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    光明思想徹底比較1.(白光と生長の家)

               −−五井昌久先生著「宗教問答 P20〜P27」

〔質問〕
 「生長の家の教えと、先生の教えの相違点をご説明下さい.」

   
【生長の家の教えは複雑多岐なる説き方をする】

〔答〕
 生長の家は万教帰一と銘うっているように、神道、仏教、キリスト教はもとより、心霊科学、精紳分析等々、各種の教えを混合させて、こちらでわからなければ、あちらで、そちらが駄目なら、こちらで、というように実に知識的に複雑多岐なる説き方をしているのであります。

   
【悪は無いという実相論と、悪があるという現象論の矛盾】

 その教えは、「人間は神の子である」であるから「この世界には、悪も、不幸も、貧乏も病気も無いのである」「物質は無い、肉体は無い」という実相論と、「現象に現れた病気も貧乏も、あらゆる不幸な出来事は、みな、あなたの心が間違っているからである」「夫が悪く現れているのも、子供が悪く現れているのも、あなたの周囲に現れている悪なる姿は、みんなあなたの間違った心の影なのだ」という現象論なのです。

   
【現象論の実際指導は、精神分析学】

 この現象論の実際指導として精神分析学を応用して、「心でぶつぶつ言うから腫れ物ができるのだ」「その家に居住したくない心、つまり尻が落ちつかぬ気持ちでいるから、落ちついて座れぬ痔のような病気になったのだ」「頭がテカテカ禿げるのは、神(髪)に遠いから、髪(神)が抜けるのだ」等々、例をあげればきりがない程、こうした精神分析指導をするのであります。
 想うことはすべてこの世に現れる、ということの原理から、その想いに類似した形で病気や不幸が現れるのだから、それを悔い改めれば、その病気や不幸が治る、というのであります。

  
【現象論の精神分析の方に傾いて、実相論が小さくなる】

 ところが、この実相論と現象論が、なかなかうまく縦横十字にならないで、現象論の精神分析の方に心が傾いてゆくのです。そして、しばらくその方法を実施応用していますと、精神分析の方が面白くなって、実相論は、そうした分析の影にかくれて、次第に姿が小さくなってしまうのです。そうした体験は生長の家の人なら皆が持っているわけなのです。無理もないのです。

   
【実行不可能に思われる実相完全円満論】 

 この現象世界には、悪や不幸や病気が充満しているのに、実相は完全円満で、悪や不幸も病気も無い。この肉体も、すべての物質もあるように見えるけれども、実在ではないのだ。だから、いかに相手が悪人と見えようとも、実相完全円満と拝みつづければ、必ずその相手は善なる実相を現してきて、あなたと調和するであろう。
 という実相論、つまり法華経の教えは、頭でわかる人はいても、実際に行なうには実にむずかしいことであって、余程の上根(立派な)の人でなければ、実行不可能に思われるのです。普通人でも、ときたまは実行できるのですけれど、どうも精神分析つまり因縁因果の分析のほうがやさしいので、衆生(普通人)はその方に重点が傾きやすいのです。

   
【罪人意識に把われるか、反省なき偽善者になる人が多い】

 そして、「人間は本当は完全円満なのに、どうして私はこのように病気や不幸が絶えないのだろう。私の心は余程悪いに違いない」と折角の実相論、法華経の「すべてはみ仏である」という教えが、反対に堕落してしまって、罪人意識に把われてしまう人ができたりするのです。
また一方、自己以外のすべての人を精神分析的に観て、その人たちの不幸や病気を、「あなたはこういう心があるから、そのような不孝になり、そうした病気になるのだ」と相手を常に責め裁き、痛めて、自己を相手より優位に置くことに専念し、自己は、「神の子完全円満」を、口先だけの唱え文句にして、反省なき偽善者になってゆく人もかなり多いのです。

   
【なぜ実相論一本槍で通さなかったのか、と惜しむ】

 このように、実相論(法華経、華厳経)のような素晴らしい教えを説きながら、万教帰一、実は各種の教えを混ぜ合わせ、悪口をいう人にはカクテル宗教といわれるように、何処から突かれても隙がないように、誰でも入れるように、とあまり才智をしぼり過ぎて、法華経を誤たす信者を沢山つくり出してしまったのです。
 私は、法華経をあんなにやさしく説かれた実相論には万腔の敬意を表するのですが、折角の法華経を、精神分析論で、めちゃめちゃにしてしまった愚かさを、谷口教祖のために非常に借しむものなのです。これも大神様の神意の中にあったことなのでしょうから、致し方がないと思うのですが、何故実相論一本槍で通さなかったか、と再び惜しまれてくるのです。
 現象はすべて心の影という心の法則論は、昔からいわれている、因縁因果のことで、業(カルマ)の流転のことです。それを新しい言葉で、実相論に並べて現象論として説いたところが生長の家なので、これはどう言おうと、これ以上に説くことも、変えることも、生長の家としては、今ではできなくなっているのです。

