過去ログ道場トップ森島恒吉先生☆執筆編集録[目次]世界平和の祈りが唯一の行[目次]念力への批判
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【法話抄】 念力ヘの批判
五井昌久 著
森島恒吉 編

◇念力で叶えられた後◇  「聖書講義P387」

 祈りと我欲の念力とは全く相違するのでありまして、我欲の念力でも、それが強ければ叶うことが多いのですが、念力で望みが叶った後が大変で、その念力で叶えられただけのお返しを、なんらかの形で、後々になってやらされることがあるのです。
 それは何故かと申しますと、我欲の念力というのは、神のみ心、生命の本源からのものではないので、神のみ心から流れてきて、その願いが成就したのではなく、三界の因縁の世界からの横取りでありまして、一生の間に少しずつ叶えられるべきものが、一度に叶えられてしまうので、後々その分だけ得る物事が減少してゆくのであります。
 ところが真実の祈りによって得たものは、神のみ心、本源の世界から与えられて得たもので、金品であろうと、地位であろうと、事柄であろうと、みな神のみ心そのものの現れということになるのです。
 ですから真実の祈りというのは、我欲の念力とは違うので、我欲を神のみ心で浄化してしまって、生命が生き生きと輝いてくることが、祈りということになるので、真の祈りは神との一体化ということなのです。そういう祈りによって叶えられた事柄は、讃うべきなのであります。真の祈りに勝るものはないのです。


◇念力は宗教の道ではない◇  「自らを信ぜよ P82」

 宗教者によっては、祈りと願い事、それに念力など、みな一つにして教えている人もありますが、願い事はまあ良いと致しまして、念力は、宗教の道ではありません。祈りとは全く違った道なのです。釈尊の頃でも、バラモンの人たちが、しきりに念力争いをしていまして、真の宗教から道を外してしまっていましたので、釈尊は空の行を説かれ、念力が宗教の道でないことを、人々に示されたのであります。
 先日の高校野球で、或る宗教団体の学校で、催眠術を選手たちに行なって出場させるということを、テレビで放送していました。
 自己催眠で、「打てる、打てる、打てる!…」というように自分の心に暗示したり、「必ずストライクだ!」と自己暗示をかけたりして、試合に向かうということでした。そして、当日その学校は試合に負けてしまいました。
 早く試合に負けたから良いものの、そんな方法で試合に勝っていたら、宗教精神からだんだん離れていって、「相手より優位に立つ」ことや、「自分の都合の良いように世の中を動かす」という方向に想いが向けられてしまって、人間にとって最も大事である、精進努力という当然の事がおろそかにされがちになってしまいます。
 何も、その学枚がそうなる、というのではなく、催眠術のような念力的生き方は、遂には念力競争になってしまって、昔のような、宗教の争いが起こってしまいます。
 宗教というのは、祈り心によって神との一体化がなされるものでありまして、念力とは業想念の働きであります。善い事にも、いざという時には、念力を使うことがあるかも知れませんが、その時には、念力というより祈り心の方が強く大きく働きますので、神のみ心が念力のような形で、そこに力を現すことになるのです。
 肉体の世界は相対的な世界なので、どうしても念力のように自己の力で、「相手に打ち勝ちたい」と思ってしまいますが、それでは戦争が絶えなかった昔の生き方と同じでありまして、いつかは核爆弾を使うことになってしまいます。
 宗教の生き方は、あくまで「神様に全託する」という方向に向かってゆくことで、その生き方が大調和精神に通じるのであります。ですから、今日までの生き方はそのままにしておいて、瞬々刻々世界平和の祈りをつづけてゆきますと、知らないうちに、今日までの生き方に変化が起こり出しまして、今まで何でも自己本位に生きていたものが、何とはなく他の人の事を考えて、自己の行為をするようになって来たりするようになるのです。それが世界平和の祈りの効果です。


