過去ログ道場トップ森島恒吉先生☆執筆編集録[目次]世界平和の祈りが唯一の行[目次]輪廻からの解脱
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【法話抄】 輪廻からの解脱
五井昌久 著
森島恒吉 編


◇守護霊の偉大なる仕事◇ 「神と人間 P47」

 神は愛である。愛であるから、守護神を我らに遣わし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。
 守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない。想念は必ず現れる。この法則のままに、想うことが、そのままこの肉体界に現れていたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。この業念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、描き出してしまうのが、守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。
 現れれば消えるのが、想念の性格であるので、夢として画き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。夢の場合は、その想念が巧みに戯画化されていて、一体何の想念であるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現れた想念は、再び幽体に記録されることはない。その想念は、夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。
 たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の絵が、やはりその想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現れるのを、守護霊がその夢として現して消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。このことを知ることは大きな救いになると思う。
 この守護霊の働きは、真に感謝しなければならぬものである。


◇業生の因縁因果の渦巻きから離脱できる◇  「神と人間 P54」

 人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ守護霊に自己の運命を委せればよい。「守護霊さん、ありがとうございます。守護神さん、ありがとうございます。神様、ありがとうございます」と常に感謝していればよい。
 この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。この心でいれば、その人の行動は、おのずから調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。
 守護霊、守護神と真っ直ぐにつながり、そのつながりによって、その光によって、業生の因縁因果の渦巻きから、いつの間にか離脱でき、分霊本来の光が直霊(神)につながり、肉体を持ったままで、人間神の子の実観を、真に体得できるのである。


◇三界の軌道外に出る方法◇ 「霊性の開発 P60」

 不幸を含む潜在意識の浮かび出てきた時に、一体どうすればよいのか、といいますと、潜在意識の回転する軌道を避けることなのです。それにはどうすればよいか、ここからが宗教なのです。
 潜在意識、顕在意識として転回している想念行為は、肉体界、幽界、霊界の低い層、つまり三界を輪廻しているのであって、三界を超えた世界は、その軌道外になるのです。
 その軌道外に、いち早く出る練習をすることが必要なのです。私は、どういうふうにこの波から遁れさせるかといいますと、皆さんがもうすでに充分ご存知のように、三界の軌道外にある、守護の神霊の力を借りることにしているのです。
 人間は真実は、直霊であって神そのもの仏そのものなのですから、この世的想念意識、つまり我欲をなくした空になり得れは、神そのまま仏そのままの行為が、この肉体を持ったままでも出来るわけですが、なかなかそのようになれる人はありません。
 それを法華経の理念通りに、「自分は久遠実成の仏である」と信念しようとすると、その信念する想いが邪魔になって、仏の姿が現実に現れてはまいりません。真実は、人間はすべて久遠実成の仏であるのですが、その仏を顕現しようとして、かえって気張ってしまって、常識はずれの変な人間が出来上がることも時折あるのです。
 肉体界に住みついた分霊たちだけでは、どうしても物質界の業(カルマ)的想念に妨げられて、本心のままの働きができないので、その援助として、守護霊(祖先の悟った霊)守護神(直霊の分かれで神界に住する自然霊)が、肉体人間の背後に控えて、地上神国完成のための協力をしているのです。
 しかし、一般の人々は、この理をあまり知らないので、守護霊や守護神の助けを呼ぼうともせず、感謝をもせず、「人生とはこんなものさ」式に、誤った諦観に陥ったり、唯物論的に我欲の力で、物質界を支配しようとしたりしています。
 そのようなことでは、繰り返された過去の歴史のように、闘争の醜さから遁れることはできないばかりか、原水爆のような武器で地上世界が壊滅してしまいます。
 今こそ、全人類が、自己の本心、生命の本源である神に、すべての想念を一度び返上して、神のみ心を地上界に天降らせなければならない時なのであります。そして私たち一人一人は、自分たちの守護霊、守護神の加護を念じ、感謝をし、世界平和の祈りを祈りつづけながら、現れきたるすべての想念行為を、過去世からの過てるものの消えてゆく姿と観じて、その想念行為に把われぬように突き放ち、その想いを直ちに神の方に向き変えなければなりません。
 自己の想いを、常に悪や不幸の中に置かず、神の座に上げて置くことこそ、あなたを救い、人類を救う最もよい方法なのであります。

