」という念力を教えて、信者もろとも業想念に執着し、外道に陥っている宗教家もいるのです。

「守護霊様、私達の天命が完うされますように」というような真実の祈りを祈っていれば、願望を思い描
いたり、イメージを強く念じたりする必要はないのです。神が愛であり全知全能であることを信じて、神
に全託していれば、あなたに必要な物は、すべて神から与えられ、必要な環境は整えられるのです。神へ
の全託の結果、神から与えられた幸運やすべての物は、あなたを真実の幸福へと導いてゆくのです。


祈り言と暗示法とは、どちらが正しく、効果的なのですか?
No.125 森島恒吉    1999/01/01 (金) 09:19 静岡県
世界人類が平和でありますように

【質問 2】〔要旨…祈り言と暗示法とは、どちらが効果的ですか?〕
「『何々して下さい』『何々になりますように』『こうなりますように』『何々が与えられますように』
と望む方法は、効果はありません。『自分はすでにこうなったのだ』『もう与えられているのだ』『すで
に願望は達成されたのだ』『絶対に治った、治った』と自分の望みを完了形の言葉で思い描き、それを信
じると、その通りになるのです」という教えがあります。
この教えが正しいとしますと、「世界人類が平和でありますように」と祈るよりも、「私は神である」
「私はすでに神になった」「世界人類は平和である」と宣言するほうが、より効果的だ、ということにな
りますが、いったいどの方法が正しく、効果的なのでしょうか?

【答え 2】〔要旨…暗示法よりも、真実の祈り言のほうが正しく効果的です〕
この教えは、真実の宗教の教えではなく、五井先生の教えでもありません。
前者の「何々して下さい」という方法は、守護の神霊という対象があるので「対話形の祈り」または「対
話形の願い事」と言います。「対話形の祈り」と「対話形の願い事」の違いは、目的の違いでありまして
神のみ心にかなった目的を願う時には「対話形の祈り」といい、自我欲望のままに願う時には「対話形の
願い事」というのです。このように同じ「お願いする形」でも、「祈り」と「願い事」とは違うのです。

「神様、何々して下さい」という言葉にも、「祈り言」と「願い事」の二つに分けられるのです。神様に
自分勝手な願い事を頼んでおいて、それが叶えられないからといって、「神様に祈ってもだめだ」と不平
を言っても、それはもともと祈り言ではないのですから、神様に聞き入れられるはずもありません。「祈
り言」と「願い事」を区別して考えねばなりません。

たとえば、「神様、私の欲しい物が得られますように」とか「神様、わが国が戦争に勝ちますように」と
祈ったところで、それは真実の祈り言ではなく、神はそのような自分勝手な願い事は、聞き入れないので
す。それでたまたま勝利を得たとしても、それは神の力によって得た勝利ではなく、念力で得た勝利であ
るのです。また、その人の欲望想念に波長の合った幽界の生物が、その人に憑依する危険もあるのです。

真実の祈り言、たとえば「世界人類が平和でありますように」とか「私達の天命が完うされますように」
という神のみ心に合った祈り言は、最も効果のある方法であるのです。効果がないと思うのは、守護の神
霊に全託していない為であって、祈り言に効果がない為ではないのです。業想念が消え去って、真実の姿
が現れてくるまでには、それなりの時間がかかるのですし、その人の業想念の厚さによっても、祈りの効
果が異なってきますが、真実の祈り言は、最も効果のある神性開発法であるのです。

後者の「すでに願望が達成された」と思い描く方法は、真実の宗教の教えではありません。心理学でいう
暗示法(完了形の暗示、肯定暗示)を利用したもので、その暗示に用いる言葉を「断言」といい、英語で
はアファメイション(Affirmation)といいます。

この「断言」に似ている言葉に、「宣言」(Declarationディクラレイション)という言葉がありますが
「断言」と「宣言」とは別の意味として分けて考えねばなりません。宣言は「真実にそうなっている」時
に用いるのに対して、断言(暗示法)は「まだそうなっていない」時に用います。そして断言には、過去
完了形(すでにそうなった)、現在完了形(今すでになっている)、未来成就形(未来に〜になる)とい
うような種類があり、このうち未来成就形の「断言」を「確言」と呼び、私は区別しております。

たとえば、巨大なビルを建設した後に「私は巨大なビルを建てた」という言葉は真実なのですから、その
言葉は、宣言と言えます。しかし、巨大なビルを建てる前に、「私は巨大なビルを建てた」と自己に言い
聞かす言葉は、その人のイメージの中だけであって、現実としてはまだビルができていないのですから、
宣言とはいわず、暗示の言葉または断言(断定形の言葉)と言うのです。

もう一つの例を出しますと、真実に自己の神性を顕現した人が「私は神の子である」と唱えれば、それは
宣言(宣言形の祈り)となりますが、まだ神性を顕現していない人が「私は神の子である」と唱えた場合
には、それは宣言とはいえないのであり、自己暗示の断言にすぎないのです。自己暗示の断言を、どんな
に繰り返し唱えても、真実の宣言にはなり得ません。「私は神の子であると宣言する」と宣言の言葉を用
いていても、神の子になっていない人が唱えた言葉は、宣言ではなく、暗示の言葉にすぎないのです。

ご質問にあるように宗教家によっては、「私の願望はすでに成就された」「私は治った」「私はすでに欲
しいマンションを手に入れた」「私は社長になった」「私はあの人と結婚している」というように、完了
形の断言による願望成就法を教えている指導者がおります。そしてこの暗示法を、宗教的目標の達成にも
応用して、「私はすでに神になった」「私は神である」「世界は平和である」という断言による目標達成
法を、従来の祈り言よりも、さらに一層進んだ方法である、と教えている宗教指導者もいます。しかし、
その行為は、守護の神霊の加護を拒否する行為であり、神への冒涜になるのです。

「私はすでに巨万の富を手に入れた」という断言による暗示法も、「神様、お金をください」という願い
事も、表現の形は異なりますが、どちらも「念力」に変わりはありません。車を買うとか、家を建てると
か、物質的な願望を成就する程度ならば、念力で得られることもありますが、宗教的な目標は、「私は神
である」「世界は平和である」と思い描いても、念力の方法では、とうてい達成できないのです。

それはなぜかというと、神性を開発するとか、世界を平和にするには、業想念の世界を抜けなくてはなら
ないからです。業の念の力を強めても、それは業想念の世界のことですから、いつまでも本体本心は現れ
てこないのです。神性を開発し、世界を平和にするには、念の力では達成できないようになっているので
す。神性を開発し世界を平和にするには、どうしても守護の神霊の加護の力が必要になってくるのです。
守護の神霊の力と分霊の力が一体になってこそ、人間は神の子としての完全能力を発現してくるのです。

まだ神性を顕現していない人が「私は神の子である」と言ったら、偽善者になりますし、「世界は平和で
ある」と言っても、現実には世界は平和でないのですから、自分の潜在意識は納得しませんし、嘘をつく
ことになり、多くの人々の賛同も得られません。現実を無視し、嘘をつくやり方というのは、常識的な多
くの人々から賛同を得られません。多くの人々に納得してもらえず、多くの人々に賛同してもらえないよ
うな無理なやり方では、平和運動として大きな力にはなりませんし、長続きするものではないのです。

断定形の暗示を教える人には、「〜でありますように」という表現が、「〜である」という断定形よりも
弱々しく感じられる、という理由をあげるのですが、強く感じられればなんでも良い、というものではあ
りません。「何事も過ぎたるは及ばざるがごとし」でありまして、たとえば、お風呂に入る時にも熱過ぎ
ては火傷をしてしまいますから、冷水でちょうどよい適当な温度にしなくてはなりません。

早ければ早いほど良いからといって、赤ん坊が一日で大人にはなりませんし、大学受験の前日に教室にい
ても、試験を受けることはできません。まだ国会議員になってもいないのに、選挙する前から「私は国会
議員である」と宣言しても、「あいつはアホなやつだ」と世間の人に笑われるだけです。「私は億万長者
である。私は無限の富を持っているのだ」と銀行の窓口で宣言しても、銀行員は融資をしてくれません。

この世界では、ある程度の時間というものが必要であり、物事を成就するには、ちょうど良い時期グッド
タイミングで行なってこそ、うまく成就するのです。人間は、誰でもいずれは神の子になるのは定まって
いることなのですが、その過程にある現在、神の子になったフリをしてみても、それは焦りという業想念
の行為であるのですから、偽善者となってしまうのです。

このように温度にしても、物事を行なうタイミングにしても、中庸というものがあるのです。
「今、世界は平和である」と言ったら、強い表現には違いありませんが、それは早過ぎる発表で嘘になり
ます。嘘という欠陥があるわけです。この言葉には、未来を性急に現在に持ってくるようなもので無理が
あるのですから、常識を持った多くの人々には唱えられる言葉ではありません。
それに対して「今から永遠に、世界人類が平和でありますように」という祈り言には、嘘はありません。
すべての宗教者が抵抗感なく唱えられる祈り言ですし、信仰の対象が特にない人でも無理なく祈れます。
ですから、この祈り言は、最強の中庸の祈り言である、と言えるのです。

「私は神の子になった」という偽善者を生む暗示法よりも、「守護霊様、私の本心を現して下さい」とか
「守護霊様、私の神性が一日も早く現れますように」というような守護の神霊への祈り言のほうが、はる
かに自然で無理がなく効果があるのです。「世界は平和である」という無理な暗示法よりも、「世界人類
が平和でありますように」という世界平和の祈りのほうが、神性開発にも世界平和実現にも、はるかに効
果がある方法なのです。自己暗示法に惑わされず、守護の神霊に加護を願い、世界平和を祈り、感謝の祈
りを続けて下さい。「世界人類が平和でありますように」と「世界平和の祈り」の中に入りきっている時
あなたは神の子の光明を顕現しているのであり、平和な世界に住んでいるのであります。


なんじら人をさばくな
No.129 森島恒吉    1999/01/07 (木) 11:29 静岡県
世界人類が平和でありますように

昨日放送された、観月ありさ主演のコメディドラマ「天使のお仕事」で、セリフに用いられたイエスのお
言葉を、ここで紹介しておきましょう。短い言葉であっても、イエスのお言葉が語られるときには、神聖
な光明がそこに輝き、その場が浄められて、胸がスーッとするような爽快感を感じます。

【マタイ傳第七章】
なんじら人を審(さば)くな、審かれざらん為なり。
己(おの)がさばく審判(さばき)にて己(おのれ)もさばかれ、
己(おの)がはかる量(はかり)にて己(おのれ)も量(はか)らるべし。

直観的に理解できる人は、このままでなんの説明もいらないのですが、わかりやすく解説しますと、この
時代には厳しすぎる律法(おきて)で、残酷なまでに人々を責め裁く慣習がありまして、イエスのお心は
そうした誤った慣習をやめさせ、「愛と赦し」をひたすら教えたかったのです。

現代においては裁判所がありますが、裁判官が犯罪者を裁くことは、正しく行なわれる限り、それは神の
み心であり、犯罪者を捕まえる警察署の存在も、神のみ心であるのです。但し、宗教者の天命は、裁判官
とは違って、人々の罪を浄め、人々を赦すことにあるのですから、宗教者が裁判官と同じことをしていた
のでは、天命が果たされないのです。宗教者の天命は、罪を二度と犯さないように、人々の潜在意識にあ
る業想念を洗い浄め、神の子として生まれ変わらせることにあるからです。

神のみ心にかなうように、正しい行為を人に教えることは必要なことであるのですが、根気よく愛と忍耐
をもって教えるべきでありまして、ガミガミと叱ってばかりいて、人の顔を見ればその都度、相手の欠点
を責め裁くというような教え方では、どんなに正論を説いていようとも、人々から嫌がられてしまって、
人々を指導することはできません。人を愛し、人を赦す、という本来の目的を失って、「おまえよりおれ
のほうが偉いのだ」というような権力欲を満足させるために、人を責め裁いてはいけないのです。

人を責め裁く想いが出たら、このように祈ればよろしいでしょう。

守護霊さま、あの人の天命が完うされますように
守護霊さま、あの人の本心が現れますように

守護霊さま、あの人たちの天命が完うされますように
守護霊さま、あの人たちの本心が現れますように

また、自分を責め裁いて、いつも苦しくて仕方のない人は、このように祈ればよろしいのです。

守護霊さま、正しい行為ができない私を、どうぞ浄め赦したまえ
守護霊さま、私の天命が完うされますように、どうぞ私を導き守りたまえ

ここでは守護霊を祈り言の対象として書きましたが、勿論、あなたの信仰する神仏を呼んでお祈りしても
いいのです。このように守護の神霊に祈っていれば、守護の神霊の光明によって誤った想念が浄められ、
いつしか自然と、自分を赦し人を赦せる自分になってゆくのです。


神さまの大愛を信じましょう
No.132 森島恒吉    1999/01/14 (木) 02:22 静岡県
世界人類が平和でありますように

「自力だけでもだめ、他力だけでもだめ、自力と他力を合わせた渾然一体化した生き方が、最善なのだ」
「自力行と他力行の調和が、最良の生き方なのだ」と説く人がいますが、自力と他力は、まるで道が異な
るのですから、自力と他力を合わせても、調和した生き方にはなりませんし、渾然一体化とはならず、中
途半端な生き方となるだけです。自力と他力の両方を混ぜた教えは、二元論生き方を説くことになり、矛
盾撞着した生き方になってしまうのです。「自力の道を行くべきか、他力の道を行くべきか?」というこ
の問題は、宗教の道を歩む者の第一になさねばならぬ選択なのです。

五井先生は、ご自身で「私の教えは他力易行道です」「私は他力の行者です」と、明確に説いておられま
す。「世界平和の祈り」は他力の行であり、他力以外の自力の教えは、五井先生の教えの中には一つもあ
りません。守護の神霊に向かって「世界人類が平和でありますように」と祈り、守護の神霊の大愛に自己
の運命を全託することによって、私たちの神性は開発され、私たちの人生は幸福な運命となり、世界は平
和になるのです。「世界平和の祈り」の中で、ふつうに日々の生活をしていさえすれば、この世において
も、すでに大悟の境地に入ることを約束された、と同じであることを知って下さい。