◇信念と念力の違い◇  「自らを信ぜよ P89」

 よく信念と念力を一つのものとして使っていますが、信念は信ずる想いということで、想いの上に何か神なら神という、仕事なら仕事という、信ずるものがあって、その信が想い(念)として強く働くのでありますが、念力とは、そういう神や仕事への信を別にして、精神集中のように想いの力を強めるのであります。
 信念の力は、己に利益しても、他を損なうものではありませんが、念力はとかく対抗的になりまして、お互いを損ない争うようになることが多いのです。念力でも、相手を損なわない場合は良いですけど、念力集中が習慣になってきますと、つい何かと念力を使って、自己を有利にしようとし、相手を自分の想いで引き回してしまいそうです。
 ですから、宗教的な人は、祈りの中から何事も行じるようにして、特別に念力を使わぬほうが良いのです。要は、「自分や自己の周囲が良ければ、他はどうなっても良い」という想いではなく、「自分が良くあると同時に、他も良くあってほしい」という行き方に、多くの人がなってくれることが望ましいのです。「自分たちの事はどうなっても、他の者が良ければ良い」という心境になるのは大変ですから、そういう想いは、世界平和の祈りの中に入れておくと良いと思います。


◇念力の恐ろしさ◇  「自らを信ぜよ P128」

 一人の人間の想念波動が、「自己の利益の為なら、どのような事もする」というような想念波動であったならば、不調和そのものの波動の世界でできあがっている幽界の生物と、その想いが合致し、その人間の働きに大きな力を加えてくるのです。そこでその人間は、悪思想や悪事の中で、大きな成功を収めてゆくのです。しかしやがては、幽界の生物の餌食となって、その肉体は滅びていってしまうのです。
 しかし恐ろしいのは、国家や民族や思想集団が、「自分たちの野望を成し遂げよう」として、想念波動の錬磨に力を入れて、この地球世界の他の国家や民族に、挑戦していった場合、幽界の生物の集団的応援も加わって、強力なる他を圧する力となり、世界はその人々の通りに動かされてしまうことになりかねません。
 そこが念力の恐ろしいところで、私が常に「念力は宗教の本道ではない」「念力を磨くことと祈りとは違うのだ」と申してきた通りであります。祈りは、生命を開くためのものであり、「生命の本源の神と一つになろう」としての行為なのでありまして、真の祈りは、いつも神の光明と一つになっているものであります。
 しかし、念力すなわち想念波動は、神の光明波動とは違いまして、只単なるエネルギー波動なのであります。ですからその波動は、悪い方にもいい方にも使えるわけです。概ね人間は、自我欲望のために想念波動を使っているわけで、その念力を強力なテレパシーの力として、他国に優先しようとしてゆく事など、核戦争に勝る恐ろしい行為なのであります。念力と念力とが戦い合えば、それは精神の世界まで破壊してしまうことになり、真の人類絶滅まで至ってしまいます。
 ですから、この念力戦争を防ぐためにも、神の大調和波動と一つになっている人が多くならなければいけないので、ここに真の宗教信仰が必要になってくるのです。 真の宗教とは、人間が神のみ心にすっかり入り込んでしまうこと、神と一体の生活をこの世に導きだすことでありまして、その方法が祈りなのであります。祈りも、世界平和の祈りのような、個人人類同時成道のようなものが良いので、私たちはその道を真剣に進んでいるのであります。
 これからは、ますます念力を磨いて、「他の生活を侵略しよう」とする人々が増えてきますので、是非とも心正しい道を探究していって下さい。


