過去ログ道場トップ森島恒吉先生☆執筆編集録[目次]世界平和の祈りが唯一の行[目次]誌倫理に把われるな
過去ログ道場トップページへ


【法話抄】 真理に把われるな
五井昌久 著
森島恒吉 編

  【真理をそのまま現すことは至難のことである】

 真理の教えと、どうしても実生活はギャップがあります。そのギャップに把われて、宗教的な人は悩むわけです。私は初めから、真理を自己にそのまま現すことの難しさを知っていました。私自身は想念停止の修行によって、自我を脱却して、神のみ心としっかりつながることができましたが、普通の修行ではとても、真理を自己の行為にそのまま現すことは至難のことで、真理と現実の間に立って、宗教的であればある程悩むわけです。 つまり、真理に把われて、心がかえって不自由になってしまうのです。(中略)


  【世界平和の祈りを繰り返せば、真理が自然に行じられるようになる】

 神のみ心に入るということは、「感謝の祈り」によって入ることが一番よいので、守護の神霊への感謝の想いと共に、「世界平和の祈り」 をくりかえしくりかえしてゆくのです。そうして、神の大光明の中で、業想念波動を消し去ってもらうのです。
 こういう繰り返しによって、真理と自己とのギャップが次第に少なくなり、宗教の教えを身をもって行じられるように、自然になってゆくのです。


  【「完全円満だ」 と言って聞かせても、完全円満な行為になるわけがない】

 頭の知識だけで、「人間は神の子である、病気だの不幸だのというもののない完全円満な存在だ」 と知っても、これは真実心の底から知ったわけではないので、口で人にいってみたり、自分で一生懸命、表面の心に言って聞かせたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三界を経巡っているのですから、実際の行為としては、神仏の行為になるわけがないのです。 (中略)


  【「完全円満だ」 「病気は無い」 と想う生き方も、一つの把われ】

「病気はない、病気はない」 と想いつづけているので、病気が治ったりすることもあります。しかしそれは三界の想いの転移だけでありまして、神との一体化によって治ったのではありません。やがてまた病気になる時もあります。なぜ私がこんなことを言うのかと申しますと、そういう生き方も一つの把われなのだ、と言いたいからです。


  【幸福、健康、完全円満、神の子と想っても、自由自在心にはなれない】

 「幸福と不幸」 「健康と病気」 「完全円満と不完全」 「神の子と肉の子」 というように、いちいち分けて考えて、自分に都合のよいほうにしがみついて、一生懸命、「自分の都合のよいほうのことを想おう」 などというケチな根性で、どうして無礙自在の心境や、自由自在心になれるでしょうか。


  【偽善者や責め裁く人物になる欠陥がある】

 うっかりそんな生き方になれますと、他の生き方をしている人が、皆愚かな人に見えたり、自分の生活に病気や不幸が現れたりすると、他人にはひたかくしにしようとして、自己を幸せそうにみせようとします。常に、自己の心の底を割って、人と相対することのできぬ、偽善的な人物になってしまいます。みせかけの多い人間になってしまうのです。
 その反対に、なんでもかんでも心の間題として、(中略) 「みんなあなたの心の持ち方が悪いのですよ」 などという教えにふれますと、いつでもいつでも自分を責めつづけ、また他人の病気や不幸をみると、「あの人、心の持ち方が悪かったのよ」 というように、同情するより先に、その人の心を非難するような想いが自然に出てきて、常に自他の精神分析をして生きていなければならなくなってしまいます。


   【完全円満論も精神分析論も、世界平和の祈りの中に入れる】

 まして、前者の教えと後者の教えとが一緒に組まれた教えについた人などは、或る時は「完全円満論、神の子論者」になり、或る時は「精神分析論者」になって、二重の把われを持って宗教の道をいかねばならなくなります。
 神の子完全円満論者も、精神分析論者も、一度自己の立場を捨てきってしまう必要があるのです。自分はこういう教えのこういう立場にある、ということを神様のみ心の中に捨て切ってしまう。三界の中、肉体生活にしみている業想念を、祈り心、私流にいえは消えてゆく姿で世界平和の祈りとして、神の大光明の中に入れきってしまうことが大事なのです。一度、宗教の道に入ったら、それ迄のその人の習慣の想いや立場を、神様のみ心の中にお返ししてしまって、新しい自己をいただき直す、ということが必要なのです。それをしない限り、いくら「神の子完全円満」 と唱えていても、その人にかえってくるものは、その人の心境そのものでしかありません。(中略)


   【守護の神霊を通して、世界平和の祈りの中に投入する】

 「人間神の子完全円満」 を唱えるなら、自己が宇宙と一つになる程の気持ちで、神の完全円満性の中へ、自己をぶちこんでしまわねばなりません。そこには「肉体人間の願い事」などあるはずはありません。なぜならば、その時から、その人は「完全円満」でなければならぬ筈だからです。
 だから私は、そんな難しいことを言ったり、想ったりするより、常に私たちを守って下さっている守護霊様守護神様がいらっしゃるのだから、常に守護の神霊への感謝をおこたらず、すべての不幸や災難や、自分に都合の悪いこと、自分の間違った想い等々、真理にそわぬ想いや出来事を、すべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、「世界人類が平和でありますように」という人類愛の祈りである世界平和の祈りの中に投入してしまう。その繰り返しの生活をしてゆくことによって、難しい理論も理屈も必要なくなってくるのです。 (中略)                                  .


   【念仏行のような祈り方で真理を現す】

 要は、神のみ心から離れた肉体人間という自己を持ったままでは、人間の救われも悟りもないのですから、肉体人間の自分としてではなく、親に対する幼児のように、無邪気な気持ちになって、神のみ心の中に入ってしまうことなのです。(中略)
 この祈り方は、浄土門の「南無阿弥陀仏」という念仏行と同じように、神の方から救い上げて下さる、神のみ心に「唱名」 と同時に一つになって帰一して、そこで改めて、自己の運命をいただき直す、人類みんなが行えば、人類の運命を改めていただき直す、ということになるのでありまして、神のみ心本来の大調和の姿に人類が復帰する、ということになるのです。(中略)
 宗教をやっておられる方、宗教団体に入っておられる方は、自己の欲望の把われを放つと同時に、宗教的把われをも放って、真理を自己に現す生活に入っていただきたいと願うものであります。
                                                                    (完)


                                     (五井昌久先生著「愛すること」 より抜粋)



過去ログ道場トップページへ
過去ログ道場トップ森島恒吉先生☆執筆編集録[目次]世界平和の祈りが唯一の行[目次]誌倫理に把われるな