ところが、こんなに素晴らしい「世界平和の祈り」の教えを知りながら、「世界平和の祈りだけでは、神
性を開発することはできない、世界を平和にすることができない」と思ったり、「世界平和の祈りよりも
他に、もっとよい祈り言や行法があるのではないか?」と思うようになって、「世界平和の祈り」以外の
自力行や行法に魅力を持ち、再び低い波動の宗教に転落してゆく人もいるのです。このような人は、まだ
五井先生の高い教えに自己の心境が合わず、五井先生の教えを理解する時期が来ていないためで、五井先
生の教えに落ち着けず、自分の未熟な心境に合った、低級な宗教や行法へと落ちてゆくのです。

また、かなりの境地にいる宗教者でも、「世界平和の祈り」を長い間やっている人でさえも、真実に悟る
までには、フッと魔がさしたように、突然に、五井先生の教えが低い教えに見えてきたり、五井先生を信
じられなくなったり、不安な暗い気持ちに襲われたり、「世界平和の祈りだけじゃ駄目なんじゃないか」
と「世界平和の祈り」を否定する気持ちに陥ることがあるのです。同時に、現実の生活でも自分の勤めて
いる会社が倒産したり、家族が不慮の事故で亡くなったり、負債をかかえたり、不治の病にかかったりし
ますと、「消えてゆく姿である」と思えなくなり、気持ちが沈んで暗くなってゆくことがあるのです。

これを修行途中にある魔境というのですが、こんな場合にも、すぐれた宗教指導者についておりますと、
自己に憑依してきた業想念を祓い浄めていただけるので、すぐに元通りの明るい元気な心に戻れるのです
が、善き師につかず、一人で修行している人は、次々と襲いかかってくる業想念を自己の力で浄めること
ができず、業想念に憑依されたまま、迷いつづけることになってしまうのです。こんな時には、素直に守
護の神霊を呼ぶか、五井先生の助けを呼べばいいのですが、「外部の守護の神霊に何々して下さい、と願
う祈り方は、自己の内部神性を否定することになるから間違っている。守護の神霊に頼ってはいけないの
だ」と潜在意識で思い込んでおりますと、その想念が呪縛となって、守護の神霊の応援が得られず、いつ
までも業因縁の世界をグルグル廻りすることになるのです。

今日の人々は、家族を養うために働くだけで、もう精一杯なのです。昔のように、山にこもって、自力行
でのんびりと霊性開発している暇はありません。爆弾が落ちてきたら、山で修行することさえ、できなく
なるではありませんか。一年に一回くらい座禅をしたり、たまさか冷たい滝を浴びても、それくらいの行
では、とうてい悟れるはずもありません。業因縁の渦から解脱するためには、自力では無理なのだ、と一
日も早く知らなければなりません。「自力行では悟れないのだ」「自力では何事もなし得ないのだ」と心
の底から気づくことが、他力行への第一歩なのです。多くの奇蹟を起こしたイエスさえ、「我みづから何
事もなし能(あた)はず」(ヨハネ傳第五章)と、肉体人間の自己の無力さを説き、神への全託の必要性
を説いているのです。まして現代は、守護の神霊と分霊の一体化によって、分霊の神性が開発されるよう
になっているので、守護の神霊の加護なくしては、とうてい神性の開発は不可能なのです。

神は大愛であり、全智全能であることを、まず信じることです。その大愛なる神は、守護の神霊という形
で、私たちを愛して下さり、全智全能の力で、私たちを守っていて下さるのです。守護の神霊に向かって
「世界人類が平和でありますように」と祈るとき、神は私たちを救い、世界を平和にして下さる、と約束
して下さったのです。どうして、その神の約束を信じられないのでしょうか?神は業生の人間と違って、
一度した約束を破ることは、決してなさらないのです。「あなたを守ります」と神さまが約束して下さっ
たら、あなたは必ず守られるのです。「あなたを幸福にします」と神さまが約束して下さったら、あなた
は必ず幸福になるのです。「世界を平和にします」と神さまが約束して下さったら、世界は必ず平和にな
るのです。あなたがなすべきことは、山にこもって座禅をすることでもなければ、冷たい滝を浴びたり、
断食することでもありません。難行苦行することでもありません。あなたのなすべきことは、ただ一つ、
神さまの約束を信じることだけでよいのです。神さまを疑って、神の救いの手を拒否してはいけません。

どんなに苦しいめにあおうと、「神さまは、きっとよくして下さるに違いない」と信じましょう。
どんなに悲しいめにあおうと、「神さまは、私を愛し守って下さっているのだ」と信じましょう。
どんなに長い時がかかろうと、「神さまは、私たちを救って下さるに違いない」と信じましょう。

神さまは大きな愛であるのです。
今更、なぜ、神さまの大きな愛を疑うのですか?
神さまは全智全能であるのです。
今更、なぜ、神さまの全智全能を疑うのですか?
神さまにすべてを委ねるのです。
今更、なぜ、何を不安に思い心配するのですか?

神さま、あなたさまにすべてを、おまかせいたします。
神さま、世界人類が平和でありますように。
神さま、ありがとうございます。

私たちの世界平和の祈りは、こうした全託の祈りそのものであるのです。


光の道を進む私たち
No.134 森島恒吉    1999/01/17 (日) 03:36  
世界人類が平和でありますように

NHK「知への旅・ルネサンス・異端から宗教改革へ」は、アメリカで制作された番組ですが、カトリック
とプロテスタントの歴史が克明に紹介されていました。プロテスタントを創ったマルティン・ルターも、
初めは敬虔なカトリック信者であったのですが、カトリックの教会主義に矛盾を感じて、「教会ではなく
て、聖書と自分の信仰があればよい」と説きました。カトリックは、そのようなプロテスタントを最初は
異端視していたのですが、プロテスタントの勢力が拡大するにつれて、「対抗宗教改革」を打ち出して、
異端に対しても寛容の精神を示す、という方針になっていったのでした。同じキリスト教なのに、種々の
宗派に分かれたのは、それなりに意味があったのでしょう。

「世界人類が平和でありますように」という祈り言は、どの宗派の人でも、こだわりなく祈ることのでき
る祈りですし、どこの宗派ともぶつからない祈り言なのです。しかし、宗教信仰を持っている人は、案外
に他の宗教宗派に対して寛容ではなくて、私どもの「世界人類が平和でありますように」という祈り言に
ついても、賛成して下さる方は、まだまだ少ないのです。「世界平和の祈りは、現代の念仏です」と説い
ても、浄土宗や浄土真宗の人たちに、いまだに理解してもらえませんし、「み心の天のごとく地にもなら
せたまえ、というイエスの祈りを、現代的にした祈りが、世界平和の祈りなのです」と説いても、クリス
チャンの人たちに、なかなか理解してもらえませんが、これも時間の問題なのです。

「世界平和の祈り」の誕生によって、宗教宗派は一つに自然に融合してゆくのですが、無理に妥協して一
つにさせるのではなくて、あくまでも自然に融合してゆかねばなりません。それまでには、時間がまだま
だかかるのです。たとえ、自己の信仰に反対する者がいたとしても、その対抗勢力に対して、決して憎ん
だり怒ったり、暴力をふるってはなりません。自己の心の中から、不平不満の想いを無くし、憎しみや怒
りを無くし、敵対想念を無くさなければ、真実の平和は築けません。「世界平和の祈り」には、愛だけが
あって、憎しみも敵も争いもありません。

「愛は忍耐なり」でありまして、人々に理解されなくとも、人々から屈辱を受けようとも、それを耐え得
る、真の勇気が必要なのです。その真の勇気をつちかうためにも、日々の「世界平和の祈り」が必要とな
るのです。「世界平和の祈り」を知って、日々「世界平和の祈り」を祈ることのできる私たちは、なんと
幸せかと、いつも思います。この世の進化には時間がかかるのですから、焦らずに「世界平和の祈り」を
祈りつづけてゆけばよいのです。世界平和実現に向かって、私たちは「世界平和の祈り」の光の道をまっ
しぐらに突き進んでいるのです。


イエスさまの愛の教え
No.144 森島恒吉    1999/01/29 (金) 16:56 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「天使のお仕事」(フジテレビ・毎週水曜夜9時)第4回のあらすじ

「祈りと愛の行動のどちらを優先すべきか?」という問題で、シスター達が論議する。シスター馬場は、
「行動よりも祈りが大事です」と主張するのに対して、シスターまりあは「行動することが必要ではない
か」と主張し対立する。この宗教的論議については、結論が出ないままドラマが進んでゆく。

「修道院の土地を買い取ったオーナーは、修道院の跡地には、アミューズメントパークをつくりたい、と
言っている。そのために早く修道院を立ち退かせてくれ」と暴力団の前島は、日下部弁護士に話す。
「そんなにすぐにはできない。3カ月はかかる」と日下部は答えると、前島は「汚い手を使ってでもやっ
てくれ」とそそのかす。

前島に頼まれた部下の岩田は、ほのかな恋心を寄せているシスターまりあの住む修道院に、嫌がらせをし
たくはなかったが、「お前がやらなければ、暴力団が代わりに行くぞ」と日下部に言われ、やむなく修道
院のガラス窓に石をぶつけた。その石を包んだ紙には、「出て行け」と書かれていた。さらにもう一つ石
を投げようとした岩田は、シスターまりあに見つかり、手につかんだ石を放り出して逃げてゆく。

シスターまりあと沢木修道院院長が、日下部のもとに、窓ガラスを割られた事件について尋ねに来た。
日下部は、「自分がやらせた」とついに白状する。二人が帰った後、日下部は、熱心なクリスチャンだっ
た妻の形見の聖書を、押し入れから取り出すと、聖書の表紙のほこりを手で静かにぬぐって、机の上に置
いた。数年前に愛する妻が路上で暴漢に殺されて以来、神の存在を信ぜず、神を疑うようになった日下部
であったが、シスターまりあの神への信仰心に、日下部は自分の良心が目覚めてきたのを感じていた。

聖書に手を触れた日下部は、何事かを心に決意したらしく、金庫の扉を開き、前島から着手金として貰っ
た金の入った封筒を手にした。その夜、日下部はクラブで前島に会うと、前島に金を返し、「この件から
ひかせてもらう」と言って立ち去って行った。日下部に断られたことに激怒した前島。…

あらすじはこのくらいにして、今回出てきた聖書の言葉を取り上げて書くことにします。
前回までは、「汝」という言葉がたびたび出てきたので、使われている聖書は「文語訳聖書」かと思った
のですが、今回の場面では、「現代語訳聖書」が使われていました。口語訳か新共同訳か新改訳かについ
ては、わかりません。ドラマを見ている視聴者にとっては、現代語訳のほうがわかりやすいと思いますが
ここでは格調の高い「文語訳聖書」を紹介したいと思います。パソコン画面での読みやすさを考えて、長
い文については、詩のように次行に折り返して書いたことをお赦し下さい。

イエスさまの「愛の教え」は、幾度読んでも心が浄まる想いがいたします。

[聖書 ルカ傳第十章25節〜37節](日本聖書協会・文語訳聖書)

視(み)よ、或る教法師、立ちてイエスを試みて言ふ
『師よ、われ永遠(とこしえ)の生命(いのち)をつぐためには何をなすべきか』
イエス言ひたまふ『律法(おきて)に何としるしたるか、汝いかに読むか』
答へて言ふ『なんぢ心を盡(つく)し、精神(せいしん)を盡し力を盡し、思ひを盡して、
主たる汝の神を愛すべし。また己(おのれ)のごとく汝の隣(となり)を愛すべし』
イエス言ひたまふ『なんぢの答(こたへ)は正し。之(これ)を行(おこな)へ、さらば生くべし』

彼おのれを義(ぎ)とせんとしてイエスに言ふ
『わが隣とは誰(たれ)なるか』
イエス答へて言ひたまふ
『或人(あるひと)エルサレムよりエリコに下るとき強盗にあひしが、
強盗どもその衣(ころも)を剥(は)ぎ、傷を負はせ、半死半生にして棄て去りぬ。

或(ある)祭司たまたま此の途(みち)より下り、
之(これ)を見て彼方(かなた)を過ぎ往(ゆ)けり。
又レビ人も此處(ここ)にきたり、
之(これ)を見て同じく彼方(かなた)を過ぎ往(ゆ)けり。

然(しか)るに或サマリア人、旅して其(そ)の許(もと)にきたり、
之(これ)を見て憫(あはれ)み、近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ、
傷を包みて己(おの)が畜(けもの)にのせ、旅舎(はたごや)に連れゆきて介抱し、
あくる日デナリ二つを出(いだ)し、主人(あるじ)に與(あた)へて
「この人を介抱せよ。費(ついえ)もし増さば、我が帰りくる時に償(つくの)はん」と云へり。

汝いかに思ふか、此(こ)の三人のうち、孰(いづれ)か強盗にあひし者の隣となりしぞ』
かれ言ふ『その人に憐憫(あはれみ)を施(ほどこ)したる者なり』
イエス言ひ給ふ『なんぢも往(ゆ)きて其(そ)の如くせよ』


五井先生を強くイメージするには?
No.145 森島恒吉    1999/01/30 (土) 12:51 富士宮市
[質問]
「阿難(釈迦とその弟子)」の中に、「統一とは、頭脳を駆けめぐるすべての想念を本心から離すために
なすのである。(中略)自己の信念に自信のないものは仏世尊に精神を集中するとよろしかろう」と瞑想
統一の修行の話があります。世尊のお弟子さん達は、まじかで世尊を見ているのですから、イメージが強
く集中できやすいのではないか、と思います。
五井先生のご著書もある、写真もある、ビデオもあります。しかし、五井先生に実際にお会いした方と、
会っていない方が、「五井先生」と呼んだとき、お会いした方のほうが、強くイメージできるのではない
か、と思います。五井先生、もっと身近に、強く思える方法はないものでしょうか?
また、守護霊様、守護神様を、もっと身近に強くイメージする方法はないでしょうか?

