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    光明思想徹底比較3.(白光と生長の家)

                            ――「宗教問答」 P187〜P191

〔質問〕
 「人間の実相は完全円満だから、人間の悪を見てはいけない、すべての人間を神の子として拝まなければいけない、という教えがあります。この教えは本当に善い教えだと思いますが、実際やってみようとすると、どうしても中途半端になってしまって、人にだまされたり、かえって人に憎まれたりしてしまうのですが、先生はこの教えをどうお考えになりますか?」

   
【神の子として拝め、という導き方を私はしていない】

〔答〕
 私も根本的には善い教えだと思います。この教えの根本は人間の理想であり、天の心そのものであり、神の子の心そのままのものであるので、人間は本来そうしたものであるのです。そうしたものというのは、「悪を見てはいけない、拝まなければいけない」などというように「いけない」というような言葉がついているものではなく、お互いが、善そのもの、真そのもの、美そのものであるということであります。
 そこで、「いけない」などというような言葉をつけてしまうと、もう「人間は本来実相完全円満だ」という真理が死んでしまって、ただお説教だけがそこに残ってしまうのです。そこが、この教えの問題点となって、あなたのような質問が出てくる原因になるのです。私も「人間は神の分霊であって、神が完全円満であると同じように、本来は完全円満なのだ」と説いているのですが、かといって、この地上界の人間の悪を見ずに、「神の子として拝まなければいけない」などとそう何でもなさそうに神の子として誰も彼をも拝ませるような導き方はしていないのであります。
 何故そうしないかと申しますと、私はこの地上界、肉体界の人間の業生、業想念の波の層の容易ならぬ根深さを知っているからです。いと簡単に「人間の悪を見てはいけない、神の子として拝め」と言われてそう簡単に拝めるものではないので、そう教えている先生方さえ、その教えを実行し得ているとは言えない状態であるようです。

  
【だまされると、大半の人は非常に疑い深いひとになる】

 また、その教えを鵜呑みにして、相手を善と見て商業取引をして、相手に引っかかった人を私は多く知っております。引っかかっても 「ああこれで自分の業が一つ消えて行ったのだ」と想える人なら、すべてを善と見て引っかかっても、それが神の道への近道になるのでしょうから結構なことであり、そうした人は真実の神の子を体得している人なのであります。
 ところが、大半の人はそうではなく、そうした引っかかりができると、折角教わった「人間の実相は完全円満である」という真理に、その時から後ろ向きになってしまって、今度は非常に疑い深い人になってしまったりするのです。

   
【私はやたらに人を善と見ることを教えない】

 私はそのことを体験として充分知っていましたので、やたらに人を善と見ることを教えずに、――
 「人間には本心と業想念とがあって、本心の周りを業想念が取り囲んでいるので、人間は神の子でありながら、その神の子の本心が、業想念の波動を破って本来の光を放ち得ないでいるものなのだ、だから、やたらに人を信じてよいというものではない、やたらに人のいう通りに行動してよいというものでもない。その人々の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念の中に自己を引きずりこまれてしまってはいけない。・・・

   
【守護の神霊に感謝していれば、必ず知らせてくれる】

 ・・・そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、自分の先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常にその守護霊に光を送っている守護神さんとに常に想いを向けていて、つまり感謝の想いを送っていると、守護の神霊の側から、その人の心に向けて、その区別を直感的にか、他の人をもって知らせるかして、必ず知らせて下さるものである。もし、それでもだまされたり、引っかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁が、そこで消え去っていったもので、それも自己の本心を輝かすための必要なことであったのだ」
 ――というように説いているのあります。しかし、それよりも更によい方法は、「世界平和の祈りである」と説いているのです。

  
【業想念を無視した神の子論の教えには、一般人はついてはいけない】

「なんでもかんでも悪を見てはいけない」となりますと、他の人や、事柄を悪と見る度に、「自分は神の子でありながら、なんていつまでも悪い想いが無くならないのだ」というように、自分の心を責めさいなむ想いになったり、相手の悪を認める想いを充分に持ちながら、いかにも悪を見ぬように、自ら自分の心をだまして「相手の悪を見まい」とするのであります。これは偽善と言いまして、自己の心に不正直なやり方で、次第に潜在意識に自己に嘘つく想いがたまってしまって、それがついには習性のようになり、その人の人格的雰囲気が汚れてしまうのであります。
 肉体人間の業想念、つまり利害得失で動きやすい人間性というものを無視した神の子論、実相論には、どうしても無理があるので、自己を為るか、他を為るかしないと、一般の人々はそうした教えについてはいけないのです。

   
【完全円満と思おうとしなくとも、祈れば真善美なる人になる】

 そこで私の教義が生きてくるのであります。

 ――人間は本来神の分霊であって、業生ではなく、常に守護霊、守護神によって守られているものである。この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤てる想念が、その運命と現れて消えてゆく時に起こる姿である。いかなる苦悩といえど現れれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と今からよくなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくと共に、守護霊、守護神への感謝の心を常に想いつづけてゆけば、人間は真の救いを体得できるものである。――

 この教義を根本にして、世界平和の祈りをする時、悪と見えるものを、強いて「悪ではない」などと自己の心をだまして、「完全円満と思おう」とするような、そんな無理なことをしなくとも、自ずから、自己の神性(本心)の輝きが外に現れて、悪と見えている人々も自然と、その業想念が消え去ってゆき、「拝み合いなさい」などという言葉を超えて、いつの間にか真善美なる人になってゆくのであります。

   
【守護霊守護神と消えてゆく姿という真理の言葉が必要】

 天の真理を地上に開顕するためには、どうしても、守護霊、守護神という光の柱と、消えてゆく姿という真理の言葉が必要なので、ただ、「神の子完全円満」という観念の言葉だけでは、どうしても、その後に、「こうしなければいけない」という説教の言葉が出てきてしまうのです。

   
【世界平和の祈りの中に悪も病気も投入してしまう】

 天の理想を地の現実に現すために、今日まで幾多の聖者、賢者が、種々と教えを説いていたのでありましたが、その教えは、天の方を主にして説いたり、地の方のいわゆる修養して天に昇ってゆく方法を説いたり、無為とか、空とかいう教えで説いたりしていたのであります。そして、今日では、天と地が十字交差する丁度中心に位する教えが現れなければならなくなっているのであります。
 その中心の位となる教えというのは、天の真理を、最も無理なく、誰にも容易に行じ得るものであって、それを行じることによって、自己も救われ、人類も救われる、というような教えであるわけなのです。
 理想に偏っては行じにくくなり、行じているようでもそこに無理が生じ、地の現実に偏っては、いつまでも相対的な利害関係を離れ得ぬ、その場その場のものになってしまいます。そこで私は、「世界平和の祈り」という、わかりやすく、行じやすく、そして自己の浄化と人類社会の浄化が同時に出来る方法を、神様から広めさせられているわけなのであります。無理に悪や病気を見ぬようにするより、悪は悪と見て、それも消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」の中に投入してしまうことの方が、より自然で実行しやすいのであります。
 (完)


 (1992年10月27日 森島恒吉 編集)



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