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【法話抄】 まだ「神の子」と宣言できない
五井昌久 著
森島恒吉 編

 如何なる真理といえど、押しつければ、それは不自由となり、真理ではなくなってしまうのです。真理とは、常に自由に行なわれるものなのであります。「天地万物に感謝する」ということでも、天地万物に感射すること、その真実は、最高の真理への行為であり、それが日常行なえる人は、実に幸福な人であり、真の人間であります。ところが、この立派なことが、ひとたび声に出る言葉となって、他人に強要された場合は、この内容がまるで死んでしまうのであります。また、強要した人も、もはや感謝の人ではなくなっているのであります。
 感謝ということは、人に強要されることではなく、人に強要することでもないのです。内部から自然に湧きあがってくる想いであり、感情であるのであります。ですから、「感謝、感謝」と、感謝を売り物にしていたら、感謝の本質は全く消え去ってしまって、感謝という形だけの贋ものが、残っているだけになってしまうのです。
 「人間は神の子である」という真理でも、そうなのであります。「人間は神の子であり、神そのものでもある」のは真理なのでありますが、それは文字の上や声に出る言葉で言うべきものではなく、その人の全人格、言語動作、全行為に現れるべきものであって、文字や発声による言葉で言うのは、ただ単に、その真理につなげるための一つの動作であるのです。それを、ことごとに「人間は神の子なのだ、円満完全なのだ」と他人の立場やおもわくを無視してしゃべりまくって、自らの想いを満足させているような者があるとしたら、その人は、行き過ぎた人と言うべきなのであります。
 神が現れる時には、愛となり、慈悲となり、真となり、美となり、善となり、調和となって現れるのであって、ただ単なる文字や発声による言葉に現れるのではありません。その行為が、愛であり、慈悲であり、真であり、美であり、善であり、調和でなければ、その人は神の子とは言いがたいのです。
 現世の人間は、神を内部に蔵して、その僅かの光を外部に発光しているものであって、まだ「神の子である」と大見得を切るほど、光明化してはいないのであります。「理想は、いかほど高くともよいのでありますが、その理想のみに把われて、理想と現実の差異を忘れ去ってはならない」と私は言いたいのです。理想はそうであっても、この世で今の状態では、できにくいことが、たくさんあるのであります。といって、その理想に近づくことを、おろそかにしてはならないのです。そこに、理想と現実との調和ということが、大事になってくるのであります。

                              <光明をつかむ P65〜P67より抜粋>



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