[お答え]
ご質問をいただき、ありがとうございます。
おっしゃるように、五井先生に実際に会った人と会わなかった人とでは、五井先生を思い浮かべる時に、
イメージや親近感に差があるのは否めません。私の場合も、五井先生が聖ヶ丘道場の壇上でお茶をすする
お姿、お庭に立っているお姿、歩いているお姿、新田道場でキャラメルを下さったお姿、私と握手をして
下さったお姿、私の質問に答えて下さったお姿など、幾つもの場面を重ねて記憶しているので、五井先生
を思い浮かべやすいのでしょう。

五井先生にお会いしなかった方々は、すでに五井先生が他界されてしまったのですから、同じように五井
先生を思い浮かべることができないのは、無理もありません。ですから、五井先生のお写真を見たり、講
話のテープを聞いて、五井先生をイメージするしかありません。

守護霊さまは、親しいご先祖の写真が残っていたら、そのご先祖を思い浮かべればよいのですし、ご先祖
のお墓まいりをすることによっても、守護霊とのつながりを強く認識できます。この場合、守護霊さまの
名前を詮索する必要はありません。守護神さまとなりますと、肉体を持った守護神さまもおられますが、
一度も肉体を持ったことのない守護神さまもいますし、一度も見たことがないのですから、思い浮かべる
ことはできません。しかし、守護霊さまも守護神さまも、五井先生の神体に含まれて、活動しているので
すから、五井先生だけを思っても、守護霊さま、守護神さまを思ったことになるのです。

祈りというのは、念力のように、強くイメージすることではありません。「強くイメージする」という行
は、念力であり、誤りであって、五井先生は一度もそんな教えは説いておりません。真実の祈りには、そ
うした力みは一つも必要ないのです。力まずにふんわりと、「守護霊さま、守護神さま、五井先生…」と
言葉だけを唱えていれば、映像を強く思い描かなくても、守護霊さま、守護神さま、五井先生に、あなた
の祈りは伝わるのです。むしろ、力まないほうが、より効果的であるのです。あなたが強く思おうと弱く
思おうと、そんなこととは関係なく、「世界平和の祈り」を唱えていれば、あなたは救われ、世界は平和
になってゆくのです。五井先生の教えは自力行ではなく、他力の教えであるのですから、「強くイメージ
しなくてはいけない」という力みは、まったく必要ないのです。「五井先生を思えば、五井先生は現れる
のだ」と信じて、「世界平和の祈り」を祈りつづけていればよろしいのです。

「しかし、そうはおっしゃっても、やっぱり、五井先生をもっと身近に感じたい」と、あなたが思うなら
ば、五井先生の教えを充分に理解していて、あなたが尊敬できる先達について学ぶことがよろしいでしょ
う。「私は五井先生以外の師に教わりたくない」と言って、一人で精進する人も中にはいますが、それも
結構ですが、先達に教わらず、一人で自己の霊性を開発してゆくのは、並大抵のことではありません。途
中で挫折してしまうか、悟ってもいないのに悟った気持ちになって、高い境地へ上れず、低い階層で迷い
つづけてしまうことにもなりかねません。守護霊は、直接霊感的に伝えるだけでなく、肉体を持った身近
な人や先達を通して守護霊が教えて下さることも多いのですから、誰にも習わなかったら、守護霊のせっ
かくの声を聞き逃してしまうことになります。

もし、幾人かの先達に会ってお話を聴き、それでも五井先生の雰囲気が感じられず、ご自分に合わないよ
うでしたら、私に会いに来られたらいいでしょう。私の顔は五井先生とは全く異なっていますが、私は霊
的に五井先生と一体化し、私の講話は五井先生と同一であるのですから、私を思えば、五井先生につなが
ることになりますし、私と会えば、五井先生に会ったことになります。私はまだこの世に生きています。

あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」を祈っていれば神の子になる
No.146 森島恒吉    1999/01/30 (土) 23:48 富士宮市
白光誌(1999年2月号)「完全円満な自分になるために」(五井昌久先生の講話/昭和36年3月4日)

五井先生のこの講話の要点を書き出し、その順序を並べ替えて、タイトルも変えました。

……………………………………………………………………………………………………………………………
五井先生の講話「世界平和の祈りを祈っていれば、神の子になる」(森島恒吉/編集)

「神さまは完全円満、全智全能、欠けたるところがない。したがって、神様の世界には悪いものは無い。
だから、自分の世界に、もし不幸や病気貧乏があるとすれば、それは人間の心の間違いがあるからだ」
−こう説く人(宗教者)があります。

他力みたいなことを言って、「神様に全託しなさい」と言っておきながら、それで「あなたの心が悪い」
と言う。こんなおかしな話はない。神様は全智全能で完全で、人間に悪いものを与えていない、とするな
らば、人間の中にある悪い心は、どこから出てくるの?…「人間は神の子なんですよ」と言っておきなが
ら、「おまえの心が悪い」とは何事だ?!(※五井先生はここで、二元論の矛盾を突いているのです)

(あなたの心が間違っているからだと)現れを見て、裁いてゆく。…そこで裁かないで、親である神様に
全部まかせてしまったらいいじゃないか、と全部の想い、すべての運命を神様におまかせしてしまうやり
方が、いわゆる浄土門のやり方です。

昔の宗教は、自力で自分の汚れを祓おうとしたから、骨が折れます。…妻帯して悟りの道に入るのには、
自力門ではできない。「阿弥陀様にすべてまかせるんだ、南無阿弥陀仏」なんです。

他力はいいですよ。いい事をしても自分ではないんです。悪い事は、過去世の因縁が消えてゆく姿なんで
す。私はそれをはっきり示した。

「私が悪い」とか「あの人が悪い」とか想ったら、想ったままでよいから、「南無阿弥陀仏」と言うよう
な想いで、「世界人類が平和でありますように」と(他力の)祈りの中へ入れてしまいなさい、と言う。

(他力の方法は)自分を責めるわけでもなければ、他人を責めるわけでもない。悪や不幸をつかむわけで
もない。つかんだ時、世界人類の平和の祈りで消しちゃうんだから。つかんだ時、放しちゃうだから、つ
かんでないでしょう。

そうすると、自然に、自分は完全円満な神の子になってくるわけですよ。(完)
……………………………………………………………………………………………………………………………

「あなたは神の子です」と説きながら、「あなたの病気や不幸や悪は、あなたの想念の結果だ。あなたの
想念を改めなさい」と説く宗教者がいますが、この二つの言葉は大変矛盾しているのです。ところが、こ
の二つが矛盾していることに、なかなか気づかない宗教者が多いのです。教えている宗教者が、自己の教
えの矛盾に気づいていないだけでなく、その宗教者からその話を聞いている信者さんも、その話の矛盾に
気づかないのです。五井先生と同じように私も、その話の矛盾を突くと「矛盾していない」と怒りだす人
さえいます。

白光の人の中にも、「あなたは神の子です、人類すべてが神の子です」と説きながら、その一方で、「神
の子になっていない人々が、まだまだいるのです」と説いたり、「想念の法則」を説いて、「あなたの想
念を直しなさい」と指導している人がいるとしたら、五井先生に「人間は神の子と言いながら、その一方
で神の子を否定するとは何事か!」と叱咤されるでしょう。五井先生の教えをまるでわかっていない人、
と言うしかありません。

「あなたは神の子です」と説きながら、「あなたは神の子ではありません」と説けば、誰でもその教えの
矛盾に気づくのですが、「あなたは神の子です」という言葉と、「あなたの想念を直しなさい」という言
葉が、密接なつながりを感じない言葉で、表現が異なっているために、洞察力の鋭い敏感な人以外は、そ
の二つの教えの言葉が、矛盾しているように感じられないのです。

皆さんにわかっていただきたいことは、「世界平和の祈り」を祈っていれば、自力の行は一つも必要ない
のだ、という真理なのです。「想念の法則」には、自他を責め裁く欠陥を持っている事実に、一刻も早く
気づいて下さい。「想念の法則」を持ち出して、自己の想念力で自己の運命を善くしようとしても、そん
なに簡単に自己の運命を変えることはできないのです。結局は、自他を責め裁くことになるのです。

また「私は神の子である」と無理に真理を宣言する方法は、結局は、神の子になれず、神の子になったふ
りをする偽善者になってしまうのです。運命を善くしようと善き言葉を念じなくとも、自分の欲する目標
を強く念じなくとも、「私は神の子である」と宣言しなくても、「世界平和の祈り」一つを祈ってさえい
れば、守護の神霊の他力で、自然に運命は開け、何も力まずとも自然に、神の子になってくるのです。
「世界平和の祈り」を祈っていれば、誰もが自然に、完全円満な神の子になるのです。

世界人類が平和でありますように


「神の子論」と「想念法則論」の矛盾点とは?
No.147 森島恒吉    1999/02/01 (月) 00:04 富士宮市
[質問]
「人間は神の子である」という神の子論と、「あなたの心が悪い」と相手を責めて光明思念に改めさせる
「想念法則論」が、なぜ矛盾するのか、私にはまだわかりません。わかりやすくご説明下さい。

[答え]
次の論理数式を見れば、「神の子論」と「想念法則論」が矛盾していることが明らかです。

「神の子論」……「あなたは神の子である」and「神の心は善である」∴「あなたの心は善である」
「想念法則論」…「あなたの心が悪い」and「神の心は悪ではない」∴「あなたは神の子ではない」
∴「あなたは神の子である」≠「あなたは神の子ではない」
∴「神の子論」≠「想念法則論」

「神の子論」で行くならば、「神の子論」一本槍で徹するべきなのです。「想念法則論」を持ち出すとい
うことは、「あなたは神の子です」と口先では言ったとしても、「あなたは神の子ではない」と内心では
想っている証拠なのです。真実に「あなたは神の子です」と想っていたら、「あなたの心が悪い」という
言葉が出てくるはずもありません。「想念法則論」を持ち出すと、せっかくの光明思想(神の子論)が台
無しになってしまうことを知って下さい。そして、真実の幸福というものは、因縁因果の想念の世界に存
在するのではなく、三界の想念の世界を超えた所に実在することを悟って下さい。


「私は神の子である」となぜ宣言しないのですか?
No.148 森島恒吉    1999/02/01 (月) 15:23 富士宮市
[質問]
「人間は神の子である」という言葉は、真理であると、五井先生も森島先生も共に認めていらっしゃいま
す。それなのに、なぜ「私は神の子である」という真理の言葉を唱える行法については、五井先生も森島
先生もお勧めにならないのでしょうか?

[答え]
五井先生も私も、真理の言葉と、その真理の言葉を顕現する行法とを、区別しているのです。
「人間は神の子である」という言葉は、まことに真理です。真理であるがゆえに、たやすく口に出す言葉
でもなければ、口に出せる言葉でもないのです。なぜならば、真理としては、たしかに人間は神の子であ
り、本来は神の子であるのですが、現実の人間は、とても神の子と呼べるほど進化してはおらず、まだ善
悪混淆の業生の姿を見せているからです。「私は神の子である」と宣言するには、まだ早過ぎるのです。

現実には神の子になっていない人間が、「私は神の子である」と宣言したら、それは嘘になるどころか、
神への非常な不遜になります。また、「私は神の子である、と繰り返し念じて、自己に言い聞かせていれ
ば、想った通りになる」と教えている宗教者もいますが、念力によって神の子になれるほど、甘いもので
はありません。「思った通りになる世界」というのは、肉体界・幽界・霊界の下層の三界でのみ通用する
法則でありまして、想念の力で神の子になることはできないのです。なぜならば、神の子は、欲望想念の
世界を超越した階層に住んでいるからです。

「私は神の子である、と唱えていれば、神の子になれる」と説いている宗教者も、何年経過しても、一向
にご自身が神の子にならず、「昨日は一千回、私は神の子である、と唱えた」と告白しているのです。一
千回も「私は神の子である」と唱えているということは、その宗教者ご自身が、まだ神の子になりきって
いない証拠なのです。真実に神の子になった人は、ことさらに一千回もあえて唱える必要はないはずだか
らです。それをことさらに「私は神の子である」と唱えるということは、まだその宗教者ご自身が、神の
子になっていない証拠であるのです。

念力でも想念法則によっても、「人間は神の子である」という真理を顕現することは、とても不可能であ
ることを知らねばなりません。また「私は神の子である」という真理の言葉を宣言する方法でも、実際に
は偽善者になってしまったり、自分にも他人にも嘘をつくことに心苦しくなってきたり、いつまでたって
も神の子になれない自分を責めて、「なんて自分は駄目なんだろう」とかえって暗い人間になってしまう
のです。自力の方法には、そうした欠陥のあることを知らねばなりません。

ですから、真理は真理として置いといて、「人間は神の子である」という真理は、理想の目標として教え
ておいて、その真理を顕現できる実際的な方法としては、自力の方法ではなく、守護の神霊への他力の道
である「世界平和の祈り」を教えているのであります。「世界平和の祈り」を祈っていれば、無理に神の
子になったふりをして嘘をついたり、無理に背伸びをしたりしなくても、力まずとも、自然に、あなたは
完全円満な神の子になってゆくのです。「世界平和の祈り」を祈っていれば、いつかあなたは神の子にな
るのです。真実にあなたが神の子になった自覚を得た、その時こそ、あなたは「私は神の子である」と、
誰にもはばからず、堂々と高らかに宣言なさったらいいでしょう。その宣言は、嘘ではないのです。


「世界平和の祈り」に生命をかけよう!
No.150 森島恒吉    1999/02/04 (木) 00:43 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さん、ありがとうございます。
一回限りでなく、毎日のように、この掲示板をお読みいただいて、ひそかに本心開発をされている方は、
たくさんいらっしゃるようです。ただ、おとなしい人が多くて、積極的に書き込みする人は少ないようで
す。世界平和の祈りを祈って下さる方ならば、どんなコメントでも結構なんです。自由にお書き下さい。

全託というのは、易しいようでいて実は、非常に勇気のいることなんです。なぜ、全託が易しいようで難
しいかというと、晶さんのご指摘の通り、自我を失う恐怖心があるからなんです。この自我というのは、
本心の真我ではなくて、肉体にまつわる業生の自我であり、この自我を失うことが怖いんですね。

ふつうは自我を強めることを社会では教育するのですが、宗教の世界では反対に自我を無くすことを教え
られます。しかし、神様に自己を任せたら、なんか自分というものが無くなってしまって、どうなってし
まうんだろう、という恐怖心が起こるのです。未知の世界に飛び込むのですから、怖いのも無理はありま
せん。そこで、先達に道を聞くということが必要になってきます。私たちの場合には、五井先生が最初に
神への全託をして、自我を捨てて、神我一体になられ、真我を獲得されたのを見ているのですから、神へ
の全託は、それほど難しくありません。私たちの場合は、ただ、五井先生を信じさえすればよいのです。

五井先生は、このように教えて下さいました。
「神は愛であり、神は全智全能であるのです。その神に自我を全託すれば、業生の自我は消え去り、その
後から、真実の自己、神の子そのものの自己が現れてくるのです。私はその体験者なのです」と。

神に全託することは、気を失って、その場にバタリと倒れることではありません。業生の自我と本心の自
我が入れ代わることであり、全託した後は、神の子としての輝かしい人生が開けてくるのです。
神の愛を信じて、五井先生を信じて、勇気をもって、神に全託しましょう。
「世界平和の祈り」に、一世一代、生命をかけようではありませんか!!