◇祈りと念力の相違◇  「宗教問答 P86」

 祈りと念力の相違については、私も時折説明しているのですが、相当な宗教者でも、これを混同しているようです。一つの事柄、事物を強く想いつづけてゆけば、確かにその事柄が成就し、事物を獲得できることが多いのです。それは「人の一念巌をも通す」という言葉の通りであります。しかし、それはあくまでも、自己の業想念の念力でありまして、神のみ心が、その人の祈りに答えられた結果ではないのです。
 そのような念力を、祈りと誤り考えております人は、いつまでたっても、真実の神を自己の中に発現することはできません。何故かといいますと、そのような人は、常に自分の欲することのみを念ずる癖がついて、神との一体観ではなく、自我欲望、つまり業想念との一体観になってしまい、神の力を自己の想い通りに出来得るものと誤解し、業想念の渦の中を、グルグル回りしてしまうのです。「自己の欲する物を与えられる」ということが、神の眼から見れば、必ずしもその人の真実の幸福とは見えないかもしれません。
 例えていえば、一人の女性を「自己の妻に」と望み、一念凝らして神にその成就を願ったとします。そして、もしそれが成就されたとしても、その妻を娶ったことが、その人の未来にとって、幸福なものであるかないかは、わからないのです。
 また一つの例として、「ある金額を是非欲しい」と思っている人が、やはり念力の力を信じて、神に対して、「是非これこれの金額を私に与えて下さい」と念じたとします。そして、与えられたとします。しかし、この金額を与えられたことが、果たしてその人のプラスであるか、マイナスであるかは、後になってみないとわからないのです。
 自己の想いの成就したことによって、かえって不幸になった人々を、私はかなり知っております。このように言うと、その人たちは反問して言うでありましょう。「私は神にその成就を祈ったのであり、神が私の祈りに答えて、その願いを聞き入れてくれたのであるから、決して結果の悪くなりようはない」と。
 だが、私はその人の反間に対して、次のように答えます。「神は一人一人の人間の勝手な願いに対して、一々その願い聞き入れたりはしないのである。神は全智全能であり、人間は神の生みの子なのであるから、神は人間すべてのその時々の必要な環境、事物を逐一知っておられるのである。
 だから、特別に一念凝らして願ったから、その人にだけ特別に願いを叶えられるようなことはなさらない。神が人間になさって下さることは、人間が真実、『心の平安』を得、『自己の生命が神と一つのものである』ことを確信でき得るようになり、『愛と真と善と美のある生活を送り得る』ようになさることであって、それは祈りによって成就され得るのである。
 その祈りとは、自我欲望の想念、つまり『こうして欲しい、ああなりたい』という想念のすべてを、神への感謝の想いにかえてしまうことである。『自我欲望の想いを叶えて貰おう』として、神に願って叶えられることは、神が叶えてくれたのではなく、『想い通りになる』という業想念の法則が、自然的に活用されて叶えられたのであるから、その未来における結果が、幸であろうと、不幸であろうと、それは神の関知しないことなのである。そのような念力は、預金がないのに手形を発行しているのと同じで、一時逃れはできるが、やがて借金で首が回らなくなるようなものである」
 おわかりになりますか? なかなか難しいことなのであります。この説明を誤解なさらぬように、もう一段詳しく説きましょう。
 人間は神から来ている者なのです。神の分生命なのであります。ですから、自己の欲するものを神に願ったとて、決して間違いではないのですが、「自己の欲望想念で神に願うことが祈りである」という誤解は、その人の進歩を大いに阻害すると私は言うのです。
 肉体人間は誰でも、自己の欲望想念があるに決まっていますから、自己の希望を神に願う気持ちが出るのは否めませんし、それは決して悪いことでも、間違ったことでもないのです。
 しかし、それが真実の祈りになるためには、そうした願望を、一念凝らして想いつめることでも願いつづけることでもなく、そのような願望は、その願望が起こったと同時に、神にすっかり預けてしまい、神への感謝に想念を変えてしまうのであります。神への感謝ということは、神の心に自己の想いが一直線に通じていることなのであります。感謝の想いは、相手に同化する心なのであります。ですから、神に感謝すれば、神の心が自己に流れ入ってくることになるのであります。神の心が自己に流れ入ってくれば、自己に必要な物は必ず叶えられ、成就されるに決まっているのです。
 そうした想いで成就された物事、事柄こそ、真に神によって与えられた物であって、その未来の結末が、悪かろう筈がないのであります。
 祈りとは、自己の想念をすべて神に全託することであって、その深い浅いはあるのですが、念力の願い事とは、全く違うのであることを、皆さんが深く認識して下さるように願います。
 ですから、自己の願い事も、すべて、世界平和の祈りの中に包含してしまうと、その願望が、その人の真の幸福のために必要であれば、必ず叶えられるのであります。要は、個人個人も人類も共に、真の幸福生活に入るための祈りであることを忘れてはなりません。その場その場のご利益だけでは、祈りの真の効果とは言えないのであることを、心得ていて下さい。
 念力による希望達成ではなく、真の祈りによる天命の達成、その天命成就のための必要なる事物、事柄の獲得ということにならね限り、個人も世界も、本当の幸福をつかむことは出来ないのであります。


