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    光明思想徹底比較4.(白光と生長の家)

                            ――「宗教問答」 P222〜P225

〔質問〕
 「生長の家の教えとの相違点というご法話の中で、『生長の家の縦と横の二元論を私はすっぱりと縦一元に割り切ってしまったのです』と書かれていらっしゃいますが、先生は常に、『あなた方も縦と横との十字交叉の中心の器にならなければいけない』と説いておられるご説とは違うように思われますが、この点はどう考えたらよろしいでしょうか?」

   
【悪は無い、と言い切ったのに、悪を把えている】

〔答〕
 なかなかよいところに気づかれました。生長の家でいう縦と横ということは、縦は勿論「人間神の子完全円満」ということで、「悪も不幸も不完全な姿は無い」というわけですが、この縦の教えに対して、この横の教えというのが、業生の人間の「精神分析」的、「因縁因果の解剖分析」 でありまして、縦の教えで「無い」と言い切ったものを、横の教えで「把えて分析している」ので、折角「人間神の子」という明るい道を開いた効果を、一瞬にして暗い「業生」の面に引き下ろしてしまっているのであります。

   
【徹頭徹尾「神の子」で通さなければいけない】

「人間神の子」と言ったら徹頭徹尾「神の子」で通さなければいけません。これでは「神の子」になったり、「業生の人間」になったりして、どちらの教えを主にして生きてよいかわからなくなり、結局想い難い神の子より、業生の精神分析の方が興味があるので、その方に想いが向きがちになってしまうのですし、種々とごたごたとむずかしい問題が起こりやすいのです。そこで今度は、私が縦一元に割り切って、「神の子の人間」一本の教えにしたのであります。

   
【私の横の教えは、「分析」的ではなく「消えてゆく姿」】

 この世の中は、勿論縦の線と横の線があって存在しているのでありますから、私の教えも実は縦横の大調和を説いているのですが、私の横は生長の家の教えのように「分析」的ではなく、いわゆる「消えてゆく姿として、何ものにも何事にも想いを把えさせないようにしてあるので、横の教えと言いながらも、業生をつかんだ横でなく、縦の教えの光り輝く状態と同様になってまいるのです。

   
【消えてゆくに従って、神の子の本心が光り輝いてくる】

 ですから、ひとまず「消えてゆく姿」を、横の教えとして、――
 いかなる業想念(怒りや恨みや妬み等々)が出てこようと、どのような病気や不幸が出てこようと、みな過去世からの業想念の消えてゆく姿であって、消えてゆくに従って、縦の教えである、「人間神の子」の本心が光り輝いて出てくるのである。
 ――と説いているのですから、横の教えもやはり、「神の子人間しとしての人間を観じての教えなのであります。ですから、生長の家の横の教えと誤られないように、縦一元に割り切って、と言ったのであります。「消えてゆく姿」を横の教えとして、「消えてゆく姿なのだ」と説いた時には、もはやその横の線は、縦の線の光明の中に吸い込まれてしまっているので、その瞬間に縦横が大調和して、天地を通した円光になっているのであります。

   
【すべての想念は祈りの中に投入してしまう】

 消えてゆく姿という教えには、業生の人間を掴む姿はないので、業因縁を分析して、自己を責めたり、他を裁いたりする想いが一つもないのであります。
 もし、「消えてゆく姿だ」と思いながらも、自己を責め悔やみ、他を裁き怒る想念が出てきた時には、その想念も消えてゆく姿として、縦の教えである、「神の子人間、本心」の中に、あるいは「守護の神霊への感謝」の中に、もっと進んで、「世界平和の祈り」の中に投入してしまうのであります。
  徹底した消えてゆく姿として、すべては「祈り」の中に、「神の子人間」の中に自己を住まわせてしまうのです。
 こう考えますと、私の横の教えは、縦の教えと等しいものであるのですから、縦と横と言っても、縦一元と言っても、縦横調和の円光的教えと言っても、天地大調和の教えと言ってもよく、実在の世界をそのままこの現象面に現す教えとなっているのであります。

   
【縦横十字交叉の中心の器とは、空っぽな心で祈れる肉体人間】

 皆さんに「縦横十字交叉の中心の器になって貰いたい」というのは、「横の業生の世界に生活しながら、『消えてゆく姿』という言葉の乗り物に乗って、いつの間にか縦の『神の子人間』となるために、『素直に空っぽな心で祈れる肉体人間』、つまり、器になって貰いたい」ということで、私はすでに守護神の力によって、そうならされているのであります。

   
【縦横十字交叉とは、理想と現実の一致点】

「縦横の十字交叉」というのは、「理想と現実の一致点」とも言えるのですから、皆さんが、「天の理想(真理)を、肉体を持ったままでこの地上界に現す」ためにも、この「地上界の業生の姿、業因縁の波動」をすべて「消えてゆく姿」として、「十字交叉の中心点」、つまり、「中庸の姿」として生かし切って下さることを私は祈っているのです。

   
【一切責め裁かぬ愛と赦しの教えが必要】

 私は今日までの宗教があまりにも、「人を責め裁いてはいけない」と説きながらも、その教理が自然と自他を責め裁かずにはいられぬようになっているのを、常に「これではいけない、教理にも実際の生活の面にでも、一切責め裁かぬ愛と赦しの教えが必要だ」と痛切に思っていたのでしたが、ついに現在の教えのような、「消えてゆく姿」と、「守護の神霊の加護による救われ」を、私の体験を通して説き始めたのであります。

   
【肉体の自己を凡愚なりと捨てきらぬと、真実の神の子は現れない】

 宗教者はともすると、神から道を説かされていることを忘れて、肉体人間の自己が道を説いているように錯覚しがちで、自己を一般人の上位に置こうとするのであります。私はすでに 「肉体人間としての自己は凡愚なものである」と、すっかり守護神の中に捨て切って、捨て切ったところから、「縦横十字交叉の中心点」に器として、場所として立たされているのであります。
 人間は一度肉体の自己を 「凡愚なり」と捨て切らぬと、いつまでも小智才覚が残っていて、「真実の神の子」の姿を現し得ません。自己の言葉に、自己の知識や力を喧伝したい想いがあってはならないのです。私の役目は「凡愚」と自己を捨て切ったところから、「守護神方の力によってなされている」ことをご承知下さい。
 私の教えは、「浄土門的易業道」として、法華経を説き神道を説く立場にあり、今日ではやさしく出来る「世界平和の祈り」にすべての教えを集中しているのであります。
 (完)

(1992年10月27日  森島恒吉 編集)



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