神様のみ心のままになさしめたまえ
世界人類が平和でありますように


「天使のお仕事」第5回と聖書
No.151 森島恒吉    1999/02/05 (金) 03:29 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[天使のお仕事](第5回・フジテレビ/水曜夜9時)

修道院を舞台にしたドラマとはいえ、キリスト教の宣伝と思われたり、祈りをストレートに表現すること
に、宗教嫌いの人や、反クリスチャンの人にとっては、抵抗を示すかもしれません。そうした懸念をもち
ながらも、テレビで「クリスチャンの生き方」を放映することに決めたフジテレビの英断は、称賛すべき
ものだと思います。正しい宗教の神に祈る行為を放映することは、それを見ている人々の宗教心を呼び覚
まし、心を浄める働きをしますから、このような神への祈りを描写した小説やドラマが、もっとたくさん
出てきてほしいと思います。近日、日本で公開される「レ・ミゼラブル」というビクトル・ユーゴの小説
の映画も楽しみの一つです。

「天使のお仕事」についての感想を書くようになって、クリスチャンの方や観月ありささんのファンの方
も、この"PEACE NIFON"を見に来て下さるようです。ありがとうございます。小説とかドラマのいいと
ころは、五井先生もおっしゃっていましたが、「主人公の行動によって、教えられる」ことです。著作権
の問題がありますから、ドラマのあらすじは、フジテレビのオフィシャルページをご覧いただくとして、
ここではドラマに出てくる、「聖書」のイエスさまのお言葉だけを、紹介させていただきます。

イエスさまは、神への愛を説くと同時に人類愛をも説いていますが、いいかえれば、これは縦の愛と横の
愛を十字に合わせた「大調和の愛の生き方」を教えて下さっている、とも言えるのです。

[聖書 マタイ傳 第七章12節](いずれも「文語訳聖書」日本聖書協会発行)

さらば凡(すべ)て人に爲(せ)られんと思ふことは、人にも亦(また)その如くせよ。

[聖書 ルカ傳 第六章31節]

なんぢら人に爲(せ)られんと思ふごとく、人にも然(しか)せよ。

[聖書 ルカ傳 第六章36節]

汝(なんぢ)らの父の慈悲(じひ)なるごとく、汝らも慈悲なれ。


「消えてゆく!」と「消えた!」どちらが正しいのか?
No.153 森島恒吉    1999/02/07 (日) 04:39 富士宮市
[質問]
五井先生は、「消えてゆく姿」という言葉で、業想念を否定することを教えて下さっていますが、「業想
念は消えた!もうすでに消えたんだ!」と否定して神に感謝するほうがより効果的だ、と説く宗教者もい
ます。「消えてゆく!」と思うのと、「消えた!」と思うのと、どちらが正しいのでしょうか?

[答え]
「業想念は消えた!もうすでに消えたんだ!」と業想念を否定する言葉は、五井先生の「消えてゆく!」
の教えよりもすぐれた方法である、と説いている宗教者がおられるようですが、その方法には効果がない
どころか、むしろ非常な欠陥があることを知らねばなりません。「消えてゆく」という言葉と「消えた」
という言葉は、同じ業想念否定の言葉であっても、まったく意味が異なりますし、その結果においても大
きく異なってくるのです。

「消えてゆく」という言葉は、業想念がまだ現実には存在している事実を認めつつも、時間の経過という
要素を加えて、未来には消えてゆくと、未来形で業想念を否定しているのです。それに対して「消えた」
という言葉は、過去形で業想念を否定しているのですから、業想念が現実には無いことを意味します。

「病気が消えた」と唱えた瞬間、病気が消えることも、全くあり得ない話ではありませんが、いつでも誰
にでもどんな病気でも、即座にそのような効果がある、というわけではありませんから、普遍的にはあり
得ないことなのです。誰にでもでき得ない方法、普遍的に効果が出ない方法、実行するのに難しい方法で
は、現代の宗教の方法とは言えません。すべての人が救われるためには、すべての人が実行できる、やさ
しい方法でなければだめなのです。

「病気は消えた」と宣言しようと、「病気は無い」と宣言しようと、特別な例をのぞいてふつうは、現実
には目の前に、病気が依然として存在しているのですから、いずれにせよ、現実の症状に対して嘘をつく
ことになります。「病気は無い、という言葉は真理であるから、この言葉を唱えれば唱えるほど真理が現
れてくる」と説く宗教者もいますが、どんなに真理の言葉を繰り返し唱えても、そう簡単に真理が現れて
くるほど、実際には甘くはないのです。それは不可能に近い方法なのです。

たとえば、自分が病気である場合、「私の病気は消えたんだ」とどんなに思い込んでも、現実には消える
ことはありません。「いや、あなたは自分で『できない』と自己の力を限定しているから、病気が消えな
いのであって、『できる』という積極的信念を持ちつづければ、病気は消えるのです」と説く人もあるか
と思いますが、やはり、そう容易には病気は消えることはない、と私は思います。

これは私が消極的な思想の持ち主だから、そういう結果になる、ということではなくて、誰がやろうと無
理な方法である、と私は言いたいのです。自分の病気が持続しているのに「私の病気は消えたんだ」と思
い込もうとすることには、大変無理があります。自己に嘘をつくことに嫌気がさしてきますし、精神的に
も力まねばならず疲れてもきます。これは私自身も、体験したことなのです。

他人が病気である場合には、「あなたの病気は消えたんだ。ベッドから起きて歩きなさい」と宣言しても
イエスキリストのように簡単には、その人を癒すことはできません。その病人からは「病気は消えたと、
おっしゃいましたが、なぜ、現実には治らないのですか?」と疑われます。答えに窮したあなたは病人に
対して「それはあなたが、病気は消えた、と信じないからだ。あなたの心の持ち方が悪いからだ」と答え
ます。すると結果的には、あなたは真理を説きながら、病人を責めることになってしまうのです。あなた
の真理の言葉を聞いている病人にとっては、その真理の言葉が冷酷非情に聞こえるのです。

つまり、「病気は消えた」という言葉には、真実に病気が消えない限り、自分にとっては、正直に告白す
ることができず、嘘をつく想いがたまって、偽善者となる欠陥があり、他人に対して用いれば、独善的に
高見に立ったものの言い方となり、他人を冷酷に責め裁くという二重の欠陥があるのです。

そこで今度は、五井先生の説かれている「消えてゆく」という言葉について説明しますと、この「消えて
ゆく」という業想念否定形は、「消えた」とか「無い」という断定的な業想念否定形に比べますと、真理
を一段下げた分だけ、迫力がやや弱く感じられますが、無理がなく、自然で、欠陥が一つも無いのです。

「消えてゆく」という言葉は、現在においては業想念が暫時(ざんじ)存在するものの、それは固定した
現象ではなく、時間の経過と共に漸次(ぜんじ)消えてゆき、未来においては業想念が完全に消え去るこ
と、を意味します。現実の不完全な事象を認めつつ、なおかつ未来においては不完全な事象を全否定する
言葉としては、「消えてゆく」という言葉以外、思いつきません。五井先生も、「『消えてゆく』という
言葉以外に、業想念を否定する的確な表現はありません」とおっしゃっていました。

「消えてゆく」という言葉を用いますと、自分や人に嘘をついたりしなくてもすみます。病気になったら
「私は病気です」と正直に言えます。病気になっても、その事実を隠して「私は病気ではない」と言って
も、そうした嘘はばれるのですから、かえって信用をなくしてしまうものなのです。病気になったことを
正直にありのままに告白できることは、どれだけ心が楽になるかわかりません。

そして「病気は消えてゆく」と信じることは、未来においては病気は完全に消え去ることを信じるのです
から、どれだけ自分の心が明るくなるか計り知れません。病人に対しても「病気は必ず消えてゆくもので
すから、少しでも早く消え去るように、守護の神霊に祈りましょうね」と同情を持って言えば、「アア、
この方はなんと温かい人だろう」と病人には感じられます。「消えてゆく」という言葉には、このように
自分を赦し、人をも赦す、温かい愛の光が満ちあふれているのです。

そして申し添えねばならないことは、守護の神霊のご加護の光明力によって、すべての業想念は浄められ
るのであって、肉体人間が自己の想念力によって、業想念を消すのではない、ということです。「病気は
消えた、消えたんだ、と想えば、病気は消える」という教えの中には、守護の神霊への感謝の想いが、少
しも含まれていません。守護の神霊の力とは関係なく、自己の想念力で業想念を消そうとするのですから
自力行であるのです。

五井先生の「消えてゆく姿」の教えは、そのように肉体の自分の想念力で業想念を「消そう、消そう」と
する方法ではなくて、あくまでも、「守護の神霊に業想念を消していただく」という他力の方法であるこ
とを忘れてはなりません。私たちのなすべきことは、守護の神霊のみ心の中に、自分の全想念を、祈りに
よって投げ入れてしまうことなのです。そうしますと、守護の神霊によって業想念は浄められて、さまざ
まな悪現象も自然に消えてゆくのであります。

「消えてゆく、消えてゆく、と念じれば、消えてゆくのだ」と五井先生は教えているのではありません。
「守護の神霊の持つ光明力によって、消えてゆくことを信じなさい」と教えているのです。「守護の神霊
の光明力によって、業想念のすべては必ず消え去るのである」と信じて、「世界平和の祈り」を祈るので
す。それを縮めて、五井先生は「消えてゆく姿で世界平和の祈り」として教えて下さっているのです。

「肉体の自分の力では何事もなし得ないんだ」とまず悟り、自分の力で自分の業想念を消そうとしないで
守護の神霊に自己の業想念を消していただくことを、祈るべきなのです。「世界平和の祈り」を祈ること
は、自分を含めた人類の業想念を、守護の神霊に消していただくことであり、自分の想念力で「消そう、
消そう」とするよりも、それは比べものにならないほどの光明力で大きく浄化されているのです。

「世界平和の祈り」の大光明力は、人類の業想念を消滅し、新しい神の世界を創造する絶大な力を持って
いるのです。今の時代は、ちっぽけな自力を自慢して使っている時ではありません。救世の大光明力にす
べてを委ねて、人類一人一人が、神の絶対力を発現させる時期なのであります。その方法として、大神様
は「世界平和の祈りを祈りなさい!世界平和の祈りを祈るところに、救世の大光明の力を現す!」と約束
して下さっているのです。私も、神のその絶大なる力を、身をもって感じている一人なのであります。

世界人類が平和でありますように


「世界平和の祈り」を唯一の行とするグループです
No.159 森島恒吉    1999/02/10 (水) 03:02 富士宮市
世界人類が平和でありますように

メールをいただき、ありがとうございます。ご質問にお答えさせていただきます。
白光真宏会の会員の中に、私どものような考え方を持っている者が存在していることを、初めて知って、
大変驚かれたと同時に、戸惑われていることと思います。

唯一会は、白光真宏会会員有志のグループで、私を含めてほとんど全員が、白光真宏会の維持会員です。
唯一会の活動は、「五井先生の教えを忠実に継承し、世界平和の祈りだけを唯一の行とする」ことです。
唯一会のメンバーは、白光の古い会員ばかりですが、まだ十人くらいの少人数です。

Q.「五井先生は信じるけど、昌美先生は否定するということですか?」

A.簡単にいえば、そういうことになりますが、私が昌美先生の教えを否定する以前に、「五井先生が昌
美先生の教えを否定している」のです。これは五井先生のご著書をよくお読みになればわかることです。

「五井先生の教えと昌美先生の教えは、全く同じである」または「五井先生の教えと昌美先生の教えは、
表現は異なっているが、根本的に教義は同じである」と信じている会員の方が多いと思います。しかし、
そういう人は、五井先生の教えをまだ真実に理解していないからでありまして、五井先生は、昌美先生の
教えのような宗教観を、「それは誤りである」と強く明確に否定しているのです。

古い会員さんの中には、「口に出してはっきりとは言えないが、五井先生の教えと昌美先生の教えは、違
うんじゃなかろうか?」とうすうす気づいて悩んでいる人が結構多いのです。ですから、それを察した白
光の理事長や理事たちが、会員の不安動揺を抑えるために、「五井先生の教えと昌美先生の教えは一つで
す」と、なんの理論的な根拠も示さずに、ことさら声を大にして説いているのです。

五井先生の教えを深く学べば学ぶほど、私どもには「五井先生の教えと昌美先生の教えは、根本的に全く
異なった教えである」と感じられるのです。その理由や具体例は、唯一会のホームページ[宗教問答]を
お読みいただければ、ご理解いただけると思います。