図解



◇カルマの世界を解脱させる空◇ 「神は沈黙していない P30」

 仏教では、業想念(カルマ)の世界を解脱させるために、空の境地というものを説いて、その空の状態、つまり、あらゆる想念を停止せしめる修業をさせたのでありました。この空の境地になった時、実在の世界、人間の真性の世界がはっきり自己のものとなって、「この肉体の世界は単なる現れの世界であって、実在として厳然とした相(すがた)であるものではない」ということがわかってくるのです。
 私はこの空の境地を、神への全託という形で、自ずと会得させられたのでした。


◇業想念の波を超える◇ 「愛・平和・祈り P196」

 私の説いている世界平和の祈りは、思念の力でやるのではありません。思念にもなんにも、すべて自己に付随するすべての想念を、ただふんわりと、神様のみ光の中に、世界平和の唱え言と共に投げ出してしまう。そこには自己という小我の想念は何もない。何もないというより、有る想念はすべて神様の中に投入してしまうという、宗教本来の方法、色即是空、空即是色という般若心経の方法を、あっさりとやさしく行じさせているのです。
 何度びも申しているように、祈りと念力とは違うのです。祈りとは、神そのものに全託して、神のみ光をそのままこの肉体世界に天降らせる、器をきれいに神のみ光で浄めて貰って、光の通りやすいようにして頂く、という方法であります。
 肉体人間の余計な想念は、神のみ心を邪魔するだけで、何の益もないのであって、そうした想念を全託した時に初めて、真実光り輝く神のみ智慧としての想念行為が、その人その国の行為として現れてくるのであります。
 私どもの世界平和の祈りは、思念の力で神の光を地上に流れ入らせる、というようなものではなく、本来の神性を邪魔する想念の一切を、神様の光の中で消して貰って、本来の神性を素直にこの地上界に光らせよう、というのであります。そうして下さるのは、すべて、肉体人間の想念や思念の力ではなく、大神様であり、直霊であり、守護神、守護霊の光によるのであります。
 肉体人間にまつわる想念や思念の力を、一度すっきりと神界にお還えししないと、今日までの業想念の習慣で、つい自己欲望達成のための思念の力になってしまって、いつまでたっても真実の神の子になり得ないのです。思念の力というのは、科学者や精神医たちの指導する範囲のものであって、あくまでも三界の業想念でありますから、宗教者と称する人々の説くことであってはなりません。
 そうした思念による方法は、ある程度の運命の開拓はできても、神の国顕現というような大理想の実現はとてもできないのです。自己の思念の力によって、物事を動かすことを覚えますと、その思念の力をすべてに使ってみたくなり、知らぬ間に自我欲望達成の虜になってしまうのです。
 それは過去における行者や仙人たちが、未だに神界に往かれず、或る階層で止まってしまっていることで知れるのです。そんなことは、昔、釈尊がすでに詳しく説き聞かせているのを、そうした勉強をした筈の人たちが、こと改めて、釈尊が戒めていたそうした外道的な道を人に説いているのですから、神々が憂い給うているのも無理はありません。
 私に働いておられる守護神や、金星の長老たちは、そうした業想念の思念の力などは、少しも説いてはおりません。今、地上人間が一番なさねばならぬことは、今日までの業想念の習慣の波を超えることなのであります。習慣を超えるということは、その習慣の中に、幾分の良い要素が交じっていようとも、その習慣を一度捨て切らねばなりません。
 捨てきるということは、目の前にどのような利益があろうとも、その利益に把われず、本来の光の世界に入らねばならぬということです。それが思念によらぬ世界平和の祈りであり、力まずにふんわりと神様に一切を一任してしまう、世界平和の祈りであります。
 時によっては任せ、時によっては自力を使う、ということであっては、真の自己の幸福も、人類の平和も到底達成でき得ないのであります。


