過去ログ道場トップ森島恒吉先生☆執筆編集録[目次]世界平和の祈りが唯一の行[目次]心の法則への批判
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【法話抄】 心の法則への批判
五井昌久 著
森島恒吉 編

◇心の法則は危険◇    「神と人間 P38」

 「人間の世界は、思う通りになる世界である」という念の法則、「悪を想えば悪を生じ、善を想えば善を生ず」という心の法則を、人を責め裁くことにのみ使っている人々が、宗教や修養をやっている人たちに非常に多数ある。
 私は、これは非常に困ったことだ、と思うのである。
 幽界や霊界においては、その想念は直ちに現れ、その念は、すぐに自分自身に返ってくるので、どういう念が、どういうふうに自分に返るかが体験としてわかるのであるが、それでさえも、なかなかその業因縁の念を消すことができがたいのである。
 まして、非常に粗い波の体を持つ肉体世界の人間の、しかも、その人間と相手の間にある業因縁の種類さえも知らず、ただ単に一般論の心の法則だけを利用して、指導しようとすることは実に危険なことであって、かえって相手の進化を妨げ、浄化を乱すことになるのである。


◇心の法則の欠陥例◇   「神と人間 P46」

 想うことは必ず現れる。この法則を知っただけでも、知らぬ人よりは進歩が早く運命改善ができやすいが、これを逆に応用し、反対に考えると、かえってその人自身や人を傷つけ、痛めてしまう。
 想ったことは必ず為れる。この言葉を真剣に考えている人で、「自分は恐怖心が非常に強い。自分のように恐れる心の多い者は、この心の法則の通り、必ず恐れる事態が起こるに違いない。恐れることはみな来るのだ」とその法則を知ったことが、かえって仇となって、日夜恐れつづけている人がある。
 また或る人は、他人のために常に真剣になって心配苦労し、そのためいつも貧乏している人に向かって、「あなたは貧乏したい心があるから、いつも貧乏しているのですよ。富む心を起こしなさい。あなたが貧しい心があるから、貧しい人ばかり側に寄ってくるのですよ」と説教した。このため、この人は善事をなすことに対して、大きな疑いを抱き、それ以来、愛行が乱れていった。
 これらの例に見られるように、心の法則(因縁)だけ思ったり、説いたりすると、実に間違った逆効果になりやすい。
 「あの人は、あんな心を持っていたから、あんなになったんだ」式に、なんでも悪く現れいる場合は、その人の心にその悪い原因があるんだと、決めつけられたり、決めつけたりしていたら、まことに愛も情もない人生になってしまう。法則を知ったために、人を傷つけたり、自分を痛めたりするのは、神の本性を知らない、無知から起こるのである。


◇求めよさらば与えられん◇   「宗教と平和P128」

 「求めよ、さらば与えられん」とはキリストの言葉ですが、実に求める者にのみ与えられるのは、事実なのであります。しかし、このキリストの言葉は、精神的な希求を言っているのであって、物質的な求めを言っているわけではありません。
 近頃の精神的科学的宗教の言葉にも、「思う通りになる世界」という言葉があります。これも真理の言葉です。だがこの言葉には、いささかの危険性が伴うのです。
 それはどういうわけかと申しますと、確かにこの世界は、思う通りになる世界であり、自分たちの環境は、自分たちの想念行為によって作り上げたものであるのですが、これは過去世からの想念行為というものが大きく作用して、それに加えた今生の想念行為ということになるのです。
 これを「現在の想念の持ち方で、自分の環境がすぐさまにも変わってくる」ものと、思いがちになったり、思う通りになるというので、物質的欲望の念力になってしまったりするのです。
 またその逆に、「一度思ったことは、必ず実現する」ものと、恐怖の念を抱いてしまって、かえって自分の想念に、自分みずからを縛りつけてしまったりしている人たちもあるのです。
 「求めよ、さらば与えられん」という常葉には、物資的な匂いはあまり感じられませんが、「思う通りになる世界」という言葉には、物質的なものも大分に含まっている感じがいたしますし、東際にそういう意図で言われている言葉であるのです。
 宗教の言葉というものには、やはり物質的なものが含まれていないほうが本物だと思いますし、「真実に神だけを求めていたら、その人に必要な物質的環境は、必ず与えられるものである」ことは、私自身をはじめ、多くの人々の体験しているところであります。


