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    光明思想徹底比較5.(白光と生長の家)

                            ――「続宗教問答 P53〜P60」 


〔質問〕
 「人間が神の子であり、神が完全円満ならば、なぜこの世に悪や不幸が生じたのでしょうか? なるべく詳しく易しくお教え下さい。」

〔答〕
 この間題は何度(なんたび)となく質問される間題ですが、非常に重要な問題ですから、また改めてなるべく詳しくお答え致しましょう。この間題がはっきりしないために、折角の宗教心を曇らせて、唯物論者になった人が、かなりあるのです。神が大愛であり、絶対者であるのに、何故人類の不幸をいち早く正しくしないのか、という問いもありますが、これは同質の間題ですから、このことも含めてお答えしてゆきましょう。

   
【私は全くの光明思想】

 この世の姿を見ておりますと、全く悪や不幸に充ちております。自己の利害のためなら、親兄弟をも退けうとんじ、恨み妬みさえします。まだ、民族間や国際関係においても、自民族、自国を守るためには、他民族や他国の損失など顧みる余裕のない行為をしている場合がたくさんあります。
 こうした姿を実在の人間だと見ている人々は、人間の性は悪なりとして、性悪説を唱えているのであります。この世の思想は、昔から性善説と性悪説とが入り乱れておりますが、両説ともに肯ずけるものをもっているのです。
 私はどちらかの説かと申せば、勿論性善説であり、しかも徹底した性善説、つまり、人間神の子説なのであります。人間神の子説にも種々の説き方があるようですが、私は徹頭徹尾、人間の性の善なることを認めて、いかなる悪も不幸も消えてゆく姿としているのであります。いわゆる全くの光明思想なのです。

   
【悪を把える中途半端な光明思想】

 他の宗教者の中には、折角人間神の子完全円満と説きながら、その口の下から、人間の心の悪を把えて、「おまえの心が悪い、おまえの心の影として病気になったり、不幸になったりしているのだから、おまえの心を直さなければいけない」 と神の子であるべき人間の心を責め裁いている向きもありますが、こうした神の子論光明思想は中途半端なもので、ある時は神の子になり、ある時は悪の子になってしまい、人間は果たして神の子なのか、悪の子なのかわからなくなり、ついには、人間は善悪混淆の子として、神と悪魔の両性の
子となってしまうのであります。
 その教えがいかに「悪は無いのだ、不幸は無いのだ、悪魔は無いのだ」と一方では説いていても、罪や不幸や悪を、人間の心として認めて、「おまえの心が悪いから相手が悪くなるのだ」という精神分析的な教え方をしているのでは、神の子であるべき人間の心に悪や不幸を認めていることになり、どちらが真実か一般大衆には判然としなくなるのです。
 そういう説き方を致しますと、神の子の中に悪があることになり、神は完全円満でも、善そのものでもなくなってきて、信者の心が、永遠の生命の輝き、からっと晴れわたった心境を、いつまでも続けてゆくことはできなくなってしまうのです。

   
【人間は神の子、悪はすべて消えてゆく姿】

 誰がなんて言おうと、神は完全円満性であり、人間は神の子であることは間違いのないことで、神の子である人間には、悪も不幸も病気もなく、悪い心も誤った心も、心の影という暗い影もないのであります。それほすべて消えてゆく姿であって、神の子としての人間の姿が、真実の姿をこの世に現すために、未完成の領分が次第に削りとられてゆく、削り屑のようなものであります。
 それは前にも申したことがありますが、彫刻のようなもので、神の子像という彫刻像が完成されてゆくに従って、種々な形の切り屑が、その辺に散らばってゆくようなものなのです。その切り屑を相手どって、「お前の心はこんなに悪い」 「私の心はこんなに醜い」などと、人を責め裁き、自己を責め裁いているのですから、今日までの宗教の在り方は、光明思想として不徹底で、人間神の子の真の生き方を教えていたというわけにはゆかなかったのです。
 ところが、実際の生活面、社会面或いは国際面においては、この切り屑的悪想念、悪行為が、どうにも善想念、善行為の邪魔をして、かえって、善行為や善想念が負けてしまいそうにさえ見えているのです。ですから、誰しも表題の問いが出したくなるのでしょう。
 ここで私の答えを一歩進めなければならなくなります。