◇三界の世界を超越することが大事◇ 「白光への道 P105」

 自分自身が、生き生きとした霊的体験を持たない、知識だけの宗教者は、「人間は神の子であり、仏性である」ということや、「色即是空、空即是色」や、「三界は唯心の所現」等という言葉を、体験としてではなく、頭脳的知識として、それがあたかも、自己の体験のごとく、知っているように思いやすいのです。そして、そうした真理を、自己の体験からではなく、知識の言葉として、人々に教えようとするのであります。
 そこで、様々な行き過ぎた事柄が発生し、真理の言葉がかえって人々を戸惑わす結果になってしまうのです。たとえば、真理の言葉を教える側の人々が、「三界は唯心の所現」つまり「自分の想う通りになる世界」ということに把われて、「因縁因果の波は超えられない」と言って、悪想念の存在を肯定させてしまうのです。
 或いはその反対に、「自分の想う通りになる世界だから、病気は無いと思えば、無くなる」  「あの人善い人だ、善い人だと思えば、どんな人でも善いくなる」 「金持ちになる、金持ちになると思えば、金持ちになる」といった具合に、誰でもすぐにでも、「自分の想い通りの善い世界ができる」ようなことを、説いたりしているのであります。
 このように、真理を、片言まじりに知識として知っている人に指導されたら、指導される方が可哀想なことです。このような片言的指導では、教わる人々が、いつかは、必ず行き詰まりに来てしまい、宗教的にならなかった以前よりも、心の乱れが多くなってくるのではないかと思います。
 「この世は想う通りになる世界であり、念力の強い人程、この世の勝利者である」という言葉は、宗教的な言葉のようであって、実は神と悪魔とを半々にもったような言葉なのです。何故かと申せば、「善い想いでも悪い想いでも、一念凝らして念ずれば成就される」ということになり、想念の戦いの世界となるのであります。
 現在の世界があたかも、その通りの世の中であるのですから、「『三界は唯心の所現』(想う通りになる世界)という事実を超えたところに、真実の宗教世界があるのだ」ということを、私は皆さんに知らせたいのであります。「三界は唯心の所現」という言葉が、宗教の言葉だと思ったりすると、個人の平安も、人類の平和も絶対に築くことはできません。
 「人間神の子」という事実も、「罪悪深重の凡夫、罪深き人間」等の言葉も、それが個々別々に説かれて、統一性を持たない限り、真実の救われの言葉とはならず、人を騎りたかぶらせ、或いは陰鬱にならしめる言葉となってしまうのであります。
 宗教の教えは、結始一貫していなければなりません。
 或る時は「光明燦然たる神の子」と言ったりすることや、「運命は心で変えられる」と言った口の裏から、「因縁因果の波は超えられぬ」と言ったりすることは、一体どちらが真実なのか、衆生は困惑するでありましょう。
 また、「敵を想えば、敵が現れる。だから敵を想定してはならぬ」と説いている人が、「再軍備を強固にしなければ、敵にやられる」と説いていたりするのは、実に笑止であって、その人の論理の大きな矛盾には頭を疑いたくなるのです。
 釈尊は、「唯心の所現」等の小乗的教えの後に、「人間はそのまま仏である」という法華経を鋭いていて、「今まで説いていた教えは、真実の教えではなかった」と言っているのであります。
 これはどのような訳かと申しますと、「三界は唯心の所現(今日でいう「心の法則」「因縁因果」)といわれる世界は、肉体人間にからまっている世界であって、真実の人間世界、霊の世界、神仏の世界のことではない。真実の人間世界とは、神仏そのままの世界であって、業想念の波動の循環とは関係のない世界なのであるから、私(釈尊)が今まで説いた教えを超えた、この教え(法華経)の世界に、皆の想いを昇華させなさい」という意味なのであります。
 こうした釈尊の教えを、バラバラに解釈して、種々な宗教団体が出来たのでありますが、小乗を鋭けば小乗に把われて片言的であり、法華経や般若心経を説けば、実相に把われ空に把われて、この肉体生活の現実、因縁因果の渦巻き、業想念の強い力を無視した教えを説こうとするのであります。
 そこには、どうしても無理が生じ、人間を真実の救いの道に導き入れることが出来なくなるのです。
 そこで、この三界の世界(思う通りになる世界、心の法則の世界)を超越して、本(もと)の世界、神仏の世界に人間が到達するのには、どうしたらよいか、という一番大事な重要な説明にかかるわけです。
 そこで私は、想念は善悪を問わず、すべて消えてゆく姿として、その想いに執われさせぬことを説くのです。そうして、一度この肉体世界を全否定させてしまって、その想いを本心(生命の根源)に直通させるために、人間を外面的に守護し、人間の運命を生命(神)の本道に乗せていて下さる、守護霊守護神への感謝行に向けかえさせてしまうのであります。そしてそれと共に、この現象世界に直接関係ある、世界人類の平和の祈りをさせるのであります。