◇祈りと念力の相違◇   「宗教問答 P150」

 念力と真実の祈りとの区別のわからない宗教者は、かなり多いのであります。念力とは、おもい、すなわち想念や思念の力であって、神とは直接関係のない力なのであり、祈りとは生命(神)を宣り出す方法、つまり自己の生命の働きを、神の生命として宣言し、真っ直ぐに発顕することなのであります。
 念力は、神を考えなくても、自己が自己の欲する事物に一念を集中すれば、その一念の強さに従って、その事物に対する自己の目的を達成し得るわけであります。「想う通りになる世界」などという教えは、これです。これは善悪にかかわらず、自我欲望でありまして、この念力のみに頼りますと、知らず知らずのうちに、自我の強い人になりがちなのであります。
 神を信じ、おかげを項いているという人々の中に、意外な程、この念力による利益に酔いしれている人々が多いのであります。この人々は、自我欲望を達するために、神という的に向かって一念を集中し、その念の力によって、自己の望みが達せられたことを、宗教信仰と誤り考えているのであります。このような悪い癖がついてきますと、「神は常に自己の想う通りになるもの」と思い違えたり、神はただの飾り物にして、自己の念力の強大化に満足してしまう傾向を持ってくるのです。昔の修験者行者などには、こうした類の人々が多くあったのです。
 その反面に、この念力に頼って、「この世界は自己の想う通りになる」というメンタルサイエンス式の生き方で生活しておりますと、その念力の強弱によっては、自己の想う通りにならずに、先見越しの事業をやって失敗したり、医者にかかったら治り、安静にしていたら治るような病気を、治す機会を失って死んでしまったりするのであります。
 念力と念力との闘いになったりする場合もあるのです。
 念力は、あくまで神そのものへの信仰ではなく、神を離しても行なえる力であって、この念力に頼っている以上は、個人の真実の救われや悟りに入ることもできなければ、人類の大調和、世界の平和の実現にはなんらの効果もない、というのであります。
 真実の祈りには念力が強いも弱いもなく、神様の胸にすがりついてゆくことが祈りなのであります。そうしますと、自己を覆っている業想念は、神の大光明によって照破され、その人の心に、その人の生活に、神そのままの善なる美なる真なる生活が、現れてくるのであります。そして、その祈りを一番わかりやすく、一番誰にもできやすく、そうして効果的にしたのが、世界平和の祈りなのであります。