   
【教えが矛盾しているために、真実の救われに入れない】

 ところが、これだけでは到底真実の救いに入ることが出来ない、と私は思ったのです。これでは、入門二三年は、実相論で心がくるりと変わって、ちょっとした救われに入る人があるでしょうが、年がたってゆくうちに、頭の鋭い人や良心的な人なら、この教団の教えや、教団の講師諸氏の教えと実生活(実際行動)との差異の甚だしさがわかってきたり、教えの中の矛盾に突き当たったりして、悩んできますし、頭のあまり秀れぬ人たちは、偽善的な生活に気づかず、人間神の子円満完全と、自己の魂の在り場所も知らずに、他人の欠点を裁いたりして得意になっているでしょう。
 このことは、私が講師として生長の家教団にいて、はっきり確認し、自己も味わった生活であるのですから間違いはありません。神様は私にわかりやすく、行じやすい真理を説かせるために、各教団の勉強をさせたものなのです。
 そこで今度は、私が神様から説くことを命ぜられている、教えの説明を改めて致しましょう。

   
【法華教に浄土門の教えを一つに結びつけた】

 私は生長の家の実相論(法華経)は本当に素晴らしいと思っているのですが、実相論と現象論との使い方が、実に下手で逆効果になってしまっているのに気づいたのです。
 今、私が説いている教えは、この法華教を基として、この法華経に浄土門の教えを一つに結びつけた教えなのです。法華経が天の声とすれば、浄土門は地の声が天に合体せんとする教えです。

  
【人間の本心は直霊だが、肉体界では本来身の動きができなくなった】

 私は、法華経の実相論(み仏のみの世界である)というのを−−

 人間の本心(本体)は、直霊(神)であるが、この肉体世界を創るために、幾つかの分霊に分かれ、地上界に天降ってきて、それが次第に細かく分かれて現在の肉体世界になったのだが、この肉体世界を創る以前には、霊界(霊人)幽界(魂)が創られてあって、神、霊、幽、肉の四つの世界を通して働いているのである。
 ところが、分霊魂となって肉体界に働いているうちに、肉体界の重い波動、にぶい動きに次第に慣れてきて同化され、本来の軽妙な律動による動きが出来なくなって、本来身(霊身)と肉体身との動きの差異が業(カルマ)となって、この地上世界を現在のような迷妄に蔽われた世界にしているのである。

   
【肉体の分霊魂は、それ自体では直霊とつながることはできない】

 だから、この原理を知って、想いを自己の本体、神(直霊)と一体になるようにして、この肉体界に本体の力(光)を、そのまま働かせるようにしなければならない。
 ところが、一旦肉体という粗雑な重い波動に蔽われてしまった分霊魂(人間)は、それ自体では、その業生の波を突き破って直霊(神)の光明と一直線につながることが出釆ない。

   
【守護霊守護神が、実相世界と現象世界をつなぐ】

 しかし、直霊(神)は全智全能なのですから、初めからこのようになることを知っておられて、その時の援助者として、自己の光明を分けられて守護神とし、人間の肉体世界を観守られたので、その光明によって、肉体界に最初に天降った分霊たち(祖先)を霊界に引き上げ、新たに守護霊として、肉体人間一人一人の背後につけ、人間の運命を守護させることにした。
 そして、守護霊、守護神が梯子のように肉体人間の想いを乗せて、直霊(神)の光明につなげ、本心を開発させ、法華経や華厳経の世界をこの地上世界に顕出させようとしているのであると、実相世界と現象世界をつなぐ柱として「守護の神霊の存在」を説くのである。

   
【守護の神霊に感謝して生活し、悪は把えず掴まず突き放す】

 そして、寝ても起きても、立っていても、歩いていても、仕事していても、いつでも自分を護っている守護の神霊に感謝して生活し、現れてくる悪いと見えること、不幸と見えることは、みな、そうした原理を知らなかった、「過去世からの想念行為の誤りが消えてゆく姿である」とそのままその現れを把えず、掴まずに、突き放してゆきなさい。
 そうすれば、本来が、完全円満なる神の子である人間なのだから、必ず本来の姿がこの地上界に現れてくるにきまっている 。
 守護霊、守護神は、背後にいて休みなく業(カルマ)の波を消して下さるのだから、あなた方は、現象の悪や不幸や、自己の脳裡を駆け巡る、欲望、恐怖、悲哀、憎悪、そうした業生の想念を、精神分析的に把えずに、守護霊、守護神への感激の祈りにすり代えてしまいなさい。