かといって、昌美先生に対して、私どもは積極的に反対運動をしているわけではありません。「世界平和
の祈りによる平和運動」には、反対運動も敵もありません。誤った宗教観も、消えてゆく姿なのですから
消えてゆくにまかせて、私どもはひたすら、「世界平和の祈り」を祈りつづけているのです。

私どもは「世界平和の祈り」を祈りたいだけなのです。「世界平和の祈り」だけを行法としたいのです。
「世界平和の祈り」によって、私どもはすでに救われたのですから、もはや「世界平和の祈り」以外の行
法を、私どもは必要としないのです。

「世界平和の祈りを祈ることは、昌美先生を否定することだ」と言われたら、私はただ唖然呆然として、
その人の顔を見つめるばかりです。「世界平和の祈りを祈ることが、なぜ昌美先生を否定することになる
のか?」と私はその人に尋ねたいのです。とどのつまり、五井先生と昌美先生の教えが異なっていること
を、その人自身が語っていることになるではありませんか。

現在の白光真宏会では、昌美先生提唱による多くの行法があります。
「光明思想徹底行、非光明思想消滅行、地球世界感謝行、我即神也・人即神也・人類即神也の宣言と印の
行、願望成就イメージ行、止息呼吸法…」などの行法ですが、昌美先生が提唱された初めから、私はこれ
らの行法を一切やっておりません。

なぜならば、はっきり申し上げて、それらの行法はすべて、「世界平和の祈り」に勝るものではない、と
いうことを、私はとっくに知っていたからです。「世界平和の祈り」に勝る行法は無い、と信じているか
らです。信じるというよりも、五井先生の「世界平和の祈り」によって、私はすでに救われ、すでに大悟
したのですから、「世界平和の祈り」以外の行法には、なんの興味もないし、必要も感じないのです。

そんなわけで、他の白光の会員の皆さんと違って、昌美先生の提唱されるすべての行法に把われることな
く、昌美先生のお言葉はすべて「消えてゆく姿」として、「世界人類が平和でありますように」と私ども
は祈りつづけているのです。

私の申し上げたことは難しいかもしれませんが、少しでもご理解いただけたでしょうか?
「こんな考え方をする人もいるんだな」と寛容なお心で見て下されば、ありがたく思う次第です。
また、ご質問があれば、ご遠慮なくメールをお寄せ下さい。
誠心誠意をもって、お答えさせていただきます。

あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」は光輝く道
No.166 森島恒吉    1999/02/12 (金) 11:01 富士宮市
世界人類が平和でありますように

私たちは、「世界平和実現」という崇高な目的のために、「祈りによる世界平和運動」を前進しておりま
す。宗教の根本は一つであり、いずれはすべての宗教が大調和してゆくのですが、それはあくまでも自然
に融合してゆくのでありまして、今すぐにどんな宗教とも妥協してゆくことではありません。

すべての宗教団体が、自分の殻に閉じこもらないで、他の宗教団体の人々と交流してゆくことは必要であ
りますが、だからといって、私たちはどんなに誘われても、あやしげな宗教団体とは手を組みませんし、
また「山に登るのに、どこから登ってもよい。それと同じように、宗教の道も、プロセスが違うだけで、
どんな道でもいいのだ。どんな行法でやっても悟れるのだ」などと、無責任な教えも説きません。

現代には現代の宗教が必要なのでありまして、人類が救われるためには、デコボコ道や、絶壁の切り立っ
たような険しい道ではなく、幼児から病人からお年寄りまで、誰もがやさしく登ることのできるケーブル
カーのような救われの道でなければなりません。その道とは、大乗の道であり、易行道でなければなりま
せん。大神さまが、すべての人を救い上げようと、救いの御手を差し伸べられているのに、そのせっかく
の御手を拒否して、昔のように複雑な難行道を教えている宗教者がいたとしたら、神仏のみ心のわからぬ
人と言えましょう。そんな時代遅れのことをやっていたら、地球を何度も破滅するだけの核兵器が存在す
る今日、地球は滅びてしまうではありませんか。

現代の地球人にとって、もっとも易しくできる救われの道は、ただ一つ「世界平和の祈り」だけなのであ
ります。かといって、他の宗教に対して排他的になれ、と言っているのではありません。過去からのすべ
ての宗教は、「世界平和の祈り」によって、真実に生かされるようになるのであります。過去の宗教は捨
ててもよい、ということではなくて、「世界平和の祈り」によって、過去の聖者方の教えが完結されるの
であり、「世界が平和になる」という予言が成就されるのであります。「世界平和の祈り」は、釈尊の予
言された弥勒菩薩(マイトレーヤー)の出現であり、イエスが約束されていたキリストの降臨なのであり
ます。ですから、「世界平和の祈り」の中に、過去の聖者方すべてが結集されているのでありまして、
「世界平和の祈り」に賛同しない聖者がいたとしたら、その人はニセ聖者なのです。

「世界人類が平和でありますように」という「世界平和の祈り」に賛成して下さって、共鳴して下さる方
から、私たちはまず手を組んでゆきたいと思うのです。「世界人類が平和でありますように」という祈り
に反対する人や、興味を示さない人と、無理やり手を組んでも、真実の調和とはなり得ません。「世界平
和の祈り」に参加したくても、「世界平和の祈り」の存在を知らずに待っている人々が、この地球上には
たくさんいらっしゃるのです。そのような人々から、「世界平和の祈り」を知らせ、一緒に「世界平和の
祈り」を祈り、世界最大の平和運動として、私たちは盛り上げてゆきたいのです。

世界の国々の市民一人一人が、「世界平和の祈り」に結集した時、世界のマスコミは、私たちの平和運動
を無視するはずがありません。世界中のマスコミに、「世界平和の祈り」が取り上げられる日がくること
でありましょう。そうなれば、世界各国の政治指導者たちも、国民の声に押され、国民の支持を得る形で
「世界平和の祈り」を公の席で祈れるようになるでしょう。各国の指導者たちが、「世界平和の祈り」を
祈って会議をするならば、戦争の方向へ行くはずがありません。核兵器を含むすべての軍備が撤廃される
日がくるでしょう。そして、世界平和が実現するのです。
私たちの「世界平和の祈り」の進む道は、このような光輝く道であるのです。


五井先生が念力を勧められたことは一度も無い
No.168 森島恒吉    1999/02/14 (日) 04:30 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さん、コメントをいただき、ありがとうございます。

「世界平和の祈り」一本槍の生活に本当に入れば、心境は光明に包まれて急速に高まってゆくのですが、
中には「一本槍」に変えられなくて、「以前の槍」も持ったまま、どっちも手放せない人もいますね。
過去に自分がやっていた行法の限界を悟った上でのことならば、「世界平和の祈り」に全託できるのです
が、「世界平和の祈りに、他の行法を加えてやれば、霊性開発にもっと効果が上がるだろう」と誤解して
「世界平和の祈り」をやっていると、その人の想念が混乱してしまい、危険なことさえあります。

例えて言えば、「世界平和の祈り」をしていれば、守護の神霊や五井先生に「あれが欲しい、これが欲し
い」と願わなくとも、必要な物が必要な時に守護霊のほうから与えられるのですが、「世界平和の祈り」
のパワーを全面的に信じられず、自己の我欲の念力でイメージを描いて、物質を得ようとしますと、その
欲望想念波動に合致した幽界の生物が感応してまいりまして、幽界の魔物(生物)の力によって、欲望や
希望が叶えられることがあるのです。

これは守護の神霊や五井先生が叶えたように見えて、実はそうではなく、幽界の魔物によって叶えられた
ものなのですから、借金をしたようなもので、必ず後で「お返し」をさせられるのです。幽界の魔物に自
分の体を乗っ取られ、あやつられて、しまいには破壊されるのです。念力が弱まってきたり、幽界の魔物
がちょっとご機嫌をそこねれば、とたんにその人の運命は下降線をたどってゆくことになるのです。

ここではっきりと断言しておきますが、五井先生は「皆さんの願いを叶えてあげるから、欲しい物や欲し
い地位を、イメージしなさい。叶えられる叶えられる、できるできる、と思いなさい。それはすでに叶え
られた、と断定してイメージしなさい」というような念力行は、一度も教えたことはありません。そうし
た念力行は、「外道であり、誤てる宗教である」と五井先生は教えているのです。五井先生の宗教に入り
「世界平和の祈り」に入ったら、念力による願望成就などへの未練を断ち切りなさい。自己の全運命を、
五井先生に任せきる覚悟を持つべきなのです。

渡り鳥のように、宗教団体を安易に渡り歩く人が結構多いのですが、幾つかの宗教団体を見て、「今の自
分に一番適当だ」と思う宗教が見つかったら、その宗教団体で腰を落ち着けて二、三年じっくりと修行し
てみることです。縁あって白光真宏会を知り「世界平和の祈り」を知った人でも、「自分には合わない」
と思ったら、今の自分の心境に合った宗教団体に入ればよろしいでしょう。そこで、とことん修行して、
やっぱり「五井先生の教えが良い」とわかったら、その時点で、また門を叩けば、よろしいのです。

「世界平和の祈り」を祈る私たちは、世界平和の祈り一念で生きておりまして、念力による願望成就法な
どには一切妥協することは致しません。しかし、門戸はいつでも広く開けられているのです。


五井先生が一番望んでいること
No.174 森島恒吉    1999/02/22 (月) 14:35 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さん、私の留守の間にコメントをいただき、ありがとうございます。

妙好人の純真な信仰を見ますと、感動しますけど、なかなか真似はできませんね。おっしゃるように農村
ならば、のんびりと生活できるかもしれませんが、都会のサラリーマンで妙好人というのは、むずかしい
ですね。妙好人のようなことをしたら、すぐにリストラの対象にされて、食べてゆけなくなります。

会社に勤めている人は、自分の信仰している宗教のことを、会社内で話すことはタブーですし、公立学校
の教師や大学教授も、学校や大学の授業で特定の宗教の宣伝めいた話をすることは禁じられております。
また、会社の社長が非常に信仰心あつく、宗教に寛容な会社であっても、「南無阿弥陀仏」とか「世界人
類が平和でありますように」と仕事中に唱えることは、おそらく許可されないでしょう。

学生はこの世に必要な勉強を第一に優先するべきであるし、サラリーマンは会社の仕事を第一に優先する
べきことです。学生は勉強の余暇に、宗教の本を読んだらいいのですし、サラリーマンは会社の仕事を終
えた余暇に、お祈りしたらよろしいのです。勉強や仕事をする時には、勉強や仕事に全力を集中し、電車
に乗っている時とか、おせんべいをかじっているような暇な時に、「世界平和の祈り」を心の中ですれば
よいので、宗教者のように朝から晩まで「世界平和の祈り」を声に出して唱えることなどできませんし、
無理にお祈りしようとする必要はないのです。「世界平和の祈り」は、無理をしないで、できる時に祈れ
ばいいのです。

「だまされないためには、どうしたらいいか?」
人を信じなければ社会で生きてはゆけないし、かといって、悪い人もいますから、そういう人にはだまさ
れないように、時には疑ってみることも必要ですね。私も若い頃、悪い人にだまされたことが何度かあり
ましたが、反省してみると、私にも欲があったんですね。欲に目がくらんで、相手が自分をだまそうとす
ることに気がつかなかったんです。警察の標語にもあるように「気をつけよう。甘い言葉と暗い道」が大
事ですね。世の中にそんなに甘いことや、うまい話があるもんじゃありませんから、おいしい話を持ちか
けてくる人には、用心しなくてはなりません。

「守護霊さま、どうぞお守り下さい」と常に祈っていれば、自分をだまそうと近づいてくる人がいても、
守護霊が教えてくれますし、だまされぬように未然に防いでくれます。宗教を選ぶにも、宗教の師を選ぶ
にも、守護霊さんに頼んでおくとよいのです。そうすると、自分に一番適当な宗教や師に会えるように、
守護霊さんが自分を導いて下さるのです。たとえ、邪教に入りそうになっても、守護霊さんに祈っている
と、自然にその邪教団体から抜け出させてくれるのです。

常識を外れずに、しかも常識を超えて生きる方法は、「世界平和の祈り」の日常生活の中にあります。
「世界平和の祈り」一念で生きる五井先生の教えは、本当に素晴らしいです。私は「世界平和の祈り」を
皆さんにお勧めします。五井先生は「世界平和の祈りは、最高の祈りなのです。世界平和の祈り以上の教
えは無いのです。世界平和の祈りを、うまずたゆまず祈りつづけて下さい。世界平和の祈りを祈る皆さん
を、私は見守りつづけております」と、今も皆さんに語りかけているのです。

五井先生が一番望んでいること。それは皆さんが、「世界平和の祈り」を祈ることなのです。


「天使のお仕事」第7回・第8回と聖書のことば
No.178 森島恒吉    1999/02/26 (金) 00:16 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「天使のお仕事」第7回・第8回に出てきた聖書の言葉を載せます。

【マタイ傳第七章13節〜14節】(文語訳聖書・日本聖書協会)

狭き門より入(い)れ、滅(ほろび)にいたる門は大きく、
その路(みち)は廣(ひろ)く、之(これ)より入(い)る者おほし。
生命(いのち)にいたる門は狭く、その路(みち)は細く、之(これ)を見出す者すくなし。

【マタイ傳第六章1節〜4節】

汝ら見られんために己(おの)が義(ぎ)を人の前(まへ)にて行(おこな)はぬやうに心せよ。
然(しか)らずば、天にいます汝らの父より報(むくい)を得(え)じ。
さらば施済(ほどこし)をなすとき、
偽善者が人に崇(あが)められんとて會堂(かいどう)や街(ちまた)にて爲(な)すごとく、
己(おの)が前(まへ)にラッパを鳴(なら)すな。
誠に汝らに告(つ)ぐ、彼らは既(すで)にその報(むくい)を得たり。
汝は施済(ほどこし)をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。
是(これ)はその施済(ほどこし)の隠(かく)れん為(ため)なり。
さらば隠れたるに見たまふ汝の父は報(むく)い給(たま)はん。

……………………………………………………………………………………………………………………………
[私の解説]
はじめの「狭き門より入れ」というイエスの言葉を解説しましょう。

