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    光明思想徹底比較6.(白光と生長の家)

                            ――「続宗教問答」 P118〜P121

〔質問〕
 「私は目下罪悪の問題で混迷中です。生長の家では、『罪本来無しと悟れば罪無きなり』といっていますが、実際に過去一切の我々の罪悪が滅尽するのでしょうか? それとも観念論にすぎないのでしょうか? お教え下さい。」

   
【罪本来無しという悟りに至るのは難しい】

〔答〕
 「罪本来無しと悟る」ということは、□や筆では楽にいえますが、実際問題としては、なかなかどうして悟れるものではないのです。
 「罪本来無し」という悟りに至るためには、――
 「肉体身として、神のみ心を離れてあるように見える人間は、実は消えてゆく幻影のようなもので、実在しているものではないのだ。実在として在るのは、神そのものであり、神の光明の一筋一筋である神の子の生命があるのみだ。だから、肉体身として在る自己の全想念はすべて神のみ心の現れである、という体得がなければならないのだ」
  ―― というところまでこないと駄目なのです。
 ただいたずらに、「罪本来無し、肉体無し、病気無し」などと言っているのは、あなたの言うように観念論ということになるのです。深い真理を易しく説くことはよいのですが、あまりに、現実から飛躍してしまいますと、言葉としては易しく聞こえるが、実際としては手が届かなくて、その中間に立って、上にも下にも自己の居場所が無くなってしまうような心の状態になってしまうのです。

   
【罪本来無しということは真理だが、時間経過が必要】

「罪本来無し」ということは全く真理なのです。神の完全性の中から、不完全な人が生まれるわけがないからです。しかし、これはあくまで、「本来無し、本質として無い」ということでありまして、その本来性、本質が、この地球界に現れるためには、或るこの世的な時間経過が必要になってくるのです。
 現在の地球界の様相は、どうみても、「罪本来無し」の様相ではありません。罪も不幸も充満しているように見えます。こうした現在の姿は、いくら眼を閉じて見ないようにしようとしても、見えてくるし、聞こえてもくるわけです。
 自分自身の心の問題でも、その大小はありますけれど、同じように、完全な現れ方はしていないのです。そこで、どうしても、神の本質のすっかり現れきるまでの、想念の在り方、心の状態の在り方というのが間題になってくるのです。

   
【真理を自己に言い聞かせたところで、ごまかしているだけ】

「罪本来無し、病気無し、貧乏無し」といっても、自己の奥底の心からそう想わなければ、その罪も病気も貧乏も消えてはゆかないのです。いくら自己に言い聞かせたところで、単に自己の想念をごまかしているだけで、本質が開いてきているわけではないのです。そこで、真理を知ると、かえって自己の心が、知らない時以上に悩んだり苦しんだりしてしまうのです。「自分は駄目だ、自分にはできない」という具合にです。

   
【神の子の光明がすっかり現れきるまでの途中経過】

 私はこうした真理の道に入りきるまでの、人間の想念の経過を自己も体験して知っておりますので、神のみ心、神の本質、神の子の真実の姿が現れるまでの掛け橋として、「消えてゆく姿」という言葉を中にはさんだのであります。
 神のみ心は不完全なものでありようがないのだから、その分生命である神の子人間にも不完全な姿があるわけはない。しかし、この地球界に、神の子の光明がすっかり現れきるまでの途中経過としては、途中経過としての当然なことである、完成されていない現実が現れて出ているので、その不完全のように見える姿は、あくまで、神の子の完全性が現れるために、次第に不必要になってきている、あらゆる物事の消えてゆく姿なのだと説いているのであります。

   
【守護の神霊への加護を願って感謝しなさい】

 そして、その消えてゆく姿を、肉体的存在としての個人や人類を苦しませぬ消えてゆく姿にするためには、肉体人間として存在する以外の、神の光明のみ働きである守護の神霊への加護を願って、守護霊、守護神への感謝行の中に、すべての消えてゆく姿的物事事柄を投げ入れてしまえと、説くのです。その上、自己の想いとしても、人類の真実の姿である大調和した世界を築きあげる一役を買う、という実際の方法として、世界人類が平和でありますように、という、世界平和の祈りを、おすすめしているのであります。

   
【真理の言葉に把われず、世界平和の祈りの中に想念を入れなさい】

 この世界平和の祈りは、守護の神霊の大集団である救世の大光明の働きかけの場から働きかけてきている祈り言なのですから、この祈り言をやることによって、自己の想いも自然に世界人類の平和という大きな根本的な生き方につながってゆくし、実際的にも、救世の大光明の光が、自己の肉身の場を通して、世界中に広がってゆくので、個人と人類が同時に深まってゆき、その本質を現すのが楽にできるようになるのです。
 ですから、真理の言葉だけにつかまっていて、その真理の言葉に自由を失ってしまうようなことをしていないで、実際に神との交流が日常茶飯事の中でも行なわれる、世界平和の祈りのような祈り言の中に、あなたの想念を入れきって、世界平和の祈り言の中から、正しい日常生活、平常心是道の生活をしてゆけばよいと思います。
 どんなよい言葉でも、その言葉だけに把われていると、真理が消えてしまいます。何事何物にも把われぬ、生命の由由ということ、自由自在心というのが、悟りの根本のことなのですから、どうぞそのおつもりでご精進下さい。

(完)


(森島恒吉 編集)



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