◇祈りと念力の違い◇   「聖なる世界へ P117」

 祈り心と、念力とは違います。祈りとは、神の生命のひびきに、肉体の想念が一つになって、本心をひぴき渡らせようとする、その方法であり、念力とは、自己の思念の力を集中することであります。
 祈りは神のみ心を常にそこに現すものですから、その結果は調和したものでありますが、念力は神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現すのでありますから、その人の念力の達成が、神のみ心に反する不調和なものであることが多々出てくるのです。
 祈りは、常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の想いを全託して、神のみ心にすべてを委ねる方法です。神のみ心に、人間の想念を委ね厚くしますと、人間の本心は神と一つのものですから、その瞬間から、その人の「ああでもない、こうでもない」という想念波動がなくなり、その人の本心のみが働き出します。
 本心とは神のみ心ですから、神のみ心の完全性がそこに現れて、物事が成就してゆくのであります。
 念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギーが、集中して或る目的にそそぎこまれるので、そのエネルギーの力によって、目的が達成されるのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネルギーをそそぎこめは、両者の念力合戦になってしまい、両者が傷つくのであります。
 念力が強いことは、弱い人より、物事が成功していってよいでしょうが、あくまで自我の力ですから、宗教的な悟りの境地とは反対の方向の力で、宗教者が念力を人々に勧めるとしたら、それは邪法であると思うのです。宗教者の目指すところは、神仏の世界でありまして、神仏を離れた自我の世界ではありません。
 釈尊が空になる坐禅観法を教えたのは、空にならずに、想念波動のエネルギーを使っての念力の修練では、三界の苦しみを超えることができないのを、知っておられたからなのであります。釈尊が、バラモンの教えを超越した仏教を立てられたのは、念力をも含めた、あらゆる肉体人間の把われを放つことによって、人間は神仏の世界と一つになり得るのだ、ということを教えたかったからなのであります。
 人間はいつかは、神仏をはっきり自己のものとすることができるようになるのですが、その時代の前に、自己の力ででき得る方法として、念力を謳歌する時が来ると思います。そうなれば、念力合戦のような状態が諸々で起こってくるでしょう。
 しかし、真の宗教者は、そうした念力とはかかわりなく、ただひたすら、祈り心で明るく正しい生活をつづけていればよいのであります。世界平和の祈りの日々こそ、明るく正しい生活をつづけるための神との一体化の祈りなのであやます。


◇念力は宗教の道とは反対◇  「聖なる世界へ P162」

 近頃流行している、信念の力や念力の普及の道に、人々や国々が真剣になっていった場合、その奥の神のみ心の大調和ということを知らずにいたら、お互いの念力合戦になってしまいます。争いの力となってきます。
 信念とか念力とかいうと、ちょっと宗教的な言葉のように思えますが、宗教の祈りの心とは全く反対の在り方ですから、その点お気をつけ下さい。宗教の道は常に根底に神のみ心があり、人間同志の愛の交流があるのですが、宗教を離れた信念や念力というのは、これが他への影響を考えぬ、利己主義的なものでありますと、地球の不調和に拍車をかける
ことになってくるのです。
 宗教の道に入りながらでも、自分の利益のためには、神様を自分の方に引き寄せ、自分の望みを叶えてもらおう、というのがあります。本来は、神様のみ心のほうに、自分のほうから精進潔斎して昇ってゆくべきなのに、自分の道に神様を引きこもうというのですから、誤った信仰なのですが、意外とこんな信仰の人が多いのです。こういう信仰の人は、信念の力や念力の活用に興味を持って、神様を捨てても、そのほうに走ってゆくかもしれないのです。


◇念力の願望達成法は神のみ心ではない◇ 「愛すること P177」

 宗教によっては、「欲しいものがあったら、その欲しいものを頭に描いて、この願いが叶えられる、叶えられる、と一心に想いなさい。そうすれば、それは叶えられます」という念力の願望達成の方法を、祈りとして教えているところもありますが、それはあくまで念力でありまして、神のみ心によって叶えられたものではありません。
 業生の想いの力によって達成したものです。この念力的生き方でまいりますと、同時に幾人かの人が、同じ物を欲した場合、どうしても念力の争いになり、調和な心は崩れ去ります。これを宗教的な在り方ということはできません。
 宗教的な生き方とは、主体は常に神であり、神のみ心でなければなりません。神のみ心を主体にし、自己の想いを神のみ心に合わせてゆく、という生き方をしてゆくことを、祈りの生活というのです。「すべてを神の方(かた)から与えられる」という基本的な生き方、これが祈りの生活なのであります。