◇「思う通りになる」教えは、神のみ心ではない◇ 「宗教と平和 P138」

 全く人間の世界は、思う通りになる世界なのです。これは真理なのです。しかし、人間の想いというものは、自分勝手なものですから、どんな自分勝手なことを思うかわかりません。お互いが自分勝手なことを思い合って、それが全部思う通りになるとしたら、一体どうなるでしょうか? 神のみ心の愛と平和の世界が開けてくるでしょうか?
 誰しも、「否」と言わざるを得ません。ところが実際には、そのようになって、現在の不安混迷した人類世界になってしまっているのです。個人も国家民族も、お互いの都合のよい想念で事を処していたので、利害が相反する場合には、その想念が種々とぶつかり合い、反発し合って、想いの世界の波をすっかり乱してしまい、今日のような争いに満ちた人類世界にしてしまったのであります。自分勝手な不調和な状態が、この世界に現出しているのは、「思う通りになる世界」という言葉の通りなのであります。
 人間が神のみ心を離れた、お互いの都合による、思う通りになる世界を作ったのでは、人類世界はついには滅亡してしまいます。そこで、「思う通りになる世界」とか、「信念の魔術」とかいう精神科学的な教えで、それがあたかも「新しい宗教の道である」かのような宣伝を、宗教者がしていたとするならば、これはやはり、神のみ心にかなった方法とは言いがたいのであります。
 そうした教えは、神と人間とをつなぐ道ではなくして、人間の「業想念世界の成功、不成功」に、人の想いを止めて置くような仕儀になってしまいます。
 そこで私は、「思う通りになる」という真理を活用して、神様のみ心の中に、自己のすべての想念を投入してしまって、「神様のみ心の通りが自己に現れてくる」ようにする方法を、実行し始めたのです。「思う通りになる」と申しますのは、そのままでは宗教の世界の教えではなく、「業想念の三界の世界の教え」ですから、その「思う通り」を、「神のみ心の通りに」とまでしてゆかなければ、神の世界、宇宙大自然の神秘な世界の中に入ってゆくことはできないのです。業想念にわずらわされぬ人間生命の素直な、完全な生き方をするためには、どうしても、一度は素直に神のみ心の中に入り切らなければだめなのです。
 私のいう世界平和の折りは、こうした原理から出発しているのです。すべての業想念は消えてゆく姿として、「人間の勝手気侭な思う通りになる世界」を全否定してしまって、その全否定の消えてゆく姿を、世界平和の祈りという祈り心の中に全託してしまうことなのです。
 神のみ心を離れた人間の想念行為はど、頼りのないものはありません。よほど立派な人でない限り、自分や自分の愛情のつながりの人たちの利益を、主にして考えるに決まっているのです。ですから、そうした肉体人間想念を、さらりと神様に全託してしまって、神様のほうから人類の全生活を頂き直したほうが、智慧のある生き方なのです。
 神様とつながり切った人間が、悪い環境を抜け出せぬはずがありません。私はその体験者なのですから、間違いありません。しかし、神様に託せきるにしても、神様を自分の心で把握することができにくいので、神様の大愛による人類救済の世界平和の祈りの中に、自己の全想念、全生活を全託してしまう生き方を、私は勧めているのであります。