   
【人間は永遠の生命】

 私は人間を、肉体人間だけとして説いてはいないのです。肉体人間というのは、永遠の生命である人間の、ほんの一部であるというのです。私はその真理を知識として知っているのではなく、霊覚で知り、実際体験として味わいつつあるのです。そこで私はいつも、「人間というものは面白いものだ、不思議なものだ」と思い続けているのです。こうした経験を直接的にあるいは間接的に知っている人は、私ばかりでなく、かなり多くあると思うのです。永遠の生命というのは、ただ単なる哲学的言葉ではなく、人間の世界に、真実のこととして使われる言葉なのであります。

   
【肉体人間だけならば、神の子ではあり得ない】

 人間が肉体人間としてだけで終わりならば、神が完全円満でも、人間が神の子でもあり得ません。神は不完全であって、悪魔と戦いながら、完全になろうと努めているもの、といわれても仕方がないし、人間は神に創られたまま、後は神はなんらの責任も持たず、人間のみにその責任が荷せられるということになって、人間は単なる神の被造物となり、人類の救われというものは永遠にあり得ないものとなります。

   
【一般の人々の心境では、永劫に戦の場】

 何故かと申しますと、肉体人間の一般の人々は自己保存の本能が主となっていて、「自己を守るためには他を倒す」という、動物と等しい行動をするものでありますので、常に利害の上において相対的である人類社会は、永劫に戦の場に立たされているということになるからです。
 ですから、今日までの人生観、世界観で進んでゆく限りは、やがてはこの地球界は滅亡してしまうことになるのですから、神の完全性、人間の神の子牲も真実のものではなくなってしまうのです。

   
【転倒妄想している地球人の思想行為】

 そこで、今日までの人生観、世界観を、ぐるりと一変せしめなければならぬことになってまいります。一変するといっても、真実をくつがえすというのではなく、釈尊のいわれている、転倒妄想している地球人の思想行為を、真実の思想行為に正す、ということなのであります。
 今日までの人生観、世界観は、逆さまの想念行為であったのです。どのように逆さまであったかといいますと、「真実の人間、真実の世界」 を 「無し」 として、ただ単に真実の人間の道具として、表現として現れている 「肉体」 というものを、「実在」 としていることと、やはり真実の世界の表現場所である 「形の世界」 を、「実在の世界」 と思いこんでいることであります。
 このように真理が、真理として認識されぬ間は、「人間が神の子であり、神が完全円満なのにこの世に悪や不幸があるのか」 という疑問が起こってくるのです。

   
【悪魔や悪が実在として有ると認める宗教思想】

「神の完全円満性を否定はしないが、悪魔や悪人が実在として有る」という宗教思想は、どうしても中途半端な思想で、「善と悪、神と悪魔」 というものを対立させて考えていることになるので、「人間世界に対立抗争の波は消え去ることはない」 ということで、 「神の完全性に対する不敬になる」 わけなのですが、相当な宗教者でも、つい、こうしたところが曖昧になってしまっているようです。
 神と悪魔を対立させて考えていながら、周囲の国々が皆軍備を持っているのに、「日本だけは軍備を持ってはいけない」 という考え方をしている宗教者がいますが、これはやはり半端な考え方で、日本が「軍備を持たぬ」 という考え方をするならば、その人々の心の中に「悪魔や悪」 という存在を、すっかり 「消えてゆく姿」 として、「神のみ宇宙唯一の存在者」 という絶対的な立場に自己を立たせなければなりません。

   
【悪魔や悪が無いと宣言して敵を認める宗教思想の矛盾】

 またその反対に、悪魔や悪を認めぬ 「神の完全円満性」 を宣言しながら、それでいて、自国を侵略してくる 「敵」 を認めて、「軍備」を持つことを唱導する宗教者がいるのですが、これもはっきりとした宗教思想の確立していない宗教者といわなければなりません。