◇祈りと念力の相違 @◇ 「白光への道<祈りと念力の相違> P56」

 近頃、精神科学的な本がたくさん出版されてきて、信念とか念力とか想念とかいう言葉が科学的に説かれています。
 現今では、西欧側からこうした言葉が、精神科学的な言葉として移入されてきて、日本でもそうした訳本が多く出板されるようになり、心理学者、医学者、それに一部の宗教家が、それを自己の研究結果として、自己の思想として発表しているのです。
 それはそれなりに学説でもあり実証的発表でもあって、私もどうこう言おうと思ってはおりませんが、そうした学説なり思想なりが、一度び宗教者の口から宗教思想のごとく発表され始めると、大変な過ちが起こり始めるのです。
 信念の力というのは、まことに結構でありまして、神仏を信ずる力の方にも向けられる言葉でありますが、これが念力とか想念の力とかいうふうに転じてまいりますと、それを宗教者が宗教の話として、神仏を口に説きながら話される場合には、余程気をつけて話しませんと、聴衆や信者を誤った道に引き入れてしまいかねないのです。


◇祈りと念力の相違 A◇ 「白光への道<祈りと念力の相違>」

 想念の力すなわち念力と、祈りということの区別をはっきりつけている宗教家は少ないのです。例えば、「職が欲しい、家が欲しい、金が欲しい」といったような場合、「その欲する目標に向かって一心を集中し、つまり想念の力を強くしていけば、その職なり家なり金なりが、自己の下に引き寄せられる。だから、その目的物に向かって一心を集中しなさい」というような教えがあるのです。
 また或いは、「『自己の欲する物は、すでに与えられているのである』と堅く思いこむことです。常に想いつづけることです」というように教えたりもしているのです。「さすれば、必ずその物は、あなたに与えられる。もし、その希望が叶えられぬとするならば、それは神が『あなたに必要がない』と思われるからである」と希望が叶えられぬ時の言い訳までしているのです。
 そしてこうした教えが、宗教の一つの方法であるように、信者や読者にはどうしても受け取れてしまうような説き方、あるいは書き方がしてあるのです。
 こうした教え方は、純粋な宗教精神からすると、実に困った、誤った説き方なのです。こうした説き方が、「新しい宗教である」と思われたり、「宗教的祈りである」と思わせたり、「科学的宗教」と言って「宗教の一つの説き方である」と思わせたら、真の宗教精神から、人間を功利的精神に引き下げてしまうことになって、宗教の堕落になってしまうのです。
 想念の力ということと、祈りということとは、まるで違うことなのです。想念の力ということは、精神科学であって、宗教ではありません。想念の力と祈りとを混同して、共に宗教の分野に置くことはできません。


◇祈りと念力の相違 B◇ 「白光への道<祈りと念力の相違>」

 宗教心の祈りの心は、想念の世界、つまり業因縁の渦巻く三界を超えた働きになるのです。想念の力(念力)のように、業因縁の世界の幸不幸を問題にするのではなく、真実の世界、神仏の世界に到達して、真実の人間の姿(仏、菩薩)を顕し得る心の働きとなるのです。いいかえますと、祈りとは、自己の本体、直霊(神)に合体する為のものであり、念力とは相対的世界、肉体界、幽界、霊界の三界に働く想念の力であります。
 祈りは、自己の想念の力をすっかり神様にお返しして、お任せして、空になってしまった心境であり、念力は、自己の想念の力を他に働きかけて、自己の想い通りに相手を動かそうとする心であり、業因縁の執着する心、把われの心であります。
 こうしたことを認識せず、祈りと念力とを、同じと思わせるような説き方をすることは、宗教への冒涜であります。