「真実の宗教というのは、現世利益の甘い話や奇蹟話で信者を釣るようなことをしないのです。現世利益
ばかりを説くような宗教は、誰でも入れるし、そうした宗教団体の人数は多いけれども、結局はそうした
宗教は滅びてしまうのであり、真実の生命を得ることはできないのです。真実の生命を得る宗教は、自分
の欲望をなくすことを説き、現世利益のような甘い話はしません。ゆえに、この真実の道にいたる宗教を
見出す人は少ないものです。あなた方は、現世利益の甘い話につられず、本心開発を目的にする真実の宗
教の門より入りなさい。さすれば、あなた方は永遠の生命を得ることができるのです」
とイエスは説いておられるのです。まことに、イエスのおっしゃる通りです。

ただし、現在は「狭き門から入れ」と真理を説いて、「現世利益を望むな」「欲望を捨てよ」「本心開発
だけを求めよ」とまともに説いていたのでは、そうした真実の道に入る魂の高い人は、ごくわずかなので
すから、大半の民衆が真実の門から入れず、地球は滅亡してしまいかねません。

そこで現代では、「本心開発を第一目的にしながら、おのずと現世利益をも得られる道」が必要になって
くるのです。高い理想をもちながら、この世の生活をも楽しめて満足できる、ほとんどの民衆が入れる広
い道でなくてはならないのです。それが「世界平和の祈り」の広い門であるのです。しかし、いくら広い
門といいましても、ダンスパーティで人を集めたり、「あなたの願望をかなえてあげるから入りなさい」
というような低俗な教えを説いたり、低級な幽界の生物でもできる奇蹟をいたずらに宣伝したりして、人
を集めることをしてはいけません。神の聖なる教えをけがすことになり、下卑た宗教団体になってしいま
す。それはイエスの時代の頃も、今も変わりないのです。

次のイエスの言葉「ほどこしをなす時…」の一節は、「人に崇められたい、人に尊敬されたい、人にほめ
られたい、という気持ちで、見せびらかすように、ほどこしをしてはいけません。ほどこしをした後も、
ほどこしをしてやったんだ、というような誇る気持ちを持ってはなりません。もし、ほどこしをしたこと
を、人々に誇ってしまったら、その時点で、あなたの積んだ徳が消えてしまうのです。自分のした隠れた
ほどこしは、多くの人が知らなくとも、天の父は見ていて下さり、天に徳が積まれるのです」という意味
なのです。

「私がしてやったんだ」「私はあなたにこんなに尽くしてやったんだ」というような高慢な想いを持って
いる人は、宗教を商売と間違えている人なのです。「してやったんだ」という高慢な想いの裏には、地位
とか権力とか崇められたいとか、自分の行為に対する何らかの見返りを求めているのです。宗教の世界に
入りながらも、そうした高慢な想いを持っておりますと、現世利益を説く低級な宗教団体と波長が合いま
して、幽界の生物の餌食にされ、すべての財産を巻き上げられてしまうことになりかねないのです。

「自慢高慢、バカのうち」と五井先生はおっしゃっていましたが、自分のしたことを、やたらと自慢した
り、「してやったんだ」というような恩きせがましい高慢な想いを持つ人ほど、鼻もちならぬ人はいませ
ん。私たちの「祈りによる世界平和運動」についても、「何人集めたら、どのくらい儲かりますか?」と
か「百人いますから、今月はこのくらいお金が集まりますね」とかと、宗教を商売の一つと誤解して、お
金の話をもちかけてくる人がいます。その人は悪意があるわけではなく、ふだんの想念の習慣で、ついそ
んなことを考えてしまうのでしょうが、私はそういう人を嫌って遠ざけるようにしております。

それから、寄付して下さるのは有り難いのですが、寄付したとたんに、自分がオーナーになったかのよう
に、約束した予定を自分の都合で突然キャンセルしたり、「明日はこうしてくれ」と私に指示するように
なる人もいます。そういう人は、今までの社会生活で満たされなかった、自分の権力欲、支配欲を、新た
な宗教の世界で満たそうとしている人なのです。こういう人も、私はご遠慮願っております。宗教の世界
に入って、権力欲や支配欲を満たそうと考えてはなりません。小我の自分の欲望をなくすことが、宗教の
目的であることを改めて知っていただきたいと思います。


業が消えてゆかない場合ってあるの?
No.179 森島恒吉     1999/02/27 (土) 01:36 富士宮市
世界人類が平和でありますように

白光誌(1999年3月号)聖ヶ丘講話/五井昌久「消えてゆく姿の原理」は、とても大事な教えですから、
ぜひ皆さまにも読んでいただきたいと思います。

五井先生の教えの中に、「消えてゆく姿」という教えがありますが、「業が消えない場合もある」という
ことを知らない人が、ときたまいるのです。先日も、弟子の女性の一人が、「森島先生は悟っているんだ
から、私が森島先生に不平不満を言っても、森島先生をけなしても、森島先生に何を言っても、森島先生
は赦してくれるでしょ。だから、私は、自分の感情のままに、怒りでも不満でも、なんでも言いたいこと
を森島先生に言うわ。森島先生はどうせ赦してくれるんだから、森島先生には何を言ってもいいのよ」と
ほかの法友たちに話したのです。

それを聞いて私は、「ああ、彼女は私から五井先生の教えを学ぶようになって、五井先生の教えを以前よ
りもだいぶ深く理解してきたけど、まだまだだなあ。肝心なところが抜けてしまっている」と思って、彼
女の誤った思い込みについて指摘し、次のようなことを教えたのでした。

悪いことをしたり、間違ったことをして、
「ああ、どうせ、これは消えてゆく姿だ、いいんだ」
「消えてゆく姿だから、どうせ酒飲んだっていいんだ、あのヤロー、バカヤロー、消えてゆく姿だ」
「どうせ俺は神の子だ、みな業は消えてゆくんだ、だから何したっていいんだ、何したって大丈夫だ」
と思う時には、業(悪い想い)は消えてゆかないのです。

なぜならば、悪いことを是認し、悪いことを承認し、悪いことをつかまえているからです。
「悪は無い」と幾度も宣言したところで、実際には悪いことをしていたのでは、悪行為を認めているので
すから、悪業はその人から消えてはゆかないのです。黒を「白」と言うように、悪を「善だ」と言ってい
たら、悪はいつまでも消えることはありません。偽善であるからです。

悪いことは「悪い」、間違ったことは「間違った」と常識的に思って、「ああ、これは悪いことだ、間違
いだった、こんなことをしてはいけないんだ」と思うことによって、悪いこと、間違ったことを否認、否
定したわけです。悪いことを悪いことと認め、「これは間違いなんだ」と悪いことを否定する反省が必要
なのです。「何したって大丈夫」ではないのです。大酒飲んで暴力をふるうことは悪いことだし、他人の
悪口を言うことは悪いことだし、神の子だからといって、何をしても赦されるわけではありません。

「これは悪いことだ、もう再びしまい」と反省し、「しかし、自分では悪い癖を消せないから、神さまに
消していただこう。神さま、この悪い癖をお消し下さい。神さま、お願いします。世界人類が平和であり
ますように」と守護の神霊に祈りますと、業が消えてゆくのです。第一に、悪いことを悪いことと認める
こと。第二に、自分の思念の力で悪い想いを消そうと力まずに、守護の神霊に消していただくように祈る
こと。これが大事なのです。

消えてゆく姿の教えに、「消えてゆかない場合」があるように、赦しの教えにも「赦されない場合」があ
るのです。消えてゆく姿の教えには、「反省」が必要であることを知っていても、言葉の表現が少し異な
るともう応用できなくなって、赦しの教えにも、「反省」が必要であることを知らない人がいるのです。
それで「どうせ消えてゆくんだから、何したっていいのよ」という言葉は禁句と知っていて使わずにいて
も、「どうせ赦されるんだから、何したっていいのよ」という言葉が、その人の口から出てくるのです。

「ああ、どうせ、これは赦されるんだ、いいんだ」
「神さまに赦されるんだから、どうせ酒飲んだっていいんだ、あのヤロー、バカヤロー、赦されるんだ」
「どうせ俺は神の子だ、俺は赦されるんだ、だから何したっていいんだ、何したって大丈夫だ」
と思う時には、業(悪い想い)は消えてゆかないのですから、神さまに赦されることはないのです。

「私は悪いことをしました。神さま、ごめんなさい!神さま、どうか私を赦してください!」と神さまに
深くお詫びして、神さまに謝って、「世界人類が平和でありますように」と祈った時はじめて、業は消え
てゆき、神さまに赦していただけるのです。悪い想いを持ったままで、神さまに赦されることはありませ
ん。悪い行為を改めずに、神さまに赦されることはありません。

教義に「自分を赦し、人を赦す」という教えがありますが、悪い想いを持ったままの自分を、赦すことは
できませんし、悪い想いを持ったままの人を、赦すことはできないのです。悪い想い、悪い行為を消し去
り浄めた後に、真実に自分を赦し、人を赦すことができるのです。

「どうせ消えてゆくんだから、どうせ赦されるんだから」と自分の感情の都合のいいように、自分を正当
化して、他人の迷惑も考えずに、排気ガスのように自分の感情に動かされるままに悪口雑言を吐いたり、
威張ったり、怒ったりするのは、誤りなのです。それでは業は消えてはゆかないし、赦されないのです。

「消えてゆく姿の教え」は反省がなくては、業は消えてはゆきません。
そして、「赦しの教え」も反省がなくては、神様に赦されないのです。


世界平和の祈り以上の祈りは無い
No.180 森島恒吉     1999/02/27 (土) 01:41 富士宮市
世界人類が平和でありますように

【五井先生のお言葉】

「世界平和の祈り以上の素晴らしい祈りは、ありません」

[白光誌(1999年3月号)「聖ヶ丘講話」より]


できなければ、できないでよい。
No.183 森島恒吉    1999/03/03 (水) 01:15 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[神の子人間と現在の人間の違いを認識する]

「『できる』と思えば、できるようになる。『できない』と思うと、できなくなる。だから、『できな
い』という言葉を使うな」という教えがあります。しかし、本来の神の子である人間には、できることで
あっても、現在の神の子になる途中過程にいる人間には、できないことはたくさんあります。できること
よりも、むしろ、できないことのほうが多いのです。

現在の人間は、何事をもなし得る、とは言えないのです。現在の人間は、「私は神の子だ」と大見得を切
るほどに進化してはいないのです。現在の人間には、できないこともあるのです。ですから、できなけれ
ば、できないでよいのです。それなのに、できそうもないことを、「私はできる」と自己に言い聞かせた
り、心の奥底では心配しているのに、「大丈夫」と言ってみせたりするような、虚勢を張る生き方は、正
直でありませんから、正直な人はしだいに苦しくなってきます。

[自己過信は危険をまねく]

そして、「私は絶対大丈夫。私はできる」という自己過信の言葉には、正直に生きられないという欠陥だ
けでなく、非常な危険が潜んでいることも知らねばなりません。「私はできる、私はやる」と唱えており
ますと、どんな人にもできないことはあるのですから、できないことに直面した時に、無理をしてやって
みせるか、嘘をついてできるふりをしなければなりません。「私はできる」と思い込みますと、それだけ
危険が増加するのです。同じく「必ず良くなる」と思うのは結構ですが、そう念じるだけで何もしなけれ
ば、その人の運命がよくなるはずがありません。「必ず良くなる」と唱えていても、怠けていれば事態は
悪くなってゆくばかりです。「必ず良くなる」という言葉には、努力が必要なのです。

[怠惰と真実の安心とは違う]

今までスキーをしたことのない人が、「私は滑空ジャンプができる」とホラをふいて、実際にジャンプし
てしまったら大怪我をするでしょう。仕事の上で不安の種を抱えながら、「必ず良くなる。絶対大丈夫」
と自分に言い聞かせても、その仕事は大丈夫にはなりません。不安の種を解決せずに、そのままにしてお
けば、その不安の種はだんだんと大きくなってしまい、とりかえしのつかないことになってしまいます。
火事を見て「大丈夫、大丈夫」と安心していたら、火事は広がってしまいますし、小さな借金でも「大丈
夫、大丈夫」と安心していたら、借金がふくれあがり、自己破産にまで至ってしまいます。小さな問題の
うちに、真剣に考えて解決しておけばいいのに、解決しようと努力せずに何もしないのは、それは真実の
安心立命の境地からの行為ではなく、業想念の「怠惰」からきているのです。

[自己過信による失敗例]

借金を返す能力もないのに、自己過信して、銀行から一億円以上の借金をして、レストランやブティック
の経営を始めて「私は借金を返すことができる」と念じていても、そんなに簡単に借金を返せるわけがあ
りません。積極思想を説く宗教家から「あなたはできる」と言われて、事業を拡大して失敗した人が、そ
の宗教家に再び会いにきて、「先生に、あなたはできる、と言われたけど、私はできませんでした。責任
をとって下さい」と訴えても、「あなたが失敗したのは、あなたの信念が足りなかったからだ」と責めら
れて、借金の肩代わりをしてくれるわけではありません。偽物の宗教家に従うことは、危険なのです。

ニューヨークには、強盗が出没する危険な地帯があり、危険を知っている人は、そこに立ち入ることはし
ません。ところが、日本の或る空手家が、「おれは大丈夫だ。ストリートを通り抜けて見せる」と豪語し
て、その危険なストリートに入り、そこを通り抜ける前に、何者かに殺されてしまいました。また、日本
でも若い女性が「大丈夫」と言って、毎晩夜道を歩き、殺されてしまった、という事件もあります。
「これが毒と思うから毒になるのだ。毒では無いと信じれば、どんなものを飲んでも死なないのだ」とい
う教えを信じて、毒を飲んで死んでしまった人もいます。「神さまに守られている」という強い信念を持
てば、ビルの五階の高さから飛び下りても、その信念の力によって神さまが手で支えてくれて死なないの
か、といいますと、そんなうまい具合にはゆきません。空を飛ぶことはできず、死んでしまいます。