図解



◇心の法則では救われない◇  「宗教問答 P22」

「現象はすべて心の影」という心の法則論は、昔から言われている因縁因果のことで、業(カルマ)の流転のことです。それを新しい言葉で、実相論に並べて現象論として説いたところが生長の家なので、これはどう言おうと、これ以上に説くことも、変えることも、生長の家としては、今ではできなくなっているのです。
 「これだけでは、到底真実の救いに入ることが出来ない」と私は思ったのです。これでは、入門二三年は、実相論で心がクルリと変わって、ちょっとした救われに入る人があるでしょうが、年が経ってゆくうちに、頭の鋭い人や良心的な人なら、この教団の教えや、教団の講師諸氏の教えと実生活(実際行動)との差異の甚だしさがわかってきたり、教えの中の矛盾に突き当たったりして、悩んできますし、頭のあまり秀でぬ人たちは、偽善的な生活に気づかず、「人間神の子円満完全」と、自己の魂の在り場所も知らずに、他人の欠点を裁いたりして得意になっているでしょう。
 この事は、私が講師として生長の家教団にいて、はっきり確認し、自己も味わった生活であるのですから、間違いありません。神様は私にわかりやすく、行じやすい真理を説かせるために、各教団の勉強をさせたものなのです。
 そこで今度は、私が神様から説くことを命ぜられている教えの説明を、改めて致しましょう。(中略)
 生長の家と私の教えとの相違点を一言にしていえば、生長の家は、最初に頭ごなしに、「人間の実相は、完全円満で、悪も不幸も無い。肉体も物質も無い。だから病気も無い」という素晴らしい真理の言葉で、読者や信者に喝をくわせて、この現象界を問題にせぬ立派な態度を見せながら、今度は現象に現れた不幸や病気を、因縁因果説、心の法則に落としてきて、「あなたの心が間違っているから、そうした不幸や病気が現れるのだ」とその人々の心の迷いのなせる業(わざ)だ、と改めて、人間の悪や迷い、つまり業をはっきりと認めている二元論なのです。
 初めの一二年は、法華経(実相論)の喝の効き目で病気が治り、家庭が調和したりするのですが、しばらくたって、その教えの矛盾、つまり「完全円満の実相人間から、どうして迷いの多い人間が出来てきたのであろう」ということに気づき始め、時折、現れた実相が、次第に現象の心の分析の影に隠れてしまって、「人間は本来完全円満である」という真理を知っていることが、かえって自己を責め裁く、という反対現象を起こしてくるのです。それは、実相と現象をつなぐ梯子がないのに、現象の迷妄の中に喘ぐ人々に、「実相はここだ、昇って来い」と高い理念の世界から呼びかけてくるので、「いち早くそこ迄昇ろう」と焦り悶えて、現象の自己の力弱さ、低さを嘆き哀しむか、あるいは自己を欺瞞してしまうかしてしまうのです。
 私はそこに「守護霊、守護神」という梯子をかけ、実相と現象を一本につなぎ、一元的にして、「現象無し」というところを、「病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿。消えてゆくに従って、人間の本心(実相)が現れてくるのだ」と分析の代わりに、「消える」という言葉で、業生(カルマ)の幕を開いてゆくのです。こうすると、虚勢を張らぬ裸のままで、素直に自分を赦し、人を赦して、伸びやかなおおらかな生活が出来てくるのです。
 要するに、迷いの想念を分析的に使わず、一直線に守護霊、守護神、直霊(本心)の方に、感謝全託の想念として、振りかえてしまわせる教えなのです。ですから私の教えには、「私が悪い」も「あなたが悪い」も無く、「悪いものはすべて、過去世からの業(因縁因果)の消えてゆく姿」となり、「在るものは、法華経や華厳経の説く、光明燦然たる実相身、み仏ばかり」ということになるのであって、そうした本質の世界が次第に現れてくることになるのであります。


◇心の法則は一切いらない◇  「天命を信じて人事を尽くせ P50」

「人間は神の子なんだ.光明燦然としているもんだ。悪は無いんだ」なんて言ったらば、「お前の心は悪い。心の影だよ」なんて心の法則は、一切いらないんです。
 それがあったら、人間は神の子でなくなって、悪魔の子に下がってゆくのですよ。生長の家ばかりではありません。どの宗教もそうです。「お前は神の子なんだ。光明燦然としているんだ」と教えていながら、「お前が悪い」と言うんです。「お前が悪い」というのは、一切いらないんです。「お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、すべてみんな過去世の因縁が現れ消えてゆく姿で、その人その人は悪くないんだ」という観方をしませんと、本当の人間世界は幸福になりません。