図解



◇祈りと念力の相違 C◇   「白光への道<祈りと念力の相違>」


 宗教は人間の心から執着を放して、自由自在な心、神と等しい無礙の心にさせる教えでありますが、念力は執着の心であって、これを強めるということは、執着力を強めるということになるのです。
 お互いが念力を強め合ったら、次第に力と力の争いになってゆきます。昔の行者は、念力による試合のようなことを、よくやっていたようでありまして、滝の水を止めたり、石を念力で持ち上げたり、降ろしたりして、闘ったようです。
 こんなことは、何ら宗教とは関係のないことで、只単なる力の錬磨というにすぎないのです。従って、念力では人類の平和、世界の平和はおろか、一人の人間の真実の平和を築きあげることもできないのです。
 念力の世界には闘争や不和がありますが、祈りの世界には闘争も不和もないのです。もしあったとすれば、それは過去の誤った想念行為の消えてゆく姿として起こっているだけなので、その祈りをつづけてゆけば、やがて不調和な姿は無くなってしまうのです。
 ですから、宗教者が、祈りと念力の相違を認識せず説くことは、信者を外道(誤てる道)に引きずってゆくことになるのです。
 まして、「無くてならぬ物は、必ず与えられる」とか「念じても与えられぬ物は、神がその人に必要でないと思われるからだ」とかいうことを付け加えているのは、宗教者としての大きな矛盾であります。よくよく気をつけなければいけないと思います。


◇祈りと念力の相違 D◇  「白光への道<祈りと念力の相違>」

 「無くてならぬ物は、必ず与えられる」
これが真理なのです。無くてならぬ物は与えられるのですから、何も殊更念力を使って物を引き寄せることはないのです。すべて神様にお任せする心境になって、大きな祈り、根本的祈りの、世界人類の平和、日本の平和の祈りをなし、自己や家族の天命の完うされることを祈った方が、余程秀れた行為だと思います。
 自己の真の幸福は、常に世界人類平和の中に、そして天命が完うされる中にあるのであって、その場その時の幸福を招き寄せようとする念力などは、問題にならぬほど低い願いであるのです。それは或る時は、「恐怖の別名である」と言うこともできるのです。
「無くてならぬ物は必ず与えられる」
この真理を深く信念づけてゆくべきです。それが神を信ずることになるのです。神〈直霊、本体)から現象知覚に判らぬうちに生み出され、育てられてきた自分たちが、なぜ己れを生み出し、育ててきたものを信ずることが出来ぬのでしょう。実に不思議に思えるのです。太陽は、空気は、すべて自然(じねん)と己れに与えられているのです。肉体人間がいかに思念しようと、働こうと、太陽を作ることはできないのです。
 しかし、自己の本体の中には、太陽を初め、すべての物を生み出す力があるのです。ですから、一度無力に近い人間の力を捨てきって、本体(神)の力にすべてを委ね、任せてゆく祈りをすることを、先ず第一にしなければならないのです。
 人間の想いが、恐怖なく、欲望なく、恨みなく、妬みなく、怒りなく、猜疑なく、何にも把われない、というならば、祈りすら必要ないのですが、現象人間には、必ずこのうちのどの想いかがあるのです。
 そこでどうしても、この把われを放つために、本体(神)と一体になる祈りが必要となってくるのであり、最も大事な人間の行為になってくるのです。
 人間が相対的力によって、自己の物を獲得するのではなく、祈りによって、自然に自己の世界が作られてゆくようにならなければ、真の人類平和は来ないのです。祈りによって生まれ出るすべての力こそ、相対的の力を超えた絶対力になるので、これはもはや、力と呼ぶより、自然法爾とでも呼ぷより他に呼びようのない絶対の現れになってくるのです。そうした生き方をしている人は、現在の世界にもかなりあるのですから、誰にでもできる生き方なのです。それが信仰なのであり、宗教心なのであります。


◇祈りと念力の相違 E◇  「白光への道<祈りと念力の相違>」

 信念ということも、本体の力を信ずる念い、自己の真実の力や運命を信ずる念い、いいかえれば、神を信ずる想念(おもい)にならなければ、真の信念とは言えないのです。絶対力(神、本体、直霊)から自然に湧き出てくる力ではなく、その場、その時の力みや自分勝手な想念の力を、信念の力と誤解してしまうのは、真の信仰心のない人たちがやるこ
となのです。
 真の信仰心とは、信念の力とか想念の力とか、そうした言葉から入ってくるのではなく、純粋認識的、純粋行為的に、自己の心に湧き上がり、行動となってゆくものなのです。真の信仰心とは、不退転の力として現れるものであり、意気張らず、強がらず、素直に、なんでもなさそうに、自然に、愛と真の行為として現れるものなのです。
 それが真の祈りの大効果なのであります。信念の力とか、想念の力とかいう言葉に出たり、思ってみたりする時は、もうすでに宗教心から一歩後退している、ということになるのです。