◇因縁因果を超える世界平和の祈り◇  「自光への道 P147」

 因縁因果というのは、原因結果ということなのですが、この原因結果が普通いわれている原因結果より奥深いもので、現世だけの原因結果ではなく、前の世、その前の世というように、過去の過去のずうっと過去の想念行為から現在までの原因結果でありまして、現在のその人自身ではわかりようのない原因によって生じた結果を、自己の環境として受け
ている、というわけになるのです。
 そうした因縁因果を信者たちの前に持ち出して、「お前たちの不幸は、こうした因縁によるのだ」とやるのです。これがその導師が宿命通の人であり、神通自在の人であるならば、その因縁因果を超えられる方法を、その信者に援助してやらせることができるのですが、そうした力のない導師ですと、現世の現れの面からあてはめた因縁因果を持ち出して、信者に任せることになってしまいます。聞かされた方は、半信半疑ながらも、自己の因縁の深さにうんざりして、かえって生きる気力さえ失ってしまうような気弱な気持ちになってしまったりするのです。
 確かに人間の世界は、因縁因果の波で動いてはいるのですが、この因縁因果を人類に超えさせる為に、釈専やキリストや法然のような聖者が現れて道を説いたのです。ところが、後の人々は、因縁因果の方だけを心に止めて置いて、それを超える方法を忘れてしまったのであります。人間の想念が、罪の意識、因縁性の意識のうちにある限りは、人間は永劫に神の子にも仏子にもなり得ません。一歩一歩善を積んで、罪の意識をなくし、因縁性を超えてゆく、というやり方では、人類の業想念の波の方が、個人の肉体的人間的「善意識」よりも強いので、サイの河原の石積みのように、積んでは崩れてしまうものなのです。因縁因果というものに取り組んでいるような指導方法を、宗教者がとっているようでは、
それが例え、「イエスキリストを一心に思えば救われる」、或いは「南無阿弥陀仏と念ずれば救われる」と救えたとしても、因縁因果意識の方がどうしても強すぎて、真実の救われには至らないのです。
 そこでどうしても、徹底した光明思想が必要になってくるのです。
 光明思想というのは、人間は神の子であるとして、すべての悪や不孝や不調和を、大神様(救世の大光明)の中に、消えてゆく姿として投げこんでしまう方法なのです。いかなる悪も不幸も不調和も、因縁因果という言葉も、罪の子という意識も、すべて一度つかんだら、そのつかんだ想念ごと、消えてゆく姿として、守護の神霊への感謝の想いとともに、世界平和の祈りの中に入れてしまうのです。そうすると、いやでも応でもやがては、神の子本来の姿が、その人の生活環境の中に現れてくるのです。 
 これは絶対なる真理なのです。やさしい全託、空の境地の実現なのです。


