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    光明思想徹底比較7.(白光と生長の家)

             ―― 「白光への道」 (光明思想ということ)P144〜P158
                                             (前略)

   
【私の光明思想は、すべてを世界平和の祈りの中に入れてしまう】

 光明思想というのはどういうものかと申しますと、「人間は神の子である」 として、すべての悪や不幸や不調和を「大神様(救世の大光明)」の中に、消えてゆく姿として投げ込んでしまう方法なのです。いかなる悪も不幸も不調和も、因縁因果という言葉も罪の子という意識も、すべて一度つかんだら、そのつかんだ想念ごと、消えてゆく姿として、「守護の神霊」への感謝の想いとともに、「世界平和の祈り」の中に入れてしまうのです。そうすると、いやでも応でもやがては、神の子本来の姿が、その人の生活環境の中に現れてくるのです。これは絶対の真理なのです。やさしい全託、空の境地の実現なのです。

   
【谷口雅春師の光明思想の致命的欠陥】

 光明思想の日本における、はっきりした現れ方は、生長の家によってなされたのです。教祖谷口雅春師が「生命の実相」という著書によって、東西の光明思想を自己のものとして、日本の光明思想の確立がなされたのです。これは実に偉大なことであって、谷口雅春師は宗教史上に永劫に名を止めることと思います。
 しかし、谷口師にとって全く致命的な欠陥は、著書をあまりにも多く出しすぎたことにあるのです。次々と著書を出さねばならなかったため、つい種々の「外国書の翻訳」などから横道にそれてゆき、昔からの仏教思想の因縁因果の業生世界の分析のところに戻ってきてしまったのであります。それが 「精神分析」 の教えであり、「心の法則」 の教えとなって、光明思想の面からは教えが逸脱してしまっていったのでした。私はこれは実に惜しいことであると思っていましたが、それもやはり神様のお仕組みの一つであろうと思われます。というのは、その後に私が現されまして、徹底して光明思想を人々に伝えることになったからです。

   
【光明思想は、徹底的に悪をつかんではいけない】

 光明思想というからには、徹底的に悪をつかんではいけないのです。自分の悪も人の悪も、それはみんな、神の子の姿が現されるための過去世からの因縁の消えてゆく姿なのであって、「自分の心が悪いから」 と、いちいち自分の心をせんさくし、精神分析して、自分を痛め傷つけるのは、自分の業因縁に自分の想いを縛りつけておくようなものなのです。
 肉体人間というものは、どのように修養しても、何かしらの不完全不調和の箇所があるもので、いちいち自分の欠点を自分で引き出して、「自分で直す」 ということは、容易なことではないのです。そういうやり方は、宗教ではなくて修養なのです。宗教と修養とは違うのです。修養というものは結構ですし、たゆみない修養は必要なのですが、修養はいつまでたっても修養であって、神我一体の境地になるのには、修養だけでは到底なれるものではないのです。

   
【世界平和の祈りという目標の中で消えてゆく姿となる】

 神我一体になるのには、やはり、「人間は神の子である」 ということをみずから体覚する道に入ることより仕方がないのです。
 人間の運命環境は自分の過去世からの想念行為できまってくるのですが、「人間は神の子なのだ、光の子なのだ」 という観念の下に、そこから全生活をやりなおさないと、因縁因果の波の世界、心の法則の波の世界を脱け出ることはできないのです。そこで、宗教指導者という者が必要になってくるので、信徒たちに「一つの目標」 を持たせ、その目標の中に、知らぬうちに、その人たちの全生活が融けこんでしまうようにしなければならぬのです。その人たちが、今日まで掴んでいた因縁因果の波、善悪、幸不幸の想念というものを、常にその 「目標」 の中に入れてしまっている、という日常生活をしていると、その人たちの業想念の波が、その 「目標」の中で消えてゆく姿となってしまうのです。その「目標」が 「世界平和の祈り」 なのです。
  (中略)