◇心の法則は人を責め裁く◇  「私に荷物を預けなさい P62」

「この世は想いの世界だから、あなたの思う通りの世界が出てくるんだ。あなたが、これはできると思えば、できるんだ。できないと思うから、できないんだ」「お前さんの中に、痛む心があるから、痛むのだ」「お前さんの中に貧乏な心があるから、貧乏になるんだ」とこうやる。これは生長の家ばかりではありません。他の教団も、「あなたの因縁ですよ」とやっています。
 これは始末に困るのです。たとえば、病気になる。そうすると、「私の心のどこが悪いのかしら? 私のこの病気の原因はどこだろう?」と探り始める。
 私ならば、「病気が現れたら消えてゆく姿だ、これで良くなるんだ」とやるでしょう。さっぱりしますね。それを、消えてゆこうとする想いを追いかけて、原因を追求しようとするのです。「私はどうして肺病になったのかしら?私、狭い心があったのかしら?」とやる。まだ自分を追いかけているうちは、いいんだ。今度は人をやっつけることになるのです。「人間は神の子」になかなかなりにくい。そこで心の法則のほうを取るのです。


◇心の法則は神示ではない◇ 「私に荷物を預けなさい P68」

 生長の家と似る似ていて全然違う。どこが違うかというと、私のは慈愛一本槍なのです。誰も責めようと思わない。責めるところが一つもない。初めから、みんな赦してやろうとかかっている。生長の家の教えには、赦しというのがない。
 初めは神示として、「人間神の子、完全円満」というのが出てきた。後の心の法則というのは、精神科学(メンタルサイエンス)、クリスチャンサイエンスなどを、谷口さんが英語で読んで、それを翻訳して自分のものにして書いたものです。
 それは神示ではないんです。


◇悪が無いなら心の法則も無いはず◇  「私に荷物を預けなさい P112」

 生長の家は、実に言葉巧みにやっているけれども、本当に突き詰めてゆくと、おかしなものが出来上がってくる。
 完全円満だったら、悪は無いんだったら、心の法則も無いんです。「お前が思うから、こうなる」というのも無いんです。そういうのは、みんな消えてゆく姿。あるものは神の子だけ。あるものは、大神様だけ。
 今までは知識的、学問的宗教があったけれど、また原始にかえって、古代にかえって、ただ直線的に、「神様!」って神様の中に入ってゆく生き方が一番いいです。「神様」だけでやれる人は、「神様」だけでいいんですよ。「守護霊守護神」でいい人は、「守護霊守護神」でいい。「五井先生」でいい人は、「五井先生」でいい。
 なんでもいいです。なんでもいいけれど、想いを神様の中へ入れてしまうということ。想いが上へ入って行っちゃう。そうすると、上から下へスッと光が突き抜けます。天地がつながります。


◇心の法則の欠陥例 恐れるものはみな来る◇ 「明るい心 P152」

 「恐れるものはみな来る」という心の法則があるんですね。精神科学(メンタルサイエンス)です.「おまえが恐れるから、恐れるものが来るんだ」 「おまえが病気を恐れるから、病気するんだ」「あんた臆病だから、そうなるんだ」と言われたら、気の弱い人はますます臆病になってくる。「あっ、私はまた恐れた!また何か来やしないか? また恐れた! また何か来やしないか?・・・」とあべこべになっちゃった。
 本当は「この人を良くしてやろう」と思って言っているんだけど、智慧が足りないばっかりに、気の弱い人をおぴやかすものだから、ますます気が弱くなっちゃって、「自分は駄目、自分は駄目」と小さくなってしまう。



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