◇世界平和の祈りが唯一の行◇ 「宗教問答 P180」

 「人間は神の子であり、悪も不幸も病気も実体のあるものではないのだ」との光明思想を、神様が谷□雅春氏をして説かしめたのでありますが、生長の家は、その教えを現代の知識人や医学者たちにもわからせようとする意識過剰のあまり、精神科学的な分野に足を踏み入れすぎて、「心の法則」なる言葉によって、従来の小乗宗教の因縁因果説をもってきて、「こういう病気は、こういう心の現れ」 「このような不幸は、このような心の現れ」というように、精神分析的に、人々の姿や形や病気や不幸に現れたすべての症状を、心の持ち方に結びつけてしまったのであります。
 こういうことを教わりますと、自分が病気をしても人が病気をしても、すぐにその法則に照らして、自分や人の心を分析解剖してみて、自分の心を痛め、人の心を裁くような習慣が、自然についてしまうのであります。(中略)
 神様はそうした失敗をご覧になって、「これではいけない」と思し召しになり、今度は私に「消えてゆく姿の教え一本」の教義を説かせられたのであります。悪も不幸も貧も病も、すべては過去世から今日までの、神を離れていた想いの消えてゆく姿である、という教えの中には、人の悪や過ちを掴んで、責めたり叱ったりする余地がまるでないのであり
ます。(中略)
 こうした説き方を私にさせるために、神様は私に幽界霊界の種々な体験をさせ、守護の神霊の実在をはっきり知らしめているのであります。そして今は、世界平和の祈りを教義の実行面の唯一の行として人々になさしめているのです。真剣に世界平和の祈りをしていさえすれば、あなたにもあなたの周囲にも、悪や不幸が次第に消え去ってゆくことでありましょうし、やがては、世界中が大調和してゆくことにもなるのであります。


◇輪廻の法則を断ち切る◇ 「宗教問答 P203」

 輪廻とは三界(肉体界、幽界、霊界の下層。ヨガの教えでいえば、肉体界、アストラル界、メンタル界)の、自己の想念行為によって作った環境を、輪のように廻りつづけることであります。つまり、自己の想念行為のままに、生まれ更りして、肉体界と他界とを往ったり来たりして、生活してゆくことであります。
 この輪廻は、「自己の想念行為の波に乗って廻りつづける」という法則ができておりまして、いかなる環境が現れてきても、それは自己の想念所業のわざであるのです。この輪廻の法則を断ち切り、あるいは乗り超えるためには、自我欲望の想念を、すべて神のみ心に返上してしまうこと、つまり神にすべてを全託してしまうことが、一番早道なのであります。それは消えてゆく姿の教えと、守護霊、守護神のご加護に対するたゆみない感謝行であります。そして、それに付随して世界平和の祈りであります。
 神の世界に想念が入っていない以上は、苦界ともいうべき三界の輪廻転生は止まないのですから、いち早く神の世界に飛びこんで、輪廻の世界を逃れ、自由自在心をもって、光明世界に住することが一番だと思います。神界や霊界の上位は、貧老病死のない世界であり、明るい無限の進歩だけがある世界なのであるからです。


◇三界から神の世界に全想念を投げ入れる◇ 「宗教問答 P231」

 今生の運命は、ほとんど80%が、過去世の業因縁によって現れてくるので、これを超える生活をなし得るためには、因縁因果のつまり三界から、全想念を、神の世界に投げ入れて、生活してゆかねはならないのです。
 そういう生き方をするのに一番やさしい方法か、私の提唱している世界平和の祈りによる生活なのであります。世界平和の祈りによる日常生活をつづけてゆけば、この世に必ず神国が生まれてくるのであることを、どうぞ信じて下さい。