  
【世界平和の祈りの他に何の足し増しもいらない】

 すべての生活を投入でき、しかも他との調和も崩さない、という一大目標は、どうしても全人類等しく願望している祈り言葉でなければなりません。そうしますと、その祈り言葉は、世界人類の平和を祈る祈り言葉より他にないことになります。個人の救われが同時に世界人類の救われを開く祈り、それが世界平和の祈り、ということになってくるのです。この世界平和の祈りの他に、何の足し増しがいるのでしょう。世界平和の祈りをやりながら一体、精神分析をやる必要がどこにあるでしょうか。因縁因果の波を把え、自己を責め人を裁く必要があるものでしょうか。精神分析も、因縁因果も、あれが悪い、これが悪いも、すべて、世界平和の祈りによって、救世の大光明の救済力にゆだねてしまうことより他に何の方法があるのでしょう。
 神はすべてのすべて、神は絶対智、絶対愛、大調和の大光明です。その神にゆだねても、まだ足りないものがあるとでも思っているのでしょうか。すべてを神の大愛にゆだねて、そこからおのずと展開されてゆく運命を、私たちは自己の天命と信じ、人類の天命と信じてゆくものなのです。神の大愛にゆだねていて、その人間に不幸があるわけがありません。人類の運命も全く同じことであります。神の大愛に全託したようにみせながら、まだいたずらに自己の我をつかって、相対的な敵や悪を見つけて、神のみ心と離れた、肉体人間的智慧才覚で動こうとしているようでは、光明思想とは言えなくなってくるのです。

   
【守護の神霊方は地球人類を守っておられる】

 そうした想念は、すべて消えてゆく姿です。虚しい動きです。私の霊覚には、守護の神霊が大挙して、この地球人類を守りつづけておられるのが、はっきり判るのです。そうした守護の神霊方は、「肉体人間的想念で動くな、敵を認めたり、悪や不幸を認めた立場に自分たちを置くな、そうした想念はすべて消えてゆく姿と想って、世界平和の祈りの大光明の中に投げこめ」と言っておられるのです。真実、神々は光り輝いて働いておられるのです。神というのは抽象的な言葉ではありません。神社仏閣におさまりかえっているものではありません。宇宙に生き生きとして活動しておられ、姿を現されれば、私たちと同じ人間の姿で現れられるのです。
 そうした神々が大光明として集って働いておられるのが、救世の大光明と私たちが呼んでいる大神の地球人類救済の力なのです。私は観念論的に神の大愛を説いているのではないのです。神の大愛を私は身にしみ、心にしみて知っているのです。神は人間に罰を与えることはありません。人間を責めることもありません。ただ、 「地球人類はまだ幼いなァ」と思っていられるのです。地球人類はまだ一人歩きのできる程成人してはいないのです。ヨタヨタしている見るからに危ないのです。大神様は危なくて見ておれないので、祖先の悟った人々を各国に見つけて、守護させておられ、それだけではまだ足りぬので、その上守護神をつけられているのです。
 しかし、現在では、その幼い子供が、成人した人なみに種々な科学兵器という道具を持って、お互いにその道具を見せびらかし合って、今にも打ち合いになりそうになっているのに、それを止める程力のある成人の国が存在しないので、守護の神霊を一つに集めた救世の大光明の力で、そういう幼い子供のいたずらを止め、一挙に成長させるための「光のエネルギー」 を、地救人類に送りこんできているのです。その光の柱、エネルギーの注入場所が、「世界平和の祈り」ということになっているのです。

   
【人類全体の欠陥の修正の方が大事】

 今日のように地球人類の最大危機になってまいりますと、個人個人の小さな欠陥の修正よりも、人学全体の欠陥の修正の方が大事なのです。
 ですから神様のみ心は、「個人個人の小さな心の傷はどうでもよいから、大きな傷の修正の方に各自の『精神エネルギー』を使ってくれ」というみ心で、世界平和の祈りによる、人類救済の道を開かせたのであります。
 そうして世界平和の祈りをやっていると、大きな傷の修正になると同時に、いつの間にか自己の心の傷も全快してしまっているのです。ですから、昔の宗教のように因縁因果にもっていったり、心の法則的に、自分や人の心を探り合ってみたりする必要はないのです。もはや精神分析的教え方は医学の部門であって、宗教者の部門ではなくなっているのです。今日までの業想念世界の中で、種々とあれこれと苦労し合っていた想念を、一挙に神の世界の光明の中に昇華させてしまって、一拳に 「神の子」 としての生活をしてゆくのが、私
の提唱している世界平和の祈りなのです。日本中が世界平和の祈り心で充ち充ちる日こそ、世界人類の平和が開かれる、真実の天戸開きの日なのです。
 (中略)