◇祈りと念力の相違 F◇ 「白光への道<祈りと念力の相違>」

 くりかえして申しますが、念力というのは我であって、念力を強めて、自己の望みを遂げようということは、ついには戦いの姿になってゆきます。何故なれば、お互いが念力を強め合って、お互いの望みを遂げ合おうとする場合には、必ず、弱肉強食のような不調和な世界が出来てしまうからです。
 そして、その人たちは常に念力を強める努力をしていなければならぬので、いつも少しもゆとりのない緊張した心の状態でいなければなりません。「油断をすれば、或いは一つ目的を想いつづけなければ、自己の望みが遂げられなくなる」ということになり、落伍者となってゆくわけになるからです。
 もし、すべての人たちが、この想念の力ということを認識して、想念の力を強め合う時のことを考えてごらんなさい。想念の力の弱い者は、常に敗北者の憂き目をみているということになり、昔の武力の変形ということになってくるのは必然です。
 或る時は想念の力で利益を得ても、それは神に任せた心境ではなく、あくまで現象人間の自力なのですから、想念力の衰えた時には、悲惨な境遇に陥らぬとは限らぬのです。これでは魂の向上にも、悟りにも、少しも関係のないことになるのです。ですから私は、「宗教家があまり想念の力をとやかく言って宣伝することは邪道である」と言うのです。
 人類は真の祈りなくしては、永劫に救われない者なのです。「自己の本体の神なることを信ぜよ。そして祈り、そして起て」と私は強く叫ぶものなのです。


◇思念の力で平和はできない◇  「天命を信じて人事を尽くせ P198」

 生長の家では、世界平和思念連盟というのを作って、世界平和を祈るのだというのですが、生長の家の機関紙に書いてあることは、思念の力、想いの力を利用して、世界平和を祈るんだ、と書いてある。
 想いの力、思念の力というのは、力むことですよ。「世界人類が平和、世界人類が…」って力むんですね。力んだことは届かないのです。その人の力より出ないのです。その人の想いの力というのには限度がある。いくらも上がっていかない。人間が平和を望む想いより、悪魔の想い、業想念のほうが強いです。
「世界平和、世界平和…」と想いの力を一所懸命こらしたとしても、そんなのは神様に届きません。それは思念の力といって、間違いなのです。思念の力では、世界平和に絶対にならない。
 業想念で力んで、「世界人類が平和で、世界人類が平和で…」とやるんじゃないんですよ。ふんわりと世界人類の平和の祈りの中に、自分の業想念を持っていってしまう。そうすると、ピューツと消えて光になってしまう。光の中に入って溶けちゃうんだからね。
 業の想いで、いくら「世界人類の平和…」なんて言ったって駄目なのですよ。私の教えというのは、そんなのじゃない。「息張れ!」と言うんじゃないです。息張って「世界人類が平和で…」 「消えてゆく、消えてゆく…」なんてそんなのじゃないですよ。「消えてゆく!」なんて頑張るんじゃないです。それを間違えている人があるけどね。
 消えてゆくのは、勝手に消えてゆくんですよ。こっちが「消えてゆく、消えてゆく」なんて言わなくたって、消えてゆくの。
 消してくれるのは何かというと、守護霊守護神が消してくれているんですよ。消えてゆくに決まっているんだから、だから「守護霊さん守護神さん、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」と言って自分の想いをただ光の中に、神様の中に投げ入れれば、自然に消えてゆくんですよ。
 殊更に「消えてゆく、消えてゆく、消してしまわなければ、消えちゃわなきゃ…」と言うのは駄目です。我(が)ですよ。よく間違えるんですよ。
                                                   (完)



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