車が向こうから自分の方に走ってきます。しかし、「自分は守護の神霊に守られているから、車にひかれ
ることは無い」と自分には思われて、車が来ても、よけようとしない。相手が、自分の顔を殴ってくる。
しかし、「自分は守護の神霊に守られているから、相手に殴られることは無い」と自分には思われて、相
手が殴ってきても、よけようとしない。危険を認め、その危険からよけようとすることは、「守られてい
る」という自分の信念に反するから、自分を守ることをしなくなるわけです。

[魔境から脱出するには常識に戻ること]

このようなことは、ふつうの人から見たら、「馬鹿馬鹿しい」と思うかもしれませんが、宗教の世界に入
り、統一が深まってゆく途中で、ふつうの人が感じる危険を、危険と感じなくなる異常な感覚の境地にな
ることがあるのです。私自身も、このような危険な境地に、何度か陥ったことがありました。そのたびに
「常識にかえって考えてみること」によって、私はこの危険な境地を脱出したのです。

自分が宗教者だからといって、できないことを「できる」と言ってみせる必要はありませんし、「私はこ
れができません」と言うことを恥ずかしがる必要もないのです。できそうもないことを、「私はできる」
と言ってみせることこそ、恥ずかしく感じなければなりません。あたりまえに、できることを「できる」
と言って、できることをやればよいし、できないことは「できない」と言って、やらなければよいので
す。今、できないことでも、努力することによってできることもあるのですから、これは良いと思って
「やりたい」と思うことは、失敗を恐れずにやってみることです。

[正直に自由に自然に生きる]

「私はなんでもできる」と言って、自己過信するのは危険ですが、「私には何もできない」と言って、消
極的な生き方だけにかたよるのも、これもまた把われです。その時、その場に応じて、やるべき時にはや
り、やるべきではない時には、やらない。動くべき時には、電光石火のごとく素早く動き、動かざる時に
は、眠っているかのようにじっとして動かない、というように、自由に生きるのが、最も良い生き方なの
です。最近、世間で流行している積極思想は、積極的な生き方だけに把われた思想であり、その反対を説
く消極的思想も、消極的な生き方に把われた思想であり、どちらも不自由な思想であるのです。

「できることをやり、できないことはやらない」というのが、自然で無理のない生き方なのです。その判
断は、どこからくるのかと申しますと、自己の肉体知恵で判断するのではなく、守護の神霊から教えられ
るのです。常に守護の神霊に感謝し、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆきますと、自然に自己の能力
が拡大されてきまして、自分でも思いもかけなかったような素晴らしい神智が授けられ、力まずとも超越
的な能力を自然に発揮できるようになってくるのです。「私はできる」とか「私は絶対大丈夫だ」とか、
あえて念じるような、そうした力みというものは、「世界平和の祈り」の生き方には全く無いのです。


守護霊をもっと身近に感じるには?
No.187 森島恒吉    1999/03/15 (月) 13:09 富士宮市
世界人類が平和でありますように

【質問】
まだ守護霊に他力本願する事が、感覚的にすんなりといかない状態です。今までは、何となく天の神様や
サイババの名前を出して祈っていた経緯があります。守護霊が誰なのかも分らない面が、時々感じられ、
言葉にしてやっていますが、イマイチピンと来ない状況です。守護霊に頼んだ時の気楽さと、なんとも言
えない不安が広がる時もあります。どうしたら守護霊をもっと身近に感じられるようになるでしょうか?

【お答え】
守護霊は、あなたのご先祖の悟った霊のことですから、守護霊という言葉がピンとこなかったら、「先祖
霊様」と呼びかけたらよろしいでしょう。守護霊と一口に言っておりますが、誕生前から一生守って下さ
る正守護霊のほかに、健康面に気を配って下さる副守護霊や、仕事面で智慧を出してくれる副守護霊がい
ますし、血のつながっていない他人でも、ご先祖に恩を受けたことがある霊が、恩返しにその人の子孫を
守りつづける、ということもあります。今生でやり残した仕事がある場合、他人であっても、その仕事を
受け継いでくれる人を捜し出し、その人の守護霊になって活躍する霊もいます。

守護霊の名前については、特別に教えられる場合を除いて、詮索する必要はないし、むしろ詮索しないほ
うがよいのです。過去において下男だった人が、総理大臣になったとします。それなのに相変わらず「下
男さん、下男さん」と昔の名前で呼ばれたら、良い気持ちはしません。それと同様に、肉体人間として生
きた経験のある守護霊としては、楽しい経験もあるでしょうが、二度と思い出したくない嫌な経験のほう
が多いかもしれません。ですから、肉体界にいた頃の昔の名前で呼ばれるよりも、「守護霊さま」と呼ば
れたほうがよほど嬉しいのですし、「守護霊さま」と呼びかければ、意思は充分に伝わるのです。

私たちは「世界平和の祈り」を祈っておりますが、「世界平和の祈り」を祈りますと、地球の平和達成の
ために働いている聖者たちの霊が、私たちの祈りに感応してまいりまして、たくさんの守護霊に守られる
ことになるのです。人間が集団になると強くなるように、個人個人を専属に守っていた守護霊が、守護の
神霊集団となり協力しあうことによって、過去になかった、より強力な霊力を発揮できるようになったの
です。それが「世界平和の祈り」のもとに結集した救世の大光明霊団なのです。

「おのが幸、願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中」という五井先生のお歌のように、自分や自分の家
族の幸福を願う想いを大きく広げてゆき、世界平和の祈りの中に自分たちの真実の幸福があるのだと思っ
て、「世界平和の祈り」一念で生きておりますと、自分たちの運命が良くなると共に、知らず知らずのう
ちに世界平和のために大きく働いていることにもなるのです。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆきま
すと、日常生活の中でさまざまな困難な出来事に遭遇しても、うまい具合に解決できて乗り越えられるよ
うになり、守護霊がいかに自分を強く守って下さっているかが、実感としてわかるようになります。


瞑想統一の時間はどのくらいが良いのか?
No.188 森島恒吉    1999/03/15 (月) 13:18 富士宮市
世界人類が平和でありますように

【質問】
瞑想統一行の時間ですが、今は一時間程やっていますが、これは長い方が良いのでしょうか?

【お答え】
常住坐臥統一行といって、24時間いつでも瞑想統一できることが理想です。そのために昔の瞑想統一行で
は、寝食を忘れて、一時間どころか、数日間数カ月間とぶっつづけに修行したものですが、食生活のため
の仕事で忙しい現代人は、そんなことは無理ですし、またそのような自力的な苦行をする必要もありませ
ん。現在は、微妙な波動である守護霊が、肉体界に近づいてきておりまして、ちょっと想いの手を伸ばせ
ば、守護霊と波長を合わせることのできる時代になっているのです。

五井先生の教えには、固定した一つの修行の型というものは何も無いのですが、「修行の型は何も無い」
と言っても、初心者の人は何をしてよいか困るでしょうから、具体的にいえば、朝夕10分間ずつの「世界
平和の祈り」を基本にすれば、よろしいでしょう。あとは、この世の仕事を優先させて、余った時間でお
祈りすればよろしいのです。各人によって、生活の状況が違いますから、長い時間統一行ができる人は、
気の済むまでやったら良いし、長い時間統一できない人は無理にやらなくともよいので、日常生活を崩さ
ずに信仰生活を続けてゆくことが大切なのです。

他力の道に入ったら、他人に抜き出た特別な超能力を自分一人得ようとか、自分だけが立派な人間になろ
うとか、変な欲を持ってはいけません。守護霊にすべてをお任せしておりますと、瞑想統一する時間も、
守護霊によって、その時その場に応じて自然に定められてくるものなのです。あなたの無理なくできる範
囲で「世界平和の祈り」を祈ったらよろしいのです。


対人恐怖症は直りますか?
No.189 森島恒吉    1999/03/15 (月) 14:46 富士宮市
世界人類が平和でありますように

【質問】
はじめまして。ご質問させていただいてよろしいでしょうか?おねがいいたします。
僕は、24才の男です。昨年、四国を自転車でまわっているとき、ピースプレイヤーポールをよく見かけま
した。とても印象的でした。ですが、誰がやっているのか知ったのは、おとといのことです。友人が『白
光真宏会、知ってる?』と質問してきたのが、きっかけでした。それで、インターネットで調べさせても
らいました。

最近、僕は、なにもかもが、マイナス思考で悲観的でした。特に対人関係で悩んでおり、人と会いたくな
い時もしばしば、ありました。ほとんど、対人恐怖症に近い状態です。そんな時、僕を励ましに来てくれ
たかのように、その友人がやってきて『知ってる?』って、白光真宏会と唯一会のホームページを読まし
てもらって、その後、世界人類が平和でありますように、とお祈りしました。すこし晴れ間がみえたよう
な気分がしました。まだ自分を受け入れることができませんが、リズムに乗るきっかけでもありました。

心の病みたいなものも、お祈りによって、消えていくのでしょうか? 
自分を愛することも、人を愛することも、恐れずできるようになれますか? 
幸せになりたいから、というのは見返りを求めているのでしょうか?
まだまだ未熟なものですから、すみません。
先生、教えて下さい。
ぼくも心からお祈りしたいです。世界人類が平和でありますように

【お答え】
世界人類が平和でありますように
メールをありがとうございました。対人関係で悩んでおられるとのことですが、「世界平和の祈り」をし
ていれば、対人恐怖症は直ります。(病気治療に関する宣伝文句は、医師法に違反するために、『治る』
という言葉は使えません)あなたの場合、すべての人に対して恐怖を感じる、というのではなくて、ごく
一部の人だけに嫌な感じを持ち、「あいつには会いたくない」と思っているのでしょう。そうした嫌悪感
は、誰にでもある、ごくふつうの感情で、あなたは繊細な心の持ち主なので、傷つきやすく少しナイーブ
なだけなのです。

あなたが嫌いな人は、嫌いな人と正直に認めて、嫌いな人とは、できるかぎり会わないようにすることで
す。会社の中で、数年たてば人事異動でその嫌いな人と会わなくなることがわかっていれば、それまでな
んとか嫌いな人と会わないように、嫌いな人と出くわしそうになったら、忍者のように自分の姿をパッと
隠すことです。しかし、一生その嫌な人間と顔を合わせなくてはならないようならば、その会社か職場を
さっさとやめてしまうことです。あなたの天命は、その会社や職場にはなく、別の会社か職場に移ったほ
うがよいのです。嫌いな人を好きになることは、実際問題としては難しいことですし、あなたをいじめた
り、あなたに意地悪をしてくる人が、数年たって改心し、あなたに優しくなる、ということは、まず期待
できません。

「世界平和の祈り」によって、心の病は消えてゆきます。「世界平和の祈り」によって、自分を愛するこ
とも人を愛することもできるようになります。もちろん、幸せになることもできます。嫌いな人と無理に
交際しようとせずに、好きな人をどんどん作ってゆけば、あなたの周囲は、あなたの好きな人ばかりとな
り、対人恐怖症は消えてしまいます。まず、私をあなたの好きなお友だちの一人に加えて下さい。

あなたが幸せでありますように


正しい批判は世界を平和にする
No.191 森島恒吉    1999/03/16 (火) 17:08 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さん、コメントをいただき、ありがとうございます。職場の試験の時に、ちょうど私が留守をしていた
ために、インターネットに時間をとられず、試験に集中できて良かったですね。(^_^)

対人恐怖症についてご質問して下さった24歳の男性の方は、晶さんからの励ましの言葉について、いかが
思われたでしょうか。晶さんご自身が、「問題発言」とあらかじめお断りしているように、非常に難しい
真理のお話ですが、悩んでいる質問者を「励ましてあげたい」という温かい愛情が、その言葉の奥からに
じみ出るように充分に伝わってきますね。晶さんは真理を説いていますが、本当は優しい人なんですよ。

晶さんは、「ご批判お待ちします」と、皆さまからのご意見を求めていますので、批判したい方は、どう
ぞご遠慮なくビシビシ批判してあげて下さい。晶さんは、人から批判されたからといって、怒り狂う人で
はありません。晶さんは、正しい生き方を求める強い反省力と、真理には常に素直でありたい、という謙
虚さがあります。ですから、晶さんは、皆さんのどんな批判も真摯に受け止めてくれることでしょう。

いつも言っていることですが、批判は悪意を持った悪口とは違います。宗教信仰することは、無批判の人
間になることではありません。本心が開発されてくればくるほど、本心と業想念の区別がついてきて、鋭
い洞察力が出てきて、批判力も増してくるものです。ただ、それと同時に、自己の心内の調和力もついて
くるので、批判したからといって、あるいは批判されたからといって、人を傷つけ攻撃するような暴徒の
ようにはならず、終始穏やかでいられるのです。

晶さんの「批判を受けよう」という男らしい勇気を褒めたたえると共に、皆さんから晶さんへのご批判を
私も楽しみにしております。正しい批判は、人格を高め、社会を改善し、世界を平和にしてゆくのです。


批判から逃げず、批判を受ける勇気を持て!
No.192 森島恒吉    1999/03/18 (木) 00:29 富士宮市
世界人類が平和でありますように

以前の毎週日曜日の聖ヶ丘道場統一会では、午前10時から昼まで約二時間、五井先生のご指導による統一
行と講話がありました。その後、五井先生の講話の前に、各講師がみ教えについて話すようになったので
すが、どうしても五井先生の講話とは内容にズレがあって、五井先生は度々修正されていたものです。

ある日、会の大幹部として会員から尊敬され、「霊能力がある」と自称している講師も、会場にいる会員
からの質問に答えた後に、「そんなあいまいな答え方をするな!怠惰は業想念にきまっているだろう」と
五井先生に激しく叱られて、「そのショックから立ち直るのに20年もかかった」と述懐していました。 
その時の質問者は、誰あろう、この私なのでした。また、目の中に入れても痛くないほど愛していた昌美
先生のお話についても、ほめ言葉の合間に、「昌美も、わかっているようで、わかっていない。まだまだ
だ」と五井先生は、各講師のお話だけでなく、昌美先生のお話についても修正されていたのです。