  
【光明思想家がなぜ大神様の大愛にすべてをゆだねないのか?】

 光明思想というのは、文字通り光明一念の思想であって、いささかの不安も対敵観があっても、その光明が汚れるのです。光明思想家が、何故大神様の大愛にすべてをゆだねまつってゆけないのでしょう。それは消えてゆく姿をやらないからなのです。ファシズムの台頭も共産主義の拡大も、すべて大神様のみ心の現れを促進させる消えてゆく姿であって、ひたすら 「世界平和の祈りの大光明」 を当ててやることだけでよいのです。それだけで満足しないで、肉体的業生的方法で、そうした思想を抑えようとしたら、明らかに、光明思想が共産思想や右翼思想と同等の立場に立ってしまって、相対的になってしまうのです。それでは折角の光明思想が、神のものではなくて、肉体人間的な思想に下落してしまうのであります。共産主義を光明思想と対立させていて、「私たちは敵を見ていない」 と言っても、それは単なる詭弁であって、真実の言葉として通用は致しません。

   
【すべてを世界平和の祈りの中に投げ入れよ】

 日本を真実大和の国として、霊 (ひ)の本の国として起ち上がらせたいならば、徹底的な光明思想、徹底した平和の国として、国内の対立の上に起たなければなりません。そうした実行をしていて日本という国が滅びるならば、この日本という国は地球上の国としてもはや使命は終わったと見るより仕方がないではありませんか。真理をそのまま行じて滅びるものなら、それも天命というのでありましょう。
 私に働き給う神々は 「日本は地球の中心の国、大調和、大平和の見本の国である。光明思想の普及に徹底し、いささかも相対的であってはならない。相対的なものはすべて消えてゆく姿として世界平和の祈りの中に投げ入れよ」 と言っているのです。

   
【私たち光明思想家は、世界平和の祈り一念の生活を行じよう】

 相対的な立場にみずからを引き下ろしながら、しかも 「相手も実相は神の子だから、主義を改めれば赦してやる」式の思想では、大神様のみ心とはあまりに距離のある、我の想いであると思います。そうしたことは、現象面の専門家の政治家諸氏に任せておくべきであって、宗教者はやはり真実の祈りを人々に知らせることに専念すべきであります。
 祈りが頼りにならなくて、実際行動で形づけようとするのでは、宗教者としては困ったものです。祈りに始まって祈りに終わる生活こそ、宗教者としての道であるのです。
 真実に世界平和の祈りを行じていると、不思議と相対的な感情想念は消えてゆくもので、自然法爾な動きができてくるものです。世界は今正に危急存亡の時なのです。それは共産主義がどうの、ファシズムがどうのいうことではなく、人類の潜在意識 (幽体)に積もり積もった業想念が、何らかの形を取って、自己破壊を遂げようとしているからなのです。 (中略) 単に共産主義を抑えたからといって、それで世界が平和になるものでもありません。その底に流れる人類の業想念が浄まりきらぬ限りは、この地球人類の平和は達成できません。
 金星の長老の言葉のように 「もし地球人類と殺し合わねばならぬようなことがあったら、自分は相手を殺さず、自分が死を選ぶであろう」 というような崇高な気持ちになるように、地球人類を浄めきらなければならないのが、宗教者の役目です。
 私たち光明思想家は、日々消えてゆく姿を行じながら、世界平和一念の生活を送りつづけてゆきたいと思います。こうした世界平和の祈りによる浄まりの中にこそ、真実の地球天国ができあがるのだと思います。すべての相対観念を超え、自己をも他をも貴め裁かぬ、祈り一念の日常生活を行じつづけてゆこうではありませんか。
 (完)

 (1992年11月1日  森島恒吉 編集)



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