 −−と説いているのです。

   
【生長の家の教えには、無理がある】

 生長の家の教えとよく比べて下さい。生長の家だと、「実相完全円満の人間が、どうしてこのような不完全な悪や不幸に満ちた人間を人間世界をつくったのですか」の問いに対して答えることができません。
 谷口教祖は「悪は無いから、無い悪を探すことは出来ない」式の答えをしているのですが、谷口教祖の実際言動、実際生活は、すべてを実相完全と拝み、誰の悪をも認めない、という実相論を踏みはずすこと数段の生活言動をしているのです。その例は、枚挙にいとまはありません。教祖自ら、教えが生活に現せないのです。それは教えに無理があるということを、如実に示しているのです。

   
【守護の神霊を実相界に昇る梯子として使う】

 地上世界の人間には、多かれ少なかれ、悪い想念はあるにきまっているので、それはそれではっきり認めてよいのです。いったん認めて、認めた瞬間、「これで消えてゆくのだ」と、その掴んだ想いを「守護の神霊への感謝の祈り」に変えてゆくのです。
 そうすれは、「悪は無い、病気は無い」と本当は心から想えるわけでもないのに、想ったようなふりをする偽善者的無理をせずに、三界の迷妄から自然に抜け出て、実相の世界、安心立命の生活の中に、生き生きと働くことができるようになるのです。「守護の神霊」を実相界に昇る梯子として使うのが、私の教えです。

   
【悪は無いとしながら、悪を認めるのは矛盾】

 生長の家と私の教えとの相違点を一言にしていえば、生長の家は、最初から頭ごなしに、「人間の実相は完全円満で悪も不幸も無い、肉体も物質も無い、だから病気も無い」という素晴らしい真理の言葉で読者や信者に喝をくわせて、この現象界を問題にせぬ立派な態度を見せながら、今度は現象に現れた不幸や病気を、因縁因果説、心の法則に落としてきて、「あなたの心が間違っているから、そうした不幸や病気が現れるのだ」とその人々の心の迷いのなせる業だ、と改めて、人間の悪や迷い、つまり業をはっきりと認めている二元論なのです。

   
【自己を責め裁いたり、自己を欺瞞してしまう】

 初めの一二年は、法華経(実相論)の喝の効き目で病気が治り、家庭が調和したりするのですが、しばらくたって、その教えの矛盾、つまり、「完全円満の実相人間から、どうして迷いの多い人間が出来たのであろう」ということに気づき始め、ときおり現れた実相が、次第に現象の心の分析の影にかくれてしまって、「人間は本来完全円満である」という真理を知っていることが、かえって自己を責め裁く、という反対現象を起こしてくるのです。
 それは、実相と現象をつなぐ梯子がないのに、現象の迷妄の中に喘ぐ人々に、「実相はここだ、昇って来い」と高い理念の世界から呼びかけてくるので、いち早くそこ迄昇ろうと、焦りもだえて、現象の自己の力弱さ、低さを嘆き哀しむか、あるいは自己を欺瞞してしまうかしてしまうのです。

   
【守護の神霊という梯子をかけて、消えるという言葉を使う】

 私はそこに守護霊、守護神という梯子をかけ、実相と現象を一本につなぎ、一元的にして、「現象無し」というところを、「病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿、消えてゆくに従って、人間の本心(実相)が現れてくるのだ」と分析の代わりに、「消える」という言葉で、業生(カルマ)の幕を開いてゆくのです。
 こうすると、虚勢を張らぬ裸のままで素直に、自分を赦し、人を赦して、伸びやかな大らかな生活ができてくるのです。

   
【一直線に守護の神霊に感謝全託する教え】


 要するに、迷いの想念を分析的に使わず、一直線に守護霊、守護神、直霊(本心)の方に感謝全託の想念として、振りかえてしまわせる教えなのです。
 ですから私の教えには、「私が悪い」も「あなたが悪い」もなく、悪いものはすべて過去世からの業(因縁因果)の消えてゆく姿となり、在るものは法華経や華厳経の説く、光明燦然たる実相身、み仏ばかり、ということになるのであって、そうした本質の世界が次第に現れてくることになるのであります。
(完)

 (1992年10月26日  森島恒吉 編集)



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