ところが、五井先生が他界されますと、たとえ講師が五井先生の教えに外れた講話をしても、誰もその誤
りに気づかず、誤りを指摘できず、修正されなくなったものですから、白光真宏会の講師のほとんどが、
五井先生の教えから少しずつ外れてゆき、自己流に解釈し、あげくの果ては、理事長から講師にいたるま
で全員が、「世界平和の祈りは初心者用で、我は神なりという宣言のほうが、より高い方法なのだ」と愚
かなことを言いだす始末です。五井先生が、あれほど「世界平和の祈り以上の素晴らしい祈りは無い」と
口をすっぱくして説いたのに、耳にタコができるほど聞かされたのに、まったく情けないことです。

そこで、「このままではだめだ!」と神界の五井先生と神々は判断して、改めて「世界平和の祈り」を私
を通して説くようになったのです。白光の職員でもなく講師でもないほうが、白光の組織に束縛されず、
神のみ心のままに自由に発言できるので、私が選ばれたのでした。それ以来、私は「世界平和の祈り」を
五井先生のように説くようになったのでしたが、私が五井先生と一体化していることを最初に直観的に見
抜いたのは、長老の島田重光先生でした。私の教えたことを、島田先生は素直に謙虚に受け取って、他の
行法はすべて捨てて、「世界平和の祈り」一念の行に戻ったのです。

宗教の道において、自分の耳が痛いからといって、批判を言わせず批判する者を排除し、「ハイ、ハイ」
と自分の言うままに動く人間だけを、「素直だ」とほめて取り立てる、というような宗教者は、自己の誤
りを指摘してくれる人を、みずから排除してしまっているのですから、それ以上進歩できないのです。自
己保身だけを考えて、社長の誤りを批判できず、進言もできない重役たちのいる会社はつぶれます。それ
と同様に、信者を無批判な人間にしてしまいますと、その宗教団体は、それ以上進化できないのです。

そこで、自己の正しい批判力を養うと共に、「人から批判を受ける勇気を持ちなさい」と私は教えている
のです。批判に耳を傾け、自分が間違っていたら、自分の行為を反省して直したらいい。そうすれば、誰
よりも自分が得するではありませんか。また、相手の批判が間違っていたら、相手の批判に対して批判し
てあげれば、相手も誤りに気づいて喜びます。批判から逃げず、批判を受ける勇気を持って下さい。
それが「祈りによる世界平和運動」という私たちのグループを活性化することにもなるのです。


真理偏重実相論と中庸実相論の違い
No.196 森島恒吉    1999/03/18 (木) 02:54 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さんの先日のご発言に、私の感想を申し述べ、「五井先生の教え方」を解説することにします。

最近「くよくよするな」という本がベストセラーになっていますが、宗教書ではなく、自己啓発書です。
書いてあることは、書評家たちも言っているように、特に目新しいアイディアがあるわけではなく、悩み
事に対して「くよくよするな」と書いてあるだけなのです。神からの言葉を書き留めているというスコッ
トランドのアイリーン・キャディの本でも「お互いに愛し合いなさい。何ものにも悩まされないようにし
なさい」と書いてあるだけです。そんなことは、誰でも言えることです。「このような考え方に励まされ
る人が、たくさんいるだろう」とは思いますが、宗教者の立場から見ますと、そうした教え方は、表面的
に相手を慰めるだけで、根本的な解決にはならない、と言いたいのです。

対人恐怖症を例にすれば、悩んでいない人から見たら「対人恐怖症など、なんでもないこと」と言えます
が、悩んでいる人にとっては、「なんでもないこと」と思う行為自体が、非常に難しいことで、冷たく突
き放されたような気がするのです。「なんでもないこと」と思えないから、悩んでいるわけです。宗教者
は、相手の立場を深く思いやり、冷たく突き放すような言い方を、極力避けなければなりません。

死んでも、病気になっても、ケガをしても、「なんでもないこと」と思える人は、よほど悟った人か、も
しくは鈍感で冷酷な人で、ふつうの人にできることではありません。「親が死んでも悲しくない」と言う
人がいますが、そうした人は真実に悟ってはいないナマ悟りというのです。実相論からいいますと、たし
かに病気もケガも不幸も無いのですから、「すべてはなんでもないこと」なのですが、そうした実相論だ
けを説いても、肉体意識を持った人々は、とうてい救われないのです。悩んでいる人から見れば、高見か
ら説法されているようで、立派なことを言っていることはわかるが、真似ができないのです。

「死ぬ覚悟をする」ということも、口で言うほど、そんなに簡単なことではありません。毎日、朝出かけ
る時に、「自分が斬り殺されることを想像する」ことなど、ふつうの人にできることではありません。で
すから、このような話は、感心させられるけれども、ふつうの人には実行できない教えなのです。「最悪
の場合を覚悟すれば、それ以上悪いことはない」という考えは、「道は開ける」という本の著者デール・
カーネギーも説いていることですが、「恐怖の中に死にきってしまう」ということは、難しいことです。
そんな勇気が最初からあれば、対人恐怖症にならないでしょう。

前段では「恐怖も病気もなんでもないこと」と業想念を無視する態度をとり、実相論を説きながら、後段
では、「最悪の場合を想像する」と業想念を認める現象論を説いていることに、非常な矛盾を感じます。
どうして、後段の部分でも、「悪い事態も消えてゆく」と思うように書かなかったのでしょう。教え方に
一貫性がなくて、そこが残念ですね。たくさんの本を読んで、その本に書いてある内容を、そのまま説き
ますと、このように矛盾してくるので気をつけなければなりません。

恐怖については、実相論で「無いのだ」といきなり思いこむのは無理なのですから、恐怖の存在を一度認
めて、「恐怖は消えてゆくのだ」と思う思い方のほうが、自然で無理がないのです。真理に偏った実相論
に対して、これを中庸実相論というのです。

「私の天命が完うされますように」と守護の神霊に祈る部分は、もちろん私も賛成です。

「守護霊様、対人恐怖の想いが消えますように」
「守護霊様、私をお守り下さい」
「守護霊様、勇気ある私になりますように」
「守護霊様、愛深い私になりますように」

対人恐怖症を直す具体的な方法として、こうした祈りが最も良い方法であるのです。


自力の想いが一点もない絶対他力の道
No.198 森島恒吉    1999/03/19 (金) 01:40 富士宮市
世界人類が平和でありますように

宗教指導で難しいのは、「人を見て法を説け」という教えがあるように、一般向けの法話と、個人指導を
する際の指導の言葉とは、言い方を変えなければならないんですね。「消えてゆく姿」の教えにしても、
五井先生は聖ヶ丘の壇上では「消えてゆく姿」の教えと話されても、個人指導の時には、「あなたのその
業想念は消えてゆく姿ですよ」とは言わずに、相手に対して同情の涙を流されて、黙ってその人の開運を
祈っておられました。「病気は無い」と言うよりも、「病気は消えてゆく姿」と言うほうが、相手を傷つ
けないのですが、それでも冷たく聞こえることを心配して、「あなたの病気は消えてゆく姿」とは個人指
導の時には言わなかったのです。法話と個人指導の話し方とは、区別して考えねばならないのです。

たとえば、恐怖について「なんでもないこと」と思える人は、ほとんどいません。ふつうの人にとって、
恐怖は「なんでもないこと」とは、とても思えないのです。そうした教え方は、甘い観念論なのです。

たとえば、戦争の場面を考えてみて下さい。
戦地で、地雷に触れ自分の手足を吹き飛ばされて、あなたは「なんでもないこと」と思えますか?
自分の愛する夫や子供が殺されて、あなたは「なんでもないこと」と思えますか?
自分の愛する女性が無惨に乱暴された上に殺されて、あなたは「なんでもないこと」と思えますか?
上官の命令で、やむなく敵の兵士を幾人も殺して、あなたは「なんでもないこと」と思えますか?

そうした現実を直視した上で、宗教の教えを説くべきであって、現実を無視した甘い観念論は、人々の救
いにはならないのです。「行動することが恐怖を解決する」という言葉も自己啓発にはありますが、行動
することによって、解決する場合もありますが、ますます窮地に陥る危険もあるのですから、自分の思う
ままに自分の想いを変えよう、とする自力を持っている限り、他力の世界には飛び込めないのです。

昌美先生の「我即神也」「人即神也」「人類即神也」という宣言法を、「そんな方法ではだめだ」と私が
否定しているのは、昌美先生の考えは、理想に偏っていて、現実から逃避した甘い観念論ばかりだからな
んです。昌美先生の考え方の誤っている点は、「誰でも真理をやすやすと行じることができる」と甘く考
えているところにあるのです。真理を説く気持ちよさに自己陶酔して、現実にある業想念の強い力を無視
しているのです。自分の意思力で自分の想いをやすやすと変えることは、容易なことではないのです。

「タバコを吸うことは、自分の体に悪いことだ」と知りながらも、タバコをなかなかやめられない人が多
いように、業想念の力というのは、真理の言葉を宣言したくらいで、簡単に消えて無くなるような甘い力
ではないのです。業想念の力を意思力で一時的に抑えても、次々と車が襲いかかってくるように、少しく
らいの意思の力では、業想念の強い力に負けてしまうのです。この業想念の力を無視せずに、自分の念力
で対抗しようとせずに、守護の神霊のみ心の中に、業想念を投げ入れてしまう、というのが、五井先生の
教えの特長であるわけです。つまり昌美先生は、自力に把われていて、自力から抜け出ていないのです。

味噌もクソも一緒にするのではなく、美しいものは「美しい」と思い、汚いものは「汚い」と思い、怖い
ことは「怖い」と思っていいのです。正直にその恐怖を認めた上で、「この恐怖は時間がたてば消えてゆ
くのだ」と知り、自分の意思力では恐怖感を消せないから、守護の神霊に消し去っていただこうと、「世
界平和の祈り」の中に、恐怖の思いごと投げ入れてしまうのです。そうしますと、守護の神霊の大光明に
よって、恐怖の想念は消滅し、現実を無視したり、自己に真理を言い聞かせたりしなくても、無理に背伸
びをしなくても、自然に真実の安心を得ることができるようになるのです。これが五井先生の教え方なの
です。五井先生の他力に徹した教えと、他の宗教者が説く自力の教えを、じっくりと比較検討してみて下
さい。五井先生の教えは、自力の想いが一点もない、絶対他力の道であるのです。


真理の言葉は、劇薬と同じく副作用がある。
No.200 森島恒吉    1999/03/20 (土) 03:12 富士宮市
世界人類が平和でありますように

晶さん、ありがとうございます。毎日この掲示板を見て下さる方は多いのですが、書き込む人が少ない中
で、勇気をもってコメントを書いて下さるので、いつもうれしく思っています。これからも失敗を恐れず
に、相談者の方々を励ましてあげて下さい。相手の立場を思いやり、どんな言葉でもいいから、温かい声
をかけてあげる愛情が、何よりも相談者の心を明るくさせるんです。

先日、美人の女医さんが、若い19歳くらいの青年の健康相談をしている場面を、たまたま見る機会があっ
て面白そうなので見ていたのですが、その青年の食生活が不規則らしく、女医さんに叱られていました。

「キミ、朝ごはんをちゃんと食べなきゃだめよ。勉強もできなくなるわよ。ほかに質問ある?」
「はい、で、…先生、彼氏はいるんですか?」
「ふざけるんじゃないの!ちゃんと私の話を聴きなさい」

という具合に、美人の女医さんは、年下の青年を厳しく叱っているのですが、内気そうな青年は、暗くな
るどころか、かえって元気になったようです。同じ言葉でも、家族や男友だちから言われると、「ウッル
セー、ムカツクー!」と腹を立てるくせに、目の覚めるような美人の女医さんから言われると、少しも頭
にこないで、喜んでしまう青年の心理は、おもしろいものです。

「五井先生に会ったら、この悩みを打ち明けよう、この問題も話そう」と道場へ行く道すがら思いつめて
いたのに、五井先生に会って、五井先生から「よく来たね」とニッコリ微笑みかけられたら、もうそれだ
けで、何を相談しようとしていたのか、すっかり忘れてしまい、悩みが消えてしまった、という体験を多
くの人がしています。

「バカ!」と言われても、愛する人から言われると、うれしいものなんですね。ところが、頭から真理の
言葉を言われても、愛情が感じられないと、そらぞらしく聞こえて、真理の言葉を押しつけてくる講師を
ふつうの人々は嫌いになってしまうんです。だから、表面の言葉ではなく、その言葉の奥に、愛情がある
のか、ないのか、ということが大事なんです。愛情がなくて、真理の言葉を型通りに話しておりますと、
聞いている側は、少しも感動せず、冷酷にさえ聞こえるんです。真理の言葉には、喝のような効き目があ
ると同時に、マイナスの副作用もあるのです。

相談者には、愛情をもって対することが大事であって、相談者の立場に立ちますと、真理の言葉をそのま
ま言う気持ちにはなれなくなるものなのです。数年前から、白光では、「光明思想徹底行」という行事が
始まりまして、会員の人が講師に相談に行きますと「マイナスのことをしゃべってはいけません。プラス
の言葉を使いなさい」と叱られて、相談者は心の内を正直に打ち明けられず、すごすごと引き下がるよう
になってしまったのです。マイナスの言葉を使わなくては、相談できるはずがありません。

そうすると、講師たちは「最近の会員はマイナスの言葉を使わなくなった。高い心境になった」と自慢げ
に話すんです。それで「バカ言ってるんじゃない」と私は言うんです。高い心境になったから、マイナス
の言葉を使わなくなったのではなく、講師に抑えられて、潜在意識に業想念が再び積み重ねられただけな
んです。正直でなくなって、かえって会員さんたちの心境は落ちたんです。このように真理の言葉を、現
実に合わせないで信者に押しつけると、調理をしていない生のくじらを、目の前にドーンと置かれるよう
なもので、真理の言葉が生かされず、かえっていろいろと弊害が出てくるんです。(「神と人間」参照)

皆さんは、今日はこの一つだけでもいいから、覚えて下さい。
「真理の言葉は、効き目が強いが、副作用も強い劇薬と同じである」