   
【真理を知った時に、悪や不幸は消える】

 私は人間というものを、永遠の生命の具現者と観じていますし、神の完全円満性を確信し、人間神の子の真理を体覚致しておりますので、この世において現れる一切の悪魔的行為や不幸なる状態を、すべて、人間がこの地球界において、神の姿を顕現するための「過程」に起こる一変化として、現れればそのまま消えてゆく姿や行為としてみているのであります。また人間一個人としては、自己の生命がいかなる環境においても、そのまま神の子としての能力を出し得るための「修行過程」 として、悪や不幸のような姿が現れているのであって、悪や不幸がそのまま実際にそこにあるのではなく、「真理を知った時に、その悪や不幸は直ちに消え去ってゆくものである」 ことを強調しているのです。

   
【悪や不幸や病気は、神のみ心に入れれば消える】

 ですから、悪や不幸や病気を、「実在として掴んで放さない」うちは、悪や不幸や病気はいつまでもその人から 「消えない」 でしょうが、悪や不幸や病気を 「消えてゆく姿」として、そのまま 「神のみ心の中に入れ切ってしまう」人には、その時限り、そうしたマイナスの姿は 「なくなってしまう」 のです。
 質問の 「この世の悪や不幸」 ということは、人間の想念が、そうした波を 「把えている限りは消えない」 のであり、そうした波を 「神のみ心の中に投げ入れた」 人からは 「消え去ってしまう」 のでありますから、その人が真実に神のみ心に飛び込むか、飛び込まぬかによって、この問題が解決するわけなのであって、これは 「理論上の間題」 ではなく、「実際行為の上において答えの出る問題」 なのであります。

   
【個人だけでなく、全人類の間においても等しい】

 これは個人の間題ばかりではなく、国際間においても、全人類の間においても、等しい答えの出る問題なのです。
 そこで私は、この間題の答えを 「最もやさしい行為」 により、実際体験として、「多くの人々」 に認識させようとして、「消えてゆく姿」 の教えと、「世界平和の祈り」の実行を、皆様にお薦めしているのであります。
 こうした宗教的間題は、いくら巧緻な理論を展開しても、その理論が実際生活の上において「行ないにくい」ものであったら、これは一般大衆の上に広まってゆきません。一般大衆にできぬようなことは、現代の宗教としては、著しくその価値を下げることになります。今日では、「少数の偉人」 だけではどうにもならぬ時代になっているので、どうしても 「一般大衆の力」 というものの必要を痛切に感じるのであります。

  
【世界平和の祈りは、世界平和実現の方法】

 私の 「世界平和の祈り」は、少数の秀れた人々にもわかってもらえるし、一般大衆にもやさしく理解でき体得できる、「世界平和実現の方法」 なのであります。この世界平和の祈りをしていますと、いつの間にか、人間の本心が開発されてゆき、個生命の永遠性と、宇宙生命との結びつきとが、知らぬ間に体得されていって、日常生活における「不安が消え去ってゆく」 と共に、世界人類の 「業想念消滅」 の働きができているということになるのです。
 本心が開発され、個生命の永遠性、つまり人間は「永遠に死なないもので、種々な階層において生き続けてゆくもの」 であり、すべては 「神の慈愛のみ心によって、指導されてゆくもの」 であって、 「悪などというものは真実存在するものではない」 という真理がわかってくるのであります。
 それにはやはり、人間各自を守護し、人間の運命を指導しておられる、「守護の神霊の存在を信じること」 が大事なのであります。そして、そうした 「守護の神霊の一大集団」が 「救世の大光明」 として、世界平和を祈る人々、国々の上に輝きわたり、「地上天国実現の大きな役割を果たしておられるのである」 ことを、心に銘じて感謝することが大事なのであります。
(完)


(1992年10月28日 森島恒吉 編集)



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