◇祈りは業想念の三界の世界を超える◇ 「自由解脱への道 P33」

 前の世でやったことは、必ず今生に返ってくるんです。いいことをしたら、いいことが返ってくる。悪いことをしたら、悪いことが絶対に返ってくるに決まっているんです。それは三界の業(ごう)の話ですよ。
 「因縁だよ、あきらめな」という話もあるんです。「あなたが悪いんだ、そりぁもう」というやつです。それだけだったら、因縁因果説でもって、救いがない。「前の世でやったことが、そのまま返ってくるんだ。悪いことをしたから、悪い報いがくるんだ」 「おまえはいいことをしたから、いい報いがきたんだ」とやるわけです。これは本当です。嘘じゃない。そこで守護霊さん守護神さんがついている。
 前にやった悪いことが、たとえば一万なら一万の悪いことをしても、その人が「守護霊さん、守護神さん」と思って、守護霊守護神のほうへ入ってゆくと、このグルグル回っている業想念の潜在意識まできて、そこをくぐって守護霊守護神の中に入っちゃうんです。そうすると、業想念の三界を超えてしまって、神様の世界へ自分の想いが入っているんです。グルグル回っているものも、ちょっと触れるぐらいで、たとえば一万も千万も借りがあっても、それが百か十かで済んでしまうもんです。それを運命の修正というんです。
 運命の修正、要するに運命を直してくれるのは誰かというと、守護霊であり、守護神であり、五井先生なんです。自分の努力というのは勿論ありますよ。だけど、自分自身が意気ばって、「自分の短気を直そう」とか、意気ばって「自分の淋しさを直そう」とか、意気ばって「悲しみを打破しよう」とかいうのは、長くつづきません。
 調子のよい時はできますよ。「なにを!」と言ってできるけれども、調子の悪い時は、どうにもならないんです。調子のいいとか悪いとかいうものは度外視して、調子がいい悪いなんて問題じゃなくて、「消えてゆく姿なんだ。守護霊さん守護神さん、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」あるいは「五井先生!」と言ってしまうと、想いがいつでも三界を超えてゆくんです。
 いつも業想念を超えていかなきゃならない。三界というのを超えていかなきゃならないんです。三界というのは、迷いのある世界のことをいいます。いうなれば、肉体界、幽界、霊界の低い所を三界というんですが、それを超える練習をいつもしている。それが消えてゆく姿なんですね。そうすると空になっちゃうんですね。仏教学者が難しい言葉で説くような空が、消えてゆく姿をやると簡単にできてくるんですよ。知らない間に自分で出来てくるんです。
 そうすると、自分でやったことも、神様がやってくれたことも一つになって、スッと動ける。たとえは、歩いてAさんの所へ行こうとフッと思う。ところが、Bさんの所にも行かなきゃならない。「Aさんの所とBさんの所と、どっちを先に行ったらいいか?」なんて思ってAさんの所へ行くと、Bさんが来てたりして、パッと一遍に用が足せるような事が随分ある。
 あるいは、義理としてAの方へ行かなきゃならない。しかし、心がどうしてもAじゃなくて、Bの方へ行きたいと思う。それでBの所へ行くと、Bへ行った方がいい事があったり、Bの家にAが来てたりして、両方一遍に用が足せるとか、そういう事がたくさんあるんです。そういうのは、みんな守護霊さんがしてくれるんです。
 この肉体の頭では、それは出来やしません。何がやっているかというと、後ろにいる目の利く人、遠くが見える人、未来のことが全部見えている守護霊、守護神がみんなやってくれるんです。肉体の人間というのは、どんな偉そうなことを言ったって、今、現在の一瞬の事きりわからないんです。一分先、一秒先の事もわからないんですよ。「一晩あけりゃ朝になって、朝になったら飯を食うだろう」と思うだけです。だけど、飯は食えないかもしれないし、わかりゃしないんです。
 そのように人間の肉体の頭では、一秒先、一分先の事も、先の事はわからないんです。暗中模索しているんです。何にもわからないけど、わかったような気がして生きているんです。守護霊守護神は、ところがちゃんとわかっている。霊というのは、先の事などみんなわかっている。だから、霊に任せるんですね。というのは、守護霊守護神に任せてゆくと、自分の業、自分の悪い癖も、みんなどんどん消してくれる。どんどん消してくれるのは、守護霊守護神です。それを他力というんです。



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